東インド会社の歴史を徹底解説。「世界初の株式会社」の栄光と挫折

『東インド会社』。確か社会科の教科書に出ていたような気がするけれど、どういうものだったか全く覚えてない……という方も多いのではないでしょうか。”東インド”とは、400年以上前のヨーロッパの人たちにとっての”インダス川より東の地域”のこと。当時、まだアメリカ大陸の存在はそれほど知られてはいませんでしたので、東インドとは主に現在のインドやインドネシアなど東南アジア地域を指していたものと思われます。17世紀頃、こうした地域との貿易権を持つ特許会社が、イギリスやオランダなど高い航海技術を持つ国の中に誕生しました。これが『東インド会社』です。

東インド会社が誕生する前の世界

 

16~17世紀の世界の様子

 

16~17世紀の世界の様子

image by iStockphoto

東インド会社について考える前に、まず、400年ほど前の世界がどんな様子だったか、想像を巡らせてみましょう。

16世紀に入ってから、ヨーロッパではキリスト教の信仰をめぐる政治的な対立が激しさを増していました。
また、イギリスやフランスなどでは国王の力が絶対的なものに。
イタリアを中心としたルネサンスの時代は終わりを告げようとしていました。

地中海から東へ向かうと、そこにオスマン帝国が。
さらに東のペルシャ湾沿いにはサファヴィー朝、現在のインドにはムガル帝国という強大な国家が存在していました。

中国大陸は明王朝の時代。
日本では間もなく鎖国が始まろうとしていた、そんな時代のお話です。

ヨーロッパの人口はおよそ1億人、ムガル帝国は1億人を優に超えていたと言われています。

この時代、船旅にはまだまだ、危険が伴いました。
ヨーロッパの外に漕ぎ出すためには、高い航海技術や性能のよい船が必要であったことは言うまでもありませんが、それ以上に多くの労働力と莫大ない費用が必要となりました。
大きな力を持つ国でなければ、外洋を目指すことなどできない時代だったのです。

そして、何より忘れてはならないものが、胡椒(コショウ)をはじめとする「スパイス」。
この時代、ヨーロッパではまだ、香辛料の類は栽培することができなかったため、胡椒は大変貴重なものとして珍重されていました。
需要の高い香辛料は高値での売り買いが可能で、多くの富を求める国々はこぞって、香辛料の獲得に乗り出していたのです。

バスコ・ダ・ガマ、インド到着

 

東インド会社設立より100年ほど前のこと。
探検家バスコ・ダ・ガマは1497年7月、ポルトガル王マヌエル1世の命を受けて、リスボンを出発。
航海の目的地は「インド」。
旅の目的は、東方のキリスト教国を探すことと、香辛料を手に入れることでした。

ポルトガルからの航海は、まずアフリカ大陸沿いに大西洋を南下し、喜望岬を廻って北上。
モザンビークやマリンディといった港町を経由してインド洋を渡るという過酷なもの。
ガマの船団は100トンほどの大きさの船3隻で慎重に航海を続け、翌1498年5月、現在のインドの西南部にある海岸の港町カリカットに到着しました。

当時はまだ、ムガル帝国の統治は始まっておらず、南インドにはヴィジャヤナガル王国というヒンズー教国が治める小国がたくさん存在していて、既にイスラム系ペルシャ商人たちや中国商人たちが盛んに商売をしていたのです。
言葉も文化も異なるヨーロッパ人が入り込むためには”武力”が必要であると痛感したに違いありません。

こうした難しい状況下に於いて、バスコ・ダ・ガマは何とか交易を続けました。
ある程度の香辛料と、宝石など珍しい品々を買い集めることはできましたが、友好的な関係を築くことは難しいと感じ、1498年8月、インドを出発します。
苦労の末再びリスボンに辿り着いたのが1499年9月。
出発から実に2年以上の年月が流れていました。

ポルトガルの「海の帝国」

 

ポルトガルの「海の帝国」

image by iStockphoto

このバスコ・ダ・ガマの航海は、ポルトガルだけでなく地中海全域に大きな衝撃を与えました。
交易の道を開いたとは言い切れませんでしたが、それまで曖昧だったインドの存在が明らかになったうえ、希望の品々が手に入ることも明らかになったのです。

しかし一方で、東インドへの航海が非常に危険を伴うことや、交易は非常に困難であることから、左うちわで利益を得られるわけでないということもわかりました。

胡椒は欲しいが、継続して船を出すには莫大な費用がかかる。
ポルトガル王が二の足を踏む中、この航海で得た利益で大富豪となったバスコ・ダ・ガマは私費を投じて、二度目の航海に名乗りを上げます。
1502年2月のことでした。

