発明王トーマス・エジソンの波乱の人生と発明品の数々

子供のころに読んだ伝記は?教科書で習った偉人は?そう聞かれたとき、かなりの数の人がこの名前を挙げるのではないでしょうか。トーマス・エジソン。蓄音機や白熱電球、映写機など、エジソンの発明品を挙げ出したらきりがありません。84歳の生涯で1,300もの発明品を生み出した「発明王」であり、1,000以上の特許を持ち、権利を守るため訴訟を繰り返していたことから「訴訟王」と呼ばれることもあります。80歳過ぎても1日16時間は働いていたというエジソン。その生い立ちや人物像を重ねながら、発明品の数々を追いかけてみたいと思います。

トーマス・エジソンとは

エジソンの生い立ち

エジソンの生い立ち

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トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison)はアメリカ合衆国の発明家で企業家。
生涯で世に送り出した発明は1,300にものぼります。
また、発明するだけでなく、多くの投資家や著名人から資金援助を募ってGE(Edison General Electric Company、現在のゼネラル・エレクトリック社)を創設。
電気製品の製造・開発だけでなく、電気そのものの普及にも大きく貢献しました。

偉大な「発明王」として不動の地位にあるエジソンですが、苦学の人としても知られています。

エジソンは1847年2月11日にオハイオ州ミランという街で生まれました。
7人きょうだいの末っ子で、子供のころから「Why」が口癖の異常なほどの”知りたがり屋”だったそうです。
好奇心旺盛と言えば聞こえはいいですが、学校の教師からすればたまったものではありません。
なんと小学校を3ヶ月で退学してしまい、自宅学習をすることに。
そんなエジソン少年に母ナンシーは理解を示し、優しく受け止めたといいます。
母の愛なしでは「発明王」は誕生しなかったかもしれません。

こうしてエジソンは学校へは通わず、図書館に通うなどして自力で学んでいきます。
彼が特に興味を示したのが化学の実験。
12歳頃から、鉄道の駅で新聞の売り子などをして働きながら、自宅で様々な実験を行っていました。
自分で新聞を作って売っていたこともあったそうです。

エジソンは幼い頃から難聴の傾向があったそうですが、それに屈することなく、技術を磨いていきました。

ところで、19世紀中頃というと、世界はどんな様子だったのでしょう。

日本は幕末。
1853年にペリーが浦賀にやってきて、国全体が大きく変わろうとしている頃でした。
中国でも清王朝が大きく揺れている頃で、1864年に太平天国の乱が勃発します。
ヨーロッパでも1856年にクリミア戦争が。
世界は大きな転換期を迎えていましたが、一方で世界初の万国博覧会がロンドンで開催される(1851年)など、新しい時代の到来を予感させるようなイベントも催されています。
また、ダーウィンが『種の起源』で進化論を唱えたのもこの頃(1859年)。
世界のあちこちで殻を破る音が鳴り響いていたそんな時代に、エジソン少年は多感な時期を過ごしたのです。

発明家への歩み

発明家への歩み

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15歳の頃働いていた駅で、彼の人生を大きく変える出会いを経験します。

駅長の子供が列車に轢かれそうになったところを間一髪救出、という出来事がありました。
その折、駅長は子供の命の恩人であるエジソンに感謝し、お礼として、当時の最先端であった電信技術を伝授してくれたのです。
好奇心の塊とも言うべきエジソンが、この技術に興味を示さないわけはありません。
電信とは電気を使った通信のこと。
当時はまだ、電話も無線もなく、電信は情報伝達のための貴重な手段のひとつでした。

エジソンは短期間でこの技術を習得したといいます。

幼い頃は学校教育に馴染めず、「学習障害」とまで言われた少年は、母の愛に包まれ、絶えず好奇心を持ち続け、努力を積み重ねて成長し続けていきました。
そして駅長との出会いを経て、電信技師としての人生をスタートさせたのです。
それと同時に、彼は発明家としての一歩を踏み出しました。

