5千円札に登場する女流作家「樋口一葉」が歩んだ波乱の人生

2004年(平成16年)から5千円札の新デザインに登場する「樋口一葉(ひぐちいちよう)」。主に明治時代に活躍した女流作家である彼女は24年の短すぎる生涯で数々の名作を残し、その間に激動の人生を送ったことでも有名になっています。そんな「樋口一葉」とはどのような人物であったのか、生涯とゆかりの品々を展示する記念館、ゆかりのスポットなどを見てみましょう。

才能を示す幼少期

学業優秀な学生時代

学業優秀な学生時代

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樋口一葉(本名は樋口奈津)は1872年(明治5年)3月25日に樋口為之助(則義)、古屋家の娘・多喜(あやめ)の第5子として東京府第二大区一小区内幸町・東京府庁構内(現在の東京都千代田区)で誕生。

父は江戸に出たのち蕃書調所(ばんしょしらべしょ。
江戸幕府直轄の洋学研究教育機関)の勤番を務め、明治維新後は下級役人として1876年(明治9年)まで東京府庁に勤務。
俳諧や狂歌などの学問を好んだ一葉の祖父・八左衛門(一葉が生まれる前年に亡くなっている)同様に為之助も学問を好み、一葉もその影響を受けて幼少期から読書に没頭。
7歳の時に曲亭馬琴(きょくていばきん。
滝沢馬琴とも言う)の『南総里見八犬伝』を読破。

学問に熱中した一葉は1877年(明治10年)に本郷小学校(現在の文京区に存在した学校)へ入学しますが短期間で中退し、その後は私立吉川学校、上野元黒門町の私立青海学校に転校。
私立青海学校在学時は高等科第四級を首席で卒業しますが、母・多喜が「女性に学問は不要」と考えていたことから退学することに。
学問を続けようとした一葉ですが、当時の思想は女性に対して厳しかったのですね。

萩の舎へ入門・歌人としての才能開花

萩の舎へ入門・歌人としての才能開花

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学業優秀ながら思わぬ形で進学叶わなかった一葉ですが、その才能は父が認めていました。
娘の才能を高く評価した父・為之助は自分の知人であった和田重雄のもとに一葉を連れて行き、そこで和歌を習わせることに。
その後1886年(明治19年)には父の知人である医師・遠田澄庵に歌人・中島歌子を紹介された一葉は中島が開いていた歌塾「萩の舎」に入門することに。

高級官僚の令嬢などが通う塾に入塾した一葉は家事手伝いをする「内弟子」をしながら和歌・千蔭流(江戸時代の歌人・加藤千蔭(かとうちかげ)を起源とする和様書道の流派)の書、古典文学、源氏物語などを学び、親友の伊東夏子や女流作家・田辺龍子(三宅花圃(みやけかほ)の作家名で活動)とも出会うことに。
しかし上流階級の人々の中に下級役人の娘である自分が入ることは相当な重圧であったようで、一葉が残した「一葉日記」ではとうじについて「人々はみな紋付きを着ていらっしゃる中に、私一人が異様ななりで出る事は、情けなく悲しいことだ」と記されています。

そうした重圧を受けながらも一葉は才能を発揮し、入塾して半年後に開催された初めての発会(決められたお題で歌を詠み、得点を競っていた)で詠んだ「打なびく柳をみればのどかなる おぼろ月よもかぜはありけり」の歌は全参加者の中での最高点を記録。
身分の差を感じさせず見事な才能を発揮したのです。

一葉に降りかかる不幸・名作の誕生

家族の死・一家の大黒柱に

家族の死・一家の大黒柱に

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歌人としての才能を発揮し始めた一葉でしたが、その一葉に身内の不幸が襲い掛かります。
一葉には2人の兄がいましたが、1888年(明治21年)には長男・泉太郎、1889年(明治22年)には父・為之助が事業に失敗、借金を作ったまま7月に亡くなってしまったのです。
突然の家族の死により、一葉は17歳の若さで一家を背負っていかなければいけなくなりました。

一家を背負った一葉は生活のために働かなければならず、針仕事や洗い張りをなどの仕事をこなして生活しますが生活は大変貧乏なものに。
またこの頃には生前の父を支援した真下晩菘(ましたばんすう)の孫・渋谷三郎を紹介され「許婚」関係になりますが、渋谷が高額の結納金を要求したことが原因で関係解消。
才能開花寸前から一気に貧しい生活へ転落、厳しい状況となった生活の中で一葉は「多額の収入を得られる仕事」を見つけようとしていました。