ガマは20隻もの船の上に大砲を積み、インドへ向かう途中に寄港した港町に大砲を打ち込んで次々に制圧をしていったのです。
さらにインドの港町の沖合を通る船を拿捕するなど武力での制圧を続けます。
ガマはこの航海で、1度目とは比べ物にならないほど多くの品々を手に入れ、ポルトガルへ凱旋しました。
この後10年ほどの間に、インドの主要な港町のほとんどが、ポルトガルの武力による支配を受け入れていったのです。

こうしてポルトガルは15世紀の終わりから16世紀にかけて東インドに進出し、まるで海上に鎖を張り巡らせたかのようにインド洋一帯の交易を掌握していきました。

「ポルトガルの鎖」の限界

 

ポルトガルに富をもたらしたのは、正攻法の交易だけではありません。
インド洋一帯を通行する船にカルタス(通行証)の携帯を義務付けたのです。
カルタスを持たない船は容赦なく捕らえられ、積み荷は没収。
一方でカルタスを持つ者はポルトガルに税金を払わなければなりませんでした。
ポルトガルは東インドとの交易の全てを掌握することで「香辛料の独占」を試みたのです。

半ば力で押し切るような形で交易の全てを手に入れたと思われたポルトガルでしたが、その動きにもやがて影りが見え始めました。
海を制圧するためには各拠点に要塞や施設を設ける必要がありましたが、これらを維持するには巨額の資金が必要となります。
ポルトガルは”鎖”を広げすぎました。
自らの利益を守るために膨大な投資をしなければなりません。
香辛料で得た利益の大半はこうした設備投資の費用に消えていったようです。

この時代、インド洋の航海はまだまだ危険が多く、乗船する船乗りたちの大半は囚人か、一攫千金を狙う命知らずたちばかりで、国や国王に忠誠を誓う者はごくわずか。
それでも船を動かすためには労働力が必要です。
危険を顧みず船に乗る者たちは、おそらく相当高待遇であったと思われます。

東インドへ生きて辿り着いた者たちの多くは労働しつつ、個人の利益を得るための副業として「私貿易」に走り始めました。
中には現地に残って家族を持ち、富を築いた者もいたようです。

バスコ・ダ・ガマの東インド到達以来およそ100年に渡り、ポルトガルは多くの資金と武力を行使して洋上に一台帝国を築き上げました。
しかし時代の変化と共に、その体制を維持することが困難となっていったのです。

東インド会社の誕生

 

ポルトガルの衰退とオランダの登場

 

ポルトガルの衰退とオランダの登場

image by iStockphoto

1578年、ポルトガルはモロッコでイスラム軍と交戦し大敗を喫してしまいます。
この戦いで巨額の戦費を失っただけでなく、なんと国王が戦死してしまうのです。
王には嫡子がなかったため、王家は途絶えてしまい、国政は大混乱に陥ります。

その後ポルトガルは1581年にスペインの支配下に置かれることとなり、スペイン王フェリペ2世がポルトガルも治めることとなりました。
スペインは「太陽の沈まない国」と形容されるほど栄えたといいます。

このポルトガル併合が起きる少し前、フェリペ2世はカトリックによる国家統合を理想としており、周辺の国々にもカトリックの信仰を強制していました。
これに反発したベルギーやネーデルランド(後のオランダ)はフェリペ2世に対して反乱を起こし、これに賛同する人々は次々にオランダの都市に移住していきます。
経済の中心地であったベルギーの富豪や金融業者などがこぞってオランダへ移住したため、オランダの経済は大きく発展していきました。

それでもまだ、こと東インドへの航海・交易となると、ポルトガルの立場を脅かすような存在はまだ、出現していませんでした。
ポルトガル自体は衰退してスペインの一部になってしまいましたが、それでもまだしばらくは、東インドとの交易はポルトガルを中心に動いていたのです。

オランダの東インド到達

 

オランダは低地がほとんどで塩害などの影響のため、農耕には適していませんでした。
そのため古くから漁業や海運業が盛んで、しかもベルギーの富豪たちが移り住んだ都市アムステルダムは海に近かったため、その後も海路を利用した商売がますます盛んになっていきます。
その中には、ポルトガルから香辛料などを仕入れて他国へ輸送する商売を行う者も多かったようです。
しかしフェリペ2世とのいざこざでポルトガルとのやり取りができなくなり、状況は変わります。

幸いオランダ人には、潤沢な資金と豊富な航海技術がありました。
果たして自分たちだけで東インドに辿り着けるだろうか。
いくら海運に自信があるとはいえ、外洋となれば話は違います。
しかし彼らは最終的に行動を起こしました。
オランダ商人たちは出資し合って船隊を構成し、1595年、アムステルダムを出発して喜望岬を超え、一路、東インドへと向かったのです。