モラルや社会性といった面では評価が分かれるところかと思いますが、電信技師として働き始めてから、エジソンは人生初の発明品を生み出しています。
「自動電信返答装置」です。

17歳の頃、駅で夜間電信係として働いていました。
夜勤中は、勤務についていることを示すために1時間おきに信号を送ることになっていましたが、そんな仕事を退屈に感じたのか、眠かったのか、おそらく不純な動機から「電信機が自動で1時間おきに信号を送る装置」を作って、自分は寝ていたことがあったそうです。
機械ですから時間は正確。
あまりにぴったりに信号が送られてくるようになったことを不審に思った上司が様子を見に来て、居眠りエジソンを発見し、エジソンは大目玉を食らったのだそうです。

発明家に必要なこととは

発明家に必要なこととは

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「楽をしたい」という思いがきっかけとなって様々な技術や発明品が誕生する様は、現代にも繋がるものがあります。
しかしそれがもとで事故が起きたり、事故の発見が遅れて被害が大きくなってしまっては本末転倒です。
当時のエジソンには、高い技術や創意工夫する知識はあっても、それを社会に役立てようという意識が薄かったのかもしれません。

そんなエジソンですが、へこむことなく、その後も様々な研究や発明を続けていきます。
21歳のときに「電気投票記録機」というものを発明して、初めて特許を取得。
投票・開票の手間と時間を大幅に短縮できる画期的な発明のはずが、実際にはまったく採用されませんでした。

政治の世界では、ただ票の数を数えればいいというわけではなく、少数派には少数派なりの戦術があります。
代表的なものが「牛歩戦術」。
日本の国会でもたまにありますね。
投票箱の前まで牛のようにゆっくりゆっくり歩いて進むことで投票時間を長引かせ、時間切れで廃案に追い込むなどの効果を狙った、いわゆる抵抗戦術です。
エジソンが作り出した機械ではこの戦術を使うことができなくなるので、野党から敬遠され抵抗を受けたのでしょう。

ここでエジソンは学びます。
どんなに高性能で優秀な機械を作り出しても、使う人に受け入れられなければ無意味なものになってしまうのです。
人が望んでいることは何なのか、それを知らずして発明は成り立ちません。

エジソンが作った「電気投票記録機」は優れた機械でしたが、誰にも使われなかったという点では、発明品としては失敗。
しかし、この失敗から多くを学んだであろうエジソンが発明家として初の成功をおさめるまで、このとき既に、秒読み段階に入っていました。

前進し続ける発明王

前進し続ける発明王

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22歳になったエジソンはニューヨークに移り住み、ウォール街のゴールド・アンド・ストック相場電信会社に就職します。
当時の株式市場の電信表示機は問題が多く、よく故障していたそうで、これに目を付けたエジソンは電信表示機の改良に着手。
改良版「ティッカー」を完成させ、特許も取得します。

この「ティッカー」がかなりのスグレモノだったため、ゴールド・アンド・ストックの社長自ら乗り出してきて、エジソンが取得した特許の買取の話が持ち上がりました。
提示された金額はなんと4万ドル。
現在の貨幣価値に換算するとおよそ2億円にもなります。
エジソンの驚きようは相当なものでした。

当時のエジソンは、電信技師として確かな技術を持っており、かなりの高給取りだったと考えられていますが、一方で、自宅に実験室を作ったり、高額な書籍を買いあさったりしていたため、懐具合は芳しくなかったようです。
ニューヨークに出てきたときは一文無しに近かったというエジソンは、持ち前の好奇心と努力の積み重ねで得た技術で一躍大富豪となります。

大金を得たエジソンはこの資金をもとにしてニュージャージー州にティッカーの工場と研究所を建てました。
ここでエジソンはさらなる研究を重ね、電信技術を大きく発展させていったのです。

彼が改良した「ティッカー」は、ストック・ティッカー・マシンといい、具体的には、ティッカーテープと呼ばれる紙テープに銘柄と価格情報を刻印する株式相場表示機のことを言います。
ティッカー(Ticker)とはこの紙テープに印字するときの音を表した言葉です。

