乱世の奸雄と呼ばれた「曹操孟徳」(曹操/そうそう)とは?

中国は後漢(25年~220年)の時代、その末期に一人の英雄が世に誕生したのです。その英雄とは「曹操(そうそう)」。マンガやゲームでも大人気の三国志、その三国時代の一つである魏の国の礎を作った人物です。「曹操」は決して高貴な家柄の出ではなかったが、自らの才覚一つで後漢の丞相まで成り上がり、呉・蜀をはるかにしのぐ勢力を持ち強国を作り上げたのです。また「曹操」は後漢を滅ぼして帝位に就くことも可能であったのに生涯後漢を背負い続け、後漢を滅ぼすことをしなかったのです。三国志演義の影響からか悪役にされることの多い「曹操」ですが、どのような人物だったのでしょうか。簡単にまとめてみました。

治世の能臣、乱世の奸雄

宦官の孫

宦官の孫

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「曹操」は155年、沛国譙県にて生誕。
字は孟徳。
幼名は阿瞞、または吉利。
父は「曹嵩(そうすう)」。

「曹嵩」は、前漢建国に貢献した功臣「夏侯嬰(かこうえい)」の末裔であり、元々は夏侯氏を名乗っていました。
しかし「曹嵩」の運命を変える出来事がおこったのです。
それは、後漢で権力を握っていた「曹騰(そうとう)」が、皇帝から養子をとることを認められたのでした。
「曹騰」は、皇帝やその周りの者の世話をする宦官でした。
宦官は去勢されているため、子孫を残すことは不可能だったのです。
しかし、高位に上り詰めた「曹騰」は、家名を残すために特別に養子をとることを許されたのでした。
そして「曹騰」が、養子に選んだ人物が「曹嵩」です。
「曹騰」の養子となった「曹嵩」は、夏侯氏ではなく曹氏を名乗り、義父の力のお蔭で、官僚としても順調に出世をしていったのでした。

その父「曹嵩」の子として誕生した「曹操」は高貴な家柄ではなかったですが、裕福な家庭で不自由なく育つのです。

悪ガキだった曹操

「曹操」は小さい時から頭が切れ、学問では並ぶものがないほどの才能を持っていたそうです。
広く種々な書物を読み、とりわけ兵法書が好きであったと言われています。
また自らの武芸も鍛え、腕前も相当なものがあったそうです。

しかし父である「曹嵩」は、つつましく穏やかな性格であったのに、「曹操」は父とは正反対の性格であったと言われています。

今でいう頭の切れる不良だったのです。

「曹操」のあまりの悪ガキさを苦々しく思っていた「曹操」の叔父は、その悪ガキ振りを逐一「曹嵩」に注意していたのでした。
しかしその小言を「うっとうしい」と感じていた「曹操」は、一計を案じ、わざと叔父の前で癇癪を起こした振りをし、「曹嵩」にその症状を伝えさせたのです。
驚いた「曹嵩」が、急いで「曹操」の元にやってきたのですが、そこでは普段と変わらない元気な「曹操」が居たのでした。
「曹嵩」が「叔父さんからお前が癇癪を起こしたと聞いたので急いで来たのだが」と伝えると「曹操」は、「私は元気ですよ。
あの叔父さんはいつも私のことをあることないことお父様に報告していますが、嘘ばかりです」と言ったのです。
「曹嵩」はこの事件後叔父の言うことを全く聞かなくなるようになったのでした。

また、将来のライバルとなる「袁紹(えんしょう)」と共に、他人の嫁さんを強奪したこともあるらしいです。

宦官の孫として、金銭的には全く不自由ない暮らしをしていましたが、宦官の評価は決して高いものではなく、反対に下に見る者がほとんどでした。
そのような環境で「曹操」の心は満たされなかったのかもしれません。

