名古屋の観光で見られる歴史的スポット16選と解説!

東海・中部地方の中心地となっている愛知県・名古屋市は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の「三英傑」を輩出したことで有名な街。街の代表的なスポットには「名古屋城」、行事では彼らをたたえる「名古屋まつり」が開催されており、数百年たった今でも彼らはこの街に大きな影響を与え続けてきました。そんな「三英傑の街」名古屋市ではどのような歴史的観光スポットが見られるのか、今回は「名古屋城」以外の場所を見てみましょう。

名古屋駅近辺・地下鉄東山線の沿線

名古屋3大商店街の1つ「円頓寺」

名古屋3大商店街の1つ「円頓寺」

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名古屋市西区那古野(なごの)にある「円頓寺(円頓寺)」は、五条橋から江川・上畠端までの地域を圓頓寺(えんどんじ)にちなんで「圓頓寺筋」と名付けたのが始まり。

圓頓寺は1654年(承久3年)に創建された歴史ある寺院。
創建当時は廣井村八軒屋敷(現在の名古屋国際センター付近)にあり、1700年(元禄13年)に大火で焼けたのち再建。
しかし1724年(享保9年)に再び大火で焼けると建物の大半が焼け落ち、現地に建て替えられることに。

明治20年以降に飲食店などが開き始めると商店街として栄え始め、名古屋では「3大商店街」の1つに数えられるほど拡大。
またかつて存在した「円頓寺劇場」は成人向けの映画を上映することで知られていましたが、2005年に惜しまれながら閉館。
現在の商店街は昔ながらの店が並んでおり、金刀比羅神社(こんぴらじんじゃ)は名古屋弁が書かれた「名古屋弁おみくじ」がある神社で有名。

このほか商店街では新しい取り組みも始まっており、2007年(平成19年)からは商店街周辺の街作りや空き家対策の活性化を行う「那古野下町衆(那古衆)」を若手商店主、クリエイターなどが集まって結成し、2015年(平成27年)からはフランス・パリの商店街「パサージュ・デ・パノラマ」と姉妹提携。
2012年(平成24年)からは毎年秋の恒例行事として「円頓寺秋のパリ祭」が開催されており、懐かしさを残しつつ進化も続けているのです。

商人のために設けられた「四間道」

商人のために設けられた「四間道」

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名古屋3大商店街の「円頓寺」から近い名古屋市西区・堀川西側の2本目通りを通った場所にあるのが「四間道(しけみち)」と呼ばれる古風な道です。

名古屋城ができる際に清洲(きよす、愛知県北西部の清須市)から人々が訪れた「清洲越し」の際に商人が住み始めたのが歴史の始まりで、1700年(元禄13年)の大火で堀川沿いに立つ商家の屋敷が焼けないように設けられたもの。
道の名前は広げた幅「四間(現在の約7mに相当する)」から名づけられています。

1940年代の第2次世界大戦時の「名古屋空襲」ではこの道も被害を受けますが、他の地域に比べ被害は少なくすんでいたため、建物の多くが焼失せずに残されました。
時代が進むにつれ高層ビルが建つと建物の多くは取り壊されましたが、それでも比較的古風な建物が多く残されています。

そうした古風な建物は「円頓寺商店街」とともに散策コースの中に含まれており、建物の中には雰囲気を生かしたカフェ・レストランも多数。
商人たちのために設けられた道は、現代でもおしゃれな観光地として生かされているのですね。

日本で唯一の超宗派寺院「日泰寺」

日本で唯一の超宗派寺院「日泰寺」

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名古屋市営地下鉄・覚王山駅近くにある「覚王山日泰寺」。
パワースポットであり、初詣スポットでもある名古屋を代表する寺院の1つ。

歴史の始まりは1898年(明治31年)年。
この年に英領インドの「ピプラーワー」でイギリス駐在官ウイリアム・ペッペによって発見された遺骨「真舎利」が釈迦の遺骨であることが発覚。
骨はイギリスから暹羅(シャム、現在のタイ)へ送られ日本へ、その後日本で奉安することを目的に創建されたのがこの寺院でした。
当初はタイの名前を付けた「日暹(せん)寺」と呼ばれましたが、1942年(昭和17年)にタイに国名を変えると現在の「日泰(タイ)寺」に変更。
日本で唯一の超宗派寺院(どの宗教にも属さない寺院)であり、タイとのつながりは非常に深い珍しい寺院なのです。

