【地下水がポイント?】観光前に知りたい、京都「錦市場」の歴史

錦市場は多くの観光客が訪れる「京の台所」として知られています。では、錦市場はいつの時代から存在し、なぜこの土地にあり、ポイントになったものは何だったのか?そしてどのように衰退と発展を繰り返し、現在まで続くのか?

そして、この錦市場で生まれた画家・伊藤若冲にも触れてみたいと思います。若冲は錦市場でどのように生き、どんな絵を描くことを目指し、最終的にどんな代表作を残したか?ということについて見ていきたいと思います。

ではまず、錦市場はどんな商店街かということを見ていきましょう。

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錦市場の歴史、平安時代から現代まで

錦市場とはどんな通り?

錦市場とはどんな通り?

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錦小路通りは京都の四条通りの一本北に位置し、商店街振興組合に所属する店は126店舗、道幅は3.3mから5m(私も通ったことがありますが、なかなか狭いですよね。
しかしその狭さが良いんだと思います)、東の端には新京極があり、そこにあるのは錦天満宮。

京都駅からだと地下鉄の四条駅、大阪からなら阪急電車の烏丸駅もしくは河原町駅で降りれば近いと思います。

この狭い通りの両側に様々な商店が軒を連ねていて、平成5年に完成したアーケードも錦市場を象徴する看板となっています。

地元の人をはじめ多くの観光客が訪れ、お店の人たちと話しながらいつも大勢の人で賑わっています。
特に年末や正月は人が混んで前に進めないほど。
私もここで前に進めなくなる状況を経験したことがあります。
狭い市場で、人が立ち話してたら、仕方ないですよね。

2006年、錦市場は経済産業省が選定する全国の「がんばる商店街77選」に選ばれました。
私の住んでいる岡山の商店街は、いろいろ努力しているにもかかわらず、活気が足りないと思うので、世界に知れた観光の大都市・京都とはいえ、羨ましいと思ってしまいます。

錦市場では京都の旬の食材や京野菜、京漬物その他、湯葉・ウナギ・佃煮・カマボコ・乾物などから茶・菓子・寿司・豆腐に至るまで手に入り、試食できる店舗もたくさん。
そのままお店で食べて帰ることもできますし、観光客に人気なのが豆腐や京漬物といったところです。

地下水がポイント?錦市場は「くそ小路」だった?

地下水がポイント?錦市場は「くそ小路」だった?

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錦小路の魚市場の歴史は古く、延暦年間(782〜805年、平安時代)に開かれたといわれていますが、確実な資料はありません。
しかし、この地は清い地下水に恵まれていたため、魚や鳥の貯蔵などに適しており、人口の多い都心部にあったことから、魚や鳥が御所に届けられる往復の道に自然発生的に市が立ったことは容易に推測できます。

地下水がポイントなのですね。
しかし、この時代、氷もそう簡単には作れなかったでしょうし、どんな保存方法があったのでしょうか?

昔の錦では地下水を利用した降り井戸(その名のとおり、降りることができる井戸)で生物を冷やして、冷蔵庫の代わりをしていました。
今でこそ冷蔵庫があり、私たちの生活でものを冷やすのは当たり前で簡単なことですが、昔はそうはいきませんでした。
当時は井戸水自体が貴重で、冷やす方法は井戸水以外に考えられませんでした。

また、それまでは具足小路(ぐそくこうじ)や、なんと「くそ小路」などと呼ばれていましたが、天喜2年(1054年)に時の天皇だった後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)が「錦小路」と改めたといわれています。

「くそ小路」はなかなかひどい言われようですね。
当時はあまりキレイな市場ではなかったということでしょうか?

衰退と復活の繰り返し?

衰退と復活の繰り返し?

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1311年7月12日付けの淀魚市二郎兵衛による書き付けには、淀魚商人が錦小路で替銭をするように書かれており、すでにこの時代には数店の魚屋があったことが示されています。

また元和元年(1615年)、幕府が初めて魚問屋の称号を許し、上の店(かみのたな)、錦の店、六条の店と京都の特権的鮮魚市場として、三店(さんたな)魚問屋とし、錦市場は本格的な魚市場としての第一歩を踏み出しました。

幕府から指定があったのですね。
しかし、三店って外国の歌手を彷彿させますね。

しかし、明治維新後、株仲間と三店魚問屋の特権が廃止され、同業者の過当競争のため市場は混乱を極め、明治16年頃には大店7軒にまで激減。
衰退した歴史があったとは、今日の賑わいからは想像もつきませんね。

