【甲府城】史実とは違う修復?将軍を出し、戊辰戦争で争われた甲府城の歴史

山梨県甲府市にある甲府城はどんな城でしょうか?「甲府や甲斐と言ったら武田信玄だろ?」という人もいるでしょうが、甲府城とそれに関わる歴史も面白いのです。

ここでは、甲府城はどんな城?どんな修復がされた?史実とは違う修復がされたのはなぜ?家光の弟・忠長の事件とは?そして甲府城が出した2人の将軍はどんな人?戊辰戦争で新政府軍と新撰組が戦った甲州勝沼の戦いとは?ということに触れていきたいと思います。

甲府城はどのように支配された?その間の事件は?

甲府城はどんな城?

甲府城はどんな城?

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JR中央本線で新宿から甲府へ向かうと、甲府駅の少し手前からそびえ立つ二重櫓が目に飛び込んできます。
これは平成16年(2004年)10月から高石垣の手前に出現した、白亜が眩いばかりの稲荷櫓(いなりやぐら)。

甲府城は平成2年度より山梨県が史跡として保存修築を進めてきました。
主な目的は鉄道と大型自動車などの通行による石垣のズレや孕み(はらみ、石垣斜面の中ほどがふくらむこと)を防止・修築しようという石垣改修。
松喰虫で石垣上に残っていた松が枯れてしまったことも石垣の崩れを早めた一因でした。

石垣が修復され、松に変わり桜が植えられると、人々はどうしても石垣の上に建物が欲しくなるもので、県では鍛冶曲輪に長堀を作った所、大好評となり、城址の西側(県庁側)に土塀と門を復興することとなりました。

塀や棟門(むなもん)などが石垣上に再現されると次は櫓の番。
しかし、地盤の状況が良くないため、不安定な櫓建築と石垣になってしまうので、現存する石垣の上に櫓は再築できず。
櫓を立てるには石垣にあまり負担をかけず、石垣内に基礎を作り、その上に立てる必要があります。

史実を無視した修復がされたのはなぜ?

史実を無視した修復がされたのはなぜ?

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そこで県当局は、現存石垣上ではなく鉄道側に大きく崩れている稲荷曲輪の東北コーナーの石垣を復元しながら櫓の基礎を作り、そこにあった2層の稲荷櫓を古式な手法を用いて再現。
逆転の発想でしょうか。
それにしても県当局の再建への強い意志が感じられますね。

稲荷櫓復元とともに数奇屋(すきや)曲輪、鍛冶曲輪を形成する石垣も再建され、本来は櫓が建つはずの数奇屋櫓、一番櫓、三番櫓の位置にまで土塀がめぐらされました。
しかし、史実を無視して土塀をめぐらせる修復は、史跡文化財の活用をめぐり、今後議論を呼ぶと言われています。
なるほど、土塀は元々あったものとは違うので、これを「史跡」というには微妙になってきますよね。
地元の人たちが喜ぶのならいいのではないかとも思ってはしまいますが。

甲府城は、武田氏が滅亡し徳川家康の領地となったとき、家康の家臣・平岩親吉(ひらいわちかよし)が、武田氏の支配拠点・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)にかわり築き始めたと伝えられています。

ちなみに、武田氏の時代に城がなく、躑躅ヶ崎館があるだけ(新府城もありましたが未完成)だったのは「甲府盆地自体が強固な要塞みたいなもので、甲斐の外から侵入した敵を撃退しやすかった」という話です。

将軍家光の弟が起こした忠長事件とは?

将軍家光の弟が起こした忠長事件とは?

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徳川の領国が関東に移ると、甲斐一国は浅野長政・幸長(よしなが)父子が領することに。
浅野氏は躑躅ヶ崎館に入り、徳川氏により築き始められた一条小山の城郭普請を継続し、総石垣の城郭を竣工。
甲府城と名付け、舞鶴城と雅称。
姫路城が白鷺城と言われたのと同じような感じでしょうね。
しかし、京都府の舞鶴とまぎらわしい感もありますね。

したがって、甲府城の石垣をよく見ると、石垣の角や積み石が算木積み(さんぎづみ)や打ち込みハギではなく、古式な方法が使われているそうです。

この甲府城を築いた浅野氏は関ヶ原合戦後に和歌山へ移りますが、金箔瓦葺きの天守をあげたことが発掘調査で判明しています。

1600年の関ヶ原の戦いの後、甲府城は再び徳川領となり、元和2年(もしくは4年、1616もしくは18年)には3代将軍家光の弟の忠長が甲府藩主に。
父秀忠と母お江の方が「嫡男の家光をよりも弟の忠長の方を跡取りにしよう!」としていたことは有名な話ですが、それでも寛永4〜6年(1627〜29年)の間は兄弟の中は良好。

