歴史ある街・パリを味わうお散歩スポット8選

花の都パリを旅行するなら何をしますか?素敵なカフェめぐりや美術館めぐり、蚤の市でお宝を探してみたりと、楽しみ方がたくさんあるのがパリの街です。では、街歩きでパリの歴史を味わってみるのはいかがでしょう?その街に訪れないとその大きさや美しさを感じることができない建物をめぐるのも、その街の楽しみ方のひとつです。パリにはその長い歴史を感じるたくさんの建物が残っています。教会や美術館はもちろん、街並みにもその歴史の足跡が見え隠れしているのでふらりと歩いているだけでも楽しめます。今回はパリの古い歴史から華やかな近代の歴史を味わえるスポットを8つ選んでみました。パリのセーヌ川を挟んでシテ島・左岸・右岸とエリアごとにご紹介していきます。

パリはシテ島から生まれた街

パリはシテ島から生まれた街

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今では大国フランスの首都・花の都として有名なパリの始まりはセーヌ川に浮かぶ小さな島からでした。

このシテ島には紀元前6世紀ごろからケルト系民族のパリシィ人の漁村があり、キリスト教以前の宗教の祠の跡も見つかっています。

紀元前1世紀ごろに古代ローマの支配を受けるようになりましたが、その時にもシテ島を中心に左岸のエリアが村の中心地でした。

そのころからシテ島の東側は宗教的な建物が多く、西側には地域の政治を行う人々が暮らしました。

今のシテ島の構図と変わらなかったといわれています。

ローマ時代には沼地にあったことから「ルテティア」と呼ばれていたパリの街は、11世紀ごろには住んでいるパリシィ人の街として「パリ」と呼ばれるようになりました。

19世紀のパリの大改造の時にシテ島を都市区画番号を「1区」とされたのも発祥の地だという意味があります。

また、ノートル・ダム大聖堂の前には「ポイント・ゼロ」があり、パリからの距離を測る起点とされています。

パリはここから始まったのです。

我らが貴婦人 ノートル・ダム大聖堂

我らが貴婦人 ノートル・ダム大聖堂

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セーヌ川を歩いているとその存在感をドーンと現してくる大きな教会は、この地にキリスト教が入ってきたときからずっとあり続けている聖母マリアに捧げられた聖堂です。

この大聖堂はゴシック建築の代表と言われています。

西正面に見られる入口の尖塔アーチの形と、後陣の壁を支える放射線状に広がるフライングバットレス。
内部の身廊天井のクロスした梁が典型的な特徴です。

現在の建物は1163年に着工され、1250年に有名な西正面にあるバラ窓が完成しました。
全体的に完成したのは1345年です。
約200年かけて作られているので、ゴシック様式だけでなく、そのたくさんの彫刻の中には12世紀に主流だったロマネスクの特徴をもった箇所もあります。

ノートル・ダムの建物全体を楽しんでみましょう

たくさんの彫刻が聖堂の外壁には飾られています。

一つ一つの彫刻の顔がユニークで、中世の彫刻らしく少々バランスがおかしいものもありますが、それがかえってユーモラスに感じます。

そしてよく見ると剣を振りかざして今にも人を刺しそうになっていたり、聖人を支えている怪物たちが複雑な表情をしていたりしています。

内部で楽しめるのは北・南・西にあるバラ窓のステンドグラスたち。

ゴシック建築では薄い壁と高い天井で聖堂を作ることができたため、バラ窓はとても大きく作ることができ、カラフルな光を教会内に落とします。

大聖堂を楽しむなら、ぜひ鐘楼に登ってみましょう!

ディズニーの映画にもなった「ノートル・ダムの鐘」の舞台はこの大聖堂。

映画のキャラクターにもなった奇怪な生き物のシメールの彫刻と一緒にパリの街を一望することができますよ。

シメールの下には大きな口をあけているガーゴイルたちが壁から突き出ています。
このガーゴイルは雨どいですので、雨の日には彼らの口から水が勢いよく放出されるのを見ることができます。

エッフェル塔ができるまで、この鐘楼よりも高い建物を建てないよう都市計画がされていました。
なのでとても見晴らしがいいのも納得。

パリに着たらまずこの鐘楼を登って、街全体を見渡すのもお勧めです。

かつての王宮なのに牢獄で有名なコンシェルジュリー

かつての王宮なのに牢獄で有名なコンシェルジュリー

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ノートル・ダム大聖堂から西に進むと、堅牢な建物のコンシェルジュリーが姿を表します。

