【今治城】高虎はおもてなし大名?日本3大海城の一つ「今治城」とは

今治城とはどこにあり、どんな城なのでしょうか?そしてどんな建造物があり、城主となった藤堂高虎はどのように出世していき、どのように徳川家康に接近していったのか?そして関ヶ原の合戦で高虎はどのように活躍し、今治城のある伊予の国半国を手に入れたのか?そして高虎は今治城をどんな城にしたのか?そしてその後の城主たちはどのように今治を治めたのか?ということについて見ていきたいと思います。まずは今治城がどこにあるかということから見ていきましょう。

今治城はどこ?どんな建造物がある?

今治城は瀬戸内海のどんな場所にある?どんな城?

今治城は瀬戸内海のどんな場所にある?どんな城?

image by PIXTA / 24018095

今治城は四国は愛媛県北部の、造船で有名な街・今治市にあります。
アクセスとしては、電車なら新幹線の止まる岡山駅から特急しおかぜで2時間10分ほど。

車なら、しおかぜと同じく岡山県倉敷市から瀬戸大橋を渡るルートの他に、広島県尾道市からしまなみ海道を通ってくるルートも。
また東京・大阪・神戸・広島・福山からは直通の高速バスも出ていて、大阪からはフェリーもあるようです。

今治城へは今治駅からせとうちバス「今治営業所行き」に7分乗り、「今治城前」で下車してください。

今治城は吹揚浜(ふきあげはま)に作られた本格的な海城で、日本3大海城の一つとされています。
幅広い水濠(すいごう)は瀬戸内海の延長で海水が引かれ、なんと内堀にサメがいたこともあるそう。
濠と海の接点には、軍港であり商業港でもあった船入(ふないり)が設けられていました。

今治は瀬戸内海交通の要の一つ。
九州方面から関門海峡と豊後水道を航行する船は今治の北で激しい潮流に巻き込まれます。
伊予灘から瀬戸内海に入るところで高縄半島が北に大きく出張り、広島県三原市から竹原側の中間には大三島、因島、大島が浮かぶ来島海峡(くるしまかいきょう)。

ここで船を操るには水夫(かこ)の存在が不可欠。
潮流を操るものが操縦しないと船は真っ二つに折れてしまいます。
この水先案内人の役目を務めたのが有名な三島村上水軍でした。

今治城の建造物はどんなものが残り、どう修復された?

今治城の建造物はどんなものが残り、どう修復された?

image by PIXTA / 24455909

今治城は二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りで、石垣と内堀が江戸時代のものを現在に残しています。

広大な城郭は江戸260年間保たれましたが、明治2年の廃城令の直前にほとんどの建築物が破却。
二の丸北隅の武家櫓は収蔵物とともに残されましたが、明治4年(1871年)の火災で内部に残っていた火薬に爆発炎上し破壊されました。

昭和55年(1980年)になってようやく5層6階の天守が建てられ、昭和60年(1985年)に東隅櫓が御金櫓として再建。
外観は今治藩医の半井梧庵が残した写真を元に復元されています。
平成2年(1990年)に二の丸西隅に山里櫓が再建され、平成18年(2006年)に日本100名城に選定されました。
翌年には可能な限り江戸時代の史実に基づいた鉄御門(くろがねごもん)や石垣、多聞櫓5棟とともに復元され、また二の丸に藤堂高虎の像が建設されました。

石垣と内堀の一部も近代以降に回収工事が行われ、石垣については本来はなかった「反り」が施されています。
また、緊急車両を乗り入れるため一段高くなってしまった所も。
階段に手すりがあったりと少し史実と違う所もあるらしいのですが、現代に必要な設備と思われる所は仕方ないのではないでしょうか。

また天守も実際は約6年間ほどしか存在しなかった(亀山城に移築されたという説)ということですが、最上階からはしまなみ海道の来島大橋が見えるなど、瀬戸内海を眺望することができます。

藤堂高虎はどのように出世していった?家康との関係は?

高虎が主君を何度も変えたのは、どんな考えがあったから?

高虎が主君を何度も変えたのは、どんな考えがあったから?

image by PIXTA / 8273647

では、今治城を作った藤堂高虎はどんな人だったのでしょうか?高虎は浅井長政など何度も君主をかえ、「ごますり大名」や「おべっか大名」などと批判されがち。
高虎は「懸命に仕えても主君が認めてくれなければ、こちらが見限るべき」という考え方の持ち主で、それを家訓にも残すほどで、いわば「転職の達人」。
そういう言い方をすれば、現代に生きる人にも学ぶものがあるのではないでしょうか?