そこで、水産魚介類業を中心に「錦盛会」(今度は相撲取りの名前を彷彿とさせられますね)が結成され、錦市場は新たに活気を取り戻しました。

ところが、昭和2年、全国で最初の京都中央卸売市場ができ、錦市場からも多くの店が移っていきました。
意外にも衰退とそこからの復活を繰り返しているのですね。

魚だけではない京の台所へ

魚だけではない京の台所へ

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そこで翌年、青果業や生肉業などの食料品店を加え、「錦栄会」を設立。
魚だけの市場をやめたのですね。
ここにあらゆる食品を扱う「京の台所」として新たに出発しました。
その後の昭和38年(1963年)錦栄会を発展解消し、京都錦市場振興組合を設立。

昭和40年(1965年)には阪急電車の河原町延伸で、市場のポイントだった地下水が枯渇。
しかし、当時の組合の働きかけにより、京都市より共同井水事業の許可を受け、同年から井水事業が始まりました。

その後、1965年には近隣の土地を買収して大手スーパーの進出を阻止。
地元の商店街を大きなスーパーから守るには、こういう方法もあるのですね。
お金があればこその話だとは思いますが。

昭和51年(1976年)には青年部会が発足し、イベントや他商店街の青年部との交流が始まり、また昭和59年(1984年)には石畳の道路に。
しかしこれで井戸水が使えなくなり、水道水を使うことに。

1993年には総工費17億余円でアーケードが完成し、5カ所の辻の天井には京の食文化の伝統が四季とともの描かれています。

その後2000年代に入り、「錦にぎわいプロジェクト」を立ち上げ、さらに「錦市場」の商標特許も立ち上げ、スローフード発祥の地であるイタリア・フィレンツェのサンロレンツォ市場と友好協定を締結。

そして2013年には振興組合創立50周年を迎え、錦・高倉口に錦市場出身の画家・伊藤若冲の生家跡にモニュメントが設置されました。
さて、ここで伊藤若冲という人が出てきましたが、どんな人なのでしょうか?

画家・伊藤若冲はどんな生活から画家になった?

錦市場の青物問屋で生まれた若冲は、商人としても有能だった?

錦市場の青物問屋で生まれた若冲は、商人としても有能だった?

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次はこの伊藤若冲について触れていきましょう。
若冲は正徳6年(1716年)、錦高倉青物市場の問屋「桝屋」(ますや)の長男として生まれました。
問屋は生産者あるいは仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、売場の使用料を徴収する流通業者。

若冲と親交のあった禅僧・大典(だいてん)は「若冲居士受蔵の碣銘」(じゃくちゅうこじじゅぞうのけつめい)に若冲の家業の実態を次のように書いています。

「錦街には魚や野菜を商う店が並び、毎日荷物をかつぐ者たちが大勢ひしめき合うように集まって、市を形成していました。
だから居士(若冲)の家は日々彼らからその場所代を取れば、十分な利益を上げることができました」

こういうそんなに動かずにお金を儲けられるというのは、商人にとっての理想ですよね。

しかし、若冲在世時の寛政5年(1793年)に筆記された噂話では、若冲が俗世を嫌うあまり、2年ばかりも丹波の山奥に隠棲したため、3000人もの青物売りが迷惑したと伝えられています。
多数の商人を管轄していたようで、彼の重要な仕事は小売ではなく商人同士の調整。
画家だけでなく、最初は商人としても有能な人だったのですね。

都市のストレスを嫌い、山奥での絵画隠遁生活へ

都市のストレスを嫌い、山奥での絵画隠遁生活へ

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「藤景我が画の記」(とうけいわがえのき、「景和」は若冲の字(あざな))で大典は若冲の無欲を賞賛し、「都や田舎で金持ちになり、奢った暮らしをしている人々のことのようになりたいとは一度も望むことはなかった」といいます。
当時そういった成功者が多かったことも表わし、そのほとんどは庶民の生活物資の流通を扱う商人。
若冲の生家はそれらの勢力に近かったですが、利益と損失の可能性が双方とも増大するような商業の発展は若冲をはじめ都市の商人や生活者たちにかなりのストレスを与えたことでしょう。
発展している街中って人が多くてうるさいですもんね。
丹波の山の中だと静かで、絵を描くような人には良い場所でしょうか。
とにかく、若冲の若い頃からの隠遁(いんとん)の志は、そんな心労からの逃避だったかもしれません。

父の死後、若冲は青物問屋の主人として17年を生き、宝暦5年(1755年)、40歳で家業を次弟に譲り、本格的に「自然」を描く絵画に専念するようになります。
40歳から自分のやりたいことを始めるのって、今の人にも希望が持てる話なのではないでしょうか。
私も「山奥に隠遁して好きなことをひたすらやりたい」という思いはあります。

若冲の画法と代表作はどんなもの?

