【香港の歴史】4億年前から21世紀まで~できる限り調べてみました!

香港の歴史というと、1842年のイギリスによる香港島領有からの出来事を思い描く人が多いと思います。逆に、それ以前、香港がどういった土地だったのか、すぐ思い浮かべることができる人は少ないかもしれません。イギリス統治以前の香港とは、どんな様子だったのでしょう。残されている資料は少ないのですが、ずっと遡って古い時代から少しずつ、香港の歴史を辿ってみたいと思います。

香港の歴史(1)先史時代から南越の誕生まで

香港とはどんなところ?

香港とはどんなところ?

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まず、現在の香港の基本的な情報をまとめておきたいと思います。

香港は中国大陸の南東海岸にあり、南シナ海に面した亜熱帯気候。
北京からは2,000㎞近く離れています。
地形としては、1,000mを超える山はありませんが意外に高台が多く、平地は海岸沿いに集中。
入り組んだ地形に加え、水深が深く波が穏やかなところから古来より”天然の良港”とも言われてきました。
「100万ドルの夜景」という言葉が物語る通り、香港というと建物が集中した大都市をイメージする人が多いですが、実は自然も豊かな場所なのです。

香港の正式名称は「中華人民共和国香港特別行政区」。
位置的には広東省の海沿いの中央付近に位置しますが、省には属していません。
1842年から1997年までの150年あまりの間、イギリスの植民地としての歴史を歩んできたことから、中国の制度に統一するには時間が必要であると考えられていて、中国返還後もこのような特別な名前を持っているのです。

半島と島々を含めた総面積は1,104平方キロメートル(沖縄本島より少し小さくくらい)で、ここに、およそ700万人の人々が生活しており、世界でも指折りの”人口密度の高い地域”として知られています。
その9割以上が華人(移住先の国籍を取得している中国系住民)。
公用語は広東語と英語です。

香港=香港島と思ってしまいがちなんですが、現在”香港”と呼ばれる地域は大きく3つに分けられています。
「香港島」と、香港島の対岸に当たる「九龍半島」、そして九龍半島の北側の地域と233個の島々を含めた「新界」。
新界は香港の総面積の約9割を締めていますが人口は半分以下。
ほとんどが山林や農村でしたが、香港中心街のベッドタウンとして近年開発が進み、目覚しい発展を遂げています。

香港の歴史というと、イギリス植民地時代をイメージすることが多いですが、もちろんそれ以前にもこのあたりには人が住んでいました。
可能な限り古い時代にさかのぼってみましょう。

先史時代の香港

近年、香港では火山活動や地殻変動に関する研究も精力的に行われていて、香港歴史博物館には「四億年前」というコーナーがあり、かなりスペースをとって化石の標本などが飾られています。
1980年代にデボン紀(およそ4億年前)の魚の化石が見つかり、その後も様々な年代の地質や化石が発見されるなど、地質学の分野でも非常に注目を集めているようです。
しかし、それはいくら何でもさかのぼり過ぎかと思いますので、地殻変動が落ち着いて、人類が登場するようになるまでもう少し、時計の針を進めてまいります。

先史時代とは、いわゆる「石器時代」とか「青銅器時代」といった、文字などによる記録や情報がなく、道具や建物跡によって時代の検証が行われる時代。
あまり知られていませんが、香港周辺にも先史時代から人の暮らしがあり、遺跡もいくつか発見されているのです。

2006年、香港西貢市(新界の西南)の黄地ドウ(山片に同という字)という場所で、4万年前のものと思われる石器が発見されました。
旧石器時代のものです。

この発見より前から、1万年前くらいまでは香港島は半島と陸続きであり、海岸沿いには多くの人間が暮らしていたことはわかっていました。
しかしこの発見で、さらに古い時代からこの地で人が生活していた可能性が高くなり、今後の発掘調査にも注目が集まっています。

現在の香港島のような地形になったのは6000年ほど前のこと。
この頃には既に、海岸沿いに多くの人々が暮らしていたと考えられており、この時代の骨をはじめ、紀元前3000年頃のものと思われる石器は香港島でも発見されています。

中国大陸の先史時代の文明・遺跡というと、長江や黄河といった大河沿いのものが有名で、歴史上、多くの王朝が大陸の北側に都を構えていました。
これはおそらく、北方の異民族を警戒・権勢するため、どうしても南より北側へ意識が向いていたためではないかと思われます。

