日中戦争へのきっかけとなった「盧溝橋事件」前後の出来事とは?

1937年から日本と中国の間で繰り広げられた「日中戦争」。世界を巻き込む「第2次世界大戦」の中で行われていたこの戦いは「日清・日露戦争から太平洋戦争まで」、「満州事変から太平洋戦争まで」と時期区分にはさまざまな意見がありますが、その戦争のきっかけとされるのが1937年の「盧溝橋(ろこうきょう)事件」。ではその「盧溝橋事件」の前後にはどのような出来事があったのか、今回はその出来事について見ていきます。

事件以前の日本・中国間での出来事

「21か条の要求」が抗日運動に発展

「21か条の要求」が抗日運動に発展

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事件前の日本と中国の間で起こった出来事で有名なものが、日本が第1次世界大戦参戦した際に中国に提示した「21か条の要求」。
連合国側として大戦に参戦していた日本は「ドイツが保持していた中国・山東省の権益を日本が引き継ぐこと、中国政府に日本人を雇用すること」などを盛り込んだこの要求を提示。
中国側は自国にとって不利な条項が並ぶことから反対の意思を示しますが日本側は「最後通牒」を提示して合意を迫り、最終的に合意を取り付けることに。
大戦が終結した1919年の「パリ講和会議」の「ベルサイユ条約」において国際的に承認されます。

これに対して当然中国の人々は黙っていません。
この決定に異を唱えた中国の人々は各地で反対運動、暴動を展開。
その中でも有名なものが1919年5月4日に発生した「五・四運動(ごしうんどう)」で、北京の学生数千人が条約撤回・日本との交渉に当たった役人の処罰などを求めてデモ行進。
交通早朝・曹汝霖(そうじょりん)の邸宅焼き討ち、駐日大使・章宗祥(しょうそうしょう)を殴打するなどの大きな騒ぎとなり、学生たちが北京政府に逮捕されることになります。

中華民国の軍閥指導者が暗殺

中華民国の軍閥指導者が暗殺

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1928年(昭和3年)6月4日には中華民国の軍閥・奉天派(ほうてんは)の指導者が爆殺される事件が起こります。
奉天派の指導者を務めていた張作霖(ちょうさくりん)は満州の実権を握っていた実力者で、1924年には北京の実権を握るほどの力をつけるほどの存在になっていましたが、「21か条の要求」などの存在により反日的な考えも持っている人物でもありました。

そのような中、北京に蒋介石(しょうかいせき)が指揮する国民革命軍の「北伐」が迫ってくると、作霖は満州に帰ろうとします。
この事態に日本政府は「軍閥が満州に戻るのは良いが、来る前に武装解除してくること」を条件として期間を許可することに。
満州を支配していた日本が領土を取られてしまっては大事ですからね。
しかし作霖と知り合いでもあった当時の首相・田中義一らは直前になって武装解除の中止を決定。
この決定について不満に思った関東軍大佐・河本大作(こうもとだいさく)は「武将解除をするには作霖を殺し、軍閥を解体するしかない」と考えます。

こうして河本ら関東軍は満州へ引き上げようとする作霖の乗った列車を狙うことを決め、作霖を列車ごと爆破してしまいました。
この事件では事件の真相を国民に知らされることはなく、昭和天皇からの信頼を失った田中が首相を辞めることに。
さらに父親を殺された息子・張学良が軍閥をまとめ、蒋介石の指揮下に入り反日政策を進めていくことこととなります。

南満州鉄道の爆破・満州の完全支配

南満州鉄道の爆破・満州の完全支配

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爆破事件の後には別の大きな事件も発生します。
1931年9月18日に奉天郊外・柳条湖で発生した「柳条湖事件」では南満州鉄道(みなみまんしゅうてつどう。
南満州において運営されていた鉄道会社)が爆破される事件に。
これを関東軍は張学良軍の犯行であると断定しますが、爆破行動については実は関東軍が行っていたもの。
関東軍による完全な「自作自演」であり、満州で武力行使を可能とするために行ったのでした。

こうして満州を完全支配した関東軍はさらに大きな行動に出ようとし、翌1932年2月には北満州・ハルピンを占領。
またこの頃には日本人の僧侶が中国人に襲撃されたことを理由に日本海軍陸戦隊が出動、中国軍と衝突する「上海事変」が発生。
中国側の抵抗に対し日本軍は中国軍を上海から撤退させ、5月5日に停戦協定を成立させることに。
ここまでくるともう「泥沼状態」と言って良いですね。