現在ティッカーといえば「ティッカー・シンボル」のことを指します。
株の銘柄を表す1~5桁のコード(AAPL=アップル、MSFT=マイクロソフト等)で、日本の企業の場合はアルファベットではなく数字が多いようです。
現在ではディスプレイ表示で行っているこの仕組みも、20世紀中頃まではティッカー・マシンが使われていました。

電信表示機自体は、エジソンの登場より前から存在していましたが、長い年月使い続けられ、株式市場を支え続け、今尚その名前が残っていることから、エジソンの功績、影響力の凄さを感じ取ることができるはずです。

トーマス・エジソンの代表的な発明品

電話の発明と永遠のライバル「グラハム・ベル」

電話の発明と永遠のライバル「グラハム・ベル」

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30歳頃、エジソンはアメリカ大陸の電信事業大手であったウエスタンユニオンからの依頼で、スピーカーを使った電話機を作り出します。
しかし、電話は既に1876年に、スコットランドの科学者で発明家のグラハム・ベルと支援者たちによって発明され、ベルは特許も取得していました。
また、ベルとほぼ同時期に、イライシャ・グレイというアメリカの発明家もベルと同じような電話機を完成させていましたが、ベルより特許出願が2時間送れたため特許を逃すという事態も。
企業も学者も発明家も「新しい通信手段の発明が急務である」と感じていた、まさに”電信電話戦争”真っ只中の時代でした。

電話機そのものの特許はベルが取りましたが、電話に関する技術は電話機だけではありません。
その後も、電話に関する様々な技術や発明で、技術者や支援者、通信会社などを巻き込んで、特許の奪い合いや訴訟が続きました。

エジソンは1877年にカーボンマイクを使った送話器を作り出し、特許を出願します。
カーボンマイクは、ベルが開発した電磁石を利用したダイナミックマイクに炭素粒を加えて改良したものでしたが、これによって音質がかなり向上したのだそうです。
また、誘導コイルを用いたことで送話距離が伸び、電話は飛躍的に進化しました。
しかしここでも、エジソンは特許で泣くことになります。
この炭素粒を用いたカーボンマイクの特許を、エジソンより先に取得した者がいたのです。
それがなんと、ベルの開発チームのメンバーであったエミール・ベルリナー。
またしてもベルに出し抜かれてしまいます。
しかもエジソンとウエスタンユニオンはベルの会社から、カーボンマイクの特許を侵害していると訴えられてしまうのです。

結局、訴訟にはベルの会社勝利。
ウエスタンユニオンは電話に関する事業を全てベルの会社に譲り、自身は電信事業に専念するという条件が提示され、エジソンも電話事業から退かざるを得なくなってしまうのです。

エジソンの存在がなければ、電話機の発展はもっと遅れたかもしれません。
数々の発明を繰り出しながらも、電話事業分野では最終的には、ベルの影に身を潜めなければならなくなってしまったエジソン。
彼はこの結果に生涯、納得していなかったと言われています。

蓄音機は誰が発明したのか?

蓄音機は誰が発明したのか?

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電話で辛酸を舐めたエジソンではありましたが、決してへこたれてはいませんでした。
電話の発明の過程で得た技術や情報から、別の発明を思いつきます。
電話で、声を遠方に送ることができるなら、記録することもできるはず。
なにも電話にこだわる必要はない。
そう考えたエジソンは、即、音を記録する「蓄音機」の開発に注力していきます。

蓄音機の基本的な原理はフランスなどで既に考案されていましたが、エジソンはそれを形にし、実際に録音・再生する実験を続けていったのです。

そして1877年12月6日、エジソンは錫箔円筒式蓄音機「フォノグラフ(円柱型アナログレコード)」を完成させました。
このとき吹き込んだ音は童謡『メリーさんの羊』。
エジソン自らが歌ったものでした。
「話す機械」称されたこの機械は当時大変な話題を呼び、不思議な機械を一目見ようと、エジソンのもとに多くの人が押し寄せたといいます。