この建物は10世紀から14世紀半ばまでフランス王宮として使用されていたのですが、シャルル5世の時代に王が宮廷をパリ以外に置くようになり、その後は牢獄として使用されるようになりました。

コンシェルジュリーをセーヌ川から見ると特徴的な4つの塔を見ることができます。

それぞれ東から「時計の塔」「シーザー塔」「銀の塔」「ボンベックの塔」と言われており、建物内の衛兵の間や警備の間と合わせて中世の時代の姿を残しています。

時計の塔にはフランスで最古の壁掛け時計が掛けられていました。

コンシェルジュリーとは、中世の時代は王宮の入口で王宮を管理する王室管理府を指していたのですが、王家がいなくなってしまい、残された王室管理府の名前が全体を指すようになったのだそうです。

現在はパリ司法宮として使用されており、一部を観光向けに開放しています。

ギロチンへの入口と言われた牢獄

14世紀半ばから19世紀まで牢獄として使われたコンシェルジュリーですが、この牢獄を有名にしたのはフランス革命でした。

ここに収容された人は約4000人。
そのうち2600人がこのコンシェルジュリーからギロチンの下へ連れて行かれ命を終えたのです。

一度コンシェルジュリーに入れられると出ることなくギロチンへ送られると恐れられ、「ギロチンへの入口」とささやかれるようになりました。

この牢獄に入れられた人のなかには私たちもよく知る人もいました。

フランス王妃だったマリー・アントワネットの名前はみなさんご存知かと思います。

彼女が入れられた独房を再現した部屋を現在でも見ることができるのですが、ほかの囚人に比べて広い部屋で家具などもある薄暗い部屋でした。

王宮で過ごしていた彼女にとっては落ちぶれた粗末な部屋だったかもしれませんが、この牢獄にあるその他のベッドがあるだけの雑居房や藁が敷かれただけの不衛生な部屋に比べれば一応貴族扱いされていたことがわかります。

1793年、マリー・アントワネットはこの牢獄からギロチンの待つコンコルド広場へ向かいました。

十字軍戦利品の宝物庫 サント・シャペル

十字軍戦利品の宝物庫 サント・シャペル

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コンシェルジュリーの一角にある教会がサント・シャペルです。

この聖堂は入った瞬間からその天井まで覆い尽くした壁一面にはめ込まれたステンドグラスに圧倒されます。

このステンドグラスはパリ最古のもので、時間帯によって強調される色も変わり表情が変わっていきます。

この聖堂を建てたのは十字軍遠征に熱心だったルイ9世、別名聖王ルイでした。

彼はとてもキリスト教信者として信仰が篤く、十字軍遠征でエルサレムやビザンチンの皇帝からキリストの茨の冠や十字架の木片などの聖遺物を購入して帰ってきました。

それらの聖遺物を収める場所として、1248年にこのサント・シャペルの礼拝堂を建てたのです。

ルイ9世は大金を払い手に入れた聖遺物をパリ司祭のいるノートル・ダム大聖堂に収めることなく王宮の一角に収めたのは、当時神聖ローマ帝国の力が弱まっており、西キリスト教世界の君主の座を狙った政治的判断だったとも言われています。

今は中身のない大きな宝石箱

サント・シャペルの外観はとても質素で、コンシェルジュリーと同じグレーの壁で覆われており、一見すると気付かないほど。

この外見が地味な礼拝堂は、中に入るとあふれんばかりの鮮やかな光の洪水に心を奪われます。

天まで届く細長く区切られたステンドグラスが壁一面を多い、半円の後陣まで来ると宝石箱の中にいるようです。

燦然と輝くこのステンドグラスの3分の2は13世紀のもので、フランス革命で王家にかかわるものや貴重な建築物が破壊されましたが、たまたま裁判所の近くだったことから事務所として使われ、本棚で覆い尽くされたことからステンドグラスは無事でした。