運命を変えた出会い

「曹操」はたぐいまれな才能に恵まれながらも不良であったため、立場の上の人からは目の敵にされ敬遠されていました。

しかし後漢の大尉の地位にあった「橋玄(きょうげん)」だけは「曹操」に対する評価は違っていました。

「橋玄」は、「天下は乱れようとしており、当代一の才の持ち主でなければ救うことはできない。
天下をよく安んじることができるのは君だ。」と「曹操」を評価していたのでした。

また「橋玄」に紹介された人物鑑定家の「許劭(きょしょう)」は、「曹操」を「あなたは治まった世では有能な役人だが、乱れた世になるとずるがしこく利益を得る奸雄だ」と評価したのです。

それを聞いた「曹操」は大笑い。
「乱世の奸雄か、それも悪くない」とつぶやいたと言われています。

20歳の時に孝廉に推挙され郎官となり、朝廷の実務を体験し、洛陽北部尉に着任。
違反者に対し身分関係なく、厳しく取り締まりをおこないました。

「曹操」が任期中に、門の夜間通行の禁令を犯した人物が居ました。
その人物は、皇帝に寵愛されていた宦官の叔父であり、その人物は甥の力で不当に罪を抑えようとしたのです。
しかし「曹操」は全く意に反さず、刑罰を実行。
その人物を棒叩きの刑により殺してしまったのです。

このような身分を問わず法を犯した人物には刑を実行することにより、法を犯すものが現れなくなり治安が保たれたのでした。

しかしこの事件により、「曹操」を煙たくなった宦官たちは県令という地位を与え、栄転として洛陽から追い出したのでした。

社会の混乱による曹操の台頭

朝廷の腐敗と黄巾の乱

朝廷の腐敗と黄巾の乱

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「曹操」が若い頃、後漢は14代「霊帝(れいてい)」の時代でした。

この「霊帝」は無能の人物だったようで、政治は自身の妃である「何皇后(かこうごう)」の一族である外戚と「霊帝」のそばに仕える宦官、特に力を持つ十常侍によって動かされることになります。
そして「霊帝」の興味はというと、金儲けであり、全ての官位は能力ではなく、お金で売買されることになったのです。

実は「曹嵩」も高額な資金で大尉という、高い地位を買ったのでした。
このようにお金さえあれば高い地位が買えるので、出世をしたい役人はたくさんのお金を手に入れるために、庶民に重税を課し、苦しめたのでした。

このような世が乱れている時、一人の人物が現れたのです。
その人物の名は「張角(ちょうかく)」と言い、最初は世の中を良くしたいと願うために、役人採用試験を受けたのでしたが、このような世の中では試験に通ることができませんでした。
落胆した「張角」は、後に太平道と言う新興宗教を始めたのでした。
そして自らは大賢良師と称し、信者を集めて行ったのでした。
「張角」には不思議な力があり、呪術による治癒行為で病人を次々と治して行ったのです。
社会の混乱と「張角」の不思議な力で太平道は瞬く間に広まり、10年余りで数十万人の信者を集めたのでした。
そして「張角」は、一大勢力となった太平道を使って、後漢を滅ぼし、皇帝になろうと反乱を起こしたのでした。

この反乱に加わった太平道の人たちは、目印として頭に黄巾と呼ばれる頭巾を巻いたことから黄巾の乱と呼ばれています。

曹操の初陣

184年黄巾の乱勃発。
ことを重く見た「霊帝」は「何進(かしん)」を大将軍に任命し洛陽の守備を任せ、そして豫洲潁川方面にいる黄巾族の討伐に向かせたが「皇甫嵩(こうほすう)」と「朱儁(しゅしゅん)」でした。

ところが「皇甫嵩」と「朱儁」は黄巾族の将である「波才(はさい)」に大苦戦。
「朱儁」は「波才」の軍に敗北、「皇甫嵩」は長社の守備にまわるが、「波才」の軍の勢いは強く城は包囲され、士気は下がるいっぽうでした。