旅はこんなの連続で、半数以上の命を失うという結果となりましたが、それでも残った船には多くの商品が積み込まれ、結果は黒字。
オランダ商人たちは、ポルトガル人でなくても東インドへ行くことができることを身をもって立証したのです。

この後、オランダ国内の様々な港町の商人たちはこぞって出資し合い、ポルトガルより多くの船を東インドへと送り出しました。
オランダの経済がさらに発展していったことは言うまでもありません。

東インド会社を最初に設立したのは意外にもイギリス

 

東インド会社を最初に設立したのは意外にもイギリス

image by iStockphoto

このオランダの成功を歯ぎしりしながら見ていたのがイギリス(イングランド)です。

イギリスはまわりを海に囲まれた島国であり、当然、古くから海洋の知識は豊富でした。
しかし、貿易や海運業といった商売色の強い航海よりは、冒険や探検、それに近海を通る他国の船の拿捕・略奪といった傾向が強かったようです。

当時のイギリスはポルトガルと友好関係にあったため、あっという間に併合を遂げてしまったスペインにも、よい感情は抱いていませんでした。
そんな折のオランダの東インド進出に、イギリスが触発されないわけはありません。

その頃イギリスはモスクワや地中海を経由して陸路で東インドの商品を手に入れるため、地中海東岸地域との貿易を専門に行うレヴァントという会社を設立していました。
レヴァントの上層部はオランダの成功を見て危機感を覚え、自分たちも直接、東インドに乗り出さねば乗り遅れてしまう、と感じたといいます。

彼らは自社の基本的な仕組みをそのまま東インド貿易に当てはめました。
1度の航海ごとに資金を集めて、船が戻ってきたら元本と利益を分配する、という、1回ごとの決算方式を取ったのです。
初めのうちは出資者の半数はレヴァント会社の関係者だったと言われています。
これが世界初の「東インド会社(East India Company:EIC)」。
資金集めだけでなく労働力も保有する合本会社です。
会社の設立は意外にもイギリスが最初でした。

彼らはエリザベス1世に東インドとの貿易に関する独占の許可を要請し、1601年3月、4隻の船に500人以上の船員と100門を超える大砲を積み込んだ武装船隊が東インドへ出発。
この航海では4隻とも無事にイギリスに戻ることができ、利益も十分に上がったのだそうです。

オランダ東インド会社(VOC)の設立

 

最終的に女王陛下のお墨付きを頂くことで、ひとつにまとまった形となったイギリスの東インド会社。
レヴァント会社という前進があったことも成功を導く要因となりました。

一方、交易としては先駆していたオランダはどうでしょう。
力を持つ港町が多かったことや、金持ち商人が大勢いたことなどから、交易は盛んにおこなわれていましたが、オランダの中に複数の貿易会社が存在し、国内で争い合う構図が出来上がっていました。
みんなバラバラに活動しますが持ち帰る商品がかぶるので価格が下落することもしばしば。
ライバル同士互いに協力し合わねば、安定した利益を得ることすらままなりません。

ついに1602年、複数の都市および貿易会社が1つになり「連合東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie:VOC)」が誕生しました。
オランダの「東インド会社」です。
こちらもオランダ政府から独占権を認められていましたが、イギリス同様、オランダの場合もあくまでも民間の企業であって、オランダの国営団体ではありません。

オランダは東インド会社設立より前に、既に何度も東インドとの交易に成功していました。
そのため、イギリスより出資者を募りやすく、資金もはるかに豊富であったと考えられています。

設立年こそ1年ばかりイギリスに遅れをとりましたが、こうしてオランダも、独占権を得た大貿易会社を設立し、より一層、東インドとの交易に力を入れていくことになるのです。

東インド会社とアジアの国々

 

オランダ船リーフデ号日本漂着

 

オランダ船リーフデ号日本漂着

直接、東インド会社と関わりのあることではありませんが、ここでちょっと横道に入りまして、日本とオランダ、イギリスと関連のある事柄をひとつ、ご紹介します。

オランダ東インド会社設立2年前の1600年4月、オランダの商船「リーフデ号」が豊後国(大分県)に漂着しました。

1598年にオランダのロッテルダムを出航したときは5隻の船隊でしたが、悪天候などにより離れ離れに。
リーフデ号も多くの乗組員を失いつつ、日本に流れ着いたのです。

1600年といえば、その年の秋に、あの関ケ原の戦いが勃発します。
豊臣から徳川へ。
大きく変わろうとしている天下分け目の時代であったのです。

日本には当時、ポルトガルの宣教師たちが数多く滞在していました。
宣教師たちはリーフデ号の乗組員たちを処刑するよう、大坂城の豊臣秀頼に進言しますが、豊臣五大老の徳川家康が船と乗組員たちを大坂に運ばせ、会見することになります。
このとき家康と対面した乗組員の中に、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタインとウィリアム・アダムスがいました。
二人ともキリスト教布教とは何ら関係のない立ち位置の彼らの言動を気に入ったのか、家康は彼らを江戸へ招き、屋敷や領地を与えて召し抱えています。

