【ユダヤ人の歴史】第二次世界大戦で強制収容所に送られたユダヤ人の歴史

第二次世界大戦で600万人ものユダヤ人が殺害されたと言われています。ヒトラーが「ユダヤ人問題の最終的解決」として掲げたことは、この地上からユダヤ人を絶滅することなのでした。とはいえ、絶滅収容所として有名なアウシュヴィッツ強制収容所も、当初はその入口に「働けば自由になれる」というスローガンが掲げられていたのですよ。強制労働をさせるための収容所がいついかなる理由で絶滅収容所になったのか。第二次世界大戦の推移との関係でそのことを考えてみることにしましょう。

反ユダヤ主義は選挙の道具でした

反ユダヤ主義は選挙の道具でした

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選挙のときに候補者はスローガンを掲げますね。
それによって選挙人から票を集めようとするのですが、19世紀末のウィーンではキリスト教民主党のカール・ルエガーが、反ユダヤ主義をスローガンに掲げて市長選で勝利。
しかし、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、3度もルエガーの市長就任を拒否。
オーストリア帝国ではユダヤ人も大事な市民であり、反ユダヤ主義を掲げる者をウィーン市長などにはできないというのが皇帝の判断だったのですね。
しかし結局1879年には、反ユダヤ主義者であるルエガー市長が誕生してしまいました。

ヒトラーはウィーンの反ユダヤ主義に学びました

反ユダヤ主義をスローガンに掲げてついにウィーン市長になったルエガー。
しかしこれでウィーンのユダヤ人たちが悲惨な状況に陥ったかというと、必ずしもそうではありません。
反ユダヤ主義を掲げて選挙に勝ったということは、市民の間に反ユダヤ感情が存在していたわけです。
ルエガーはこれをうまく選挙の道具に使ったのですね。
反ユダヤ感情が広がっていたからといって直接的にユダヤ人を迫害することはなく、それどころかルエガー市長は、ユダヤ人の貧民層への救済策さえ行っています。
ここにもう一人反ユダヤ主義を掲げて大人気を博した人物がいました。
ゲオルク・リッター・フォン・シェーネラーで、リッター(騎士)という貴族の称号を持っていた彼も、おおいに人気を集めていたのですよ。

ヒトラーはオーストリアの生まれなので、ウィーンで画家として生きていこうとするのですが、もちろんそれはそう簡単にできることではなく、貧民救済施設にいたこともあるようです。
このときヒトラーは、反ユダヤ主義をスローガンに掲げて選挙戦を勝ち抜いたこの2人からある種の霊感を得たのですね。
反ユダヤ主義的感情が市民の意識の根底に根強く広がっているのを利用すれば選挙戦に勝てる、ヒトラーはその確信を得たのですね。
やがて第一次世界大戦が起こり、ヒトラーは隣のバイエルン王国で志願兵となり、この戦争に加わったのでした。

ヒトラーの政党は選挙で大躍進しました

まだドイツ国籍を取得していなかったヒトラーでしたが、ミュンヘンに戻ったのち、第一次世界大戦中にドイツ軍の支配権を握ったルーデンドルフとともに、1923年のミュンヘン一揆に加わったのでした。
これはクーデターになることはなく、たった半日で制圧されてヒトラーは逮捕されましたが、国家反逆罪で死刑になったわけではありませんね。
敗戦国となりおもにフランスによって多額の賠償金を課せられたうえ武装解除されたドイツには、あちこちに軍隊に戻ることのできない軍人集団があったのですね。
ヒトラーは刑務所に入っている間に『わが闘争』を書き、これで一躍ヒトラーの名前を高める役割を果たしたわけです。
禁固5年の刑を宣告されていたヒトラーでしたが、1924年12月にはもう仮釈放。

1925年にはナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)が再建され、ヒトラーはこの党を率いていくことになったのですね。
「ナチス」という言葉はよく知られていますが、これはナチ党員に対する蔑称であり、この当時ナチ党はまだ一般の国民の人気を集められるような政党ではなかったのですよ。
ちょうどこの頃のドイツは「黄金の二十年代」と呼ばれて、大衆文化が花開いていたのでした。
しかし、1929年にニューヨークでの株価暴落をきっかけにして始まった世界大恐慌ですべては一変。
過激なナチ党のスローガンが国民にアピールし始めて、選挙戦での大躍進が始まったのでした。