そこで「皇甫嵩」は士気を鼓舞するため、夜襲を計画。
敵の陣営に火を放ち、強風にも乗った火は瞬く間に広がり、草原に陣を構えていた「波才」の軍は大混乱に陥ったのでした。
そこを自軍に攻撃させ大いに打ち破ったのでした。

ちょうどその時に援軍としてやってきたのが「曹操」でした。

「皇甫嵩」は、「朱儁」「曹操」の軍と協力して、豫洲潁川方面の黄巾族を討伐し、平定したのでした。

「曹操」は、豫洲潁川方面での活躍により、済南の相に任命されました。
赴任先の済南で、汚職をしている役人をクビにしたり、邪教を禁止することで平穏な街づくりを実現したのでした。

そこでの功績により東郡太守に任命されましたが、固辞し、病気を理由に故郷に帰り、隠遁生活に入ったのでした。

朝廷内での混乱

朝廷内での混乱

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黄巾の乱が平定されると、「霊帝」の周りにまた不穏な空気が流れてきたのです。
「霊帝」のそばで権力を握っていた十常侍と「何皇后」一族の外戚との対立が、再び表面化してきたのでした。

そこで「何皇后」の兄であった「何進」が、妹と「霊帝」と「何皇后」との子である「劉弁(りゅうべん)」を「霊帝」亡き後の皇帝とするため、十常侍ら宦官を粛清するため、各地にいる諸侯に向けて上洛を促したのでした。

「曹操」は、この「何進」の行動に「各地に居る虎を招くようなものである」と反対しましたが聞き入られることはありませんでした。

そのような「何進」の計画を知った十常侍は先手をうち、「何進」を殺害。
怒り狂った「何進」の部下であった「袁紹」らが宮中に居る宦官を皆殺しに朝廷は大混乱に陥ったのでした。

生き延びるために「霊帝」の子である「劉弁」と「劉協(りゅうきょう)」を連れ去っていた宦官の残党でしたが、「何進」の命令で洛陽に向かっていた「董卓(とうたく)」により殺害され、「劉弁」と「劉協」は「董卓」に保護され、都に戻ることができたのでした。

宦官が皆殺しにされたため、宦官の孫であった「曹操」の出世の道が断たれた上、「董卓」という虎が都に入ってきたのであった。

董卓の専横と反董卓連合軍

「董卓」は非常に野心家でいつでも権力を手中に収めようと狙っていた人物でした。
そのような時に来た「何進」からの上洛の命令は渡りに舟だったのです。
すぐさま軍勢を動かし洛陽に向かったのでした。
さらに「董卓」にとって都合が良かったのは、「何進」も宦官も殺され、「劉弁」と「劉協」がわずかな宦官に守られて洛陽から逃げていたことでした。

「劉弁」と「劉協」を保護して洛陽に入った「董卓」は政権を掌握するために軍を増やし始めました。
「何進」の配下を取り込み、「董卓」と同じように洛陽に入った「丁原(ていげん)」の配下を奪うために暗殺しようと計画したのです。
この暗殺計画は一度失敗しましたが「丁原」の養子になっていた「呂布(りょふ)」をたぶらかし、養父である「丁原」を殺させることに成功、「呂布」と「丁原」の軍勢を取り込んだのでした。

洛陽で「董卓」に逆らうことのできる軍勢を持った勢力はなくなりました。
当時即位していた「劉弁」の「少帝(しょうてい)」を廃し、「劉協」を「献帝(けんてい)」として即位させたのでした。

「董卓」の傍若無人ぶりは目を覆うものでした。
「少帝」と「何皇后」を殺害、洛陽の民の財産を奪ったり殺害したり好き放題していたのです。

「董卓」の魔の手から逃げていた「曹操」ですが、このような「董卓」の専横ぶりに堪忍袋の緒が切れ、立ち上がったのでした。
「曹操」の動きと同じように各地の諸侯も立ち上がり、「袁紹」を盟主とした反董卓連合軍を結成したのでした。

