「忍耐の人」徳川家康が終の棲家に選んだ駿府城の歴史に迫る

駿河(するが)国、現在の静岡県にある駿府城は、現在は駿府城公園として生まれ変わった姿を見せてくれています。駿府城としての城を建設したのは、江戸幕府を開いた徳川家康。「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」の言葉通り、幼少からの人質生活、織田信長や豊臣秀吉への臣従と、天下を取るまでひたすら我慢し続けた彼が愛し、終の棲家とした駿府城の歴史を、その生涯と共に追ってみたいと思います。

駿府城とは

駿府城とは

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静岡県中部と北東部に当たる駿河国、その安倍郡府中(現・静岡県静岡市葵区)に駿府城を建設したのは、徳川家康です。
時は天正13(1585)年、織田信長が殺された本能寺の変から3年後のことでした。

当時は、城らしく天守を備えた姿をしていましたが、現在、天守はありません。
しかし、門や櫓(やぐら)が再建され、一部の堀も残っており、当時の姿をしのぶことができますよ。
今ではこの一帯が駿府城公園として整備され、人々の憩いの場として親しまれています。

このように徳川家康と関係の深い駿府城ですが、彼が支配する前は、今川氏が館をここに建てて本拠地とし、勢力を張っていたんです。

それでは、駿府城の前身とも言える今川館の頃から、歴史を追っていきましょう。

家康以前の駿府

家康以前の駿府

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駿河の地を支配していた今川氏は、14世紀にここにやって来ました。

室町幕府を開いた足利尊氏に従い功績を挙げた今川範国(のりくに)が、幕府から駿河の守護に任命されたんです。

ちなみに、守護とは、室町幕府が各国に設置した役職で、国の軍事と行政権を持っていました。
正直、幕府の力が弱くなれば好き勝手し放題なので、幕府の弱体化と共に戦国大名化していったわけです。
この今川氏っもその例に漏れません。

駿河の守護に任命されると、今川氏は駿府に本拠地を定め、館をつくりました。
この時はいわゆる「城」というような形ではなかったんですね。

そして、今川義元(よしもと)の頃に全盛を迎えると、今川氏は向かう所敵無しの最強戦国大名となっていったのです。

この頃、幼い家康は人質として駿府で日々を過ごしていました。
天文18(1549)年~永禄3(1560)年にかけてのことです。

当時、家康の実家・松平氏は「超」がつくほど弱小だったので、今川氏に守ってもらうために家康を人質に出さざるを得なかったわけなんですね。

そういうわけで、駿府で幼少時代を過ごした家康ですから、おそらく今川館も訪れていたことでしょう。
しかし、ここに将来自分の城を建てることになるとは、想像していたんでしょうか?

いや、狸親父と言われるくらいですから、もしかしたら、少しくらいは腹の底にそんな思いがあったかもしれませんね。

今川から武田へ、そして家康へ

今川から武田へ、そして家康へ

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全盛を誇り、誰も太刀打ちできなかった今川氏ですが、永禄3(1560)年に起きた桶狭間の戦いにより、義元が織田信長に討ち取られてからは、坂道を転げ落ちるかのように力を弱めていきます。

すると、これに付け込んで攻め込んできたのが、隣国・甲斐(山梨県)の武田信玄でした。
そして今川氏は駿府を追われ、この地は武田氏の領地となりました。
この時に今川館は失われてしまったんです。
これが永禄11(1568)年、桶狭間の戦いから10年も経っていませんでした。
そこから天正10(1582)年までが武田氏による支配となります。

しかし、武田氏による支配も長くは続きませんでした。
信玄が亡くなると、武田氏はやはり今川氏のように力を弱めていき、やがて、急速に力を付けた織田信長、そして彼と連合した徳川家康の軍に敗れ、滅亡の一途を辿ることになるのです。

そしてようやく、家康が駿府を手にすることとなったのでした。

ここから駿府城の歴史が始まります。

徳川家康による駿府城築城

徳川家康による駿府城築城

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武田氏を滅ぼした戦いで功績を挙げた家康は、信長から新たな領地を与えられました。
それが、駿河だったんです。
駿河は家康の元々の領地・三河(愛知県)の隣でもありましたから、家康にとっては着実に領地を広げることができたわけですね。