ヤン・ヨーステンはオランダの航海士・貿易家で、江戸に着いてからは家康の通訳や砲術指南などをしながら生活をしていました。
彼は日本名で耶楊子(やようす)と呼ばれており、ここから変化して「八重洲(やえす)」という地名が生まれたと言われています。

ウィリアム・アダムスはイギリス(イングランド)の航海士でしたが、かねてよりオランダ商船と交流があり、オランダが東を目指すための航海士を求めていることを知って自らこの船隊に志願し乗船していました。
漂流し日本に流れ着いた後、特に家康に気に入られ、何度も帰国を願い出ますが家康にはぐらかされます。

1613年、イギリス東インド会社の船が平戸に到着した際、帰国の機会を与えられましたが、この時すでに彼は三浦按針と名乗って家族を持っており、かなり高待遇を受けていました。
アダムスはそのまま日本に残りますが、家康死後の徳川幕府からはそれほど重要視されることもなくなり、1620年にマラリアに感染して57歳の生涯を閉じます。

この後日本は、徐々に交易の窓口を絞り、ついに鎖国の時代が始まります。

アジア諸国に作られた”商館”

 

「商館」とは、交易先の港付近の”外国人居留地”として指定された地域内に作られた商業施設のこと。
宿泊施設や倉庫などを含みます。
紀元前のギリシャやローマでは既に、他国の領地内にこうした施設を設けて交易を行っていたと考えられています。

武力で支配され植民地となった土地の場合、商館には役人が常駐し、現地民を制圧するだけでなく、出入りする自国の商人たちを監視し従わせる役割も担っていました。
一方で、中国や日本などでは武力による支配は行われず、商館は逆に監視されるための場所に。
ポルトガルをはじめオランダやイギリスも、アフリカやインドなどインド洋に面した港町についてはほぼ、いきなり大砲を打ち込むといった強大な武力によって制圧し交易を進めてきました。
しかし日本や中国、台湾などでは武力による制圧ではなく、現地の政権の指示に従って商売に精を出しています。

東インドにも、ヨーロッパの国々の商館がたくさん作られました。

オランダ東インド会社はジャワ島(インドネシア)のバンテン、台湾、マレー半島のマラッカ、スマトラ島、スリランカなど。
そして日本にも、初めは長崎の平戸にオランダ商館がありました。
商館は後に出島に移っています。

一方のイギリス東インド会社もジャワ島バンテンに商館を建て、南インドのマドラスや中国の広東などにも商館を設けていました。
もちろん日本にも。
平戸にはイギリス商館もありましたが、活動の目的はあくまでインドの物産であったようです。

このようにしてオランダとイギリスはこぞって、香辛料や珍しい品々が手に入る地域に活動拠点となる商館を作り、交易に勤しんでいきました。

平戸の商館と出島

 

平戸の商館と出島

image by iStockphoto

オランダ東インド会社の船が長崎の平戸に入港したのは1609年のこと。
徳川家康は日本に商館を築くことを許可しますが、日本には彼らが求める香辛料はありません。
オランダ人は貿易のためというよりも、中国や東南アジアとの貿易のための拠点として、平戸を活用したかったのではないかと思われます。

この頃、香辛料の優良産地をめぐって、ポルトガルやスペインの商人たちやイギリス東インド会社との争いが激しくなっていました。
オランダ東インド会社は、東南アジアや中国の港町と行き来するために、食料や資材、武器、そして労働力を補充できる拠点が必要だったのです。

続いて1613年にはイギリス東インド会社も平戸に商館を建設します。
しかしその10年後、インドネシアのアンボイナ島のイギリス商館をオランダに襲われるという事件(アンボイナ事件)が起き、インドネシアの香辛料はオランダが独占していきます。
このことがあってイギリスは東南アジアから身を引き、活動の場をインドに求めるように。
採算が取れなくなり、平戸のイギリス商館も閉鎖となりました。

当時はまだ、ポルトガル人が数多く日本にやってきていましたが、彼らには貿易のほかにもうひとつ、キリスト教の布教という目的があります。
信仰が民衆の心に根付き、政治を揺るがす存在となることを恐れた徳川幕府。
ポルトガル人を長崎の出島に閉じ込めて厳しい監視体制を取っていましたが、1637年の島原の乱を機に、1639年、ついにポルトガル人の一斉追放に踏み切ります。