日泰寺の敷地内にはは「草結庵(そうけつあん)」と呼ばれる非公開の茶室があり、かつて長栄寺(名古屋市中区)にあり「貴人席」と俗称された茶室を1963年(昭和37年)に現在地に移築したもの。
名古屋に生まれた江戸時代中期の茶人・高田太郎庵(たかたたろうあん)が好んだとされており、現在は県指定文化財に登録された貴重な史跡となっています。

豊国神社を中心に広がる「中村公園」

豊国神社を中心に広がる「中村公園」

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名古屋駅から近い名古屋市中村区にある1901年(明治34年)創設の公園で、公園中央にある「豊国神社」を中心に広がっています。
入口にそびえたる大きな鳥居は1929年(昭和4年)に創建された全長24m巨大な鳥居で、公園および中村区のシンボル的存在。

園内にある豊国神社はこの街の英雄・豊臣秀吉を祀る神社で知られている存在。
1885年(明治18年)に当時の地元民が秀吉を祀る運動を起こしたことから創建されたもので、農民から戦国武将に登り詰めた秀吉の人生から「出世運のパワースポット」として参拝者が訪れます。
5月中旬に行われる「太閤まつり」は還暦を祝う「豊太閤頭巾(秀吉が還暦時にかぶったと言われる頭巾)行列」や子どもの成長・出世を願う「出世稚児行列」が行われており、祭りにも秀吉を称える内容があるのは興味深いところですね。

そのほか園内にある「中村公園記念館」は1910年(明治43年)に加藤清正没後300年を記念して建設された迎賓館。
名古屋を訪れた皇太子時代の大正天皇が休憩所として使用したこともあり、1954年(昭和29年)から1967年(昭和42年)までは結婚式場として使用されていました。

奇抜な見どころが存在する「桃巌寺」

奇抜な見どころが存在する「桃巌寺」

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名古屋市営地下鉄東山線・名城線本山駅から徒歩約5分の場所にある「桃巌寺(とうがんじ)」は織田信長の弟で末森城(現在の名古屋市千種区城山町にあった城)の城主であった信行が父・信秀を祀る目的で創建し、年代としては天文年間とされています(1532-1554年)。
かつては尾張国愛知郡鳴海荘末森村二本松(現在の千種区穂波町付近)にあったとされており、現在地に移ってきたのは1712年(正徳2年)から1714年(正徳4年)。

境内にある信秀の廟所は揚輝荘(ようきそう、名古屋市千種区にある庭園)の敷地南端に面した一角(かつての桃巖寺領)にあったもので、1951年(昭和26年)の信秀没後400年を迎えた際に移ってきました。

この寺院内でも特に目立つのは緑色で彩られた巨大な大仏。
これは1987年(昭和62年)に建設された「名古屋大仏」で、現在の緑色に塗られたのは2006年(平成18年)。
名古屋が1988年(昭和63年)のオリンピック開催地に立候補した際にはここで開眼供養を行うことも予定されていました。
1月1日から5日、5月7・8日の御開帳時しか見られない「ねむり辨天(べんてん)」、境内のいたるところにある「男根型」の仏像など、歴史的スポットでありながら「奇抜」な見どころが多いのも特徴です。

歴史的スポット「文化のみち・白壁」

名古屋生まれの実業家邸宅「撞木館」

名古屋生まれの実業家邸宅「撞木館」

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名古屋の歴史的スポット「文化のみち」に属する「文化のみち撞木館(しゅもくかん)」は、大正末から昭和初期にかけて建設された邸宅で、名古屋生まれの実業家・実業家・井元為三郎(いもとためざぶろう)が住んだことで知られています。

1874年(明治7年)に名古屋市熱田区で生まれた井元は陶磁器業を行う会社「田代商店」で勤務したのち、1897年(明治30年)に陶磁器を取り扱う「井元商店」を設立。
会社はのちにシンガポールなどの東南アジア、アメリカにも支店を置くほどに拡大し、1940年(昭和15年)には「大日本陶磁器輸出組合連合会」理事長に就任。
1945年(昭和20年)に亡くなるまで活躍しました。