しかしエジソンはこのときはまだ、蓄音機を「用件をちょっと記憶するもの」程度しか考えていなかったようです。
そのため、記録された音の質は決して良いとは言えず、話題にはなりましたが実用には至っていませんでした。
そこに割り込んできたのが、またまたあのベルの会社。
音質を向上させ実用に耐えうる仕様に改良された蓄音機を開発。
このとき前線で貢献したのが電話競争でも登場したエミール・ベルリナーでした。

エジソンの蓄音機が円筒(シリンダー)方式なのに対し、ベルリナーは円盤(ディスク)方式を考案。
また、元の音源から安く大量に複製を作成する方法にも注目します。
一方のエジソンはあくまでシリンダー方式にこだわり、以後30年もの間、ベルリナーの方式との”覇権争い”が続きました。
しかし、最終的にはベルリナーのディスク方式が勝利をおさめることになるのです。

この間、ベルリナーはベルのもとを去り、1895年に自らが作成した円盤式蓄音機「グラモフォン」を製造・販売する会社を設立します。
この会社はビクターやEMIといった世界的な音楽企業の母体となっており、ベルリナーの蓄音機が与えた影響の大きさをうかがい知ることができます。

「発明は誰でも挑戦できる」ということ

「発明は誰でも挑戦できる」ということ

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電話も蓄音機の発明も、決してエジソン一人の功績というわけではありませんでした。
それどころか、特許やその後の利益、名声といった一面を切り取るなら、そこにトーマス・エジソンの名前はありません。
結果的に、エジソンの発明品は一線を退く形になったとしても、やはりエジソンの存在は大きかったはずです。
エジソンとの技術競争あってこそ、素晴らしい発明品を世に送り出すことができたと言っても、決して言い過ぎではないでしょう。

エジソンと熾烈な争いを繰り広げたグラハム・ベルは1946年生まれ。
奇しくもエジソンと同い年です。
ベルの父親は音声学者。
ベル自身もボストン大学の教授を務めるなど、音声学者の道を歩んでいたエリートでした。
一方のエジソンは小学校にも通っていません。
エジソンとベルは同時代に生きた発明家として、度々火花を散らします。

ベルの母親は聴覚に障害を持っていたのだそうです。
そのためベルは電話機の発明にこだわったと言われています。
エジソンも自身が抱える耳の障害から、やはり音に関する技術研究には人一倍情熱を燃やしていたと考えられています。

発明というものには専門的な知識や教育が必要。
それまでは、研究所の科学者や学者など一部の人が行うものでした。
しかしエジソンは、発明に必要な知識や教育を、すべて自力で取得してきたのです。
従来の固定概念にとらわれない自由な発想が様々な発明品を生んだ、という見方もできると思います。
そして、発明は誰でも挑戦できる、誰にでもチャンスはある、ということを身をもって示した、そんな気がするのです。

「発明」というものを一流の科学者たちの手から解放し、一般人にも手の届く”夢を実現する手段”にしたエジソン。
「発明」を発明した、と言っては、少し言葉が過ぎるでしょうか。

ベルはその後も、航空科学や水中翼船などの開発に従事しながら、音声学者として聴覚障害を持つ人々に貢献する人生を送りました。
しかしエジソンは一貫して「発明家」として生き続けます。
特許を取るのも、製造工場を作って製品を売り出すのも、お金を稼ごうとするのも、おそらくすべて、発明を続けるためだったのでしょう。
若いうちから働いて金を稼いでは書籍や実験施設につぎ込んできたエジソンにとって、ごく当たり前のことだったのかもしれません。

白熱電球の発明と電気の普及

白熱電球の発明と電気の普及

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もうひとつ、エジソンの発明として知られているものに「電球」があります。
京都の竹で電球のフィラメントを作り出したというエピソードをご存知の方も多いはずです。

しかし厳密にいうと、エジソンは電球の「発明者」ではなく、「改良を重ねて電灯の事業化・実用化に成功した人」ということになります。
エジソンは発明王として有名ですが、彼の発明品は彼がゼロから生み出したものよりも、既にあったものに改良を加えた、あるいは改良を加え世に普及させたものの方が圧倒的に多いのです。