出島は江戸幕府の鎖国政策のために銀200貫目(約4億円)を投じて作られた人工島です。
それまではポルトガル人から使用料を取り立てていましたが、ついに無人島に。
大赤字です。
そこで1641年、平戸のオランダ商館を半ば強制的に出島に移動させました。

出島移動については反対の声も上がったようですが、結局、それから幕末・開国までのおよそ200年間、多くのオランダ人が出島に居留し交易が続いていったので、出島への移動は決して失策ではなかったと言えるのではないでしょうか。

東インド会社が運んだもの

 

香料、香辛料

 

香料、香辛料

image by iStockphoto

ヨーロッパの人々はなぜ東インドを目指したのか。
答えは「胡椒を求めて」。
前述の通り、当時のヨーロッパでは栽培が難しかった香料や香辛料を手に入れるため、危険を冒してインド洋を航海し、インドの港町をねじ伏せ、そこからさらによい香辛料を求めて東を目指したのです。

香料や香辛料がヨーロッパの上流階級にもてはやされた理由。
それは料理に使うのはもちろんのこと、食料の保存に効果があったためと考えられています。
また、ナツメグやシナモン、グローブといった香辛料は”薬”としての効果があると期待されていたようです。
確かにスパイスの効いた料理は食欲をそそり、胃もたれを防いだりお通じがよくなったり、健康に良いと考える人がいてもおかしくありません。

危険な航海の果てに手に入れることができる貴重なものだったこと。
ヨーロッパでは栽培できない、薬膳としての医学的な効果が期待されていた可能性。
肉や魚の臭みを取り、より美味しく調理するための特効薬として。
食料の保存をするために。
様々な理由から、胡椒を初めとする香辛料は高値で売り買いされるようになり、金持ちでなければ使うことができないもの、富の象徴とされるようになっていきました。
香辛料はまさに「上流階級のステータス」だったのです。

香辛料は万病に効く、消化不良や吐き気、腹痛に効く、歯痛が治る、胃を丈夫にする等、胡椒を初めとするスパイス類は現在でも薬膳料理として使われることがありますので、16~17世紀の人たちが異国の刺激的な香りに魅せられたのも頷けます。

胡椒は古代インドでは既に主要な貿易商品となっていました。
紀元前4世紀頃には、ギリシャやローマにも入ってきていて、多くの記述が残されています。
胡椒が金や銀と同等の価値があるというような表現が用いられることもあり、中世に入るとベネチア人たちが「天国の種子」などと呼んだこともあり、胡椒の価格は高騰してきました。
より高値で売るために多少、あおっていた節もあるようです。

今も昔も、上流階級の人々は流行に弱い。
しかし高値で売ることができれば、それだけ配当も増え、東インド会社の利益も上がります。
胡椒にそんな価値があるなんて、現代人にはなかなかピンときませんが、とにかくこうした上流階級の流行りに乗っかって、香辛料はポルトガルや東インド会社に莫大な富をもたらしたのです。

インドの綿織物

 

東インド会社が香辛料と並んで数多く取り扱った商品に「綿織物」があります。
インドは綿花の栽培地として有名であり、染料も入手が容易でした。
インドの村々では古くから、糸を紡いだり染めたり、機織りの技術も大変高かったようです。
細く滑らかな糸が織りなすインド綿は絹のように滑らかで肌触りがよく、色鮮やかでデザインも豊富。
イギリスやオランダの東インド会社はインドでこれらの綿織物を目にすると、すぐさま買い付けを開始しました。
現在でもインド綿は軽くて手触りがよく、何より安値で大変人気がありますが、17世紀のヨーロッパでも同様で、特にイギリス東インド会社では一時期、香辛料をしのぐ輸入量を誇っていたのだそうです。

用途は主にカーテンや壁掛けなどのファブリック用。
その後、軽さ、肌触り、洗いやすさなどから衣服の生地としても使われるようになります。
何より、絹織物に比べて価格が安いこと。
現地での仕入れ値が非常に安いし大量買い付けが可能だったので、遠方から海を通って運び込んだとしても、自国の織物より安値で売ることができたのです。

と、いうことは、織物の場合は香辛料と異なり、自国内に既に競合商品があったということになります。
上質で安値なインド綿の輸入に、イギリス国内の織物企業からの反発の声は必至。
何度か、輸入を規制する法律が制定されたりもしましたが、その後もインド綿はどんどんイギリス国内に輸入され続けました。