邸宅は約600坪の敷地割に和と洋の館内、東西2棟の蔵と庭園を持つ構造となっており、ステンドグラスが置かれた洋館は輸出陶磁器に関する商談を行う場所としても使用。
人が住まなくなってからは1996年(平成8年)まで放置・整備も行われていませんでしたが、2002年(平成14年)までの間に地元市民グループによって整備を実施、2006年(平成18年)に市が買い取ったのち2009年(平成21年)から一般に公開されています。

日本の女優第1号と「電力王」が住んだ邸宅

日本の女優第1号と「電力王」が住んだ邸宅

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名古屋の歴史的史跡「文化のみち」に属する「文化のみち二葉館(ふたばかん)」は日本の女優第1号である川上貞奴(かわかみさだやっこ)と「電力王」と呼ばれた実業家・福澤桃介(ふくざわももすけ)が住んでいた邸宅で、国の登録有形文化財(主屋と蔵)に登録されています。

2人は1885年(明治18年)ごろ野犬に襲われた貞奴を当時学生であった桃介が救ったことがきっかけで出会いますが、翌年に桃介は福沢諭吉の次女・房と政略結婚し、貞奴も1891年(明治24年)に芸術家・川上音二郎と結婚。
長い別離を経験したのち貞奴が1917年(大正6年)に女優引退を宣言すると、1920年(大正9年)から桃介と6年間暮らすことになり、1919年(大正8年)に桃介が「大同電力株式会社」を設立以降は貞奴も事業に協力。
2人は公私共に支え合う存在となります。

事業が軌道に乗り始めると桃介は会社を後進に譲り隠居、東京に戻ると貞奴は東京と名古屋を行き来する生活に。
最終的に拠点を東京に移すと1937年(昭和12年)に住宅を東西分割、売却されます。

現在の橦木町へは2000年(平成12年)2月から移築工事が始められ、2005年(平成17年)2月から「文化のみち二葉館」として一般公開。
館内には生活で使用された物品や部屋が残されており、彼らの当時の生活の様子を窺い知れるようになっています。

豊田一族の邸宅も残されている

豊田一族の邸宅も残されている

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「文化のみち」にはその他にも豪華な邸宅が残されています。
東区主税町(ちからまち)にある「旧春田鉄次郎邸」は1924年(大正13年)に創建された「アール・ヌーヴォー様式(19世紀から20世紀にかけてヨーロッパで流行した建築様式)」の邸宅で、岐阜県多治見市生まれの実業家・春田鉄次郎が住んでいました。

主に陶磁器輸出の貿易商として活躍した春田は「太洋商工株式会社」の創始者であり、中国やアメリカにも販路を開拓した。
建築は「関西建築界の父」とも言われる武田五一(たけだごいち)に依頼して建築。
溶質と和室で構成された邸宅は1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)までアメリカ軍に一時接収されたこともありますが、現在は洋館の1室をフレンチレストラン「デュボネ」として、もう一方は一般に公開される展示室となっています。

一方の「豊田佐助邸」はトヨタグループの創始者・豊田佐吉の弟であり実業家であった豊田佐助が住んだ邸宅で、1923年(大正12年)ごろの建設。
白いタイル張りの木造洋館と和館を併設した構成となっており、洋館内には「トヨタ」の文字が施された換気口も残されています。
名古屋市内にはかつて佐吉邸、白壁町に豊田喜一郎(佐吉の子、トヨタ自動車創業者)と豊田利三郎(佐吉の婿養子)の邸宅もありましたが、現存するのは佐助邸と利三郎邸の門と塀のみ。

政治・司法の中心も見どころに

かつての司法中心地「市政資料館」

かつての司法中心地「市政資料館」

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名古屋市市政資料館(なごやししせいしりょうかん)は名古屋市東区白壁にある施設で、敷地内に名古屋城を持つ「名城公園」の一部として扱われる史跡。

1922年(大正11年)に当時の名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所として建設された建物で、長きにわたり名古屋司法の中心的存在とされてきました。
昭和54年(1979年)に名古屋高等・地方裁判所が移転すると、赤い煉瓦と白い花崗岩(かこうがん)で構成される「ネオ・バロック様式」の外観が特徴的なシンボルとして親しまれ、1989年(平成元年)から資料館として一般公開。

