メジャーリーグを彩ったスーパースター「ベーブ・ルース」とはどのような人物?

現在多くの日本人選手が挑戦し、日本でも一般的な存在になりつつある野球の最高峰「メジャーリーグ」。1876年に始まったこのリーグはこれまで多くの選手が歴史を彩り、現在では南米など広い地域から個性豊かな選手が集まる巨大リーグになっています。今回はそのメジャーリーグの歴史を彩ってきた名選手から歴史上の人物としても有名な「ベーブ・ルース」について見てみましょう。

恵まれない幼少期のルース

繰り返す非行・孤児院への入所

繰り返す非行・孤児院への入所

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本名ジョージ・ハーマン・ルースは1895年2月6日、アメリカ東部のメリーランド州・ボルティモアで居酒屋を営むジョージ・ハーマン・ルース・シニアと母ケイト・シャムベルガー・ルースの間に生まれました。

しかしルースの生活ぶりはあまり良いものではありません。
家庭が貧しいうえ母親は病弱、父親は仕事で忙しくジョージにかまっている暇はなかったのです。
両親と触れ合う時間を取れないないジョージは学校をさぼり飲酒・喫煙などの非行に走り始め、万引きや喧嘩も日常茶飯事。
これだけのことをされれば両親は困るでしょうが、ジョージ本人も「両親にかまってもらえない寂しさ」を抱えて困っていたのかもしれません。

数々の飛行を繰り返すジョージに我慢の限界に達した両親は、ジョージをカトリックの更生施設兼孤児院「セント・メアリー少年工業高校」へ送り込むことに。
これがジョージの人生を大きく変える出来事になるとは両親、ジョージ本人も思わなかったでしょう。

父親のような神父・野球との出会い

非行を繰り返し全寮制の「セント・メアリー少年工業高校」に送られたジョージを待っていたのはこの施設で教官を務めるローマ・カトリック神父ブラザー・マシアス・バウトラーでした。

身長6フィート6インチ(約198cm)、体重250ポンド(約113kg)もあるマシアスはジョージが「会った瞬間から威圧感を感じた」ほど存在感のある人物でしたが、約30人いた教官の中でもっとも慕われていた人物で後に校長に昇格。
そんなマシアスはジョージに教育を施す中で休み時間に野球を教え始め、ジョージは次第にマシアスを「父親のような存在」として慕うように。
ルースはこのときマシアスの歩く癖の真似を始め(マシアスは内股で歩く癖があった)、生涯その癖が治らなかったという逸話もある。
父親と関わる時間が少なかったジョージにとっては安心できる存在であったのですね。

マシアスから野球を教わったジョージはやがて施設の少年野球チームの一員になり、チームのエースとして活躍するように。
そしてある日、ルースの活躍をある有名な人物が見に来るのです。

メジャーリーガーへの歩み

マイナーリーグ入団・「ベーブ」誕生

マイナーリーグ入団・「ベーブ」誕生

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少年野球チームのエースとして活躍するルースを見に来たのは、当時マイナーリーグ「ボルティモア・オリオールズ(現在のMLBチームとは全く関係がない)」オーナーを務めていたジャック・ダンでした。
ダンはワシントン・セネタース(現在のミネソタ・ツインズ)の投手ジョー・エンジェルから「すごいやつがいる」と紹介され見に来ていました。

当時のオリオールズではメジャーリーグ「ボストン・レッドソックス」に選手を入団させるために練習をさせていましたが、ルースはそんな球団の考えにあった選手と認められたのです。
そして1913年に19歳のルースはオリオールズと年俸600ドル(現在の価値で約660万円)で契約、プロ選手としての第一歩を踏み出すことに。

またこのころのルースは施設を出たばかりで子どもっぽい性格であったことから、その様子を見たチームメートから「ダンの新しいベイビー」という意味の「ベーブ」というニックネームを付けられることに。
これが「ベーブ・ルース」誕生の瞬間でした。

メジャーの世界へ・レッドソックスへ入団

オリオールズへ入団したルースでしたが、翌1914年に大きな転機が訪れます。
レッドソックスへのトレード遺跡でした。
トレードされたルースは7月11日に念願のメジャーデビューを果たしますが、当時スター揃いであったチームでは出場機会をなかなか得られずマイナー降格、この年は4試合の登板にとどまります。
1914年10月17日、ボストンで知り合ったヘレン・ウッドフォードと結婚。

家族を得たルースは翌年から早くも活躍を見せることに。
1915年と1916年にはそれぞれ18勝、23勝を記録しチームのワールドシリーズに貢献。
優勝を逃した1917年には24勝まで数字を伸ばしチーム不動のエースに。
1916年と1918年のワールドシリーズでは29回2/3イニング連続無失点の記録を樹立。
また1918年からは登板日以外の試合に野手として出場することも増え、この年は11本でホームラン王、翌1919年には倍以上の29本で2年連続ホームラン王を獲得。
現在の日本では北海道日本ハムファイターズ・大谷翔平選手の存在で有名となっている「2刀流」ですが、ルースはそんなマルチな活躍ぶりををはるか昔に見せていたのです。