董卓軍VS反董卓連合軍・曹操軍

董卓軍VS反董卓連合軍・曹操軍

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反董卓連合軍が結成されたと聞いた「曹操」は父の援助もあり、すぐさま駆けつけたのです。
しかしそこでの雰囲気は「曹操」には全く受け入れがたいものでした。
「袁紹」をはじめとする諸侯はみな自分がおいしいところを持っていきたいので積極的に戦を仕掛けようとしないのです。
消極的な「袁紹」に業を煮やした「曹操」はわずかな手勢を率いて董卓軍に攻撃を仕掛けたのでしたが、「董卓」配下の「徐栄(じょえい)」にコテンパンにやられてしまい、みずからも矢傷を負い、たくさんの配下を失ったのでした。

その後、反董卓連合軍の将である「孫堅(そんけん)」の活躍で「董卓」は洛陽を焼き払い、長安に遷都したのでした。

しかし、この反董卓連合軍は長続きしませんでした。
元々盟主である「袁紹」と弟の「袁術(えんじゅつ)」との仲が悪い上、他の諸侯も自分の勢力拡大のことしか考えていなかったため、反董卓連合軍の中でも戦争が始まってしまって崩壊してしまったのです。

「曹操」は早々に反董卓連合軍に見切りをつけ脱退、そして兗州で勢力を拡大、青州に居る黄巾族の残党を討伐し、降伏した人々を自軍に迎え入れ着々と力をつけて行ったのでした。

曹操の勢力拡大

父の死と復讐

父の死と復讐

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反董卓連合軍崩壊後、「袁紹」と手を結んでいた「曹操」は、「袁術」に攻め込まれたのです。
しかし反対に「袁術」を打ち破り、戦果をあげたのですがそのような時、「曹操」の愛する父である「曹嵩」が「袁術」の味方をしていた「陶謙(とうけん)」の領内で殺害されたのでした。

父を殺された恨みから193年秋、50万もの大軍で「陶謙」の領土である徐州に侵攻、十数城を奪い、数々の戦に勝利、数万人を殺害したのです。
また、通過した地域でもたくさんの人々を殺害し、曹操軍の通過したところは鶏や犬の鳴き声も聞こえず、死体のため川の流れがせき止められたと言われています。

翌194年にも徐州に侵攻。
同じように各地で殺害を繰り返したのでした。

しかしそのような時に「曹操」が驚愕したできごとがおこったのです。

古くからの付き合いでお互いを信用し、本拠地である兗州の守りを任せていた「張邈(ちょうばく)」が「呂布」を兗州に迎え入れ「曹操」に反旗を翻したのでした。
信頼していた「張邈」に裏切られた「曹操」は愕然としましたが、すぐに冷静さを取り戻し、急いで兗州に戻ったのです。
配下の将の活躍で何とか本拠地に戻れた「曹操」ですが、兗州の大半は「呂布」に奪われたのでした。

曹操の飛躍

「呂布」は、「丁原」を裏切って「董卓」についていたのですが、その「董卓」をも裏切って殺害したのです。
「献帝」を保護し、権力を奪うかに思われましたが、都での勢力争いに敗れ、都を追われ流れに流れ、「張邈」の誘いに乗り兗州に来たのでした。
そしてたぐいまれな武力で兗州のほとんどを奪い「曹操」を追い込んだのですが、195年盛り返した「曹操」による攻撃に敗れてしまい、「陶謙」の跡を継いでいた「劉備(りゅうび)」を頼って落ち延びて行ったのでした。

長安では「呂布」を都から追いやった「李傕(りかく)」らが朝廷の実権を握っていましたが、常に内紛を続けており、荒れていました。
そのような都から逃げてきた「献帝」を「曹操」は迎え入れ、保護したのでした。