内部はかつての司法の様子を伝える博物館となっており、全11ある展示室に各時代に沿った裁判の雰囲気再現、時代ごとの名古屋の街の様子を紹介(これらの展示はすべて無料で見学可能)。
中央階段に飾られたステンドグラスは「司法の公平さ」を表現するもので、ここを舞台にドラマや写真の撮影も行われています。

また地下室にはかつて実際に使用された独房の姿も残されており、無機質な空間に使い古された様子の物品が置かれたその姿は「自身が捕らわれの身となった」ような気分を覚える雰囲気。
この地方の司法がどのような歴史を歩んできたのか「裁く側」と「裁かれる側」の両面から見てみたいところですね

名古屋のランドマーク「愛知県庁」

名古屋のランドマーク「愛知県庁」

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名古屋市では「政治の中心地」も歴史的観光地になっていますが、その1つが2014年(平成26年)に国の重要文化財に指定(南自動車庫と北自動車庫)され「名古屋のランドマーク的存在」となっている「愛知県県庁舎」です。

県庁の歴史は1869年(明治2年)に当時の尾張藩が名古屋城三の丸の元尾張藩附家老・竹腰家の上屋敷に「政事堂」を設置したのが始まり。
その後1874年(明治7年)に東本願寺別院(名古屋市中区)、1877年(明治10年)に名古屋市南久屋町への移転を経て、1900年(明治33年)に名古屋市南武平町(旧愛知県第一師範学校跡地)に新築移転。
現在の庁舎は1938年(昭和13年)3月に「昭和天皇御大典」の記念事業の1つとして現在地に新築移転されました。

建物は鉄骨鉄筋コンクリートの地上6階、地下1階、塔屋1階の構成で、頂点に名古屋城大天守風の屋根を乗せた「帝冠様式」の造りが特徴的。
建設当時は戦争が近づき「国威発揚」の流れが強まった時代で、建物は城郭風の屋根を乗せ「日本の伝統」を押し出した造りに。
これによって「日本の強さ」を主張するねらいもあったのでしょうね。

また県庁近くには1932年(昭和7年)に「愛知県信用組合連合会」の建物として建築された「愛知県庁大津橋分館」が残っており、ゴシック風の付柱や表現主義風(20世紀初頭にヨーロッパで展開された芸術革新運動)のバルコニーが設けられた造りが特徴。
戦後は農林会館や県の歴史編纂(へんさん)室、戦争資料館(2015年から)として使用されており、歴史散策には欠かせない場所の1つとなっています。

県庁舎と並ぶ「名古屋市役所」

県庁舎と並ぶ「名古屋市役所」

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名古屋のランドマーク「愛知県庁舎」のとなりには1938年(昭和8年)の「昭和天皇即位の御大典奉祝(おたいてんほうしゅく)記念事業」時に建設された「名古屋市役所」が建っています。

建設にあたって建物のデザインは公募で選ばれることとなり、公募の結果により西春日井郡豊山村(現在の豊山町)出身の建築家・平林金吾氏のものが採用。
外観は日本建築を基調とした近代的なもので、中央には高さ53.5mの時計塔、二層屋根の塔頂上には「四方にらみのしゃち」が乗る造り。
平林氏は時計塔と鯱のデザインに大きなこだわりを持っていたとされ、これが現代にいたるまで「これが名古屋である」という代表的建築と呼ばれる理由でしょう。

内部には山口県産の「小桜」と呼ばれる大理石を使った中央広間と階段,貴賓室(きひんしつ)などが設けられており、観光スポットとして祝日の日に一般公開されることも。
こうした和洋折衷型の建築様式は昭和初期の記念的庁舎建築として評価されており、2014年(平成26年)12月には名古屋のシンボルとされる「愛知県庁本庁舎」とともに国の重要文化財に指定。
2つの帝冠様式(1930年代に建設された和洋折衷の建築物)の建物が並び立つ光景は国内でもここでしか見られないもので、現在は映画のロケ地として使われることもあります。

徳川氏の墓所・お金を学ぶ資料館

尾張藩主の墓所「建中寺」

尾張藩主の墓所「建中寺」

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名古屋市東区・東区役所に近い「建中寺(けんちゅうじ)」は、代々の尾張藩主の墓所がある寺院。
1651年(慶安4年) に第2代尾張藩主徳川光友が父・義直を弔い、尾張藩すべての人々の心のよりどころとなることを目指して創建されました。

