迷った心を照らすパワースポット「延暦寺」の姿

現代人の心を照らすパワースポット「延暦寺」とは?
滋賀県と京都府に跨る霊峰『比叡山』にある「延暦寺」は近年のパワースポット巡りの流行から人気の観光スポットになっている場所です。
そんな延暦寺の歴史やスポット、そして歴史の授業で一度は耳にした事のある開祖「最澄」についてご紹介します。

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三塔十六谷からなる比叡山「延暦寺」

三塔十六谷からなる比叡山「延暦寺」

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日本で初めて年号を冠した霊山である「延暦寺」の正式名称は『比叡山 延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)』で、京都市から5kmという近距離にありながら標高848mの山、東京ドーム約363個分(約1700万㎡)の土地とすべての堂塔を合わせて「延暦寺」という巨大なお寺であり、山全てが僧侶が修行をする聖域『伽藍(がらん)』なのです。

そんな大きなお堂から小さなお堂まで合わせて、約150塔堂もある延暦寺の中でも代表的なお堂をご紹介します。

秘仏が眠る延暦寺の中心「東塔」

秘仏が眠る延暦寺の中心「東塔」

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多くのお寺の本堂にあたるものが無い延暦寺では、第一駐車場から歩いて直ぐにある東塔の地域の延暦寺最大のお堂『根本中堂』が総本堂としての役割を担います。

延暦寺を開創した「最澄(さいちょう)」が太古から神山として崇められていた比叡山に入山した際に、修行の傍らで東塔の北谷にあった霊木を自ら刻んで作成した『薬師如来像』を本尊として二重の厨子に厳重に納められており、一般公開されない秘仏として信仰を集めている荘厳なお堂です。

厨子の前に安置されている『薬師如来立像』は江戸時代に本尊の写しとして作成された『お前立ち』と呼ばれるもので、本尊を見る事が出来ない一般の人はこのお前立ちの像を参拝します。

特にこの厨子の前にある三つの釣り灯篭には比叡山の象徴である『不滅の法灯』が灯っており、その清浄な空気に包まれた幽玄の空間に一歩踏み込むと自然と背筋が伸びて厳粛な気持ちにさせてくれるので、延暦寺に来た際には必ず参拝されるとよいでしょう。

また根本中堂の前にある『文殊楼』は中国五山の文殊菩薩堂をモデルにした日本で最初期の重層門で、延暦寺の山門となり圧倒的な存在感を持って参拝者を迎えてくれます。
この重厚な門も他の堂塔と同じように何度か焼失をしていて現在の楼門は1668年以降に再建されたもの。
その中には勇ましく口を開けたどこか愛嬌のある獅子の上に剣と経巻を持った『文殊菩薩坐像』が納められています。

さらに東堂の代表的なお堂として『大講堂』があり、ここでは『五年一会』や『法華大会』などの法義が行われる道場で根本中堂と同じ頃に創建されたものでしたが1956年焼失。

現在の建物は1956年(昭和31年)山麓の坂本にあった1634年建造の賛仏堂を移築したもので、本尊の『大日如来坐像』の左右に『十一面観音坐像』『弥勒菩薩坐像』、その周りにはかつて延暦寺で修行を行い自らの教えを広めた各宗派の始祖の木像を祀っており、宗派問わず厳かな気持ちで法義を体感する事ができる場所となっています。

焼き討ちから唯一逃れた堂塔がある「西塔」

焼き討ちから唯一逃れた堂塔がある「西塔」

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比叡山の西側にある『西塔』は、かつて比叡山で起きた災禍の中で最も凄惨だったと言われる「織田信長」による焼き討ちから唯一逃れ残った『瑠璃堂』がある地域で、西塔の秘仏が納められている『釈迦堂』から山道を10分ほど下った所にある室町末期の特徴を残した小さな建物です。

江戸時代に再建されたという説もありますが、瑠璃堂が焼き討ちから残ったのは事実であり閑静な森の中に苔むした屋根と濃い飴色に染まったお堂の壁でひっそりと佇む姿は、過去の災禍を慮るような気配を感じます。

そしてこの西塔にある『釈迦堂(転法輪堂)』は西塔地域の中心となる建物。

焼き討ちの後、1347年に造営されたこのお堂は現在の大津市にある三井寺にあった『弥勒堂』を「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」の命令によって1595年に延暦寺へと移築した、比叡山の中で現存する最も古いお堂になりまます。

中には秘仏である本尊『釈迦如来立像』が二重の厨子の中に大切に納められており、根本中堂の薬師如来像と同様に公開されていない仏像なので厨子の前にある本尊の写し『お前立ちの像』を参拝します。