そして「李傕」や「呂布」などを次々と滅ぼし、徐州などを奪っていき、勢力を拡大して行ったのです。

「曹操」が順調に勢力を拡大している間、盟友であった「袁紹」も同じように北方の「公孫瓉(こうそんさん)」を滅ぼし、河北を統一したのでした。

「袁紹」にとって北方に敵は居なくなり、周りに居る敵は南に隣接している「曹操」のみになったのです。
両者の激突は必至でした。

袁紹軍VS曹操軍

袁紹軍VS曹操軍

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199年「曹操」から徐州を任されていた「劉備」が反乱を起こしました。
「劉備」は使者を「袁紹」に送って「共に「曹操」を討とう。」と呼びかけたのです。
「袁紹」の側近も「曹操」を討つチャンスと進言しましたが、「袁紹」は「息子が病気だから」と言って進軍しませんでした。
「曹操」は命拾いしたのです。

後ろから「袁紹」が襲ってこないことを確信した「曹操」は徐州を攻撃。
敗れた「劉備」は「袁紹」を頼って落ち延びて行ったのでした。

翌200年「袁紹」がようやく「曹操」討伐のため軍を動かしたのです。
この時「袁紹」の側近の中には持久戦を唱える者も居ましたが、「袁紹」は受け入れず「顔良(がんりょう)」を大将にした軍を、白馬に陣取る「曹操」軍を攻撃させたのでした。
しかし「曹操」は数に勝る「顔良」の軍を二手にわける策略をしかけ成功。
「顔良」を討ち取ったのでした。

「顔良」を討ち取られた「袁紹」は続いて「文醜(ぶんしゅう)」と「劉備」を大将とする軍を送り、「曹操」軍を攻撃させたのです。
しかしここでも「曹操」の知略が冴え、「文醜」を討ち取り、「劉備」を敗走させたのでした。

官渡の戦い

「顔良」「文醜」といった名だたる将を討ち取った「曹操」は「袁紹」軍に対抗するため、官渡に新たな防衛線をはったのです。
そこに巨大な「袁紹」軍が襲ったのでした。
「袁紹」は数的有利を活かしてじわじわと「曹操」を追い詰めていったのです。
「曹操」は迫りくる大軍にどうすることもできず、官渡に築いた砦に引きこもり、持久戦を選択したのでした。

一進一退の攻防でさすがの「曹操」も弱音が出たそうです。
本拠地を守っている「荀彧(じゅんいく)」に「兵を引き上げて本拠地で「袁紹」を迎え撃つのはどうか」と相談をしたのでした。
しかし「荀彧」は「耐えていれば仲の悪い「袁紹」の部下の間に亀裂が入ります。
そこまでの我慢です。」と伝え、励ましたのでした。

そして我慢を続けていた「曹操」ですが、「荀彧」が言った通りチャンスが到来したのです。
「袁紹」の側近であった「許攸(きょゆう)」が自身の待遇の悪さから「曹操」側に寝返りたいとやってきたのでした。
もちろんタダで「曹操」側に来たわけではありません。

「許攸」は「曹操」にこう言ったのです。
「烏巣に「袁紹」軍の食糧が保管されている」と。
「曹操」はすぐさま軍を送り、烏巣を襲撃させたのでした。
ここでも「袁紹」は対応を誤り、烏巣は「曹操」の手に落ち、兵糧は全て焼き払われ、そのことを知った「袁紹」軍の将が「曹操」軍への寝返りを始めたのでした。

このような状況では「袁紹」軍は戦争を続けることが不可能になり、撤退を開始したのでした。

部下を上手く使えた「曹操」が、上手く使えなかった「袁紹」を打ち破ったのでした。

赤壁の戦い

赤壁の戦い

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官渡の戦いに敗れた「袁紹」は失意のうちに202年に亡くなったのです。
その後「袁紹」の子が後継者争いを始め、「曹操」はその後継者争いに巧みに入り込み、207年袁氏一族を滅ぼし、領土を全て手中に収めたのでした。