さらにこの後の日本軍は清の最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を新たに建国した「満州国」の皇帝に就任させることに。
日本軍の行動は完全に「やりたい放題」の状態と言って良いものになっていますね。
こうした日本軍の行動は次第に世界から批判を浴びるようになっていきます。

リットン調査団派遣・日本の国際連盟脱退

リットン調査団派遣・日本の国際連盟脱退

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日本の行動に我慢の限界に達した中国側は、ついに国際連盟へ不満を訴えることに。
ここで中国側は「爆破事件で変な言いがかりをつけられたうえ、勝手に国まで作って日本はどういうつもりなんだ」と日本への不満を訴え、ここで国際連盟はイギリス第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする「リットン調査団」と呼ばれる調査団を派遣、事件の真相究明にあたります。

調査団による調査の結果、事件については「日本の侵略行為である」ことを証明する報告書を国際連盟へ提出、満州から兵を撤退させることを勧告する決議案が1933年2月24日の国際連盟総会で採択されることに。

この決定に当然日本は納得いくわけがありません。
抗議の意思を示した日本はこの採択に参加国で唯一反対、その他42か国(シャム(のちのタイは棄権))が賛成する中で「自分たちは悪くない」との考えを示します。
自分たちの意見が認められなかった日本は激怒、国際連盟代表団・松岡洋右(まつおかようすけ)は会場から引き揚げ3月27日には国際連盟脱退を表明。
国際的組織から外れた日本は、この後国際的孤立への道を歩んでいくこととなります。

事件の発生・その後の出来事

事件の舞台・盧溝橋とは

事件の舞台・盧溝橋とは

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今回取り上げる事件の舞台となる「盧溝橋(ろこうきょう)」は、中華人民共和国北京市・豊台区(ほうたいく)を流れる盧溝河(ろこうが。
現在は永定河(えいていが)とよばれる)に建っているアーチ型の橋。
1192年に完成した北京最古の石造アーチ橋で、全長266.5m、11幅の楕円形アーチが11個ある造り。
両脇の欄干にはすべて形が異なる「石獅子」が501匹鎮座しており、中国では「数を数えられない」ことを表現する際に「盧溝橋の獅子」と例えることも。
獅子を見つめるだけで観光が楽しめそうな雰囲気がありますね。

ヴェネツィア共和国の商人で『東方見聞録』を発表したことで知られるマルコ・ポーロもこの橋を渡ったことがあり、ヨーロッパでは彼の名にちなんで「マルコ・ポーロの橋(Ponte di Marco Polo)」と呼ばれることも。
マルコ・ポーロ自身も『東方見聞録』内で、「世界のどこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ(第4章)」と表現していることから、相当お気に入りであったのでしょうね。

橋はその後洪水による破壊を経て1698年に再建するなどたびたび修復が行われ、1980年代には「史跡保護」を目的として大規模な修復工事を実施。
それ以降は橋の中央部に石畳を一部復元、自動車の通行は一切禁止されるようになりました。

事件の発生・国民生活は苦しいものに

事件の発生・国民生活は苦しいものに

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盧溝橋事件が発生したのは1937(昭和12)年7月7日。
この日の日本軍は戦闘演習のため盧溝橋におり、この日は午後7時30分に演習を開始。
午後10時40分頃には仮設敵が軽機関銃の空砲を発射するなど訓練は進んでいきました。

するとその空砲に中国軍が反応、実弾を日本軍に数弾発射します。
このとき日本兵1名が行方不明(後に帰隊)となり翌8日午前3時頃に再び銃声を確認。
午前4時23分に攻撃命令が出され、午前5時半ごろからついに交戦状態へ突入。
この発砲に日本軍は駐屯地近くに「国民党軍(蒋介石軍)」がいたことから国民党軍によるものと考え応戦することに。
日本軍側としては「ついにやってきやがったな」という考えを持ったのでしょう、こうして日本と中国が対戦する長い「日中戦争」が始まっていきます。

この戦いの始まりにより、日本国民は苦労を強いられることに。
当時の近衛文麿内閣は国内を戦争に対応するための体制に切り替えようとし、1938年4月に「国家総動員法」を発令。
これは政府が国民生活を自由に支配することを許可する法律で、戦争に反対するものを簡単に処罰することも可能にしてしまいました。