高虎は豊臣秀吉の弟・秀長に仕えたとき、雑賀攻めから和歌山城の縄張りを担当し、これが高虎の最初の築城。
ようやくその働きが認められ、ついに2万石を与えられましたが秀長は病没し、その子秀俊も若くして死んでいまいます。
この時複数の大名が高虎をスカウトにきますが、高虎の絶望は深く、出家して紀州の高野山に篭ってしまします。

そんな高虎を7万石で再雇用したのが秀吉。
秀吉がこれほどの高禄を与えたのは、高虎に堅固で難攻不落な築城術があったため。
ただ、秀吉に仕えていた頃から、次の天下人は徳川家康だと、高虎は見抜いていました。
高虎が家康と会ったのは、家康が天正14年(1586年)に上洛し、豊臣秀吉に服従したときのこと。

高虎は「おべっか大名」?「おもてなし大名」?

高虎は「おべっか大名」?「おもてなし大名」?

image by PIXTA / 17357908

この折高虎は秀吉の命令により家康の京都屋敷の普請を担当。
高虎は質素で武家らしい住宅を好む家康のため、なんと自費を投じて、屋敷を公家風から武家風に変更。
家康はこれを大変な喜び、高虎に名刀を贈呈したそうです。
「おべっか大名」と言うか、今風の良い言葉で言えば、「おもてなし大名」の方が良いのではないかと私は思います。

以後、高虎は秀吉の直臣でありながら家康に接近。
家康を次の天下人だということを見抜いていたのでしょうか?いや、私はそうは思いません。
単純に高虎と家康はウマが合い、でもって「ごますり大名」なんて呼ばれるからには、高虎には「おもてなし」が上手かったから、それだけではないかと思います。

慶長3年(1598年)、秀吉が没すると、家康は五大老の筆頭の立場でありながら、勝手に大名同士の縁組をしたり、論功行賞を行ったりと勝手な振る舞い。
しかし、これは政権内の反家康派をあぶり出し、彼らを倒すことで完全に政権を掌握しようと企んでいたのです。

そうした中、高虎はいち早く弟を人質として家康に差し出し、積極的に行動。
自分とウマが合う人物が天下人になれそうなので、積極的になったのではないでしょうか?

関ヶ原の戦いでの高虎の活躍は?

元々家康ひいきだった高虎は、関ヶ原の合戦の前にどう動いた?

元々家康ひいきだった高虎は、関ヶ原の合戦の前にどう動いた?

image by PIXTA / 22922395

こうした家康の横暴に石田三成は反発。
慶長4年(1599)年3月、家康は五大老前田利家の家を訪ねることになっていましたが、この途上で家康暗殺を計画。
しかし、高虎はそれを知り、家康一行に告げ、家康を別の女性用の駕籠(かご)に乗せ、自分が身代わりとして家康の輿(こし)に乗り込み、これに感動した家康は高虎に下総国3千石を賜わりました。
これはラッキーだった部分もありますが、他の大名から「いやらしい」と取られても仕方ない話かもしれませんね。

6月に家康は会津の上杉景勝が謀反を企んでいるとして5万6千の兵を連れて大坂を発ち、高虎も家康に従いますが、このスキに石田三成らが兵をあげます。
これは家康の目論見通りですが、誤算だったのが三成の集めた西軍の兵が東軍を上回る人数だったこと。

高虎は家康に対し「諸大名がどう動くかわからなくなったので、私が連絡するまで出陣を見合わせてください!」と言い、息子の高吉を差し出し、家康に付くと約束した武将と共に西へ引き返していきました。

実はあまり知られていませんが、家康を関ヶ原の合戦に間に合わせたのは高虎だったのです。

関ヶ原の合戦で高虎はどんな活躍をした?

関ヶ原の合戦で高虎はどんな活躍をした?

image by PIXTA / 21147337

高虎がいなければ家康は天下分け目の戦に間に合わなかったのです。
東軍先鋒は破竹の勢いで進んでいき、織田信長の孫に当たる織田秀信が守る、西軍の拠点である岐阜城をあっという間に落とし、そのまま西軍の主力と激突しそうになりました。

そこで高虎は家康に情勢を知らせるために急使を派遣。
また「勢いに乗って大垣城を落とし、一気に京に入ろう!」と言う黒田長政らに対し高虎は、「内府(家康)の到着を待て」と。

諸将は猛反発しますが、高虎は家康の援軍がないまま進軍すれば敵の挟み撃ちに合ってしまうと反対し、諸将も家康を待つことに。
また高虎は西軍に付いた脇坂安治(やすはる)・小川祐忠(すけただ)・朽木元綱(くつきもとつな)に内応を約束させることにも成功。

9月15日の関ヶ原の合戦では、東軍左翼の第2陣として大谷吉継と戦いました。
大谷軍は手ごわく、藤堂家の重臣が次々と討ち死にする苦戦。
しかし小早川秀秋が裏切ったことで、内応を約束した脇坂らが大谷軍へ攻めかかり、ここで藤堂軍は勢いを盛り返して大谷軍を崩し、三成軍の方へ攻め入りました。

そして、東軍は大勝利し、家康の天下人としての地位が確定し、それは高虎の活躍があったから、ということになりますね。

今治築城後の城主は何をした?