ただし、イギリス人の織物業者たちも、ただ反対していたわけではなかったようです。
織物の場合は、胡椒や香辛料と違ってイギリスでも作ることができます。
要は如何にして、良い品を安く作るか。
彼らが導き出した答えは、機械による大量生産でした。
18世紀後半に入ると紡績や機織りの機械が数多く作られ、当時、既に花開いていた”蒸気機関”の技術を用いて、良質な綿織物を世に送り出すことに成功したのです。
さらに、綿織物の大量生産を支えるもうひとつの要素が、海の向こうにありました。
”新世界”アメリカ大陸。
広大な大地で栽培された大量の綿花と、産業革命の波に乗って動き始めた織物機械の躍進によって、19世紀に入るとイギリスの織物が、世界に輸出されるようになるという現象が起き始めます。

しかしこの動きも、インドの安くて上質な綿織物がイギリスに入って来たからこそ起きたもの。
東インド会社は物の運搬を通して、人々の暮らしだけでなく産業までも大きく変えていったのです。

お茶

 

お茶

image by iStockphoto

胡椒や香辛料と同じくらい珍重されたものに「茶葉」がありました。

イギリスやオランダというと「紅茶」というイメージが強いですが、ヨーロッパにお茶の葉が持ち込まれたのは17世紀に入ってからと言われています。
残念ながら、それ以前に、ヨーロッパでお茶が飲まれていたかどうかの記録は残されていないようで、確かなことはわかりません。
もしかしたらもっと古くから飲まれていたのかもしれませんが、オランダ東インド会社が長崎の平戸から1610年に茶を持ち帰った、という記録が、最も古いものとしてよく知られています。

イギリスで最初にお茶が売られたのは1657年。
当時は嗜好品というより薬のようなものとして飲まれていました。
大変高価なものだったと言われています。
ヨーロッパの人たちが飲んでいたお茶は、最初のうちはどうやら、緑茶だったようです。

実はどのようにして紅茶が広まっていったのか、そのあたりの経緯は今ひとつはっきりしていないようで、憶測の域を出ません。
おそらく中国から入ってきたウーロン茶の味や製法をまねて茶葉を発酵させ、改良を重ねるうちに紅茶が誕生したのではないか、と考えられています。

これに、上流階級の貴族たちが砂糖を大量に入れて飲むようになり、高貴な人々の贅沢品として人気を博すようになりました。
砂糖ももちろん、大変貴重なものでしたので、この飲み方は”金持ちの道楽”の極みだったと言えるでしょう。

この傾向はオランダにも見られ、富豪たちの間にお茶を飲む習慣が広まっていきます。
上流階級の人たちの社交場として、お茶を飲むサロンのようなものも作られました。

意外にも、ヨーロッパにおける紅茶の歴史はそれほど古いものではありません。
でも今や、ほとんどの人が、紅茶といえばイギリス、とイメージするはず。
300年ほどの間にこれほど紅茶が定着したのも、東インド会社の精力的でパワフルな貿易がもたらしたもの、と言えるのではないでしょうか。

出島で扱われた品々

 

ここでもう一度、日本の出島の様子を覗いてみましょう。
出島ではどんな品物が扱われていたのでしょうか。

日本人の目線で見ると、鎖国時代の日本では、出島から入ってくるオランダや中国の品々は大変珍しく、人々の憧れであったはず。
そう思う人が多いと思います。
確かに出島を通してやってくる品々は大変貴重なものばかりでした。
しかし、逆に、日本から輸出されるものも、ヨーロッパでは非常に人気が高かったと言われています。
私たちが思うほど、一方的な貿易ではなく、日本の品物もしっかりと存在感をアピールしていたのです。

出島に集まってきた主な輸入品は、織物、香料、香辛料、薬、そして砂糖。
象牙やガラス製品、珊瑚など貴重な装飾品や、書籍や地球儀など学術的に大変貴重なものも入ってきていました。
その他、珍しい輸入品としては、ラクダやトラなどの生き物。
見世物として大坂や江戸へ連れてこられ、大変な人気となったそうです。
また、騎乗用の馬の輸入には、江戸幕府も大変力を入れていたとのこと。
それまでの日本の馬は体が小さいものが主流だったので、海外の大柄な馬には大変注目が集まったようです。

数多くの輸入品の中で、特に大きな影響を及ぼしたのが生糸と砂糖。
生糸は元禄文化の華やかな衣装の立役者となり、砂糖はその後の日本の食文化に大きな影響を与えました。

一方、輸出品はというと、銀、金、銅などの金属、陶磁器、漆器などが数多く運び出され、特に日本の銀は大変良質であったため、需要が高かったのだそうです。
また、銅は貨幣の原料として大量に輸出されたそうで、日本産の銅はヨーロッパの市場に大いに影響を与えたとされています。