そのためか、香港及び周辺の遺跡や遺構の発掘・研究はこれから、といったところかもしれません。
しかし、穏やかで豊かな海に恵まれたこの地域に、古くから多くの生物と人々の営みがあったことは間違いないようです。

中国王朝の時代と南越国の設立

中国王朝の時代と南越国の設立

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時代はさらに進み、紀元前2000年~前1000年あたりになると、中国大陸には夏、殷といった王朝が誕生します。
しかし、どちらの統治も、中国全土から見ればごく一部分に過ぎず、場所もかなり北のほう。
黄河流域が中心であったようで、香港のあたりまで勢力を伸ばしてはいなかったようです。

その後、多くの国が乱立する春秋・戦国時代が訪れます。
中国大陸にたくさんの国ができて互いに争い合いますが、それらの国々の領地は黄河や長江といった大河の流域の土地が中心でした。

紀元前221年、戦乱の雄となったのは秦という、大陸の西側を拠点としていた国。
万里の長城を築いたとして知られる始皇帝が打ち立てた大国です。

秦は周辺の国々を統一した後、東西南北かなり広範囲に渡って領土を広げていきます。
南側も、香港やマカオのあるあたりに南海郡と呼ばれる郡治が置かれ、秦の支配下に入りました。

この頃、香港周辺には越(えつ)族と呼ばれる民族が生活していたのですが、秦の始皇帝によって武力で制圧され、併合されていきます。
越族は百越とも呼ばれ、古代中国大陸の南部(長江南側からベトナム北部のあたりまで)の広大な土地に住んでいたとされる民族の総称。
始皇帝のこの制圧が中国王朝初の南方支配と言われています。

始皇帝の死後、秦の末期に入ると王朝の暴政に反発する人々による反乱が勃発。
中国全土が大混乱となります。
そんな中、南海郡は他の南部の郡治と統合。
混乱に乗じて「南越国」という王国を打ち立てます。
現在の香港やマカオのあたりから、海沿いにベトナム北部まで細く長く延びた国で、南越は漢の武帝に武力で征服されるまで、およそ100年ほど続きました。
南越国滅亡後は、ベトナム北部までの土地も含め、香港周辺地域は全て、漢王朝の支配下に入ることとなったのです。

香港周辺の地域はその後も、大陸の中原を支配する王朝の支配を受け続けました。

「香港」という名前の由来は?

ところで、秦や漢の時代にはまだ「香港」という地名は使われていなかったようです。
「香港」の文字が歴史の史料に登場するのは、もっと後のこと。
最も古い記述として知られているのが清王朝の康熙帝の時代。
1688年に編纂された『新安県志』に”香港村”という地名が登場します。
これより前からこのあたりの地域を”香港”と呼んでいたのかもしれませんが、残念ながらはっきりとした記述はまだ見つかっていないようです。

ところで、「香港」の名前の由来については、いくつかの説があります。
現在、最も有力なのが「香木説」。
香木とは沈香や白檀など香りを持つ木材のこと。
運び出された香木の積み下ろしが行われた港があったことから、いつしか島全体を”香港”と呼ぶようになった……という説です。

他にも”香”という字になぞらえた説がいくつかあるようですが、現在では、この「香木説」が最も有力と言われています。
しかし、どの説が正しいのか、今でも結論は出ていないのです。
もしかしたら、永遠に明らかになることなど、ないのかもしれません。

ただ、香港という名前は、統一王朝によってつけられた郡などの名称ではなく、地元民による呼称がそのまま残ったもの、ということで間違いないようです。

このように、香港島付近の港は、基本的には漁村であり漁港でしたが、香木の集積も行っていました。
荷を上げるのに適した場所だったからでしょうか。
おそらく、多くの船が行き来していたのでしょう。

世界中の誰もが知る有名都市・香港が、その名前の由来も始まりも定かではない、とは、少し意外でした。
常に前を向き先を見据え、古い時代の歴史は振り返らない。
今現在、人々に知れ渡った呼び名があるなら、大昔にどう呼んでいたかなど興味はない。
それが香港の人々の気質なのかもしれません。

