【マカオの歴史】ヨーロピアンな香り漂うマカオの歴史は、やっぱり摩訶不思議!

カジノで有名なマカオですが、西洋と東洋の文化が共存する都市としても魅力があります。優雅でヨーロピアンな雰囲気を満喫できるマカオって、どんな歴史を辿ってきたのか気になりませんか?今回は、マカオの歴史を少しだけ紐解いてみたいと思います。少しの時間お付き合いくださいね!

マカオってこんな町!

マカオってこんな町!

image by iStockphoto / 99445919

マカオは1997年に香港と同じ時期に中国に返還されるまでは、ポルトガルに統治されていた都市です。
エキゾチックでエネルギッシュな東洋と優雅でおしゃれな西洋の文化が上手く融合した美しさを体感できるのが、マカオの魅力ではないでしょうか?

現在マカオの観光で人気No.1は、世界遺産巡りだとか。
瘋堂斜巷や馬忌士街などのポルトガル風の石畳の街並みを散策していると、その一角に、世界遺産の中国式の媽閣廟や中庭のある中国式の住居盧家屋敷など東洋の建築物に出会い、うっとりしている自分がいることに気づきます。
また、英国時代の名残も残っており、優雅に英国風のアフタヌーンティをいただきながら、会話を楽しむのもマカオ旅の醍醐味です。

image by iStockphoto / 44543342

マカオのもう一つの魅力は、夜景ではないでしょうか?コロニアルな西洋館が立ち並ぶセドナ広場や蓮の花と葉をイメージして建てられたブランド・リスボア・マカオ、ウィン・マカオ前の噴水もライトアップされちゃいます。
高層階のレストランやルーフバーで、夜景を望みながらの一時はまさに至福という言葉がピッタリですね。

実は、日本の種子島に鉄砲を伝来した3人のポルトガル人は、マカオ港からやってきたという説もあります。

マカオとポルトガルの出会い

マカオとポルトガルの出会い

image by iStockphoto

マカオは、正式名称「中華人民共和国マカオ特別行政区」といい、中国の特別行政区の一つとされています。
中国の広東省南東部にある珠江西側の下流に位置し、香港からは西南西の約64kmの対岸にあります。
現在、中国の一部となっているマカオは、ヨーロッパで最古の植民地とされた都市との説があります。

マカオにポルトガル人が初めて訪れたのは、1513年のこと。
でも、この時は入港を認められていません。
1517年に公式使節団として訪れた、ジョルジェ・アルヴァレスが中国南部に上陸し貿易が認められました。
2回目の使節団として派遣されたのは、アルヴァレスの弟シモンでした。
しかし、彼は悪政により中国人から嫌われてしまい、通商の特権を奪われてしまいました。
1522年には、ポルトガル人全員が追放されています。

日本の存在も知っていたポルトガル人

日本の存在も知っていたポルトガル人

image by iStockphoto

1517年にアルヴァレスがマカオの地に来た時に、一緒に訪れていたのはトメ・ピレスでした。
ピレスは、明朝とも交易をはじめようと、皇帝に謁見するために北京へと向かいました。
しかし、1511年に占領していたマラッカ王国からの悪評がたってしまい、交渉は決裂してしまいます。
ピレスは、広東に引き渡され拘束されました。

その後、ポルトガル船は中国からの攻撃を受けて追い払われました。
と同時に拘束されたピレスは見放され、生涯を投獄されたまま過ごしました。
酷い!まるで使い捨てですね。
このピレスは『東方諸国記』という記録を残した人物といわれており、その中には中国と共に日本についても記載がされています。
これが、ポルトガルの歴史上、初めて日本が登場した記録です。

マカオとの名前を付けたのは、ポルトガル人だった

ポルトガル人が、漁師町だったこの地にやってきたときに、何という地名か尋ねました。
その時、地元の人は「媽祖廟(まそびょう)」と答えました。
これが、訛ったために「マカオ」と呼ばれるようになったようです。

一端マカオから追放されたポルトガルですが、1533年にようやく明朝との貿易ができるようになりました。
これを機に、ポルトガルはアジアでの貿易において息を吹き返しました。
マカオを拠点に、ポルトガルの貿易は明朝や日本、東南アジアまで、拡大していきました。
おいしかったのは、ポルトガルだけでなく、マカオも貿易の中継地として繁栄しました。

マカオはポルトガルの植民地ではなかった?