残念ながら収められていた聖遺物については、茨の冠と十字架の木片を残して散在または燃やされてしまいました。

現在では茨の冠と十字架の木片はノートル・ダム大聖堂に収められており、このサント・シャペルには聖遺物はありません。

このステンドグラスの光に包まれるだけでも、中世の王家の力を感じつつ、幻想的な空間を味わえるのではないでしょうか。

中世のころからの大学エリア パリの左岸

中世のころからの大学エリア パリの左岸

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セーヌ川の左岸、シテ島から見て南のエリアは古代ローマ人達が拓いたエリアでした。

現在でもその遺跡の上に街が建っています。

中世の時代にはソルボンヌのパリ大学が生まれ、このエリアはパリ随一いやフランス随一の知識人が集まりました。

パリ大学は主に神学が盛んで、キリスト教の教義の解釈や教会のあり方などについて議論が盛んにされていました。

その議論の熱はカフェの文化につながり、芸術家たちを育てる風土を作ったのかもしれません。

左岸のカルチェ・ラタン界隈を歩いていると、中世の城壁の一部が突然現れる場所もあります。
ぷらぷらと街を歩く時でも何かないかなと廻りを見てみてくださいね。

サン・ジェルマン・デ・プレ教会

サン・ジェルマン・デ・プレ教会

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左岸のハイブランドのショップが立ち並ぶ界隈の近くにたたずむサン・ジェルマン・デ・プレ教会は、「パリで最古」の教会と言われています。

その始まりは6世紀にまでさかのぼります。
フランク王国のメロヴィング朝のパリ王だったキルデベルト1世が聖遺物を収めるために作った教会でした。

その後、ギルデベルト1世がなくなり、自らがこの教会に葬られたことから、メロヴィング朝の歴代の王の埋葬場所となりました。

そのときにはまだ「聖ヴァンサン教会」という名でしたが、576年にパリ司教の聖ジェルマンが亡くなり埋葬されたことから現在の サン・ジェルマン・デ・プレ教会と呼ばれるようになりました。

「デ・プレ」は「草原の中の」と言う意味で、当時このあたりはパリの城壁の外で草原の中に建っていたことからつけられました。

地元の人が通う心のよりどころ

8世紀にはベネディクト会の修道院として大きくなり、「黄金のサン・ジェルマン」と言われるほど隆盛を極めたのです。

その後9世紀にはノルマン人の襲撃にあい、ほぼ破壊され、その際に拡張修繕され、11世紀に作られた鐘楼が現在にも残ります。

パリにはあまり残っていない数少ないロマネスク建築を残した教会としても注目です。

内陣はゴシックに作りかえられていますが、内と外で様式が異なるのも長い歴史を持つ教会だからこその特徴といえます。

この教会はあまり観光地化されておらず、小さなオルガンや随所にある信者の方の手書きの案内などから地元の人が毎日の信仰を捧げるための教会であることを感じることができます。

豪華に飾られた教会だけでなく、こんな人の生活を感じられる教会をそっとのぞくのもいいものです。

ローマの遺跡名残 クリュニー中世美術館

ローマの遺跡名残 クリュニー中世美術館

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サン・ミッシェル通りから南に下がったカルチェ・ラタンの一角にある、この美術館へ向かうと途中で突然ローマの遺跡が目にとまります。