ワイマル共和国首相ヒトラーの誕生

ワイマル共和国首相ヒトラーの誕生

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1932年にヒトラーは大統領選に出馬。
しかしさすがに当選することはなく、飛行船の名前にもなったヒンデンブルクが当選したのですが、ヒトラーは他の候補に大差をつけて第2位だったのですよ。
アメリカの大統領とは違って現在のドイツの大統領にはそれほど大きな政治的権力はないのですが、当時のドイツの大統領には例えば首相を任命するというような力があったのですね。
ヒトラー率いるナチ党が大躍進し、党首であるヒトラー自身も大統領選で第2位になったとはいえ、ヒンデンブルク大統領が握っていた政治権力がもしもなかったならば、ヒトラーはドイツの首相にならなかったかもしれませんね。

ヒトラーは一気に政治権力を掌握しました

歴史に「もしも」は存在しないとはいえ、ナチ党の大躍進に多少陰りが見え始めた1933年、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命したのですね。
それでもこの時点ではまだ内閣は複数の政党による連立政権であり、ヒトラーの独裁がこんなにあっさりと実現するなどとは、誰も想像していなかったことでしょうね。
1月30日に首相に就任したヒトラーは、3月20日にはもうダッハウ強制収容所を設置。
ダッハウはヒトラーが一揆を起こしたミュンヘンの近郊にありますが、ミュンヘンこそヒトラー自身にとってはウィーンでの挫折から立ち上がった思い出の地。
ここに最初の強制収容所を設置したのも何か意味がありそうですね。

3月24日には全権委任法が成立しましたが、その背景には2月27日の国会議事堂放火事件があったことは確かですね。
この事件は共産党員の仕業とされ、共産党はこれ以後禁止されてしまいます。
第一次世界大戦中の1917年、ロシア革命によって帝政が倒されそれ以後共産党による一党独裁の国家となったソビエト連邦が成立していましたから、ナチ党にとって共産党は身近な脅威。
5月10日には、危険とされる書籍が焼かれる焚書事件が起こったのですが、ユダヤ人の著書や共産主義者の著書がその対象になったのですね。
7月14日にもともと連立政権だったナチ党の一党独裁体制が確立。
9月22日には文化院が設置されて、あらゆる文化的活動からユダヤ人を閉め出すことになったのですよ。

ヒンデンブルク大統領の死によりヒトラーは総統になりました

ヒンデンブルク大統領の死によりヒトラーは総統になりました

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第一次世界大戦中に元帥だったヒンデンブルクですが、さすがにもう高齢。
ヒトラーを首相に任命することで過激な諸政党の均衡を図ろうとしたヒンデンブルクでしたが、ヒトラーはすでに着々と独裁体制を築きつつありましたね。
1934年にヒンデンブルク大統領が死んだときにはもう後継大統領の選挙など行われることもなく、ヒトラーが首相と大統領を兼ねる独裁者である「総統」になりましたから、形式的にはここからドイツは「総統国家」になったのですよ。

19世紀後半にドイツ領邦でユダヤ人解放が行われ、多くのユダヤ人は「ドイツ人」として文化的活動のほか、政治や経済の分野でも多いに活躍し、ユダヤ系のドイツ人を抜きにしてドイツの政治・経済・文化を語ることができなくなっていたのに、ユダヤ人をそこから閉め出そうというヒトラーの政策の過激さ。
しかしその一方で、世界大恐慌以来破綻していたドイツ経済は立ち直り、失業者も見かけ上ゼロになったのですから、ユダヤ人ではないドイツ人たちはヒトラーの政策を受け入れたわけです。
それに、ドイツを出国したユダヤ人たちがドイツに残した財産は没収され、それでドイツの経済は豊かになるということになりますね。