香港の歴史(2)唐・宋王朝から明・清へ

唐王朝から宋・元へ

唐王朝から宋・元へ

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7世紀初めに打ち立てられた唐王朝の時代になると、漢王朝時代に設けられた貿易関連の役所がある広州という都市が貿易都市として栄えていきます。
広州は香港島の脇に流れ出てくる珠江(しゅこう)という川が作るデルタ地形の北端に位置する都市で、東南アジアやインド、ペルシャ、中東などの国々の外国商船が行き来していました。
珠江の河口に位置する香港には軍隊の駐屯地が設置され、現在の新界屯門山一帯が軍の管轄下に置かれたのだそうです。

12世紀に入ると、中原は金という征服王朝に支配され、それまで栄華を極めていた宋王朝は都を追われてしまいます。
宋の残党は南へ逃れ、現在の杭州市にあたる臨安というところに都を置いて南宋王朝を開き、主に淮河(わいが・黄河と長江の間を流れる大河)より南の地を治めていました。
金に武力では押され、巨額の金品を納めながらではありましたが、以後100年ほどの間、中国大陸は金と南宋が南北二分するような恰好となります。
この間、南宋独自の文化が華開き、平清盛によって積極性を増した日本との貿易も盛んになっていきました。

13世紀に入ると、中原はモンゴル帝国によって制圧され、元王朝の時代に突入します。
元は北や西方面だけでなく南へも侵攻。
南宋を脅かします。
臨安を追われた帝はさらに南へ。
現在のランタオ島や九龍半島のあたりまで逃げてきたのだそうです。

宋王朝8代皇帝の端宗(たんそう)と弟の衛王(えいおう)はまだ10歳にも満たない幼帝でした。
元軍に追われ、重臣たちに連れられて九龍半島の山中に落ち延びたといいます。
その後、端宗は病でこの世を去り、衛王は重臣たちと共に自ら命を絶ちました。

帝兄弟が逃げ込んだ場所は啓徳空港にほど近い小高い山の上で、湾を見渡すことができる場所。
後の世の人々は歴史に翻弄された幼い帝のことを思い、いつしかその場所を「宋王台(そうおうだい)」と呼ぶようになりました。
今では幼帝をしのぶ場所として、大きな石碑が建てられています。

明王朝時代の香港

14世紀中頃に入り、元が滅ぶと、中原には再び、漢民族による明王朝が打ち立てられます。
その頃には既に、香港周辺では海沿いの土地を活かして塩田が設けられたり、真珠の採取なども行われるようになっていました。

明王朝は日本や朝鮮半島、南海諸国との交易ルートを強化し、貿易に力を入れていきます。
そのせいか、香港にも「南頭寨(なんとうさい)」という直下の水軍基地を設け、海ににらみを利かせていました。
当時は倭寇(わこう)と呼ばれる海賊が海を荒らしまわっており、交易船が襲われるなどの被害も起きていたため、こうした動きにも警戒を強めていたのではないかと思われます。

そんな中、ひとつの事件が起きます。
16世紀の初めごろ、見慣れない船が現れて香港を占拠したのです。
相手はポルトガル船。
バスコ・ダ・ガマのインド発見以来、アフリカやインドの港という港を武力を持って制圧し、大航海時代を謳歌していた海の王者です。
明王朝はこれに対抗。
このときはポルトガルを追い払うことに成功しています。
後にポルトガルは香港ではなく、現在のマカオに居留を認められ、広州での交易を開始。
ただ、明王朝の時代はまだ、交易は朝廷のみが行うものであり、一般には禁じられていました。
古来より海の恵みを受けて暮らしてきた地元民たちにとって、目の前を行き来する船とやり取りができないとは酷な話。
実際には役人の目を盗んで密貿易を行う者が後を絶たなかったようです。

16世紀後半に入ると香港周辺には新安県という県が置かれ、香港にも大勢の官兵役人が配備されました。
当時新安県にはおよそ34,000人の人口があったとの記録が残っています。
しかしあくまで交易の中心は広州であり、香港は水軍の施設として機能していました。
おそらくこの頃には、”香港”という地名も定着しつつあったのではないかと思われます。

清王朝と東インド会社

清王朝と東インド会社

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17世紀、明王朝が倒れ、満州族による清王朝が誕生します。
清王朝が交易に関する縛りを緩め、広州を開放したため、海外との交易はより盛んになっていきました。