創建当時は4万8000坪(15万8400平方メートル)の境内を誇っていましたが1785年(天明5年)の大火災時に大半の建物が焼失。
1786年(天明6年)から1787年(天明7年)にかけて再建され、面積は創建当時よりも縮小。

多くの建物は火災により焼失再建されたものですが、その中でも創建当時のまま残されている数少ない建物が入り口に経つ「三門」。
門の名前の「山門」とは仏教における悟りの教理を表す「空門・無相門・無願門」の3つを指すものであり、建築様式は総檜造り・三間重層門(屋根が二重になっている建物)の本瓦葺き(ほんかわらぶき)。
門の2階には「十六羅漢(じゅうろくらかん、お釈迦様の弟子で特に優れた弟子たちを指す)の像」が祀られていますがこちらは非公開。

有料で公開されている「経蔵(きょうぞう)」は1828年(文政11年)に創建された「宝形造り(ほうぎょうづくり、隅棟(すみむね)が中央の一点に集まり,水平の棟を作らない様式)」の建物で、2004年(平成16年)に市の文化財補助と一般からの寄付により「平成の大修理」を実施。
内部には日本禅宗の一宗派・黄檗宗(おうばくしゅう)の僧鉄眼(てつげん)が出版した大蔵経(仏教の聖典をまとめたもの)である「黄檗版大蔵経(おうばくはんだいぞうきょう)」5千8百巻が収められています。

貨幣の歴史を紹介した「貨幣資料館」

名古屋市東区にある「三菱東京UFJ銀行貨幣資料館」は「貨幣」に関する展示が充実した歴史資料館。
1961年(昭和36年)に東海銀行(2002年(平成14年)に三和銀行と合併)設立20周年記念として東海銀行本店ビル(現・三菱東京UFJ銀行名古屋ビル)7階に「東海銀行貨幣展示室」を開設、その後1980年(昭和55年)に「東海銀行貨幣資料館」として一般公開を開始。

2002年からは旧名古屋銀行(東海銀行の前身)本店跡のビルに移転しますが、入居ビルの売却に伴い休館。
2009年(平成21年)に現在の旧東海銀行赤塚支店跡に移転し再開館。
館内には「カネノナルキ」や1億円の重量体験、世界中の貨幣を展示するスペースを設けており、貨幣については豊臣秀吉が作らせた世界最大の金貨「天正沢瀉大判(てんしょうおもだかおおばん)」、エジプトの「クレオパトラ女王」の肖像が描かれた銀貨など珍しいものを中心に約1万点のコレクションを所蔵。

このほかにはかつての両替屋の再現、初代資料館が開館した当時から展示される「浮世絵コーナー」も設置し、展示品やビデオコーナーでは「歌川広重(うたがわひろしげ」」の世界を知る子tができます。

地下鉄鶴舞線沿線・市郊外のスポット

センバツ高校野球発祥の地「八事球場跡」

JR東海八事球場(ジェイアールとうかいやごときゅうじょう)は、かつて名古屋市昭和区に存在した野球場で、1922年(大正11年)に当時の中区末広町で運動用具店を営んでいた富豪・山本権十郎氏が私財を投じて建設。

球場の大きさは総面積約2,800坪、収容人員は約2,000人と言われており、現在ある何万人も収容する球場に比べると非常に規模の小さい球場ですね。
建設した山本氏の名前から「山本球場」と名付けられた球場は名古屋市内では初の本格的な球場とされ、1924年(大正13年)に開催された「選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会)」第1回大会の会場に。

大会では地元の愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)を含め全国から8校が参戦、香川県立高松商業学校(現香川県立高松商業高等学校)が初代王者に輝きました。
第2回以降は春の大会も阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)での開催となり、大会がこの球場で行われたのはこの第1回のみ。

太平洋戦争が終わった後は国鉄(日本国有鉄道)が球場を取得し「国鉄八事球場」に名称変更。
その後は主に国鉄名古屋局チーム、国鉄民営化後のJR東海野球部の練習場として使用されますが、老朽化の進行から1990年(平成2年)最後に球場としての役目を終え閉鎖。
現在は球場跡地が「八事球場メモリアルパーク」として整備され、かつての本塁付近には第1回大会開催地であることを示すモニュメントを設置。
近代的な住宅街が増えた名古屋ですが、球児たちが刻んだ「青春の1ページ」は消えずに残されているのです。