しかし、忠長が駿河の安養寺山という所で、ここでは猿が神獣とされているにもかかわらず、猿狩りを行い、乱行が大名の間で噂に。
酒に日を明かす生活を送り、家臣を斬っておいて、翌日にその家臣を呼んだりしたという正気でない話も。
そして忠長は付家老の鳥居忠房(とりいただふさ)の領地・甲斐国谷村に蟄居することを秀忠に命じられ、さらに寛永9年(1632年)に秀忠が死ぬと、家光は幕政の全権を得ますが直後に重病に陥り、この時世間では忠長や紀州の徳川頼宣(よりのぶ)が反乱を企てているという噂が。
これにより家光は危機感を持ったのか、忠長を上野国高崎に移し、寛永10年(1633年)の暮れに忠長に自害を命じ、忠長は自害し果てました。
享年28。
権力を持った兄弟とはいえ、兄が弟を殺すのは辛いものがありますね。

甲府城が出した2人の将軍

6代将軍家宣とは?

6代将軍家宣とは?

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甲府藩は江戸時代になって将軍も出しました。
甲府藩を与えられた家光の三男・徳川綱重の長男綱豊です。
綱豊は家老・新見備中守正信に預けられ、正信の子として養育されました。
長男でしたが、あまり良い扱いはされてなかったのですね。

しかし、やがて綱重の正室が子を設けないまま亡くなり、綱豊は嫡子とされることに。
延宝6年(1678年)綱重の死とともに甲府家の家督を継ぎ、綱豊は公家の洗練された文化に憧れ、義父の近衛基煕(このえもとひろ)を江戸に招き、幕政や有職故実(ゆうそくこじつ、公家の儀礼などの故実)上について教えを請うほど。

そして宝永元年(1704年)、綱豊は後継ぎを失っていた将軍綱吉の養君となることに(綱吉は綱豊の父・綱重の弟)。
なんとすでに43歳のとき。
名前を家宣(いえのぶ)と改め、宝永6年(1709年)に綱吉が亡くなると徳川宗家の家督を相続し、将軍宣下(せんげ)を受けました。

家宣の政治は側用人の間部詮房(まなべあきふさ)、侍講新井白石(あらいはくせき)によって行われ、「正徳の治」として高く評価されていて、これは前将軍綱吉が「生類憐れみの令」など民に好まれなかった政治を行ったこともあり、善政とされたのです。

しかし、わずか3年後に家宣は病に陥り、この年に51歳で死去することに。

家宣の子、7代将軍家継とは?

家宣の子、7代将軍家継とは?

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跡を継いだのはわずか4歳の虎松で、官位を叙任され「家継」(いえつぐ)と名乗りました。
幼い家継が将軍になると、家宣が信頼した間部詮房が続いて政治の中枢に立ち、家継を支えました。
詮房は元々甲府藩士で、綱豊の小姓として召し出され、綱豊が江戸城西の丸に入ると詮房も幕臣になり、次々と昇進し、綱豊が6代将軍家宣となると老中格に。
詮房は正室を持たず、生涯独身を通し、江戸城に泊まりきりで政務に励んだと言われています。

家継のときに江戸時代で初めて、将軍家と天皇家の縁組が実現。
霊元法皇は家宣の舅(しゅうと)となって権勢をふるっていた近衛基煕を憎み、そのため自分も将軍の舅になることで権力を強化しようとしたのです。
朝廷の権力争いに将軍が利用された感じでしょうか。
霊元法皇は最終的に3歳の八十宮を嫁がせることに決め、結納や新御殿造営を進めますが、正徳6年(1716年)になんと家継が8歳で急死。

このため家継と八十宮は婚約のみで終わりましたが、結納が住んでいたので、八十宮は3歳で未亡人となり、京都の新御殿で暮らすことに。

家継で徳川宗家の血が絶えてしまったため、その後は紀州藩主だった吉宗が8代将軍となり、甲府家の将軍もわずか2代で絶えてしまうのです。
家宣が将軍になった後、甲府城は5代将軍綱吉を支えた柳沢吉保(よしやす)が入るのですが、この人は家宣が将軍になり新井白石が台頭したことで幕政での勢いを失い、隠居して甲府に来たので、皮肉な運命だと感じます。

そして吉保の子・吉里が大和郡山(やまとこおりやま)に転封になると、甲府城は幕府の直轄地に。
享保年間の大火により、城の本丸御殿などを焼失するばど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。

甲州勝沼の戦いとは?

戊辰戦争で甲斐国が戦場になったのはなぜ?

戊辰戦争で甲斐国が戦場になったのはなぜ?