「一つの民族、一つの国家、一人の総統!」

ヒトラーは「総統」になりましたが、ドイツ語で言うと「フューラー」(Führer)。
これは、現在でも観光ガイドなどを言うときに使われるごく普通の言葉なので、直訳すると「案内人」。
ヒトラーはそのごく普通の言葉を、皇帝や大統領と同格いやそれ以上の存在を表す言葉にしたのでした。
ドイツ国民をドイツ国民が思うままに暮らせる国家に導く人、それが総統ヒトラーというわけですね。
事実、あれほど大きかった失業率が、あっという間にゼロになったのでしたね。
そのほか、ドイツ人の家族が年に1回は家族旅行ができるようにしたり、自家用車をすべての家族が持てるようにするという約束をしたり、その自動車が自由自在に走り回れるアウトバーンを建設したり、ヒトラーの巧みな政策にドイツ国民はまんまとだまされたわけですね。

ドイツ車にフォルクスワーゲンがありますが、これは当時のドイツ国民から資金を集めて製造しようとしていたものでしたが、戦争が始まったためにその資金は兵器製造に流用され、ヒトラーの時代には実現しませんでした。
この自動車の名前の「フォルク」(Volk)ですが、これはヒトラーが国民を扇動した有名な演説に用いられている言葉で、ヒトラーはドイツ国民からユダヤ人を排除して「一つの民族(Volk)」にしようと叫んだのでした。
その一つの民族には一つの国家があり、そしてそれを率いていく一人の総統がいるというわけです。
逆に言うとこれまでドイツの政治・経済・文化などに貢献してきたユダヤ人はこのフォルクから排除、ということになりますね。

ナチの第三帝国は戦争に向かっていきました

ナチの第三帝国は戦争に向かっていきました

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とんでもない「案内人」に導かれたドイツ。
ヨーロッパの言語はたいていインド=ヨーロッパ語族に分類されますが、ドイツ語のルーツはインドにあるとともに、古代インドのアーリア人こそがドイツ民族のルーツとヒトラーは叫んだのでした。
それに対してユダヤ人のルーツはアラビア半島の特定の地域。
ドイツに住むユダヤ人はほとんどドイツ国籍を持っていましたから、同じ「ドイツ人」を「アーリア人」と「ユダヤ人」に分けることで、ユダヤ人を排除しようとしたのですね。

ドイツ第三帝国から排除されたのはユダヤ人だけではありませんでした

ドイツ第三帝国というのはヒトラーが率いる国家のことですが、ヒトラーは皇帝になったのではないので厳密に言うと「帝国」というのは正しくありません。
962年にオットー大帝が皇帝に即位することで成立した神聖ローマ帝国、1871年にプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位して成立したドイツ帝国、そしてヒトラーが総統となることで成立したのが3番目だから第三帝国ということになるのですが、この「第三」にはキリスト教の千年王国の意味が込められているのですよ。

それはともかくとして、この第三帝国から「アーリア人」以外は排除されなくてはなりません。
その代表がユダヤ人ということになりますが、そのほか当時は「ジプシー」と呼ばれていたシンティとロマも徹底的な排除の対象になったのですよ。
ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗した人もいますし、第一次世界大戦にドイツ兵として従軍した人もいて、「ドイツ国民」として定着していたのに対して、「ジプシー」と呼ばれた人たちには定住地がありません。
1933年の時点で自らの意志でドイツを去ったユダヤ人も少なくないのですが、すでにドイツ国民として生活の基盤をドイツ国内に置いていたユダヤ人たちは、今さらどうすればいいのでしょうか。

「アーリア人」の優秀さを示すためにベルリン・オリンピックが開催されました

「アーリア人」の優秀さを示すためにベルリン・オリンピックが開催されました

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1935年5月21日の国防法によって、ドイツ軍の兵士は「アーリア人の血統」が条件となり、ユダヤ人はドイツ国防軍の兵士になれなくなりました。
9月15日には有名なニュルンベルク法が制定され、ユダヤ人は「ドイツ国民」から排除。
なお、中世の面影を今に残すニュルンベルクはナチ党大会が行われた都市でもあり、逆に戦後は生き残ったナチの高官に対する裁判が行われた都市でもあります。
ヒトラーが好んだワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台も、やはりニュルンベルク。
なお、ワーグナーも反ユダヤ主義者だったことで有名ですね。
12月31日にはユダヤ人は公務員からも排除されてしまいました。