この時、信長にお礼を言うために信長の安土城(滋賀県)に行き、その後に堺(大坂)の街を見物している間に、本能寺の変が起こり、信長が討たれてしまったんですよ。

しかし、何とか本能寺の変の混乱を切り抜けると、家康はついに駿府城の築城に取り掛かります。

彼が、拠点を長年慣れ親しんだ浜松城から駿府城に移して入城したのは、天正14(1586)年、豊臣秀吉の家臣となってからのことでした。
翌年には天守なども完成し、ついに家康がここに腰を落ち着けるかに見えたのですが…できたばかりの駿府城の城主は、早くも後退することとなったのです。

家康の関東移封とその後

家康の関東移封とその後

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豊臣秀吉は天下統一のため、関東一帯に勢力を張っていた北条氏を滅ぼします。
その際はもちろん家康も従っていました。

そして戦後、各武将の戦績に応じて領地を分配する論功行賞(ろんこうこうしょう)が行われたのですが、なんと家康は、関東への国替えを命じられてしまったんです。

駿府城が完成し、ようやくここを本拠地として足場を固めようという矢先、縁もゆかりもない江戸へと行かなければならなくなったのですから、家康の心中は穏やかではなかったでしょうね。

とはいえ、そこは「忍耐の人」家康。
秀吉の命令に従い、駿府城から江戸城へと移ることにしたのでした。

では、その後の駿府城には誰が入ったのかというと、秀吉の重臣だった中村一氏(なかむらかずうじ)という武将です。
自身の腹心の部下を置くということは、つまり、駿府城は重要な地点だったというふうに考えられますよね。
そんなところに、自分に次ぐ力を持つ家康を置いておくなんて、秀吉には有り得ないことだったのでしょう。

そこから家康が駿府城に戻ってくるまでには、まだ少し時間がかかります。

家康、ついに駿府へ戻る

家康、ついに駿府へ戻る

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豊臣政権下では、ナンバー2として雌伏の日々を過ごしていた家康ですが、先に秀吉が亡くなったことで、ようやく彼にも天下人となるチャンスが巡ってきました。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで、家康率いる東軍が、石田三成らの西軍に勝ったことで、家康の天下は決定的なものとなります。

そこで、家康は自分の手に駿府城を取り戻します。
まずは、戦いの翌年に家臣の内藤信成(ないとうのぶなり)を駿府城主に送り込みました。
実はこの人物、家康の異母弟説もある人なんですよ。
つまりは、自分の手に駿府城をほぼ取り戻したことになります。

そして慶長8(1603)年、家康はついに征夷大将軍となり、江戸幕府を開設します。

この時はまだ江戸城にいた家康ですが、将軍となった2年後には、あっさりと将軍職を息子の秀忠(ひでただ)に譲ってしまいます。
そして自分は大御所(おおごしょ)と名乗り、隠居の身とはいいますが、影の将軍として権力を振るうようになったんですよ。

そんな彼が、隠居の場所として、終の棲家として選んだのが、駿府城でした。

ついに家康は駿府城へ戻ってきたのです。

慶長12(1607)年のことでした。
家康が江戸へ去ってから17年の歳月が流れていました。

家康再来の駿府城

家康再来の駿府城

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家康が戻ってきた駿府城には、正式な城主がいました。

それが家康の十男・頼宣(よりのぶ)であり、彼を藩主とする駿府藩の城が、駿府城だったんです。
しかし頼宣はまだ5歳と幼かったため、事実上家康が城主でもありました。

家康は、ここで駿府城の修築と拡張に取り掛かります。

慶長10(1605)年、家康が大御所となった直後から、彼は諸大名による天下普請(てんかぶしん)を命じていました。

天下普請というのは、江戸幕府が大名たちに命じて行わせた土木工事のことを言います。
主に城や道路、河川工事などが行われました。
江戸城や名古屋城も、天下普請によって築城されています。

実は、この時点では、一大名になってしまったとはいえまだ豊臣家は健在でした。
秀吉の子・秀頼に、諸大名はいちおう忠誠を誓うような形も取っていたわけですが、将軍となり強大な力を手にした家康の命令に従わないわけにはいかなかったんですね。

駿府城の天下普請には、60家以上の大名が参加しました。

この工事によって、駿府城には三重の堀がつくられ、天守は城郭史上最大のものができ上がったんです。
家康の力を見せつけたんですね。

そして、慶長12(1607)年の7月に、家康は意気揚々と駿府城に入りました。

完成から5ヶ月で焼失!?