主力商品は銀や銅であったようですが、出島というと真っ先に思い浮かぶのはやはり伊万里の陶磁器です。
伊万里はヨーロッパの貴族たちの間で大変人気があったようで、ドイツのマイセン窯にも大きな影響を与えました。

当時伊万里では「VOC」という文字を染め付けた、オランダ東インド会社向けの大皿や壺が作られていたようです。
また、なぜか端が少し欠けた大皿もたくさん作られていました。
これはひげ皿といい、欠けた部分に顔を乗せて髭を剃るための洗面器のようなもの。
本来のひげ皿は金属製ですが、形が面白いということで、まねて作られるようになったのだそうです。

皿や壺といったスタンダードな既成の焼物を輸出するだけでなく、出島で暮らすオランダ人の持ち物をまねて新しい焼物を作ってみる。
実に日本人らしい。
そんなやり取りが日々、出島では繰り広げられていたようです。

東インド会社の栄光と衰退

 

フランス東インド会社の誕生と終焉

 

フランス東インド会社の誕生と終焉

東インドとの貿易を行っていたのは、イギリスとオランダだけだったのかというと、そういうわけではありません。
1664年にフランスにも東インド会社が設立されました。
フランスはイギリスやオランダほど海運業に長けてはおらず、パリのような大都市は概ね内陸に位置していたせいもあり、だいぶ遅れをとった形となりました。
その分取り返さなければなりません。
フランス東インド会社は国王ルイ14世によって認可された国営企業として、東インドでの利権獲得に乗り出していきます。
同時にアメリカ大陸との交易を行うための西インド会社も設立して、フランスは世界の海へと漕ぎ出していきました。

このほか、スウェーデンやデンマークでも東インド会社が作られ、それぞれ貿易を行っていました。
しかし、イギリスやオランダには到底追いつかず、拠点を開拓することも難しい状況で、十分な利益を上げるほどの成果を上げることはできなかったようです。
後発隊として成長を遂げることができたのはフランスだけでした。

18世紀に入ると、イギリスとフランスの間で戦争が始まります。
するとはるか遠く離れたインドでも、イギリスとフランスの東インド会社同士でも軍隊さながらの戦争が始まりました。
初めはフランスが優勢でしたが、貿易会社らしからぬ軍事行動に眉をひそめたフランス本国の横やりが入り、最終的にフランス東インド会社はこの戦いに負けてしまいます。
フランスはただでさえ、後発の身で拠点も領土も少ないというのに、インドという大きな市場を失ってしまうのです。

この後も、フランスは努力を続けますが、オランダやイギリスに競り勝つことができず、資金集めにも苦戦し、さらにフランス革命が勃発。
国内は大混乱に陥り、対外貿易は縮小を余儀なくされます。
努力も空しく、フランスの東インド会社は1796年、終焉を迎えるのです。

イギリス東インド会社の最期

 

インドでの独占権を得て、ますます力をつけたかに見えたイギリス東インド会社ですが、この頃から少しずつ、経営にかげりが見え始めていました。
大きくなりすぎたことが、逆に仇となったのかもしれません。

18世紀後半から19世紀初頭に入る頃には、産業革命の発展によって自国内に大きな力を持つ企業が増えていました。
自分たちも儲けたい、独占企業はもう要らないとの声が高まり、200年にも渡って独占的に貿易を行ってきた東インド会社に対する反発は日増しに強くなっていったようです。
1813年、イギリス東インド会社は、かつてエリザベス女王から受けたインド貿易の独占権を失い、1833年には新しい法律の制定によって中国貿易の独占権も廃止されることとなりました。
事実上の開店休業。
もう今までのような商売を続けることはできません。

東インド会社のような巨大な組織が、時代に合わなくなってきていました。
「独占」の時代は終わり、自由貿易が求められる時代がやってきたのです。

東インド会社は貿易の独占権を失った後も、しばらくはインドに留まって植民地行政などに従事していました。

しかし、彼らへの逆風は、イギリス国内だけでなく、ここインドでも吹き荒れます。
インド人たちもまた、東インド会社による長年の支配に異議を唱え始めました。
その思いが積もり積もって、1857年、インド大反乱(シパーヒーの反乱)と呼ばれる反乱を引き起こすこととなります。
この反乱によって、東インド会社によるインド統治は困難であると判断したイギリスは翌年、東インド会社を解散させ、インドをイギリス本国の支配下に置くことを決定しました。

配当金の分配など残務整理がすべて終わったのが1877年。
東インド会社の完全な最期と入れ替わるようにインド帝国が誕生。
また、木造船から蒸気船への転換など、海運業にも大きな変革の時が訪れようとしていました。

オランダ東インド会社の終焉

 