若冲はどのようにオリジナルの画法にたどり着いた?

若冲はどのようにオリジナルの画法にたどり着いた?

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若冲は「絵画に没頭し、30年が1日のように過ぎていった」(藤景和が画の記)と1760年ごろに書かれているので、彼が絵を描き始めたのは10代半ば頃ということになります。
その修行の過程を大典は次のように述べています。

「若冲は狩野派の技をなす者に絵を習い、その技法に通じてしまい、ある時考えた。
『これは狩野派の技法で自分はこれをやっていても狩野派の技法を超えはしない。
これを捨てて宋・元の絵画を学ぼう』と宋・元の技法を学んだ。
真似して描いたものは1000点におよび、また考えた。
『模写は人の後についていく行為であり、結局宋・元の画人と肩を並べることはできない。
それに彼らはものを描いているのだろう。
彼らが描くものを自分が描くのでは、自分とものとは一つの層を隔てていることになる。
それなら自分で直接物を描く方がマシだ。

自分は何を対象にしても、中国の故事人物は存在しない。
しかし、日本の人物を描くのは耐えられず、実際に見る風景も絵にあるほどのものに遭遇したことはない。
やむなく動植物とうことになるが、孔雀(くじゃく)・カワセミ・オウム・錦鶏鳥(きんけいちょう)などはいつも見るわけにはいかない。
ただ鶏(にわとり)は村で飼われているし、その羽毛の色彩も美しい。
自分はこれから始めよう』と。

そして鶏数十羽を庭に飼い、その形状を観察し写生すること数年。
その後、対象は草木・鳥獣・虫魚の類に及び、それらの形と神髄を極めつくし、心に思うままに手が書き出せるようになった」。

元からある絵を真似して描いているのでは、自分のオリジナルというか、そういう絵は出来ないと感じたのでしょうね。
また、身近にある題材を探してそれについて描いていくことにオリジナルを突き詰めるということが出来たのですね。
私は絵画はあまりよく分からないのですが「絵の技術はこういう風に上達していくのだな」と感じました。
後で鉛筆を持って何か適当に書いてみようかと思わせるエピソードです。

若冲の代表作・動植綵絵とは?

若冲の作品に動植綵絵(どうしょくさいえ)というものがあり、これは文字通りの意味だと、動植物を描く彩色の絵ということになります。
若冲が宝暦8年(1758年)頃からほぼ10年近くをかけて完成させた彩色の花鳥画30幅の連作であり、彼はこれを「釈迦三尊像」(しゃかさんそんぞう)3幅とともに相国寺(しょうこくじ)に寄進。

明和2年(1765年)に24幅を納めたときの寄進状には「私は絵画に全力を尽くし、常に優れた花木を描き、鳥や虫の形状を描き尽くそうと望んでいます。
題材を多く集め、一家の枝となすに至りました。

また、かつて張思恭(ちょうしきょう)の描く釈迦文殊普賢像(しゃかもんじゅふげんぞう)を見た所、巧妙無比なのに感心し、模倣したいと思いました。
そしてついに三尊三幅を写し、動植綵絵24編を作ったのです。
すべて相国寺に喜捨し、寺の荘厳具の助けとなって永久に伝わればと思います。
私自身もこの地になきがらを埋めたく、いささかの費用を投じ、香火の縁を結びたいと思います。
ともにお納めくださいますよう、よろしくお願いします」とあり、古代中国からある花鳥画の歴史を辿ってみても描写の密度と独自性において匹敵するものがない大作だと言われています。

私も見た感じ、動物の活き活きとした姿を鮮やかに描いたような作品が多くて面白いです。
この動植綵絵は現在では東京都千代田区の皇居東御園内の宮内庁三の丸尚蔵館にあるらしいのですが、常設はしてないらしいのでご注意を。

また、若冲は水墨画や版画にも挑戦しているのですが、これはまた機会があれば、ということにしたいと思います。

地下水が決め手で平安時代からある錦市場も、若冲の動植綵絵もどちらも絶品

錦市場は平安時代から存在し、ここから地下水が湧き出ていたことがここに市が立った決め手。
魚や鳥が御所に届けられる往復の道の途上にあったため、ここにできたと言われています。
明治時代や昭和期にピンチもありましたが衰退と復活を繰り返し、京まで残っています。

また錦市場で生まれた伊藤若冲は都市のストレスを嫌って丹波で隠遁。
錦市場がメインのタイトルなのにこれは私はなんとも言えませんが、若冲は動植物が活き活きとした姿を描き、その代表作の動植綵絵はぜひ一度目にして欲しいと思います。

本当はもっと若冲について触れたかったのですが、それはまたの機会があれば。
では、今回も最後まで読んでくれてありがとうございます。

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