18世紀に入るとイギリスの東インド会社の船が入ってくるようになり、広州にイギリス商館が建てられます。
ヨーロッパの国々が香辛料や茶葉など珍しい品々を求めて、争うように東へ東へと航路を開拓していた時代です。
東インド会社はイギリスやオランダなど、財力・国力・航海技術を持ち合わせた国がヨーロッパ以外の国々と交易を行うために国から特別な権利を与えられた特許会社。
単なる貿易会社ではなく、巨額の資金と、大砲など武器武力を持ち合わせ、文字通り世界を席巻していたのです。

当時、ヨーロッパの富裕層で香辛料や茶の需要が高まっていたので、オランダ、イギリス、フランス各国の東インド会社はこぞって海へ繰り出していました。
特にオランダとイギリスの争いは激しく、互いに領地と利益をめぐって対峙。
イギリス東インド会社が広州での茶の輸入ルートを確立したことでイギリスで茶が爆発的ブームとなり、やがて中国茶がイギリス東インド会社の主力商品となっていきます。
さらに、茶器などの陶磁器の需要も高まっていきました。
また、ジャワ島などで栽培した砂糖も大量に輸入。
いつの頃からかイギリス人は緑茶ではなく紅茶を楽しむように。
砂糖が広く出回ったことで茶ブームに拍車がかかり、ますます需要が高まっていきます。
茶は一時期、イギリス東インド会社の貿易額の実に8割を締めていたのだそうです。

しかし一方で、イギリスからの輸出品は、中国ではあまり売れませんでした。
イギリスは茶を輸入する代わりに、自国の商品ではなく対価として銀を支払います。
イギリスで茶の需要が高まると、中国に流れる銀も増え、両国の輸出入のバランスが崩れて貿易不均衡状態に陥ってしまいました。
それでも茶を仕入れたいイギリスは、このアンバランスを是正するため、一計を案じます。
アヘンの輸出です。

香港の歴史(3)イギリス植民地時代と第二次世界大戦

アヘン戦争と香港

アヘン戦争と香港

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18世紀前半頃、イギリスはインドで栽培されたアヘンの輸出販売を開始します。
当時アヘンは薬として扱われていたのですが、一方で常習性があるなど問題点を指摘する声もありました。

そんな中、イギリスはアヘンの輸出を行い、貿易不均衡状態からの脱却に成功。
中国国内ではアヘンの輸入量が茶の輸出量を上回ってしまい、今までイギリスから入ってきていた銀まで流れ出ていってしまいます。
さらにアヘンが国内に蔓延し、清王朝の力は弱まる一方。
危機的状況に陥ります。
そこで清王朝は1839年、アヘンの規制に乗り出しました。
輸入を禁止し、密貿易の取締りを強化。
アヘンを持ち込む船を厳しく取り締まります。
イギリスはこれに抵抗して中国との間で何度も小競り合いが続き、ついに武力行使に。
アヘン戦争が始まってしまうのです。

イギリス海軍の圧倒的な強さの前に新王朝は敗北。
1842年、南京条約によってイギリスは、広州以外にも上海や福州など5つの港を開港させ、自由貿易を認めさせます。
さらに同条約では多額の賠償金の支払と、香港島の譲渡が言い渡されるのです。
締結したはずの両国の争いですが、その後もいざこざは続きます。
ここに別件で清ともめていたフランスも加わって、清vsイギリス・フランス軍という戦争(アロー戦争)が始まってしまいますが、ここでも清は敗北。
厳しい状況に追いやられてしまいます。

アロー戦争は北京条約によって最終締結となりますが、この条約には、巨額の賠償金の支払に加えて天津という港の開港と、九龍半島の南側の一部のイギリスへ譲渡が記されていました。
清王朝はすっかり力を失ってしまいます。

しかし同じ頃、イギリスはインドでの茶葉の生産に乗り出していました。
イギリスの茶ブームは続きますが、20世紀に入る頃には、インドからの茶の輸入量が中国のそれを上回るようになったと言われています。

清王朝の敗北は、西洋諸国の軍事力の大きさを世に知らしめる結果となりました。
異国船に対して強い姿勢をとっていた日本にも大きな衝撃が走ります。
「西洋は脅威である」香港を通じて伝わったこのような情報が、日本の開国を促し、近代化のきっかけをもたらすことになるのです。