小説執筆を決意・ある男との関係

小説執筆を決意・ある男との関係

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貧しい生活が続いた一葉は、何としてでも収入を増やさなければなりません。
そんな中「萩の舎」時代の先輩・田辺龍子が小説『薮の鶯』によって多額の原稿料を得たことを知ると「小説を書こう」と決意。
貧しい生活を早く抜け出すためには、小説を書いていくしかなかったのです。

こうして小説執筆を決意した一葉は1891年(明治24年)に『かれ尾花一もと』を執筆、この年に執筆した随想では初めて「一葉」の筆名を使用することに。
4月からは朝日新聞の小説記者を務めていた半井桃水(なからいとうすい)に師事、本格的な指導を受けながら小説執筆にとりかかっていきます。

その後1892年(明治25年)に半井が雑誌「武蔵野」を創刊すると一葉は創刊号に小説『闇桜』を投稿、半井は貧しい一葉の面倒を見ていきます。
その後も関係を続けた2人の仲は師弟関係から次第に変化していき、男女として親しい関係に。
しかし「結婚を前提としない交際」が当時はご法度であったことから、2人の関係は噂として広まってしまうことに。
最終的には中島歌子の忠告から半井と縁を切ることになり、2人の親密な関係は時代によって阻まれてしまいます。

数々の作品発表・変わらぬ貧しい生活

数々の作品発表・変わらぬ貧しい生活

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半井との関係が終わった一葉の生活は相変わらず苦しい状況が続くことに。
その状況の中、一葉を救った人物は「萩の舎」時代の先輩・田辺龍子でした。
田辺は日本で最初の商業文芸雑誌『都の花』と一葉の関係を取り持ち、一葉はここに小説を掲載することに。

1892年(明治25年)に掲載された『うもれ木』は実力を持ちながら生活に苦しむ陶芸家・入江藾三と妹・お蝶が登場する物語で、師匠を裏切った相弟子・篠原辰雄は師匠の墓前で藾三と仲直りしようとするものの、それは篠原を慕うお蝶を利用するための作戦であったという内容。
この作品が評価された一葉は一気に大金を得ることとなり、このほかでは文芸雑誌『文学界』で「雪の日」など複数作品を執筆。
出版社からの依頼も舞い込むことに。

しかし大金を得ても暮らしが上向くことはありません。
生活に苦しんだ一葉一家は家賃が安い下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉寺町)へ引っ越し。
ここで執筆業の傍ら雑貨・駄菓子を売る店を開店、生活を上向かせようとしますが店の経営はうまくいかず、1894年(明治27年)5月には店を閉店。
またこの頃は有名な相場師に借金を申し込みに行きますが、身体を求められるなど屈辱的な扱いを受けることに。
一葉は当時の様子を「虚無の浮世に好(よ)き死処(しにどころ)あれば事たれリ」と死を考える内容で書き綴っています。

経験から生まれた名作

経験から生まれた名作

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経営がうまくいかず店は閉店してしまいますが、この経験を一葉は無駄にしません。
その少女たちは借金の代わりとして売られた者、そこから男性に「性的なもてなし」をする職に就いた者(遊女)がおり、ある時には一葉の家に逃げ込んできた女性を一葉が助けることも(このときの様子は日記に「救いたまえとすがられしも縁なり。
東女(あずまおんな)はどんな物か、狭けれどもこの袖の陰に隠れて、とかくの時節をお待ちなされ」と記している)。
そうした少女の姿から生み出されたのが1895年(明治28年)に発表された『たけくらべ』でした。

借金の代わりとして売られた14歳の少女・美登利(みどり)を取り上げたこの物語は、美登利と1歳年上の龍華寺僧侶の息子・信如(しんにょ)との恋を描いたもの。
やがて龍華寺の跡取りとなる信如、遊女になる運命の美登利は、お互いの気持ちを感じながらそれを2人とも告げられず。
思いが通じないまま美登利が遊女として踏み出す日、水仙の花が彼女の家に投げられていましたが、それは信如が僧侶の学校に入る日であったのでした。

この前の1894年(明治27年)12月には『文学界』に『大つごもり』を発表。
1895年(明治28年)には半井桃水から紹介された博文館(雑誌「太陽」「文芸倶楽部」などを発刊した出版社)の小説家・大橋乙羽(おおはしおとわ)と知り合い、『にごりえ(1895年)』などを執筆。
大橋は妻・ときとともに一葉に活躍の場を与えるなど支援し、ときは一葉に入門し和歌を学ぶなど関係を築いていきました。