完成から5ヶ月で焼失!?

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ところが、家康の入城からわずか5ヶ月ちょっとしか経たない12月22日のことでした。

城内からの失火により、駿府城の主な建物は焼失してしまったんです。
なんてことでしょうか。
完成してすぐに燃えてしまったので、どんな形の城だったのかさえ、具体的には分かっていないほどなんですよ。

しかし、家康は全然めげませんでした。
それどころか、翌年の正月にはすぐに再建工事に取り掛かったんです。
しかも、その年のうちに基本部分となる本丸を完成させたのでした。
車や重機のない当時のことを思えば、とんでもない速さで再建したことがわかると思います。

そして、慶長15(1610)年には天守も再完成し、新たな駿府城が生まれたのです。

家康は、この新生駿府城に亡くなるまで住み続けました。
彼が亡くなったのは、元和2(1616)年。
豊臣家を大坂の陣で滅ぼし、徳川氏の天下を揺るぎないものとしてからのことでした。

家康の存命中は、駿府城は江戸城に並ぶほどの存在だったということになりますね。

さて、それでは、家康亡き後の駿府城はどうなったのでしょうか。

家康没後の駿府城

家康没後の駿府城

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家康が亡くなると、元々の城主だった十男・頼宣は元和5(1619)年には和歌山城主となり、駿府城を去ります。

その後には、3代将軍・家光の弟である忠長(ただなが)が城主となりましたが、彼はやがて乱心し改易され、翌年には自害してしまいました。

これ以降、駿府城は江戸幕府直轄の領地「天領(てんりょう)」となり、城主は置かれず、城代と定番(副城代)が置かれるのみとなりました。
城代や定番には、旗本のエリートが選ばれました。
かつては大御所様の城だったところのトップとなるわけですから、エリートコースですよね。

このシステムは幕末まで続きます。

しかし、徳川忠長が城主の地位を追われ自刃した寛永8(1631)年からたった4年後、またも駿府城は火災に見舞われてしまいました。
城下から延焼したこの時の火災の規模は大きく、城のほとんどが焼失してしまったんです。

もう家康はいませんし、城主はおらず城代と定番が常駐するのみとなった駿府城でしたから、天守はもう再建されることはありませんでした。
御殿や櫓、門などは後に再建されています。

明治以降の駿府城~廃城

明治以降の駿府城~廃城

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ずっと城代と定番が置かれていた駿府城に、最後の城主がやってきたのは、幕府が倒れた直後の幕末・明治時代の初期でした。

最後の将軍・徳川慶喜の養子となって徳川宗家を継ぐこととなった家達(いえさと)は、幼いながらも駿府藩主として駿府城に入城します。

しかし、すぐに廃藩置県によって駿府藩も廃止され、家達はお役御免となり東京へ帰されます。
この時、駿府という地名が静岡と改名されました。

家康の在りし日の栄光をわずかながらもしのばせる駿府城は、陸軍省によって「保存が必要な城郭」と指定されましたが、誰も顧みる者はなく、放置されて荒れ果てて行くこととなってしまったのです。

そして、明治22(1889)年には静岡市が静岡県と陸軍省に駿府城の払い下げを願い出、これが受理されて、駿府城一帯は公園となりました。

しかし明治時代の富国強兵政策が推し進められていく中、駿府城は再び陸軍省に献上され、歩兵第34連隊の拠点となります。
この時に堀は埋め立てられ、城郭もすべて取り壊されてしまいました。

駿府城がようやく平穏を取り戻したのは、戦後になってからです。

昭和24(1949)年に再度静岡市に払い下げられてからは、駿府城公園として市民に親しまれる公園となりました。
近年になり櫓や門が復元され、天守はなくとも、天下人の城として広く知られる存在となっています。

駿府城の構造

駿府城の構造

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ここからは、駿府城の具体的な構造などについて見ていきたいと思います。

駿府城は本丸・二ノ丸・三ノ丸に分かれており、本丸には家康ら城主が住んだ御殿や天守、二ノ丸と三の丸には身内や重臣の屋敷がありました。
その敷地は広く、二ノ丸と三ノ丸は現在の静岡県庁の辺りにまで及んでいます。
ちなみに、鷹を腕に載せた家康像があるのは本丸跡です。