イギリス植民地時代の幕開け

地質学的には四億年もの歴史があり、豊かな海と穏やかな気候から古来より多くの人々が暮らし続けてきた香港。
しかし、貿易の拠点はあくまで広州にあり、これまで、香港が政治の表舞台に立つことはありませんでした。
それがイギリスに割譲されたことで一変。
小さな寒村は一躍世界の注目を集める存在となったのです。
初めは人口7,000人でしたが、清国内の混乱から逃れるように多くの人が香港のなだれ込み、1865年には12万人以上にも膨れ上がったのだそうです(うち2,000人がイギリス人)。

中国の中のイギリスとなった香港には、イギリスの植民地統治機関が置かれ、貿易都市として発展していきます。
これを機に多くのイギリス人が移り住んできますが、高温多湿の香港の気候はイギリス人には合わなかったようで、彼らは海沿いの平地より好んで高台に住んだのだそうです。
高台(ビクトリア・ピーク)と行き来するためのトラムという乗り物も、この時期から既に運行していました。
また、イギリス人たちの社交場や医療機関、学び舎なども次々に作られていきます。
街には教会ができ、ホテルが建ち並び、ガス灯や電球が往来を照らすように。
香港の景色は様変わりしていきました。

経済面でも、1865年には香港上海銀行が建てられます。
日本にも、横浜や長崎などに支店を設け、東側イギリス植民地下最大の銀行へと成長を遂げました。

こうした香港のイギリス植民地化の動きは、その他の中国の土地への影響が懸念されるようになります。
特に九龍半島には北と南の間に国境ができたことになるため、イギリスは、九龍半島の北側の地域を緩衝(国の境目の衝突を和らげる)として手に入れるべく行動を開始。
1898年に半島の北側(新界)の99年間の租借にこぎつけました。
1997年6月30日。
それが、この地の租借期限となったのです。

日本軍の占領と再びのイギリス植民地時代

日本軍の占領と再びのイギリス植民地時代

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辛亥革命の翌年にあたる1912年、清王朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が退位し、アジア初の共和制国家である中華民国が誕生しました。

1941年、第二次世界大戦下の日本軍が香港を占領。
イギリス植民地である香港で、イギリス式からの脱却を図るべく、様々な政策を遂行していきます。
英語の代わりに日本語の使用を指導し、地名や建物名を日本風に変え、20世紀初め頃に作られた香港ドルに変わる貨幣を発行するなど、短期間で無計画に進めたこともあって香港経済は大インフレ状態に陥ってしまいました。

しかしこの状態は長くは続きません。
わずか4年足らずで、敗戦により日本軍は香港からも撤退していきます。

戦勝国の一員として国連安保理の常任理事国となった中華民国はイギリスに対し、香港の主権を移すよう要求しましたが、このときは国共内戦(中国国民党と中国共産党による内戦)の影響で達成には至りませんでした。
その後1949年、中国共産党政府率いる中華人民共和国が誕生します。

この頃、イギリスの植民地の中で独立運動が活発化。
インドやアフリカ各地など多くの国が植民地から開放され、新たな道を歩み始めていましたが、香港は戦後もイギリスの植民地として成長を続けます。
共産党政権の中の資本主義。
香港は世界有数の貿易・金融都市となっていきました。

香港の歴史(4)返還への道

香港返還

香港返還

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1970年頃になると、徐々に新界地域の租借期限についての懸念の声があがるようになります。
イギリス政府は租借の延長を求めましたが、中国は応じませんでした。
中国側は強い姿勢を崩さず、イギリス側からの具体的な協議の申し出も避けていたのだそうです。
ついに当時の英国首相マーガレット・サッチャー自ら中国を訪れ、1982年、イギリスと中国の間での交渉が始まりました。

イギリス側は租借期間満了を迎える新界のみの返還対象と考えていましたが、中国側の強気な交渉を続け、ついに香港や九龍半島まで返還を取り付けます。
1984年12月、イギリス・中国両国が署名した声明文が発表され、香港が中国の特別行政区となることが決まりました。
返還は1997年7月1日。
声明文の中では、香港が一国二制度を維持することや、50年間(2047年)は資本主義体制を保証し社会主義政策を香港では実施しないこと、香港の最高責任者は選挙や協議で選出することなどが盛り込まれました。