このローマ建築の遺跡は3世紀ごろに、セーヌ川の船主たちの同業組合によって建てられた公共浴場の跡です。

ローマ人はお風呂好きだったと今では広く知られていますが、イタリアから遠く離れた土地でもお風呂を作って楽しんでいた様子が伺えます。

この遺跡のある地域を14世紀にブルゴーニュで力を持っていたクリュニー修道会の修道院長が買い取り、当時パリ大学に通った修道僧のための館を作りました。

その後フランス革命後は美術収集家が買い取り、その死後、大変貴重な中世美術のコレクションが国の所有となり公開されるようになりました。

さあ、中世フランスへタイムスリップです

この美術館のおもしろいところは、古代ローマ時代の浴場の一部をそのまま利用して展示をしているところです。

11~12世紀の建築彫刻と古代ローマの建物が混ざり合っています。

また12世紀に作られたステンドグラスを集めた部屋もあり、教会では遠くにしか見ることのできなかったステンドグラスを間近で見ることができます。

800年の歳月を経ても色あせることなく輝く美しさに驚きます。

ルーブルでも中世美術を揃えていますが、こちらの美術館では当時の武具や食器、装身具など生活の一端が見えるものをたくさん展示しています。

この美術館最大の目玉は「貴婦人と一角獣」のタペストリーです。

6枚連作でひと揃えのタペストリーで、15世紀に織られたフランドルの品がここまで完璧に残っているのは奇跡だと言われています。

とても精巧なゴブラン織りで、動物や草木の表現と陰影、人の表情などは少し離れてみると織物ではなく絵画かと思うほどです。

このタペストリーは五感の寓意を表したもので、最後の「わが唯一の望みに」と織られた1枚は何を示しているのか諸説あります。

「愛」なのか「自由を求める心」なのか、実際に目の前に立って感じてみてください。

ご存知パリのシンボル エッフェル塔

ご存知パリのシンボル エッフェル塔

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広い公園の中に堂々とたたずむエッフェル塔。

私たちも何度も写真で見たことのあるこの塔はフランス革命100周年を記念して、第3回パリ万博のメインシンボルとして建設されました。

コンペでエッフェル社が提案したこの鉄の塔が決まった時には、当時の芸術家たちから大反対を受けました。

醜悪な鉄の塊がパリの美しい街並みを壊すし、その奇異な形は芸術でもないと署名運動まで起こったのです。

万博の実行委員としてはフランスの産業の力と20世紀を迎える未来を感じさせてくれる象徴としてエッフェルの提案を選んだのですがその反対は大きかったため、計画は一時ストップ。

しかし代替案もなかったため、20年後には解体するという期間限定としたことで納得させ、わずか25カ月で、しかも事故ゼロで万博のオープンに間に合わせました。

時は1889年5月6日。
万博の一般公開が始まる10日前のことでした。

世界で一番高い塔としてパリに生まれたエッフェル塔は、万博開催の半年間で建築費用の77%を賄うほどの集客があり大成功しました。

一発大逆転 これからもパリのシンボルです

20年の存続期間が過ぎ、1909年に一旦は解体が決まりました。

しかし、そのころに発明された無線通信の電波塔として利用価値があるとわかり、1916年に大西洋を越えてアメリカまで交信ができることが証明されると存続することとなり、現在まで残されているのです。

第二次世界大戦中も電波を発してドイツ軍の更新の邪魔をしたとも言われています。

不思議なもので時代が変わるとエッフェル塔の流線フォルムは芸術的と言われ、その姿のないパリの街並みが想像できないとも言われるようになります。

その大きさを感じるのに階段を使って登ってみるのも楽しいですし、一気にエレベーターで3階まで登っても爽快です。

19世紀フランスの鉄鋼技術と20世紀の繁栄への夢がつまった塔を観たり登ったり触ったりして体感してみてください。

政治と経済の中心地 パリの右岸

中世のころ、人々は左岸を「大学」と呼び、右岸を「街」と呼んでいました。
「街」とは生活をする場所とも考えられますね。

現在でも証券取引所や銀行、元王宮のルーブルやパレ・ロワイヤルなどがあります。
政治と経済が主に発展した地域だったのです。

元は要塞だった ルーブル宮殿

元は要塞だった ルーブル宮殿

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世界的に有名な美術館であるルーブル美術館ですが、今回はあえて「ルーブル宮殿」をご紹介します。

ルーブル美術館にはたくさんの素晴らしい絵画や彫刻などが展示されていますが、今回はそちらは一旦置いておいて、建物やもともとはどんな歴史を持った場所なのかにクロースアップしたいと思います。

ルーブルは王宮だったということは割と有名ですが、最初から王宮として建てられたわけではありませんでした。

1190年頃、十字軍遠征に行くことになったフィリップ・オーギュスト王は当時同じくフランス王家の血筋を持つイングランドやノルマンディー公が留守の間にセーヌ川を登ってパリを征服するのではないかと恐れていました。

そこで、シテ島を中心にセーヌ川を挟んで城壁をめぐらせました。

しかし、セーヌ川を伝ってこられてはその侵入は防げないため、城壁の外に要塞を作りました。
その要塞がルーブル宮殿の原型になります。

堅牢な土台をみてみましょう!