1870年後半頃には、既に「アーク灯」という電灯が実用化されていました。
しかしこの灯はかなり明るく、室内灯には適していなかったのです。
エジソンはランプより明るくてアーク灯より柔らかな光を作り出そうと考え、研究を重ねていました。

時代が求めていたものと言うべきでしょうか。
エジソンと同じようなことを考えた学者や企業は大勢いました。
エジソンはまたしても競争を余儀なくされます。

白熱電球の発明でエジソンと最も激しく競り合ったのが、イギリスのジョセフ・スワンという化学者でした。
彼は1850年頃には既に白熱電球の研究を始めていたと考えられています。
そして1878年、スワンは白く発光する電球の開発に成功。
イギリスで特許も取得し、様々な場所で実用実験を繰り返していきます。
この段階ではまだ、スワンの電球の寿命はまだまだ短いものでした。

一方、エジソンも、数千回にも及ぶ実験を繰り返し、1879年に45時間光り続ける実用的な白熱電球を作り出します。
しかしここでまた、訴訟の嵐が吹き荒れることに。
スワンが特許を侵害しているとしてエジソンを訴えたのです。
エジソンとスワンはそれから何度も、電球や電気に関して争いを繰り返しました。

争うより協力するほうが得策と考えたエジソンは、スワンに共同開発を申し出ます。
「エジソン&スワン電球会社」を設立し、電球の発明者としての権利を分けることにしたようです。

この後、エジソンはより良いフィラメント素材を探すべく6,000種類もの材料で実験を繰り返しました。
そして出会ったのが竹。
竹のフィラメントは200時間以上も光を放ったといいます。
竹の存在に気付いたエジソンは世界中から1,200種類もの竹を集めて実験。
京都八幡の竹で作ったフィラメントは1,000時間以上の点灯記録を作りました。

それから15年ほどの間、京都の竹はエジソンのもとにたくさん届けられ、何百万個という数の白熱電球が世界を明るく灯すようになったんです。

発明王トーマス・エジソン

直流発電機と電流戦争

直流発電機と電流戦争

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1880年代に入ってからのエジソンは、さらに発明にのめり込んでいきます。
彼は、心血注いで開発した白熱電球を「普及させる」という壮大な計画を思い描いていました。
そのためには各家庭に電気を送るシステムを確立しなければなりません。
なんとエジソンは電球の改良開発だけでなく、それを使うための発電や送電設備開発事業に乗り出したのです。
エジソンはニューヨークで、電線を引き電気を供給する事業を始めます。
このときエジソンが考案したのは直流送電によるシステムでした。
エジソンは直流送電に関する技術の特許を60件近くも取得し、盤石の基礎を築きます。
このころ電気と言えば概ね直流が主流だったのです。

直流だと何キロも先まで電気を送ることができません。
エジソンはその分、たくさん発電所を作って網羅するつもりだったようですが、ここで思わぬ対抗馬が登場します。
交流発電機です。

交流だと長距離の送電の場合でも効率がよく、一般家庭に電気を送るのに適した方法でした。
作り出したのはエジソンの会社で働いていたニコラ・テスラという科学者。
語学に長けた天才だったそうで、直流より複雑で扱いが難しいとされる交流システムを作り上げていきます。

エジソンはテスラの能力を認めていたようですが、この送電システムに関しては、直流の主張を譲らなかったのだそうです。
かくしてエジソンとテスラは対立関係に。
直流か交流か?単に技術の上での対立か、それとも個人的な恨みや妬みも絡んでの確執なのか。
周囲のみならず業界をも巻き込んで、大論争に発展していきました。