1936年8月1日にはベルリン・オリンピックが華やかに開催されました。
ヒトラーはお気に入りの女性映画監督レニ・リーフェンシュタールに記録映画『民族の祭典』と『美の祭典』を撮影させたのですよ。
記録映画とはいっても、「ドイツ国民」の優秀さをアピールするプロパガンダが目的の映画ですから、あとで撮影しなおした場面もあったと言われています。
しかし皮肉なことに「アーリア人」ではない日本人の活躍もありましたね。
次のオリンピックは東京と決められていたのですが、これは中止になってしまいました。
ベルリンで華やかにオリンピックが開催されていた裏で、ベルリンの北部にザクセンハウゼン強制収容所を設置。
ここでは収容されたユダヤ人などを使って人体実験をしたのですね。

オーストリア併合によって第三帝国は拡大しました

1937年にはユダヤ人の博士号取得が禁止され、9月にはユダヤ人医師から健康保険医認定が取り上げられ、ユダヤ人医師はもう実質的には医師として仕事ができなくなってしまいます。
ユダヤ人というのはもともとはユダヤ教徒だったのですが、1年かけてユダヤ教の基本聖典であるトーラーの巻物を読むとか、ほとんどのキリスト教徒が文字を読めなかった時代にすでにこのような「教育」が行われていたのですね。
ですから、19世紀になって「ユダヤ人解放」が行われると、大学に進学して大学で博士号を取得したあと、医師や弁護士やジャーナリスト・作家などになるユダヤ人が増えたのですよ。
なお、この年の7月16日には、ドイツ文学を代表するゲーテとシラーが活躍したヴァイマル市の近郊にブーヘンヴァルト強制収容所が設置されましたが、これはおもに政治犯を収容。

「第二のドイツ人国家」と呼ばれていたオーストリア共和国では、ナチ党は禁止。
そのかわりオーストリア独自のアウストロファシズムによる全体主義国家が成立していたのですが、これもいよいよ風前の灯火。
ザルツブルクに住んでいた旧オーストリア海軍の大佐トラップ一家をめぐるアメリカ映画『サウンド・オブ・ミュージック』はちようどこの頃のオーストリアが舞台。
ヒトラーの度重なる威嚇と懐柔によって、とうとう1938年3月13日にオーストリアはドイツ第三帝国に併合。
ウィーンのホーフブルクに集まった市民たちは、もともとオーストリア人だったヒトラーの演説に大興奮。
第三帝国の一部になってしまったオーストリアには、1933年以降にドイツから逃れたきたユダヤ人のほか、たくさんのユダヤ系国民がいましたから、今度はここのユダヤ人に対する「処置」が必要になってきますね。

ユダヤ人の商店が襲撃され破壊された帝国水晶の夜

ユダヤ人の商店が襲撃され破壊された帝国水晶の夜

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まずは財産問題ですね。
ハプスブルク家がオーストリアを支配していた時代から、ユダヤ人に対してはおおむね寛容政策がとられてきましたから、ユダヤ人の貴族や大富豪もいたのですよ。
3月26日にはユダヤ人に対して財産申告を強制。
さらに5月には公共事業などの入札からユダヤ人を排除。
こうしてオーストリアのユダヤ人も含めて、財産や事業をユダヤ人から取り上げることになりました。
また7月6日から15日にはフランスのジュネーヴ湖畔でエヴィアン会議が開催され、ユダヤ人の国外移住について協議。
ユダヤ人には特別の身分証明書を発行することが決定されたのですよ。
9月30日以降はユダヤ人医師から開業医の免許を取り上げることが決まり、ドイツ国内のユダヤ人にはもう行き場がなくなってしまいました。

ユダヤ人はもともとは古代バビロニアに居住していた「アジア人」だったということになりますが、ドイツ国内のユダヤ人の多くはもう見かけではユダヤ人とわかりません。
そこでユダヤ人だとわかるように「サラ」とか「イスラエル」とかを名前に追加。
さらに、パスポートには赤い「J」の字が書き加えられ、国外に出ようとすると一目でユダヤ人だとわかるうになったのですね。
10月14日には宣伝大臣であるゲッベルスが、ユダヤ人を経済活動から排除すべきだと演説。
11月30日以降はついにユダヤ人弁護士も活動ができなくなってしまいました。
11月7日にパリでユダヤ系フランス人がドイツ大使館の書記官を銃撃したために、11月9日の深夜ドイツ各地で「帝国水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人商店襲撃事件が発生。
ショーウィンドウが粉々に砕け散った様子がよくわかりますね。