両方での活躍が光るルースでしたが、そんなルースに1919年末にまたしても転機が訪れることに。
1919年末にルースを待っていたのは、チーム最大のライバルであるニューヨーク・ヤンキースへのトレード。
球団を代表するスター選手放出の衝撃は大きく、放出したレッドソックスは1918年から2004年までワールドチャンピオンから遠ざかることに。
この出来事はルースのニックネームから「バンビーノの呪い」と呼ばれるようになります。

宿敵への移籍・更なる大活躍の始まり

宿敵への移籍・更なる大活躍の始まり

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レッドソックスから宿敵・ヤンキースに移籍したルースですが、新天地でも活躍ぶりは変わりませんでした。
野手に専念すると打棒はさらに脅威を増し、移籍初年度の1920年は前年の約2倍となる54本のホームランを記録。
現在のメジャーリーグでシーズン50本は珍しくありませんが、当時は20本打つだけでも多い時代ですからそれだけルースの記録は飛び抜けていたのです。

ルースはこれ以降もホームランを打ち続け翌1921年には59本、1927年には60本の大台に乗せ自身の持つ記録を更新。
1927年の記録は当時のメジャーのシーズン最多ホームラン記録となり、1961年に同じヤンキースのロジャー・マリスが61本で更新するまで記録を保持していました。

またヤンキースでは新しい大舞台での活躍も目立ち、1933年7月6日に「ルースとニューヨーク・ジャイアンツ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツ)のカール・ハッベルとの対決が見たい」という少年の手紙から実現した第1回オールスターゲームでは記念の1号ホームランを記録。
第2回では少年が夢見たハッベルとの対決が実現し、結果はハッベルがルース相手に三振を奪っています。
このほか1923年にオープンしたヤンキー・スタジアム(2008年まで使用された先代のスタジアム)最初の試合でホームランを放ち、スタジアムはルースの活躍で観客が増えたことから「ルースが建てた家」と呼ばれるようになりました。

ルースならではの伝説「予告ホームラン」

メジャーリーグを代表する選手となったルースは数々の伝説も残していますが、その中で有名と言われているのが1932年のワールドシリーズで記録した「予告ホームラン」です。
この年のヤンキースはシーズンで107勝47敗を記録しリーグ優勝、ワールドシリーズではシカゴ・カブスと対戦することに。

ホームランが生まれたのはヤンキース連勝で迎えたシリーズの第3戦、4-4の同点に追いついた後の5回表でした。
外野フェンスを指さして打席に入ったルースの打球は外野を超えてホームランに。
飛距離にして約490フィート(約149m)と言われる特大の一発。
このホームランを映した公式映像が残っていないため伝説の真偽は不明となっていますが、これも大スター・ルースが放ったホームランであるために生まれた伝説なのかもしれません。

ルースのホームランで勝ち越したヤンキースはこの試合に勝利、翌日に行われた第4戦も制したヤンキースは負けなしの4連勝でシリーズを制覇。
ちなみにこの「予告ホームラン」はルースがワールドシリーズで放った最後のヒットでもあります。

忍び寄る衰え・引退へ

忍び寄る衰え・引退へ

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どの選手にも年齢による衰えの影は忍び寄るものですが、ルースにもその時は訪れます。
ヤンキースでの最終年となった1934年の成績は打率.288、ホームラン22本、打点84と40歳近い選手としては高水準の成績を残していましたが、全盛期に比べると成績は低下していました。
ここからルース自身は「選手としての限界」が近いことを悟るようになっていたのです。

そして迎えた1935年、40歳になったルースはボストン・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)にトレード。
移籍したブレーブスでは一選手としての役割以外に選手の人事に携わるチーム副代表、監督に仕える助監督も務めることになり、チームから相当の期待を持って迎えられることになりました。

ブレーブスの一員として迎えた開幕戦は2万5000人の大観衆を集め「ルース人気健在」を見せつけますが、やはり40歳になったルースの衰えは隠せません。
1935年5月25日に行われたピッツバーグ・パイレーツ戦では1試合3本のホームランを放ちますが、5月30日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で途中交代すると2日後に現役引退を表明。
この年のチームは38勝115敗と大きく低迷したなかでの引退となり、有終の美を飾ることはできないままバットを置くことに。

引退後・早すぎる死

引退してからのルースは3年後の1938年にブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)の一塁コーチに就任。
しかしコーチ業は長く続かずに1年で辞任。
この後ルースがメジャーリーグの仕事に関わることはなく、寂しい形でメジャーリーグを去ることに。