中国の約半分を手中に収めた「曹操」は中華統一に向かって歩み出したのです。
次に目を付けたのが荊州に勢力を張る「劉表(りゅうひょう)」でした。
「劉表」は同族の「劉備」と共に、「曹操」と当たっていたのですが、208年8月に「劉表」が亡くなると、翌月「劉表」の後継者は何と「曹操」に降伏したのです。

無傷の荊州軍を手に入れた「曹操」は、この際「劉備」と江東に勢力を張る「孫権(そんけん)」を滅ぼそうと動き出しました。
赤壁の戦いです。

しかし「曹操」は「劉備」「孫権」連合軍に打ち破られ、命からがら北方に逃げ帰ったのでした。

強大な「曹操」軍が敗れたのは、ほとんど経験のない水軍の戦いであったこと、慣れない南方の風土に合わず疫病が発生したからであった。

この敗戦で荊州のほとんどを奪われ、「曹操」の中華統一への道は足踏み状態になってしまったのです。

曹操の中華統一への道

赤壁の戦いに敗れた「曹操」ですが、圧倒的優位には変わらず、着々と勢力を拡大して行ったのです。

関中に籠る「馬騰(ばとう)」一族、漢中に籠る「張魯(ちょうろ)」らを破り領土を手中におさめ、また「劉備」の力が強くなってきているのを感じると、一度敵対した「孫権」と手を結び、荊州に籠る「劉備」の部下である「関羽(かんう)」を打ち破りました。

後漢朝廷内でも丞相の位に就き、また魏王に封じられたのです。
この時には「献帝」には全く実権がなく、「曹操」はいつでも後漢を滅ぼすことができる状態にあったのに、あえて行わず生涯後漢の丞相として全うしたのでした。

220年「曹操」は病のため亡くなりました。
遺言として「戦時であるため喪に服す期間を短くし、墓に金銀を入れてはならず」と遺しました。

「曹操」の墓は西高穴2号墓であり、長年不明でしたが2009年に「曹操」の墓であると認定されました。

そして「曹操」の跡を継いだ「曹丕(そうひ)」により後漢は滅亡。
「曹丕」が皇帝に就くと、「曹操」は太祖武帝と追号されました。

続いて蜀・呉が建国、そして三国時代の幕開けになったのでした。

曹操孟徳とはどのような人物だったのか

武にも文にも通じた天才

武にも文にも通じた天才

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「曹操」は三国志の著者である「陳寿(ちんじゅ)」をして「非常の人、超世の傑」と評価されており、一つの分野だけでなく、多方面に業績を残した傑物でした。

「曹操」は孫子に注釈をつけ、修正を加えた孫子魏武注と言われた解説書を残しています。
さらにこれらを活かすこともでき、特に得意としたのは孫子が重視した謀略戦と奇襲戦で、官渡の戦いなどに使われました。

また、家柄や品行にとらわれず、才能ある人物を積極的に採用し、かつ進言や献策を的確に見極める能力も優れていました。

政治家としても能力を発揮し、屯田制と呼ばれる農政をおこない、食糧生産量を莫大に増やしたのでした。
この時代、戦乱に明け暮れ、各地で兵糧確保のため略奪が盛んにおこなわれていた時に「曹操」は、流民や黄巾族の帰順兵に土地を与え、耕せたのです。

武だけでなく、「曹操」は多くの文人を配下に置き、自身も優れた詩人となりました。
息子の「曹丕」「曹植(そうしょく)」と合わせて三曹と称され、「曹操」の詩には、民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられ、表現自体は簡潔ではあるが、大望を望んだ文体が特徴の詩が残っています。

「曹操」の人生の大半は戦であり、常に軍隊を率いていましたが、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強に励み、高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのせ音楽の歌詞にしたと言われています。