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そこから150年後の戊辰戦争の時に、甲州の地は戦場に。
慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いで旧幕軍が敗れた後、江戸に戻った新選組は抗戦論を唱えますが、そのため旧幕軍の中で宙に浮いた状態に。

そして新政府軍が東海道と東山道に分かれて江戸へ進撃。
旧幕軍としては、東山道軍が中山道を進んで下諏訪から甲州街道に入り、甲府を通って江戸へ攻めてくるのを防がなければなりません。
そこで当時、恭順派で旧幕軍陸軍総裁だった勝海舟は新選組に甲府城を接収させて新政府軍を食い止めることを指示。

新選組に軍資金が支給され、近藤勇は10万石の禄高と若年寄格の地位が約束され、大名格となりますが、これは甲府城を接収し、新政府軍に勝つことが大前提。
抗戦論を主張してやっかいな新選組を、将軍徳川慶喜ら恭順派から分離し、江戸から追い払ってしまおうという勝の画策だったとも。

そして、甲府への進軍を前に新選組は隊名を「甲陽鎮撫隊」(こうようちんぶたい)と改名。
これは元若年寄の永井玄蕃(げんば)によって名付けられたもので、表向きは農民一揆や賊徒など甲斐国の治安を維持するために派遣されたという名目。
また新選組は薩摩や長州の藩士を京で斬りまくったので、新選組の名で新政府軍を刺激しないように、というものでした。

戦いの前の甲陽鎮撫隊は何をしていた?

戦いの前の甲陽鎮撫隊は何をしていた?

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甲陽鎮撫隊は甲府城を接収するため江戸を出立しますが、なんと、わずか10kmの内藤新宿に泊まり、遊郭で羽を伸ばしたといいます。
「監察以上は大名になれるのだ!」と浮かれ切っていたそう。
一介の武士が大名格になったのですから、浮かれるのもわかりますが、ここでしっかり戦っていれば、この後の戦いも大分違ったんじゃないかと思います。

次の日内藤新宿を出た彼らは近藤の出身地・上石原村を通過し、土方の出身地である日野を通ったときに周辺の人々が押しかけ、彼らの出世を祝って宴会が。

新政府軍の東山道鎮撫総督府軍は下諏訪から板垣退助を司令官とした分遣隊を甲府城に向けて発進。
甲陽鎮撫隊は日野宿で歓待を受け、春日隊などの参加で総勢200人と勢力拡大には成功しますが、進軍のスピードは遅く、甲陽鎮撫隊が甲州に入った頃、新政府軍先遣隊は甲府城に到着。
甲府城代が恭順したため、あっさりと甲府城は新政府軍の手に渡るのです。

もし、近藤勇が100人ほどの先遣隊を派遣していれば、状況は逆転したという話も。
そのため彼らは甲府城への進軍を断念し、甲府盆地の東に位置する勝沼に陣を張り、新政府軍を迎撃する手に出ます。

甲州勝沼の戦いの決着は?

甲州勝沼の戦いの決着は?

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しかし、甲府城陥落の知らせは甲陽鎮撫隊に新たに加わったにわか隊士に衝撃を与え、次々と戦線を離脱し、甲陽鎮撫隊の隊士は121人とほぼ半減。
近藤が勝つと100%信じていたのでこうなったのでしょうね。

土方歳三は「これでは戦争にならない」と見て江戸に馬を走らせますが、現実離れした幕府直参で構成された「菜っ葉隊」は腰が重く、これを拒否。
近藤は勝沼周辺の農民を募集しますが反応は鈍く、そして土佐藩兵を中心とした新政府軍が勝沼・柏尾(かしお)の丘陵地帯にいる甲陽鎮撫隊に攻撃を開始。

甲陽鎮撫隊には大砲が2門ありましたが、操作できる隊士が農民募集に回っていたため満足に砲撃できず。
これに対し板垣退助は新政府軍を3手に分け、3方から攻撃を開始。
左翼部隊が迂回して背後から攻め込んできて、隊士たちは近藤の制止を聞かず逃走を始め、ついに2時間で戦線は崩壊。

結局、新選組の隊士の死者は2人だけで、「いかに死闘がおこなわれなかったか」ということを証明するもの。
甲陽鎮撫隊の完敗で、新選組メンバーが大名になる夢はわずか一週間で破れ、この後近藤勇は流山で斬首され、土方歳三は会津や東北など各地を転戦しますが、箱館五稜郭で戦死。

京都で鮮やかな活躍をした新選組が夢破れて最期を遂げるのは儚いものですね。

そして、甲府城も明治維新後に廃城となり、主要な建物はほとんどが取り壊されました。

いろいろな歴史の面白さがある甲府城

甲府城は史実と違った修復が行われたため議論を呼んでいて、武田氏が滅亡した後徳川家康の家臣平岩親吉によって躑躅ヶ崎館の代わりに建てられ、浅野長政・幸長父子により「舞鶴城」と呼ばれます。

また将軍家光の弟忠長が甲府城に入った後、乱行により切腹を命じられ、その後には家宣と家継の2人の将軍を輩出。

また戊辰戦争では新政府軍と新撰組の間で甲州勝沼の戦いが起こり、大名格にされたことに浮かれた新撰組が完敗し、その後甲府城も明治維新で廃城。

私は西日本の人間で山梨県には行ったことがないのですが、調べてみるといろいろな事件や見所がたくさんあって面白かったです。
武田氏と一緒に甲府城や甲州の名所を訪ねてみると面白そうですね!

それでは、今回もここまで呼んで頂いてありがとうございます。

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