黄金に輝く神秘的な釈迦如来立像の写しの周りには十六善神像や四天王像などの木像の仏様神様が祀られていて、根本中堂の荘厳さとは少し違う、静謐な雰囲気に包まれたお堂は俗世で疲れた心をの淀みを払ってくれるような気持ちにさせてくれますよ。

またこの西塔からドライブウェイに添って横川方面へと下る途中に『黒谷青龍寺参道』という道が見えてきます。
この参道の先には比叡山で修行をしのちに『浄土宗』の開祖となった「法然(ほうねん)」が修行したお寺があり、ここは比叡山の三塔十六谷に含まれず浄土宗の総本山である『知恩寺』が管理している建物です。

このお寺もまた「織田信長」の焼き討ちの際に焼失していますが、1967年(昭和42年)に延暦寺の好意により再建され、現在は青少年修練道場として若い世代の浄土宗の信徒達へ「法然」の教えを伝える場所となっています。

他の宗派の寺院を受け入れるところに延暦寺の懐の深さ、「最澄」の目指した『法華一乗』の思想が今も息づいている証拠のように思えますね。

新たな延暦寺へと発展させた「横川」

新たな延暦寺へと発展させた「横川」

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西塔よりさらに4kmほど下った場所にある横川地域は、静謐な修行場としての役割を持つ聖域です。

この横川の中心となる『横川中堂』は、1604年に「豊臣秀吉」の側室だった「淀君(よどきみ)」が寄進したお堂だったのですが、1942年(昭和17年)に落雷によって焼失。
現在の建物は1974年(昭和49年)に「最澄」の1500年の遠忌を記念して落慶法要を行ったもので、焼失前を復元した朱塗りの美しい外観をしていますがその構造は鉄筋コンクリートの現代的な丈夫なお堂となっています。

この釈迦堂の本尊である『聖観音立像』は落雷火災の際に炎に包まれたのですが、僧侶たちの懸命な努力のかいがあって奇跡的に焼失を免れ助け出された仏像です。

この聖観音立像は公開されており、その平安初期の特徴を残す柔和な観音様の優しい表情は参拝者の心の疲れをふんわりと癒してくれるような気持ちにさせてくれます。

この横川中堂は新西国三十三観音霊場の18番札所となっており、多くの巡礼者が参拝に訪れる聖地なのです。

横川を開いたのは「最澄」の弟子にあたる「慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん)」であり、『根本如法塔』には彼が写経した法華経が納められています。

さらに横川には天台宗の最高位の「座主」となった第18代天台座主「元三大師(がんざんだいし)」こと「慈恵大師良源(じえだいし りょうげん)」が横川を整備した際に自身が住んでいた住坊跡地に建てた通称『元三大師堂』があり、四季に合わせて法華経の講義が行われる事から『四季講堂』という名前が付きました。

ちなみに現在いろいろな神社やお寺で引ける誰でも気軽に吉兆を占える『おみくじ』の考えたのが「慈恵大師良源」といわれ、この元三大師堂が発祥の地とされて現在「慈恵大師良源」が鬼に姿を変えて疫病の神様を払ったとされる『角大師』の護符がもらえ、御朱印をいただく事もできますよ。

内部は非公開となり拝観する事ができませんが横川には『恵心堂』というお堂があり、「慈恵大師良源」の弟子で後の浄土宗や浄土真宗へと繋がる基礎を作った「恵心僧都源信(えしんそうず げんしん)」が修行し『往生要集』を執筆した道場が近くにあるので、一緒に参拝されるのもおすすめです。

「延暦寺」の開創した天台宗の祖「最澄」

「延暦寺」の開創した天台宗の祖「最澄」

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それでは延暦寺を開創した「最澄」とはどのような人物だったのでしょうか。

若くして才気に溢れ『天台宗』という教えを広めた「最澄」と、比叡山が『延暦寺』と呼ばれるようになった理由についてご紹介します。

若くして開いた仏への道

若くして開いた仏への道

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「最澄」の本名(俗名)は「三津首 広野(みつのおびと ひろの)」と言い、生年には諸説がありますが一般的には766年頃に現在の滋賀県大津市坂本本町のあたり、比叡山の麓に生まれました。

生まれた家系についてはあまり詳細な情報が無く、ほとんどが一次史料に乏しいもので良く分かっていません。

しかし12歳で滋賀県(近江国)にあった国分寺というお寺に入門し「行表(ぎょうひょう)」の弟子となって僧侶としての道を歩み始めます。

その後14歳で補欠の僧侶となって『得度(とくど)』を行い名前を「最澄」と改め、19歳の時に奈良県の東大寺で『律(具足戒)』という僧侶が集団で守らなくてはならない規則を受けました。