家康がせっかく建てた駿府城ですが、火災のため焼け落ちてしまいました。

しかし、駿府城のあちこちと似た部分があると言われる城があります。
それが京都の二条城なんですよ。

というのも、二条城と駿府城を建設した大工の棟梁は同じ人物だったからなんです。
中井正清(なかいまさきよ)という大工で、他にも日光東照宮など徳川ゆかりの建築物を手がけていました。

失われた駿府城天守

現在、駿府城には天守はありません。
復元については議論が重ねられているところです。

駿府城には、過去3回、天守が建設されました。

最初につくられたのは天正期天守と呼ばれるもので、天正17(1589)、家康が秀吉の臣下となったころに完成したものです。

次が、慶長1期天守というもので、慶長12(1607)年に家康が駿府城に隠居すると決めてつくられました。
しかし、前述のようにこの天守は完成して半年もしないうちに火事で焼けてしまいます。

このため、最初の2つの天守については資料が少なく、詳細がよく分からないのが現状なんですよ。

そして、最後の天守となるのが慶長2期天守で、慶長1期天守が焼けてからすぐ再建に取り掛かり、慶長15(1610)年に完成しました。
ちょうどこの年、大坂夏の陣で家康は豊臣家を滅亡させています。

天守についてわかっている事実というと、階層不一致(かいそうふいっち)であるということです。
つまり、見た目と実際の構造が違うということなんですよ。

駿府城の天守は、屋根は5層に見えますが、実際の内部は7階だったと言われています。
別名を「汐見櫓(しおみやぐら)」といい、最上階から富士山と駿河湾の絶景を望むことができました。

金の鯱の目が光る!?

駿府城天守は、国内では最初に金属の瓦を使ったと言われています。
金銀もふんだんに使用され、てっぺんには金の鯱が輝いていたそうですよ。
その金の鯱については、こんな逸話があります。

毎日毎晩、太陽と月に照らされて金の鯱が輝きを放ち、それを怖がった駿河湾の魚みんな逃げてしまい、漁師がとても困った思いをしたということです。

さすがに鯱の輝きが海まで届いたとは信じられませんが、その輝きが相当なものだったということはわかりますよね。
当時の金山奉行が、天守建設に当たり黄金30万枚を献上したと言われているくらいですし。

復元された建造物

駿府城は明治時代に廃城となってしまいましたが、近年になり一部が復元されました。

平成8(1996)年に復元された東御門は、駿府城では主要な出入口でした。
寛永12(1635)年に焼失すると3年後に再建されましたが、明治時代に取り壊されていました。
今では資料館となっています。

また、平成元(1989)年に復元されたのが、二ノ丸の東南にある巽櫓(たつみやぐら)です。
城の櫓の中ではいちばん高かったもので、こちらも今は資料館となっていますよ。

もうひとつ、平成26(2014)年に復元された櫓が、二ノ丸南西の坤櫓(ひつじさるやぐら)です。
安政元(1854)年の地震で壊れて以来そのままとなっていました。
かつては武器庫としても使われ、物見(見張り)櫓としても攻撃拠点としても想定されていたんですよ。

ところで、「たつみ」や「ひつじさる」とは何のことかと言うと、これは方角のことを指しています。
方角を十二支で示すと、巽櫓が「辰」と「巳」の方角にあるため「辰巳=巽」櫓となり、坤櫓は「羊」と「申」の方角にあるので「羊申=坤」となるわけですね。

ちょっと見てほしい!石垣の刻印

駿府城の遺構などを見ていると、石材に何か刻印があることに気付くかもしれません。

これは、その部分の工事を担当した大名の家紋だったり、職人のサインだったりするんですよ。
こうして自分の担当場所を示していたんですね。
石材の原産地が記されていることもあるそうです。

天下普請には多くの大名が参加しましたが、決して大名に取って気乗りするものではなかったようですよ。

例えば、名古屋城を建設する時、ある大名が「なんで徳川の息子のために城を建てねばならんのだ」とぼやいたほどですから…。

しかし、ここで良い働きを見せれば幕府からの評価がアップすることは間違いないわけで、大名もせっせと工事に励んだというわけです。

駿府城のもう一つの特徴:水路

駿府城には、今は存在しませんが、天守の真下から清水港まで通じていたという水路があったそうです。
清水港は城から14㎞ほどの場所にあり、駿府の外港、徳川の軍港として重要な港でした。