着々と戦争のための準備が整えられました

19世紀末のロシアで帝政に対する民衆の不満がユダヤ人に向けられ、ロシア語で「ポグロム」と言われるユダヤ人集落の襲撃・略奪が行われ、このときに多くのユダヤ人がアメリカに移住したのですよ。
水晶の夜もまさにそのポグロムですが、このときのユダヤ人にはもう逃げ場がありませんね。
3万人のユダヤ人がダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼンの強制収容所に送られたのですよ。
なお、ドイツに働きに来ていたポーランド国籍のユダヤ人1万7千人は、第三帝国の秘密警察であるゲシュタポによって10月28日に国境地域に追放されていました。
11月15日にはユダヤ人の子供たちはもうドイツの学校に通えなくなり、「キンダー・トランスポート」と呼ばれる、イギリス人と養子縁組みをして国外に逃がす運動が行われたのでした。

財産はもちろん働く場所も失ったユダヤ人はどうすればいいのでしょうか。
答えは簡単、強制労働をさせればいい、という今日では絶対に許されるはずのない道がユダヤ人に与えられたわけですね。
ユダヤ人から財産を奪い、それに強制労働させるとともに、場合によっては人体実験の道具にする……あまりにも非人間的な扱いではありますが、この時点ではまだユダヤ人絶滅はヒトラーの演説にあっただけでした。
1939年にはチェコスロバキア共和国を分断し、チェコを第三帝国に併合、スロバキアを保護国に。
チェコとドイツの国境地域をズデーテン地方と言いますが、ここには鉱山がありドイツ人がたくさん住んでいましたから、ここもドイツだということですね。
8月23日には独ソ不可侵条約が締結され、いよいよ戦争が秒読みに入ったのですよ。

戦争により占領地域が拡大しました

戦争により占領地域が拡大しました

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9月1日、ついにドイツ国防軍はポーランドに侵攻。
これまで西側諸国はヒトラーの政策を見て見ぬふりをしていたので、これもうまくいけばそうなるかとヒトラーは考えたようですが、今回はさすがにイギリスもフランスも、9月3日にドイツに宣戦布告。
こうして第二次世界大戦は始まったのでした。
とはいえ、ポーランドはドイツとソ連に東西から攻められて、あっという間にドイツ領とソ連領に分割。
ドイツとソ連はまだ互いに中立ですから、これで東部戦線での戦闘は終了。
西部戦線では戦闘は翌年になって始まるので、奇妙な平和が続いたのですよ。

ユダヤ人問題の最終解決が話題になりました

オーストリアやチェコを第三帝国の領土にしたときもそうでしたが、ポーランドの場合はここに住むユダヤ人の数も多くて、それをどうするかが新しい問題になりますね。
チェコはもともとはボヘミア王国で、多数派のチェコ人を少数派の「ドイツ人」が支配する形になっていました。
しかもこの「ドイツ人」はドイツ語を話すから「ドイツ人」ということになっているだけで、実はユダヤ人だという例が多く見られたのですよ。
このユダヤ人をどうするかも簡単ではありませんが、ポーランドは昔から多数のユダヤ人がそれほど差別されずに暮らしていましたから、この多数のユダヤ人をどうするかは、解決がさらに困難な問題ということになります。
ハイドリヒがこの頃に「ユダヤ人問題の最終解決」をほのめかす発言をしているのも気になりますね。