信長を全国的大名にした「桶狭間の古戦場」

信長を全国的大名にした「桶狭間の古戦場」

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織田信長が名を挙げた戦いとして「桶狭間の戦い」は有名な出来事ですが、その戦いの古戦場跡が名古屋に残されています。

時は1560年(永禄3年)、全国統一を目指していた織田信長は駿河国(現在の静岡県中部)の戦国大名・今川義元が自身の領地・尾張に侵攻してきたことで大きな危機を迎えていました。
統一を成し遂げるためには今川を打ち破る必要がありましたが、今川軍の数は織田軍を大きく上回る数。
普通に戦っても勝ち目は当然ありませんでした。

そこで信長は今川が徳川家康を向かわせた「大高城」へ乗り込むと考え、城へ向かう際に通る細い道「桶狭間」で撃とうと考えるのです。
休息中の今川軍を狙った織田軍は途中で降りだした豪雨も味方につけ一気に今川軍を攻め落とし、本陣から追われた今川は織田家の家臣・毛利新介らの手により最期を迎えることに。

この公園は戦いの中心地とされる場所で、合戦から450年目を迎えた2010年(平成22年)公園として整備。
園内は合戦当時の地形のジオラマ・解説などにより当時の戦況などを知れるようになっており、今川が馬をつないだとされる杜松(ねず)の木「馬つなぎの社松」は「触れると熱病にかかる」と噂されたことで有名。
信長を全国的な戦国大名へ押し上げた場所です。

プロ野球誕生の地「名鉄自動車学校」

タイトルに自動車学校とあるため「自動車学校がなぜ歴史スポットなのか」と思われるかもしれませんが、ここはかつて「鳴海球場(なるみきゅうじょう)」と呼ばれる野球場であったのです。

1927年(昭和2)10月17日に開場した球場はセンター約132m、両翼106mと現在の球場と比較しても大きな部類に入る球場で、開場当時の収容人数は約2万人(戦後の拡張工事により最大4万人まで拡大)。
当時は東京六大学野球の聖地・明治神宮球場(東京新宿区)や高校野球の聖地・阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)と東西に大きな球場が存在しており、それらに対抗するためか、三塁側スタンドは甲子園球場の「アルプススタンド」に似た鉄傘を設置、名前は伊吹山の名前を取った「伊吹スタンド」と名付けられていました。
ここを「日本を代表する球場にしよう」とする人々の意識が伝わるエピソードですね。

1931年(昭和6年)と1934年(昭和9年)には野球の本場・アメリカから訪れた全米選抜チームとの試合でも使用され、野球殿堂入りを果たしている名選手ルー・ゲーリックやベーブ・ルースを相手に日本のエース・沢村栄治が力投。
このときに結成された日本のチームは初のプロ球団「大日本東京野球倶楽部」に発展し、1936年(昭和11年)2月9日には東京巨人軍(現在の読売ジャイアンツ)と名古屋金鯱軍(現在の中日ドラゴンズとは別球団)の試合で初の職業野球試合を開催、10-3で金鯱軍が勝利しています。

戦後は「中日ドラゴンズ」が1953年(昭和28年)まで本拠地として使用したのち1958年(昭和33年)10月に閉鎖、翌年からは「名鉄自動車学校」に変身。
敷地内にはホームベース跡にある記念ホームプレート、球場時代に使われたスタンドの形が残されており、野球ファンにとっては感慨深い場所ですね。

名古屋の歴史スポットは多様

日本の歴史を代表する「三英傑」の影響が強く残る「名古屋市」の歴史的スポットは球場時代の跡がそのまま残る自動車学校、行政の中心地と、幅広い場所が歴史的スポットになっています。
歴史的スポットと言えば寺院や城などが真っ先に浮かぶと思いますが、一見観光スポットには見えないような場所でも歴史をたどってみれば「意外な歴史的スポット」になることもあるのです。
歴史的スポットを見る際は通常注目しない場所も見れば、歴史の面白さが広がるかもしれません。
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