水路が重要視されていたことは、船が出入りする場所などが遺構として残っていることからもわかります。
また、張り巡らされた水路は、敵が一気に攻めてこられないようにと複雑な構造になっていたそうですよ。

駿府城は戦場になりませんでしたが、落とすのもなかなか難しい城だったようですね。

とにかく耐えて待ち続けた人・徳川家康

とにかく耐えて待ち続けた人・徳川家康

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駿府城を築城した人物で、江戸幕府を開き初代将軍となった徳川家康の生涯を一言で表すならば、「忍耐」。
これがもっともふさわしい言葉でしょう。

なぜ、彼が耐え忍ぶ日々を長いこと過ごさなければならなかったのか、彼の生涯を紹介していくうちにご理解いただけるかと思います。
その中で、駿府城が彼の人生にどれほどの重みがあったのか、伝わるのではないでしょうか。

元々は松平氏の子息

家康は、天文11(1543)年、三河国(愛知県東部)の岡崎城で生まれ、幼名を竹千代と名付けられました。
父は松平広忠(まつだいらひろただ)、母は於大(おだい)の方です。
ちょうどこの頃は、日本に鉄砲が伝来し、戦国時代が一大転換点を迎えた時期に当たります。

松平氏は三河を支配してはいたものの、弱小勢力に過ぎませんでした。
そのため、隣の駿河・遠江を支配する今川氏の庇護を受けていたんですね。

ところが、竹千代の母・於大の方の実家である水野氏が、今川氏と敵対する織田氏(この頃の当主は信長の父・信秀)と同盟してしまったんです。

そのため、竹千代の両親は離婚し、母は実家に帰されてしまったんですよ。
この時、竹千代はまだ3歳。
母親にべったりしたい年頃ですから、その淋しさははかりしれません。
そして、彼が母と再会するのは、彼が19歳になってからのことなんです。

織田と今川の間で

6歳になった竹千代は、今川義元への人質として駿府へ送られることとなりました。

しかし、その道中、お供が裏切ったために、なんと今川の敵である織田信秀の元に連れて行かれてしまったんです。
織田側とすれば、これで竹千代の父・広忠が従うのではと踏んでいたようですが、広忠はあくまで今川に従い続けたため、竹千代はなんだかんだで2年も織田側の屋敷で過ごすこととなりました。
よく殺されなかったなあと思います。

この時、信長と出会ったという話もありますが、史料がないためはっきりとはしていません。
けれど、顔見知りになっていたという筋書きの方が、なんとなく嬉しい展開ではあります。

父の暗殺と駿府での生活

そんな中、天文18(1549)年、父・広忠が家臣の裏切りによって暗殺されてしまいました。
そこで、今川義元は、生け捕りにしておいた織田信秀の子・信広と竹千代の交換を持ち掛け、ようやくここで竹千代は駿府へやって来ることとなったのです。
とはいえ、人質生活には変わりありません。

そして、主をなくした松平氏の岡崎城には今川の家臣が入ることとなりました。
本来なら竹千代が入るべき城なのですが、墓参りに帰っても本丸にすら入れてもらえなかったそうです。
それほど、竹千代の存在はたいして重く見られていなかったんですね。

竹千代は駿府で成長しますが、冷遇ばかりされていたわけではありませんでした。

今川の軍師・太源雪斎(たいげんせっさい)にも教えを受けていたと言いますし、将来的には今川の幹部候補とも考えられていたのかもしれません。
人質とはいえ、幼い頃から教育すれば裏切ることもないだろうとみなされたんです。

とはいっても、人質であることに変わりはありませんから、肩身の狭い思いをしたこともたびたびだったはず。
そんな時の竹千代の支えは、生き別れた母・於大の方からの手紙や贈り物でした。
母の愛は強く深いものですね。

最大の転機!桶狭間の戦いとその後

天文24(1555)年、竹千代は人質生活の中で元服し、今川義元の「元」の字をもらって、松平元信(もとのぶ)と名乗るようになりました。
後に元康(もとやす)と改名しています。