ユダヤ人はラジオを持つことが禁じられ、世界で今何が行われているかを知る手段が完全に奪われたのですね。
ユダヤ人はまたコーシェルという食べてもよい食品と食べてはならない食品とを厳密に区別していましたが、これを逆手にとってユダヤ人専用食料品店を指定。
ポーランドの首都はワルシャワですが、このワルシャワより少し西にウッチという都市があります。
ポーランドのほぼ中央に位置するこの都市は、ちょうどヨーロッパの西と東とを分けているのですよ。
ここに1940年2月8日、ユダヤ人を閉じ込めるゲットーの設置が命じられたのでした。
秋にはワルシャワにもゲットーが建設され、ユダヤ人は黄色い六角形の星を付けさせられ、ゲットーに居住することが強制されたのですよ。

アウシュヴィッツ強制収容所の設置命令が出ました

アウシュヴィッツ強制収容所の設置命令が出ました

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ユダヤ人の強制収容所というとアウシュヴィッツがあまりにも有名ですが、これの設置命令が出たのは1940年4月27日。
他の強制収容所に比べると少し遅いですね。
ここにはユダヤ人のほかシンティとロマも移送されたのですよ。
この時点ではまだ絶滅収容所ではなく、西部戦線での電撃作戦が成功して6月14日にパリが陥落した頃、マダガスカル計画が具体化したのですね。
これは、ユダヤ人をアフリカ南部にあるマダガスカル島に移住させようとするもの。
8月15日にはユダヤ人問題の責任者であるアイヒマンがマダガスカル計画文書を作成。
外務省がこれを受理したのですが、イギリス上陸作戦は実行できずイギリスを敗北させることはこの時点で不可能となり、マダガスカル計画も机上の空論に。

しかし、フランスを降伏させナチに従うヴィシー政権ができて、第三帝国はヨーロッパでの勝利をほぼ手中にしたかに見えたため、9月27日には日独伊三国同盟が成立。
日本も対米戦争への道を進むことになってしまったのですね。
ドイツやオーストリアから脱出したユダヤ人たちはパリをヨーロッパでの最後の拠点にしていたのですが、そのパリもナチの支配下になったため、パリにいたユダヤ人はフランスにあるギュール収容所に移送。
また、4月30日にはウッチのゲットー、11月15日にはワルシャワのゲットーが封鎖され、ユダヤ人はアウシュヴィッツ収容所に集められたのでした。

独ソ戦によりユダヤ人殺害が過激になりました

1941年はこの戦争の大きな転換点。
6月22日にはとうとうドイツ軍が不可侵条約を破棄してソ連に進撃したのですね。
かつてナポレオンがロシア遠征で敗北して失脚したことをもちろんヒトラーは知っていたはずです。
ですから「冬将軍」を避けてソ連に攻め込んだのですが、電撃作戦は残念ながらうまくいかず、やがて厳しい冬を迎えてしまいます。
そのうえ占領地域がさらに拡大したため、それをめぐってまた新たな問題が発生。
いよいよユダヤ人を「絶滅」する方向へと突き進んだのですね。

ユダヤ人の移送と大量殺戮が始まりました

ユダヤ人の移送と大量殺戮が始まりました

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1941年3月1日、ヒトラーの片腕であるヒムラーがアウシュヴィッツを訪問し、ここに第2の収容所建設を命令。
ソ連侵攻を間近に控えて、新たに大量発生するユダヤ人やソ連軍の捕虜に対する措置を考えたのでしょう。
捕虜に対する虐待や殺害は国際法で禁止されていますが、あくまでも「アーリア人」の世界を構築しようとする第三帝国にとって、そんな国際法など存在しないも同然ですね。
ソ連に侵攻したドイツ軍は西部戦線と同様、当初はそれなりの戦果をあげました。
6月22日に開戦したあと、6月27日にはもうビャウィストクを占領し、ここにいたユダヤ人を虐殺。
7月20日にヒムラーは、マイダネク収容所の設置を命令。
7月31日には国防軍元帥のゲーリングによってハイドリヒはユダヤ人問題解決に関する全権を一任されたのですよ。