この争いの結末は、より高性能な変圧器の登場など時代の後押しもあって、軍配はテスラに上がります。
電気は交流で送電されることとなったのです。

エジソンが改良を重ねていった白熱電球は、テスラが作り出した交流システムによって、外灯だけでなく一般家庭の室内も、安全で明るい光に照らされるようになりました。

エジソンがなぜ直流にこだわり続けたのか、本当のところは本人にしかわからないことだと思います。
電気技術を牽引してきたパイオニアとしてのプライドなのか、高等教育を受け数学や物理の基礎をしっかり身につけた上で高度な開発を行うテスラへの嫉妬心があったのか。
エジソンは最期まで直流を諦めなかったのだそうです。

交流に敗北したエジソンですが、最近では直流送電も見直されているとか。
確立したかのように思える送電技術も、今もなお進化しつつある模様。
このことをエジソンが知ったら、どんな顔をするでしょうか。

映画の父としてのエジソン

映画の父としてのエジソン

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蓄音機を作ったときの人々の反応が心に残っていたのかもしれません。
1891年、エジソンは「キネトスコープ」という名前の機械を発明します。
映写機です。
蓄音機よりきっともっと多くの人々に楽しんでもらえる、そう思ったのでしょう。

ちょうど、カメラやフィルムの技術も向上しつつあり、パラパラ漫画のように目の錯覚を利用して絵が動いているかのように見える機械なども既に出回っていました。
そこでエジソンは、撮影用のカメラ「キネトグラフ」と、撮影した映像を映し出す「キネトスコープ」を作り出します。
ただこのときのキネトスコープはスクリーンに映し出すものではなく、人が入れるほどの大きな箱型。
名前から想像できるとおり一人ずつ中を覗き込んでフィルムを見る、というものでした。
たった1分ほどの映写時間にも関わらず、キネトスコープは世界的大ヒットとなります。

キネトスコープの成功は、フランスの写真研究家リュミエール兄弟に大きな衝撃を与えました。
彼らはキネトスコープを改良して、スクリーンに投影する「シネマトグラフ」を開発。
一度に多くの人が映画を鑑賞できる設備を開発します。

リュミエール兄弟の映写機に衝撃を受けたエジソンは、自身もスクリーン投影タイプの映写機を開発し、研究所内にスタジオを設けて、映画に関する発明や研究に没頭していきました。

実はエジソン、キネトスコープを発明する際、「一度に大勢の人に見せると映像の価値が下がってしまうし、次々新しい作品を作らないとならなくて大変」と考え、あえて一人ずつ覗き込むタイプの映写機を作ったらしいのです。
この考え方が裏目に出て、リュミエール兄弟に後れを取る結果に。
発明王らしい考え方とも言えますが、もちろん転んでもただでは起きないのが我らがエジソン。
フィルムの改良や撮影技術の向上など、その後も一線で活躍を続けていきました。

映画の開発・普及に携わった人は、エジソン、リュミエール兄弟以外にも大勢いたのだそうです。
それほど、映画という娯楽は、世界中に爆発的に広がっていました。
しかしその影響力の大きさから、現在ではこの二組を「映画の父」と呼び、その功績を称えています。

トースターの発明と「一日三食」

トースターの発明と「一日三食」

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画期的な発明にはリスクもつきものだとは思いますが、それにしてもエジソンの発明人生は波乱に次ぐ波乱で、ライバルとの競争や訴訟など、まったくもって息つく間もありません。
それはもちろん、地位や名声、発明家としてのプライドに基づくものだと思いますが、それ以上に、発明品の利権が生み出す巨額の利益が絡んでいたせいもあるでしょう。
エジソンは発明王であるとともに訴訟王とも言われていたそうです。
映画に関してはリュミエール兄弟とは特に争いにはならなかったようですが、その後、自らが開発した映写機やカメラなどの利権を守るため、エジソンは映画会社などを相手取って次々訴訟を起こしています。
エジソンの発明品の話を掘り下げていくと、必ずと言っていいほどぶち当たる訴訟や利権争い。
ただいいものを作るだけでは、名を残すことは難しいようですが、少し、心休まる発明品の話も取り上げたいところです。