曹操の弱点?容姿

「曹操」は姿貌短小との記録があり、見た目がみすぼらしく小男であったと言われています。
一説によると身長が155cmほどしかなかったと。

「曹操」の小男振りにはこんなエピソードが残っています。
「呂布」との戦争で「曹操」は「呂布」の軍隊に捕まってしまったのですが、その時に「呂布」の兵は捕まえた「曹操」に対し、「おい「曹操」はどこだ?」と聞いたそうです。
「曹操」はすぐさま「あの黄色の馬に乗っているやつが「曹操」だ。」と言い、逃げ延びることができたと言われています。

また匈奴の使者と会見するに当たり、自分の貧相な容姿では遠国を威圧できないと考えた「曹操」は、容姿が立派な部下を「曹操」と仕立てあげ、自らは部下の立場としてそばに控えたのでした。
そして会見後スパイに「曹操」の印象を匈奴の使者に聞かせたのですが、匈奴の使者は「「曹操」より、その「曹操」のそばに居た人物の方が立派であった」と言ってたのでした。
それを聞いた「曹操」は「まずい」と思い、急いでその匈奴の使者を殺したのです。

「曹操」自身も見た目は気にしていたのですね。

曹操の弱点?女の子大好き

「曹操」には奥さんが13名も居ます。
しかも人の未亡人にも手を出すような人物です。

若い時には「袁紹」と一緒に他人の嫁さんを強奪しています。

他にも降伏させた「張繍(ちょうしゅう)」の叔父の未亡人である「鄒氏(すうし)」に惚れ込み、「張繍」が激怒。
「張繍」が反乱を起こし、息子である「曹昂(そうこう)」甥である「曹安民(そうあんみん)」部下である「典韋(てんい)」を失いながらも、自身は命からがら生き延びました。
しかし「曹昂」を可愛がっていた「丁夫人(ていふじん)」は激怒、実家に帰り、そのまま「曹操」と離縁したのです。

また「袁紹」の子である「袁煕(えんき)」の妻であった「甄氏(しんし)」が美女と知ると、捕えた時に誰にも取られないように警護を付けたのでした。
しかし息子である「曹丕」が警護を突破して「甄氏」に出会うと一目惚れ、すぐに妻としてしまい、取られた「曹操」は恨み節をぶつけたと言われています。

さらに、赤壁の戦いで「孫権」の領内に攻め込んだ時も、国も取るが、絶世の美女姉妹と言われた「大喬(だいきょう)」と「小喬(しょうきょう)」も奪うと言う気持ちもあったようです。

しかし「曹操」はただの女好きではなく、自分が亡くなった後に残された妻たちの心配を非常にしていました。
子のない妃は「曹操」が亡くなった後、宮殿から追い出される可能性があったため、手に職をつけさせて自活できるようにしていたのです。

しかも妻とした人物に連れ子がいても、実の子と分け隔てなく育てました。

能力がある上に、これほど優しいのであれば「曹操」がモテるのもわかる気がしますね。

常に悪役であった曹操

いかがでしたでしょうか。
「曹操」は、日本で主流となっている三国志演義のおかげで長年悪人とされてきました。
三国志演義は漢王朝を正当とみなし、「劉備」を善、「曹操」は悪としてきました。
人徳者である「劉備」と比べたら「俺が天下の人間に背こうとも、天下の人間が俺に背く事は許さない」と言ったとされる「曹操」は冷淡で非情な人物だと思われます。
確かに部下に対する接し方や徐州での大虐殺を考えれば間違っていないところはあります。

しかし彼の功績により、後漢末期の戦乱の時代は終わりを迎えるようになるのです。

悪役のイメージが強い「曹操」ですが、近年は評価が見直されてきています。
ただ単に「劉備」の敵役ではなく、彼の功績から「劉備」の好敵手という評価になればと願います。

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