9月3日にはアウシュヴィッツ第1収容所でツィクロンBによる最初の殺害が行われたのですが、このときはユダヤ人ではなく捕虜になっていたソ連兵。
これがガス室でのユダヤ人大量殺害の第一歩だったのでした。
9月29日から30日にかけてウクライナのキエフで3万人のユダヤ人が殺害されたのですが、最終的には600万人というとんでもない数字に惑わされて、3万人がそれほど大きな数字ではないように思えてしまいますね。
ドイツ国有鉄道によるユダヤ人の輸送が開始されるとともに、11月1日にはベウジェツ絶滅収容所の建設開始。
もはやたんなる収容所ではなくユダヤ人を「絶滅」するのが目的の収容所というわけです。
12月7日にヒトラーは「夜と霧命令」を出しましたが、これは収容所体験を経て生き残ったヴィクトール・フランクルの著書のタイトルにもなっていますね。

ヴァンゼー会議でユダヤ人に対する最終解決が決定されました

1941年12月8日の日本軍によるハワイの真珠湾攻撃をきっかけにして、第二次世界大戦は太平洋地域にまで拡大するとともに、アメリカがこの戦争に加わったのですね。
1941年中にソ連との戦争に決着をつけるつもりだったドイツ軍は、ちょうどこの日にモスクワで敗退。
勝利することでこの戦争に決着をつけるということは望めなくなってしまいました。
ドイツが最終的に無条件降伏するのは1945年5月8日ですが、泥沼状態になった戦争はユダヤ人殺害を促進させたのですよ。
占領地域のユダヤ人と西側にいたユダヤ人は次々に絶滅収容所に移送され、一方では労働力として酷使されるとともに、他方ではガス室で殺害されたのですね。

ベルリンの近郊にヴァンぜーという湖がありますが、そこの別荘でユダヤ人問題の最終解決の全権を委任されていたハイドリヒを中心にして、1942年1月20日に会議が行われユダヤ人をすべて抹殺することを決定。
ここからガス室での大量殺戮がいよいよ本格化するわけです。
300万人のユダヤ人が労働力としてドイツに移送される一方、ユダヤ人は次々と殺害されたのですよ。
なお、5月27日にハイドリヒはプラハで襲撃され6月4日に死亡しますが、彼を中心にして決定された事項が消滅するわけではありません。
3月1日にソビブル絶滅収容所の建設が開始され、7月22日にはトレブリンカ絶滅収容所が完成。

ソ連軍により各地の強制収容所が解放されました

ソ連軍により各地の強制収容所が解放されました

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ヴァンぜー会議からドイツの敗戦までまだ3年以上の年月がありましたが、絶滅収容所でのユダヤ人やシンティとロマの殺害には目をおおいたくなるものがあります。
プラハの近郊にテレージエンシュタットという強制収容所がありましたが、ここを経由してユダヤ人は東にある絶滅収容所に送られたのですね。
1943年には赤十字社がテレージエンシュタットを視察しましたが、もちろん大量殺戮の証拠は見つけられません。
一方、このままガス室での死を待つよりはいいかと必死の思いで、収容者による蜂起が起こった収容所もありましたが、もちろん鎮圧されてしまいますね。

1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件が起こりますが、ヒトラーは無傷のまま戦争も収容所でのユダヤ人殺害も継続。
8月から9月にかけてテレージエンシュタットでプロパガンダ映画『総統閣下はユダヤ人に都市を贈られる』が撮影されたのですが、何を今さらというところですね。
この頃には第三帝国の敗戦が明らかになっていましたから、10月6日にヒムラーは殺人中止を命令するとともに、アウシュヴィッツ=ビルケナウの絶滅のための施設の破壊を指示。
戦争中だからといって国際法があるので、絶滅収容所で行われたことは許されるはずがありませんからその証拠を消そうということですね。
1945年1月27日にアウシュヴィッツはソ連軍により解放。
戦争が終わって、11月14日にはニュルンベルクで軍事裁判が開かれ、ナチの「犯罪」が次々に暴き出されたのですよ。

ベルリンにはユダヤ人犠牲者のための記念碑があります

2005年5月12日に、ベルリンのブランデンブルク門の南に「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」が建てられました。
通称ホロコースト記念碑と呼ばれています。
ユダヤ人の大量殺戮のことを言うのに用いられるこのホロコーストという言葉ですが、これはもともはユダヤ教徒が神に子羊を焼いて捧げる儀式のこと。
最近では「ショアー」という言葉を用いるようになっていますが、いずれにせよナチはなぜこんな惨いことをしたのでしょうか。
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