大きくなりすぎたことで危機を迎えたのはイギリスだけではありません。
オランダの東インド会社にも大きな転換期が訪れようとしていました。

会社の経営自体はうまくいっていたのかもしれません。
ただオランダという国は疲弊していました。

まずイギリスやフランスとの間で幾度となく戦争が起きています。
一度はイギリスとの提携を試みます。
イギリス自体もアメリカの独立やインドでの覇権をめぐってフランスと対峙しており、非常に難しい状況にありました。
結局、イギリスとの間柄も長くは続かず、東インド会社の貿易もイギリスのそれに押されて失速していくのです。

国と国との相次ぐ戦争や軋轢は、会社の経営にも大きく影響します。
あちこちで戦争が起きているので、安全な航海もままなりません。
18世紀後半に入ると、オランダの貿易船が相次いでイギリスに捕縛され、買い付けた物資がオランダに届かないという事態が続きます。
長年、潤沢な資金で大きな利益を得ていた会社には、ぬるま湯に浸かってしまっていたのか、この事態を乗り切る経営手腕を持つ役員がいなかったようです。
そればかりか不安定な情勢を危機と感じてか、私欲に走る者たちが後を絶ちませんでした。
会社はかなりの負債を抱えてたちゆかなくなっていたと言われています。

そんな中、フランス革命軍がオランダを占領するという事態に。
オランダにバタヴィア共和国という新しい共和体制が誕生。
国の後ろ盾も失って救済の道を断たれた東インド会社は1799年、会社の解散を決定します。

世界中の港町からオランダ商館が消える中、ただひとつ、長崎の出島には東インド会社の解散の情報は伝わっておらず、オランダの国旗が掲げられたまま取引が続けられていました。
しかし、その出島も日本の開国と共に閉鎖され、オランダと日本との交易にも終焉の時が訪れます。

東インド会社とは何だったのか

 

東インド会社を一言で説明するのは、とても難しいです。

まず、イギリスとオランダでそれぞれ設立背景や経営体制が異なります。
お互い、常にライバルであり、敵対関係にありながら、危険な航海を共にする同士でもあり、利権を争った結果、双方とも大きく成長したという、複雑な関係にありました。
そこにフランスが参入し、争いは激化していきます。
インド洋を超えるという危険を冒してもなお、アジアで手に入る産物から得る利益が大きかったので、どの国も経営の手を緩めず、様々な工夫を凝らしていったことが、東インド会社200年の原動力となったのです。
たまたま、外洋に繰り出す資金力と技術を持ち合わせた国が3国あったことが、東インド会社をここまで大きくし、かつ複雑なものにしたと考えられます。

インド洋の航海が危険なものでなければ、東インド会社の影響力はこれほどにはならなかったでしょう。
胡椒の需要が低ければ、そもそも東インドへ船を出すこともなかったはず。
このふたつの要素が、ひとつの時代に重なったことで、数え切れないほどのヨーロッパの船がアジアに漕ぎ出していったのです。

東インド会社が誕生する前にも、海運業を営む者はいましたし、”会社”と呼んで差し支えない体制の団体も既に存在していました。
イギリス東インド会社の前身となったレヴァント会社もそのひとつです。

しかし「世界初の会社は?」と聞かれると、多くの人が東インド会社を思い浮かべるのではないかと思います。
イギリス、オランダ、フランスでそれぞれやり方は異なりますが、どの国も、まず出資者を募り、利益に応じて配当するという方式を採用しています。

当時、船を動かすには相当な資金が必要で、海運業は財力を持つ者だけに許された産業でもありました。
船が沈めば、船のオーナーがすべての負債を抱え込むことになります。
まだ難破座礁の確立が高かった時代、外洋に漕ぎ出す勇気と財力を持つ者は少なかったはずです。
しかしそれでは、異国の品物を手に入れることはできません。

東インド会社では船が沈没した場合のために「有限責任」を始めます。
これによって資金の少ない人たちも貿易に参加することができるようになったのです。

富裕層だけでなく、幅広く多くの人が貿易に参加できる仕組みを作ったことも、東インド会社の大きな功績のひとつと言えるでしょう。

胡椒一粒は黄金一粒

 
こんな言葉が生まれるほど、ヨーロッパでは胡椒は大変貴重なものでした。
胡椒が産地とヨーロッパの都市を結び付け、時に莫大な利益を、時に争いの種をもたらし、世界を大きく変えていったのです。
こんな小さな、これだけ食べても決して美味しいとは言えない粒に世界を動かす力があったなんて。
知れば知るほど不思議で刺激的、もっと知りたくなります。
胡椒は現代でもまだ、私たちを魅了し続けているのかもしれません。

photo by PIXTA and iStock