襲撃は続く「大紅門事件・廊坊事件」

襲撃は続く「大紅門事件・廊坊事件」

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盧溝橋事件については7月11日に停戦協定が結ばれますが、その後も戦いは終わりません。
1937年7月13日には中華民国北平南苑区(現豊台区)の大紅門(だいこうもん)において、日本兵が中国軍に襲撃される「大紅門事件(だいこうもんじけん)」が発生、さらに翌7月14日にも日本軍騎兵1名が殺されてしまいます。

それから11日後の1937年(昭和12年)7月25日、河北省・廊坊(ろうぼう)にある廊坊駅(現在の廊坊北駅)では軍用通信回線の修復作業を行うため、日本軍の兵士約100名を派遺していました。
その作業を行っている最中の午後11時10分、中国軍が修理隊に向けて突然の発砲。
この事件では日本側の下士官1名、兵3名が亡くなり、下士官1名、兵9名が負傷。
修理していただけのところに襲撃があったわけですから、日本側は大慌てでしょう。
中国最初の襲撃は小銃と軽機関銃で行われましたが、迫撃砲の砲撃が加えられたことで日本側は応戦することに。
反撃する気がなくてもこのまま放っておけば誰も助かりませんから、攻撃は仕方なかったのでしょう。

そして翌7月26日になると日本軍が中国軍に発砲、戦いに突入していきます。
戦いは増援が到着した日本軍が有利に進めながら中国軍を追い詰め、最終的に中国軍は廊坊付近から撤退することになりました。

本格的な戦争へ発展「広安門事件」

本格的な戦争へ発展「広安門事件」

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廊坊事件が発生していた7月26日には別の事件が発生。
この日冀察政務委員会の第 29軍が支配していた北京・広安門に北平居留民保護を目的に日本軍第 20師団広部大隊がトラック 27台に分かれて門に入ろうとしていました。

トラックが到着した際に門は閉められていたため、開門交渉を行ったのち部隊は門を通過し始めますが、部隊の3分の2が通過したところで突然門が閉められます。
すると中国側は城門、塀の上から手榴弾や機関銃で日本軍を襲撃。
日本軍は門を隔てて分断されているため、攻撃するにも人数は足りません。
この事件により日本側の兵士15名を含む計19人が亡くなってしまい事件によって日本軍は28日に総攻撃の開始を決断、本格的な「日中戦争」に突入していくことになります。

日本軍・居留民を惨殺「通州事件」

日本軍・居留民を惨殺「通州事件」

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公安門事件から3日後の7月29日には、現在の北京市通州(つうしゅう)区において「通州事件(つうしゅうじけん)」が発生。
このときは冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ。
中国河北省に存在した政権)保安隊が日本軍の通州守備隊・通州特務機関、日本人居留民を襲撃、彼らは惨殺されてしまいます。
この地域は「満州事変」後に「塘沽停戦協定(タンク―ていせんきょうてい)」を結んでおり非武装地域とされていましたが、実際には軍人・宋哲元(そうてつげん)麾下(きか。
軍団の指揮者に属する部下を指す)の第29軍一部隊の存在を黙認。
日本にとっては「まさか」の事態ですね。

攻撃を受けた日本軍は7月30日に逃走中の冀東政府保安隊約300人を攻め、8月2日には燕郊鎮(河北省の街)に集結する冀東政府保安隊ら約200人に攻撃。
さらに8月8日には日本軍が察哈爾省(チャハルしょう)・綏遠省(すいえんしょう)を占領する「チャハル作戦」を実施、中国軍も8月13日に日本軍を攻撃し「第二次上海事変」へと発展していきます。

停船協定がうまくまとまっていれば

盧溝橋事件をきっかけとして始まった「日中戦争」は、1941年 12月に日本が「太平洋戦争」を開始したことで拡大、1945年の日本敗戦によって終了するまで続くことに。
この間の日本側からは約45万人、中国側でも多数の死者(数については300万、1000万など多数の説あり)が出たと言われています。
事件からすぐに結ばれた「停戦協定」は形だけのものとなっており「たられば」は禁物ですが、「これがうまくまとまっていれば」という考えは事件・戦争につきものなのかもしれません。
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