他作家からの評価・晩年

他作家からの評価・晩年

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一葉の代表作である『たけくらべ』が『文芸倶楽部』に掲載されるようになると、ほかの一流作家からの評価も次第に高まっていきます。
森鴎外は自身が編集した文芸雑誌「めさまし草」で一葉を高く評価、このほか馬場孤蝶(ばばこちょう)、島崎藤村(しまざきとうそん)、斎藤緑雨(さいとうりょくう)といった作家が一葉の下を訪れるようになります。
この時期には恵まれた生活を送りながら愛を感じられない妻が親切心から不幸に転落する『われから(1896年5月『文芸倶楽部』)』を発表、一葉は作家として最高の評価を受けるようになっていました。

しかしその一葉を待っていたのは残酷な運命です。
一葉は長年の過労から肺結核に侵され、ついには回復不可能との診断を受けることに。
そして1896年(明治29年)11月23日、24歳という若さで帰らぬ人になってしまいます。
亡くなった一葉の墓は樋口家の菩提寺・築地本願寺別院に設けられ、のち杉並区永福の築地本願寺和田堀廟所へ。
一様の死後16年がたった1912年(明治45年)には16歳から亡くなるまで書き溜めた日記が『一葉日記』として発表され、半井との関係や苦しい生活ぶり、文化人との交流について記録されています。

足跡をたどるスポット

ゆかりの品を所蔵する記念館

一葉に関する展示を行うスポットで彼女の名前がついているのが、東京台東区にある「台東区立一葉記念館(東京都台東区竜泉3-18-4)」。
1961年(昭和36年)に日本で初めて女流作家の単独資料館として開館し、2006年(平成18年)にリニューアル。

地上3階・地下1階で構成された館内には、一葉が住んでいた竜泉寺町を再現したエントランスギャラリー、雑誌『文学界』第26号に掲載された「たけくらべ」(四)の後半から(六)までの下書き原稿22枚、店を開いていた1893年(明治26年)に使用された仕入帳、実際に使用した机、一葉が「萩の舎」時代に詠んだ短冊などを所蔵。
このほか東京都目黒区にある「日本近代文学館(東京都目黒区駒場4-3-55)」や山梨県甲府市にある「山梨県立文学館(山梨県甲府市貢川1-5-35)」にも肉筆原稿などが保存されています。

アクセスについては、台東区立一葉記念館:地下鉄日比谷線「三ノ輪」駅から徒歩10分、日本近代文学館:京王井の頭線「駒場東大前駅(西口)」徒歩7分、山梨県立文学館:JR甲府駅から山梨交通バス「山梨県立美術館」下車。

一葉の住居跡・作品に登場する神社

一葉の住居跡・作品に登場する神社

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一葉が住んだ住居の跡が文京区本郷菊坂にあります。
一葉の一家は父が亡くなった後の10年間を文京区で暮らしていましたが、この住居に住んでいたのは18~21歳までの間。
ここに移り住んだ一家は洗い張りや針仕事などをしながら母、妹の3人で必死の生活を送り、一葉自身は半井桃水の指導を受けながら小説家としての道を歩んでいきました。
徒歩で約20分の場所には一葉が入塾した歌塾「萩の舎」の跡も残されています。
住所;文京区本郷4-32。
アクセス:都営地下鉄三田線・大江戸線「春日」駅徒歩5分。

地下鉄日比谷線・入谷駅から徒歩約7分の東京都台東区の「鷲神社(おおとりじんじゃ)」は代表作『たけくらべ』に登場することで知られ、作品中の『この年三の酉まで有りて中一日は津ぶれしか土前後の上天気に鷲神社の賑わひすさまじく』に登場。
境内には「樋口一葉文学碑」や師匠・半井桃水に宛てた手紙「樋口一葉玉梓乃碑」も残っており、作品の世界観がここからも想像できますね。
住所:東京都台東区千束3-18-7

逆境を作品に生かす姿勢は見ておきたい

優秀な学生時代から厳しい貧乏生活、作家としての大成から早すぎる死、わずか24年の間に激動の人生を送った一葉でしたが、彼女は度重なる逆境を作品の糧にしてきました。
志半ばで亡くなってしまったことは大変残念なことではありますが、そうした姿勢は現代で仕事に励む人々も見ておきたいものなのかもしれません。
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