高虎はどのように今治城を作った?

高虎はどのように今治城を作った?

image by PIXTA / 9459288

戦後の慶長9年(1604年)、高虎は伊予板島(宇和島)8万石から、伊予の半国である伊予今治22万950石を与えられ、吹揚浜に朝鮮出兵で学んだ築城技法と西欧の宣教師がもたらした、砲火に強い城郭の構成を取り入れて築城を始めました。

高虎は今治築城の前に、朝鮮出兵の渡海で三島村上水軍、とりわけ来島村上氏が組織した水夫集団を掌握するため、大三島に甘崎城(あまさきじょう)を築いています。
今治城は甘崎城にかわって村上水軍の残党たちを束ねる海の城だったのですね。

こうして作られた今治城の特徴としてまず上げられるのは、犬走(いぬばしり)の存在。
敵が濠から城壁に取り付いた際、石垣に直接張り付かれては射落とすことが難しいですよね。
そこで濠と石垣の中間にテラスである犬走を作ったのです。

その後高虎は江戸城の修築をはじめ、丹波篠山城、丹波亀山城などを作り、大坂の豊臣氏対策に積極的に協力。

そして慶長13年、高虎は伊賀一国と伊勢国の一部に国替えとなり、これは豊臣氏を包囲するためのもの。
大坂城の豊臣氏と交戦し、もし戦況が不利になれば家康は高虎の作った上野城に入ることになっていました。
これは高虎が家康に信頼されていたことを示していますね。

高虎はその後秀忠・家光など徳川歴代将軍に忠実に仕え、最終的に32万石の大名となり、75歳の天珠をまっとうしました。

松平氏が支配した今治城は現代までどのように残った?

松平氏が支配した今治城は現代までどのように残った?

image by PIXTA / 10922512

高虎が転封された後、養子の高吉が今治2万石を支配しますが、やがて高吉も伊賀石名張へ。

寛永12年(1635年)、松平定房(さだふさ)が今治城に入り、松平氏(久松氏)の居城に。

定房は江戸城代役(大留守居)を務め、将軍家綱の名代として参内。

3代定陳(さだのぶ)の時に法令制定や軍制改革、文武の奨励、そして農政における均田制の導入や前堀塩田の開発などを行なって藩政を確立します。

5代定郷(さださと)のときに享保の大飢饉(ききん)が発生し、死者が相次ぎますが、先代からの総社川の改修が完成。

6代定休(さだやす)は新田開発を行なって農業生産の安定化に努め、7代定剛(さだよし)は奏者番(そうじゃばん、将軍に謁見する大名の取次などを行う幕府の役職)を務め、農業生産の安定化、地域格差の撤廃などに尽力。
また藩校の克明館(こくめいかん)を創設し、また瀬戸浜塩田も着工しました。

10代定法(さだのり)の時の文久3年(1863年)には軍備を洋式に整え、佐幕派と尊皇派の仲介・周旋に尽力しますが結局は薩長に付くことに。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では京都御所を警護し、江戸・奥州・会津征伐にも出兵。
また太政官布告により、本家の伊予松山藩松平家とともに源姓松平氏から菅原姓久松氏に復姓します。

今治城は明治維新後に建造物のほとんどが取り壊され(松平氏が所有した城の宿命でしょうか)、内堀と主郭部の石垣を残すのみに。
昭和28年(1953年)に県指定史跡となり、昭和55(1980)年以降、主郭部跡に天守をはじめとする櫓、門などの再建が進み、雄大な城郭の姿を見せています。

「おもてなし」によって家康に取り入った藤堂高虎と今治城

今治城はサメも出るように海水を引き入れた水濠があり、堀と石垣が江戸時代のもの。
また今治城を作った藤堂高虎は何度も主君をかえ、築城術を買われて秀吉の家臣に。

その後「おもてなし」によって徳川家康と仲良くなり、関ヶ原の戦いでは諸将を抑えて家康を合戦に間に合わせ、この功で伊予今治に封ぜられ、砲火に強い今治城を築城し、犬走りなどが残っています。
そして、高虎は転封され、その後は松平家(久松家)が今治に入り、明治維新まで続きました。

私は高虎は「おべっか大名」ではなく、「おもてなし大名」として良い方に捉えるべきだと思いました。
また今治城にも、近県なのにも関わらず行ったことがないので、またサメに気をつけて行ってみたいと思いました。

それでは、読んでくれてありがとうございます!

photo by PIXTA