この要塞は14世紀に改築されるまで町はずれの薄気味悪い場所と思われており、武器や文書の保管倉庫として使われました。

改築されて城壁を設けるようになり、その城壁に囲まれた館が王の住まいまたは絵画などの美術品コレクションの収容場所になっていきました。

ルイ14世の時代になると要塞や王宮の上に、現在の建物を建てたのですが、ベルサイユに住まいを移してしまったため放置されてしまいます。
その後公的な式典や政庁として使われるよう離宮として整えられていきましたが、王家は基本的にはルーブルではなくテュイルリー宮殿の方を利用することが多かったようです。

フランス革命でベルサイユ宮殿から連れてこられたルイ16世とマリー・アントワネット家族は一旦テュイルリーへ住まいを移し、さびれたルーブルで政治を行いました。

革命の後1793年にルーブル宮殿は美術館としてその収容品を公開し、現在にいたります。

その後ルーブル美術館がミッテラン大統領の政策の一環でガラスのピラミッドを建設する際、地下を掘り起こし、中世の時代の要塞の跡が見つかりました。

現在では半地下の階が設けられ、直径15メートルの天守塔の土台やそれを囲む壁の一部を見ることができます。

中世の足跡は近代のピラミッドの下にひっそりと眠っているのです。

セピア色の夢が見え隠れする パッサージュ

セピア色の夢が見え隠れする パッサージュ

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最後にフランス革命の後、必死に産業革命の後を追ったパリの足跡を感じられる場所を見ていきましょう。

「パッサージュ」とは「通り抜け」という意味で、ガラス屋根に覆われたアーケードのことを指します。

単なる通り抜けの道ではなく、アーケードの両側には商店が立ち並び、ガラスの天井から光を受けて通りはとても明るくて温室の中を歩いてお買い物ができるようになっています。

このような通りがたくさんできたのはフランス革命後から1820年代です。

当時のパリは中世の時代から自然発生的に生まれた道で構成されており、並行する道をつなぐ道が少なくて遠回りしなくては行けないような作りでした。

また、道も大変悪くて、糞尿を窓から投げ捨ていたため、雨などが降ると臭いもひどく足元がドロドロになっていました。

そんなパリの街に最新の工業技術を駆使して作られた鉄鋼の骨組みにガラスがはめ込まれた天井と清潔なタイル張りの床に、夜には電燈で明るく照らされるパッサージュが登場すると大人気に。

どんどん作られていき、多いときには100を超すパッサージュが作られました。

レトロな夢の足跡がパリらしい

パッサージュは基本的に人が行きたい場所に近道して行くことができる便利さで人の往来を引き寄せていました。

そのため、多くのパッサージュは大きな通りから乗合馬車の停留所へ行けたり、人気のスポットに続く通りへ抜け出れるものだったのです。

1830年になると、パリの街は大きくすごいスピードで変わっていきます。

最初にパッサージュに打撃を与えたのは、大人気スポットだったパレ・ロワイヤルの衰退です。

パレ・ロワイヤルが娼婦と賭博を禁止したため人々が離れていき、自然とそこへつながるパッサージュに人の通りが少なくなっていきました。

そして、電車が開通し、乗合馬車がすたれていきます。

さらに、オスマン男爵のパリの大改造によって道が整備され、袋小路や行き止まり、回遊の悪い通りが解消され、近道のパッサージュの需要がなくなってしまったのです。

こうして人が通らなくなったパッサージュに入っているお店は次々と撤退し、さみしい通りとなり、時代の変化に巻き込まれて閉鎖して行きました。

現在パリに残っているパッサージュは20前後。

主にパレ・ロワイヤル周辺に残っています。

新しい技術でこれからのパリが明るく発展するんだと、人々が感じながら歩いたパッサージュ。

今はその思いがセピア色になって静かな時間を過ごしているパッサージュはとてもパリらしいアイロニーを感じられるスポットです。

おしゃれなパリとは違うパリをみつけよう

パリと言えばおしゃれなカフェや美術アートの街と想像しがちなのですが、今回はあえてステレオタイプのイメージから離れたスポットやポイントをご紹介しました。

パリという街はおしゃれな街ではありますが、泥臭い歴史やきらびやかな美術品を飾る王宮の下にも昔の思いが隠れていたりする街でもあります。

何度かパリを訪れて飽きてきた方やこれまで興味が持てなかった方が、ちょっと違うパリの顔を見つけてみようかなと思ってもらえたらうれしく思います。

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