エジソンが電気事業に乗り出したのは、白熱電球の普及が大きな目的でした。
しかし、電気が十分に各家庭に送られるようになると、白熱電球以外にも電気の使い道がないか模索を始めます。
みんなにもっと電気を使わせようと考えたのです。
そこで考え出したのが家で使える電化製品の数々。
扇風機、ヒーター、アイロン等々。
中でも有名なのがトースターです。

当時のアメリカ人の食生活は、1日2食が標準でした。
あるときとあるインタビューでエジソンが「(自分がこんなにたくさん発明できるのは)一日三食食べているからだ。
みんな朝食にパンを食べよう」というようなことを答えたのだそうです。
するとみんな、エジソンにあやかろうと、朝食にパンを食べるようになります。
実はこれは、エジソンがトースターを売りたくて言ったことらしい、という噂もあるんです。

一日三食の習慣が定着したのはエジソンの発言から……なのかどうか定かではありません。
トースターの売り上げが伸びたかどうかもわかりませんが、エジソンが考え出した電化製品は今も進化を続け、私たちの生活になくてはならないものとなっています。
ただ利益を追求しただけでは、ここまで残りはしなかったでしょう。
みんなに喜ばれるものを作りたい。
それが発明王の全てだったのではないでしょうか。

霊界通信機は完成しなかったのか?

霊界通信機は完成しなかったのか?

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エジソンは電気や通信などの技術開発の第一人者である一方で、超自然現象やオカルト的なものにも強い興味を示していたと言われています。
ある程度年齢を重ねてからと考えられていますが、霊の存在や来世を信じて、死者や霊と更新する電信装置の研究を行っていたのだそうです。
辛くもこの「霊界通信機」が、生涯で1,300もの発明を世に生み出したとされるエジソンの最期の発明となりました。

結果的に、この装置は残っていないため、真相(完成したのか、あの世と交信できたのか、本当にそんな研究をしていたのか)は定かではありません。
しかし、彼は生前、発明の際のひらめきは「宇宙から降りてくる」「霊界から得ている」というようなことも語っているのだそうです。
そして、後半生15年ほどかけて、かなり真剣に「霊界通信機」を作ろうとしていたとも言われています。
通常、電気や通信などの科学技術を生業としているなら、霊の存在など考えもしないでしょう。

こうしたオカルト的な発明に没頭する前から、エジソンは「魂は宇宙を構成するエネルギー」という考え方を持っていたのだそうです。
そして「人の記憶を司る脳の細胞は、死後、その人の脳から離れて、その人の記憶を持ったまま宙を飛んでいく」というようなことを考えていました。
その、宙に飛んでいった”人の記憶”とやり取りすることができるのでは、とも考えたようです。

この時代、欧米ではちょっとしたオカルト・霊界ブームが起きていました。
発明家として高名なエジソンに挑戦状を送りつけてくる自称霊能力者もいたかもしれません。
エジソンも、最初は「そんなの暴いてやる」と息巻いていたのかもしれませんが、晩年は、降霊術などを行う者たちとの交流もあったようです。

確かにエジソンは電気や通信を始めとする最先端技術に囲まれていました。
しかし、エジソンは、科学者ではなく根っからの発明家です。
科学という考え方に縛られず、自由な発想で物事を見ていたのかもしれません。
子供の頃、様々なことに興味を持ち、「Why?」が口癖でまわりの大人を困らせていたエジソン。
彼の好奇心が蓄音機や電話に向いたのと同じように、単に霊的なものに興味を示しただけなのかもしれません。

天才とは1%のひらめきと99%の努力である

これはエジソンが残した名言のひとつで、現代では「努力の重要性」を説くものとされていますが、エジソンは「1%のひらめきがあってこその努力である」と言いたかったのでは?との見方もあるのだそうです。
努力だけが成功の秘訣ではないと、言いたかったのかもしれませんが、一方でエジソンは大変なメモ魔で、500万枚以上のメモや記録が残されていて、まだ整理しきれていないと聞きます。
これを努力と言わずして何としましょうか。
波乱万丈、失敗や敗北にも負けず進み続けたエジソンは「発明王」であるとともに「努力の人」でもあったのです。
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