この時に、義元の姪である瀬名(せな)を正室に迎えました。
瀬名は、築山殿(つきやまどの)という呼称でも知られていますね。

ところが、彼にとって最大の転機となる事件が起こります。

永禄3(1560)年の桶狭間の戦いです。

ここで、義元が織田信長にまさかの敗北を喫し、戦死してしまいました。

この時の元康は、運良く桶狭間にはおらず、他の城へ兵糧を運び込んでいたところでした。
しかし、義元討死の報を聞くと、今川方である自分の運命も終わりだと悲観して自害しようとしたんです。
寺の住職に諭されて思い止まりましたが、ここで死ななくて本当に良かった、と後に思ったでしょうね。

思い直した元康は、駿府へ戻らず、今川方が撤退したかつての故郷・岡崎城へ首尾よく入城を果たします。
この時点で今川から離れ、織田へと接近していくわけです。

そして永禄6(1563)、「元」の字を返上して、新たに家康と名乗りました。

「徳川」の誕生

その後、三河を統一した家康は、永禄9(1566)年に朝廷から官位を賜ったのを機会に、姓を松平から徳川に改めました。
ここでようやく、徳川家康が誕生です。

なぜ徳川なのかというと諸説ありますが、簡単にまとめると、家康の先祖が清和源氏系の「得川」氏であるため、字をより良い「徳」の字に変えて徳川と名乗ったとも言われています。

駿府城築城と秀吉への臣従

今川義元が戦死して今川が弱体化すると、隣国の武田信玄が駿府へ侵攻し、これに呼応して家康も今川領へ侵攻して遠江を領土に加えました。

その後、武田信玄とは元亀3(1572)年に三方原(みかたがはら)の戦いで対戦し、大敗しますが、信玄の死によってその脅威からは解放されます。
そして信長と連合して武田氏を滅ぼすと、戦功によって信長から駿河国を与えられ、駿府城を造営することとなりました。

しかし、天正10(1582)年、本能寺の変が起き、信長は明智光秀に暗殺されてしまいます。

この直前、家康は駿河を得たお礼に信長のもとを訪れていました。
その帰りに、大坂の堺の街を見物していたところで、この一報に接したのです。
供はわずか30人、明智勢にやられたらひとたまりもなく、家康はまたも悲観して自害しようとします。
実は三方原の戦いで武田信玄に負けたときも自害しようとしている家康、けっこうすぐに「死ぬ」と言い出す人なんです。

それを部下の説得で思い止まると、山深い伊賀(三重県西部)を必死の思いで越えて三河へと戻ることに成功しました。

この間に明智を羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が討ち、権力を握ったわけです。

逃げ戻った三河で、周辺諸国へ勢力を拡大していた家康ですが、やがて秀吉にも臣従することとなりました。
彼の忍耐はまだまだ続くのです。

豊臣政権で耐える

天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いで秀吉と対戦後、家康は彼に臣従します。

この頃、本拠地を浜松城から駿府城へ移すのですが、これは、家臣のひとりが秀吉のもとへ出奔したため、機密情報を漏らされるのを恐れたためとも言われています。
しかし、駿府での生活も長くは続かず、秀吉に関東への国替えを命じられてしまったことは、城の歴史の部分でご紹介したと思います。

豊臣を倒し、天下人へ

秀吉が死ぬと、家康はようやく動き始めました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで勝利すると、彼は征夷大将軍に任命され幕府を開き、60歳にして天下を取ったのです。

その後、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼすと、室町末期から始まった戦国時代に終止符を打ったのでした。

家康はすぐに将軍職を息子に譲りますが、隠居先の駿府城で大御所として政務に君臨し続けます。
そして、元和2(1616)年、鷹狩りに出かけた先で倒れ、74歳で亡くなったのでした。

家康と共に歩んだ駿府城

駿府城は家康の人生にとって、江戸城よりも大きな存在だったのではないでしょうか。
だからこそ、焼失してもすぐに再建に取り掛かったのだと思います。

今川・織田・豊臣に従い、忍耐の日々を60年近く送ってきた家康は、その苦労の日々を駿府城でしみじみと振り返ることもあったのでは、と考えられますよね。
終の棲家として選んだのも、彼の人生を振り返ってみればわかるような気がします。

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