マカオはポルトガルの植民地ではなかった?

image by PIXTA / 22167513

実は日本でも名前を知らない人はいない「フランシスコ・デ・ザビエル」も、マカオを拠点として東南アジア各国にカトリックの布教活動を進めていました。
マカオには、今でも数多くの教会が残っています。
明朝は海賊(倭寇)たちに脅かされる日々が続き、頭を悩ませていました。
明朝に味方し海賊征伐に手を貸したことから信頼を得たポルトガル人は、1557年にマカオに居留地を設けることが認められました。

image by iStockphoto / 63832067

「1557年ポルトガル領マカオ植民地成立」と書かれることが多いようですが、実は、後期倭寇の討伐で明に協力した成功報酬として、マカオの永久居留権を認められただけだったとの説が濃厚だとか。
でも、定住開始が1557年だったという説も、あやふやで明確な根拠がないそうです。
やっぱりマカオって摩訶不思議なイメージがピッタリかも。
日本が鎖国するまでは、長崎との貿易で繁栄を極めましたが、広東の対外開放などにより、貿易港としての役割は衰退していきました。
1565年にマカオに定住した「イエズス会」も1762年には、マカオから追放されました。

アヘン戦争を機にポルトガルの領土となったマカオ

アヘン戦争を機にポルトガルの領土となったマカオ

image by iStockphoto

清国とイギリスの間で1840年に起こったアヘン戦争は、1842年にイギリスの勝利で終わりました。
勝利したイギリスは、香港島を獲得し、ポルトガルも1845年にマカオ自由港の設立を宣言して中国を追い出しました。
1848年に中国人が総督を殺害するという事件を起こしたことにより、タイパ島とコロアネ島を占領し、マカオの行政権を獲得しました。

1887年にポルトガルは、清国との間で香港からのアヘン密輸の取り締まりに協力した報酬として、正式にポルトガルの植民地として引き渡されました。
残念なことに、そのころ香港が貿易の要となっており、大型船が入港できなかったマカオ港は、貿易港としての栄光を取り戻すことはありませんでした。
しかし、欧米人の保養地として観光が成長しはじめます。

第二次世界大戦から変化するマカオ

第二次世界大戦から変化するマカオ

image by PIXTA / 13612556

第二次世界大戦のときポルトガルは、中立国としての立場を取りました。
東南アジアのほぼ全域を占領していた日本も、ポルトガルの植民地であるマカオは占領しませんでした。
そのため中立港としての立場を得て、経済的に繁栄しました。
でも、マカオに中国本土から難民が大量に流れ込んだようです。

植民地として支配したがっていたポルトガルの思いは通らず、1966年には中国系の住民によるマカオ暴動が起こりました。
ポルトガル本土でも、1974年にカーネーション革命が起こってしまい、政権が交代したことで、海外植民地の放棄を宣言しました。
ポルトガルの民主化により、マカオの立場も変化します。
1976年にマカオをポルトガルの特別領とし、「マカオ組織章程」を制定しました。
立法会の設置や行政や経済の上で、マカオは多くの自治権を獲得しました。

中国返還へと進んでゆくマカオ

中国返還へと進んでゆくマカオ

image by iStockphoto

1979年には中国とポルトガルの国交が樹立することにより、実はマカオが、中国に主権があるということが確認されました。
1984年に、中国はイギリスと香港返還交渉をはじめました。
それに伴いポルトガルともマカオ返還に向けて動いたのです。
1987 年4月13日にポルトガルは、中国とマカオ返還の共同声明に調印し、1999年12月20日に中国に返還されました。
マカオは現在も中国の特別行政区として、益々素敵な都市になっています。

豪華絢爛なカジノはもちろん、ショッピングやグルメに30もの世界遺産と魅力たっぷりのマカオに出かけてみませんか?

昔から日本とのつながりが深かったマカオは、中国にありながら親日的な都市です。
ゴージャスというイメージがピッタリのマカオでは、カフェやスパで優雅な時間を過ごし、世界遺産を巡って東洋と西洋のコラボを満喫する観光も楽しめます。
日本ではご法度のカジノを楽しむのも醍醐味ですね。
日本から約4時間半の距離にあるマカオですが、小さな都市に魅力がぎっしり詰まっており、日本にはない文化を貪欲に満喫できる街です。
ぜひ、出かけてみてくださいね。
photo by PIXTA and iStock