そんなルースがかつての本拠地ヤンキー・スタジアムに姿を現したのは1946年6月13日、スタジアムの開場25周年記念祝典のときで、ここで彼の付けていた背番号「3」が永久欠番に指定されることが決まることに。
しかしこのときのルースはすでにガンが進行した状態で、かつてホームランアーティストとして活躍したころの姿はありませんでした。

1948年7月26日に自伝映画「ベーブ・ルース物語」の試写会に参列したのを最後に公式の場に姿を見せなくなり、それから1か月も経たない1948年8月16日、ついにこの世を去ります。
53歳の若さでした。
その後亡くなったルースの亡骸は2日間ヤンキー・スタジアムに安置され、2日間で約15万人(半数は子ども)が別れを告げに訪れたとされています。
人々にとっては最後までスーパースターであったのですね。

ルースの人物像とは

スターらしい豪快な私生活

スターらしい豪快な私生活

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メジャーリーグのスーパースターであったルースは、その生活ぶりもたいへん豪快なものでした。
食生活では「1日に10個のホットドッグを食べる」と噂されるなど相当な暴飲暴食を続け、次第に腹部のふくらみが目立つように。
そのほかパーティーや女性関係も奔放で、妻のヘレンとはこれらが原因で別居することになってしまいます。
子どもたちにとってあこがれの選手であったルースですが、子どもたちはまさかこれだけ豪快な生活を送っているとは思いもしないでしょう。

こうした奔放な生活ぶりがルース自身の体調を壊すことにつながり、1925年には原因不明の体調不良に見舞われてしまいます。
この年は体調不良が成績にも響き、ヤンキース移籍後最低の成績でシーズン終了。
現代メジャーでプレーする選手がこのようなことをすればSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)からうわさが拡散する大問題になるでしょうし、最悪の場合「解雇」されることもあり得ますからね。
このようなことが許されるのはSNSが発展していなかった時代であること、そして人物が「みんなのあこがれ・ルース」だからなのかもしれません。

ルースと関連のある人物

悲運の天才「ルー・ゲーリッグ」

1923年にヤンキースに入団したルー・ゲーリッグは1925年からルースの直接指導したことによりレギュラー定着、成績を伸ばしていきます。
1927年には打率.373、47本塁打、175打点という圧倒的な成績を残し、ルースとゲーリッグを中心としたヤンキース打線は「殺人打線」と呼ばれ恐れられました。
ルースの活躍には強力な相棒の存在も重要であったのです。
またゲーリッグは2130連続試合出場を果たした耐久性の高さから「鉄人」と呼ばれ、この記録は1995年に更新されるまでメジャーリーグ記録。
不摂生で体調を崩したこともあるルースとは対照的ですね。

しかしそのゲーリッグは大きな病に倒れます。
1938年シーズン半ばから体の異変を感じたゲーリッグは1939年に「筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)」の診断を受け引退を決断。
1939年7月4日の引退スピーチで語られた「私はこの世で最も幸せな男です」の一言はメジャーリーグ史に残る一場面となっています。

引退からわずか2年後の1941年6月2日、37歳の若さでこの世を去ることに。
彼が患った病気は彼の名前から「ゲーリッグ病」とも呼ばれており、彼の死から1年後に公開された映画「打撃王」などによって知られるようになります。

ルースにあこがれた選手

かつてヤンキースなどで活躍した投手デビッド・ウェルズは熱狂的なルースファンとして知られていました。
あだ名の「ブーマー」はルースのニックネームである「ベーブ」と同じ「赤ん坊」を意味するもので、1982年にメジャーリーグの世界に入ってからビールの飲みすぎで体重増加、ここからすでにルースのような雰囲気が見えていますね。

その後キャリアを積み1997年オフにルースの古巣・ヤンキースと契約した際にはルースの背番号「3」を要求しますが、永久欠番であることから当然却下、最終的に付けた番号は「3」を組み合わせた「33」でした。
憧れのルースと同じチームに加わったウェルズは1998年5月17日のミネソタ・ツインズ戦で完全試合を達成しますが、このときは酒を飲みすぎて2日酔い状態で登板していたのです(自伝で暴露)。
時代はルースと違いますが、豪快さはルースと似たものがありますね。

さらに6月8日のクリーブランド・インディアンス戦ではオークションで落札したルースの実使用キャップをかぶって登板、これは監督にばれて脱がされることに。
ルール上はいけないことかもしれませんが、ルース愛が溢れすぎた彼の行動は「愛らしさ」を感じさせるものとも言えますね。

人生に不可欠であった神父の存在

非行を繰り返した幼少期から神父との出会い、スーパースターに登り詰めるまで、ルースの人生は「波乱万丈」と言って良いもの。
特にルースと野球をつなげたマシアスはルースの人生で最も大きな存在であり、彼と出会っていなければルースの人生は全く違ったものになっていたかもしれません。
こうして見ていくと人間が変わるきっかけに「周辺の人間」の存在は不可欠なものと言えますね。
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