経済、金融、貿易、そして観光都市。
香港は大きく成長しました。
香港返還に際して様々な条件が盛り込まれたとはいえ、機中国共産党一党独裁国家の一部となることに不安を覚えた香港の人々も多かったようです。
返還が明らかになった後、カナダやオーストラリアへ移住を決める人も。
娯楽は?香港のカンフー映画は返還後も自由に撮影できるのか?そんな話題が連日、論じられました。
このときはまだ、返還後の香港と中国がどうなるのか、誰にも想像できなかったのではないかと思います。

返還後の香港は

1997年7月1日。
香港はイギリス植民地化ら中国特別行政区へと生まれ変わりました。
1842年のアヘン戦争終結から155年。
香港が中国に戻ってきたのです。
中国大陸の様相も世界情勢も、この間大きく様変わりしました。
でも、一番大きく変わったのは香港自身かもしれません。
とにかく香港は一国二制度のもと、新たなスタートを切ったのです。

1997年6月30日夕方から日付が変わる7月1日未明にかけて、天候はあいにくの雨模様でしたが、イギリス、中国双方から首脳要人が集まり、香港島のコンベンションセンターで返還の式典が催されました。

式典は雨のためか屋内で。
厳かな雰囲気の中、イギリス軍の手によってイギリスと香港の国旗(ユニオンジャックに返還前の香港紋章を入れたもの)が下され、代わりに中国軍が中国の国旗と香港の新しい区旗(バウヒニアの花をあしらったもの)が掲揚されました。
香港が中国に返還されたことを示す、象徴的なシーンです。

バウヒニアは1880年に香港で発見され1908年に新種と認定された花。
香港蘭とも呼ばれており、1965年には香港の市の花に選ばれました。

そして午前0時を過ぎると、人民解放軍の船が続々と香港へ入って、式典は終焉を迎えます。
ここに中華人民共和国香港特別行政区が誕生し、香港は巨大貿易都市の様相をそのままに、中国共産党の統治下での第一歩を踏み出したのです。

香港はどう変わったか・どう変わっていくのか

香港はどう変わったか・どう変わっていくのか

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香港が中国に返還されて、長い年月が過ぎようとしています。
返還当時は中国への返還について悲観的な意見が述べられることも多かったようですが、現在の香港はどうでしょう。
街には「100万ドルの夜景」の源となるたくさんのビルが建ち並び、世界の金融経済を牽引する大都市であることには変わりないように思われます。

返還後の香港は、決して順調ではありませんでした。
まず、1997年にタイから始まったアジア通貨危機は東南アジアや韓国、ロシアにまで飛び火して通貨暴落を招き、香港もその余波で打撃を受けます。

さらに2003年には広東省でSARS(重症急性呼吸器症候群)が発生。
香港でも2,000人が感染、299人が死亡するという非常事態に陥りました。
これにより住民の生活が脅かされるだけでなく、香港の貴重な財源となっている観光にも大きな影響が及んだのです。

その後もIT株の暴落や度重なる世界的金融ショック、失業率の上昇、不動産価格の暴落など、決して順風満帆とは言えない航海が続いています。

そんな中、目覚ましい経済成長を続けているのが中華人民共和国。
年々、中国から香港への観光客が増え、2005年には香港ディズニーランドがオープンすると、徐々に観光客が戻り始めました。
中国からの投資も増え、経済も息を吹き返します。
返還前は誰も予想し得なかったことかもしれません。

1984年の時点では誰も想像できなかったであろう現在の香港。
では、2047年の香港はどうなるのでしょう。
その頃世界は、日本はどうなっているでしょうか。

きっと誰にもわからない。
そんな気がしてなりません。

パワフルでエネルギッシュな街・香港!

旅行好きの知人友人と「行ってみたい・また行きたい外国」について話をすると、誰もが必ず香港を上位に挙げます。
高層ビルに囲まれた海沿いの都市、活気にあふれた市場、色鮮やかな雑貨、山積みの果物、こうこうと輝くネオン。
街ゆく人は常にせわしなく、いつもパワー全開。
厳しい時代を生き抜いてきた人々は決して振り返らず、先の不安を払拭するかのように”今”を力いっぱい生きているのかもしれません。
狭い中にありとあらゆるものをぎゅっと詰め込んで今にも溢れだしそうな街、香港。
今後の発展を祈りたいと思います。
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