この得度とはいわゆる出家の為の儀式で、これを行う事で髪を剃り落とし国家に正式に認められた『公務員僧侶』となるのです。
ちなみに得度を行うにはある程度の身分がある家の生まれで身元がしっかりしている事、先輩僧侶の承認が必要でその後様々な役所を通して身分証『度牒(どちょう)』が交付されます。
この交付を受けると課役というお仕事や納税が免除されたりといった特権が与えられるもので、それを目当てに出家する下層階級の人や農民が多くいたそうです。

そういった人たちは『得度』を受ける事ができないので変わりに『私度僧(しどそう)』と呼ばれていましたが、きちんとした僧侶としての活動をしていれば特に処罰を受ける事はありませんでした。

「最澄」の生まれた奈良時代後期にはすでに仏教が伝わっていましたが、現在のように貴賤に関係なく誰でも信仰できるものではなく、生まれた階級によって死後に極楽行きか地獄行きか、仏の救いの有る無しなどが決まっているという考えであり前述の『得度』も現在では出自に関係なく受ける事が出来るものでも、当時は多くの身分差別があったのは言うまでもありません。

『律』をはじめとした旧来の「鑑真(がんじん)」が日本へ持ち込んだいわゆる『南部仏教(奈良仏教)』が本来の『人々を苦しみから救済する事を目的とした仏教』から『特定の人物だけが救われる仏教』また『僧侶が利権を得られる仏教』という俗化していた姿に対して疑念を抱いていた「最澄」は、公務員僧侶になってわずか3か月後に辞職して奈良から地元の滋賀へと戻り、比叡山で『本当の大乗仏教』を求めて独自の修行をはじめます。

仏教を学ぶ為に選ばれた遣唐使

仏教を学ぶ為に選ばれた遣唐使

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比叡山に籠った「最澄」は霊木から薬師如来像を掘りながら『本当の大乗仏教』を求めて修行を続け、3年後の788年に彫り上げた薬師如来像を山頂の小堂に安置し『一乗止観院(いちじょうしかんいん)』と命名。
この場所が後の根本中堂となる場所で『延暦寺』の始まりの場所になります。

この20代の若者が『本当の仏教』を求めて修行と研究を行っているという話しは時の天皇であり、僧侶へ集中していく政治的な権力や利権に危機感を募らせていた「桓武天皇(かんむてんのう)」の耳にも入り南部仏教とそれを擁護する貴族への対抗札として、また民衆の救いになるようにという「桓武天皇」の思惑により、天皇に直接仕える『内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)』に任命され、801年には『一乗止観院』で天皇が主催し南部仏教の僧侶も大勢参加する供養が初めて行われてその存在は大きく広められました。

797年に近江の領地を賜り個人で建てたお寺が国公認の『官寺』に準じる扱いを受けるようになった事で名前も『比叡山寺』と改められ、遷都した平安京の丑寅の方角にあった事から『王城鎮守の山』としての役割を担うように。

その後「桓武天皇」に遣唐使の一員に選ばれて804年に中国の唐へと後の真言宗の祖となる「弘法大師 空海(こうぼうだいし くうかい)」と一緒に仏教を学ぶ留学生として旅立ちました。

約1年の間で中国の『天台教学』『大乗菩薩戒』『密教』『禅』を学び帰国。
この時に学んだ事や写した経典などをさらに研究と修行を続け806年に『天台宗』を開宗したのです。

それまで勢力を振るっていた南部仏教は「最澄」や「天海」といった新しい仏教の流れに押され、徐々にその権勢は弱まっていきました。

この裏には「桓武天皇」の思惑があった事も確かですが、ここからいわゆる『平安仏教』が生まれ後の『鎌倉仏教』へと続く礎となっていくのです。

平安仏教を作った「最澄」と「空海」

平安仏教を作った「最澄」と「空海」

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「最澄」と「空海」は同時期に活躍した『大師』の名前を持つ僧侶であり何かと比較をされますが、彼らの違いとはなんなのでしょうか。

「最澄」は滋賀県の渡来人系の家系に生まれましたが、「空海」は774年ごろに香川県善通寺市(讃岐国)で豪商の家で生まれ、俗名は「佐伯 真魚(さえきの まな、まお、まいお)」と言います。

788年に京都の『平城京』に上京し18歳の頃には大学寮(官僚の育成機関)で学び後の世では能書家としても名前を残します。
19歳の時に勉強に飽きてきた頃に仏教の魅力にはまり仏門の修行を始めますが、この頃の詳しい事はわかりません。

しかしこの奈良時代から平安時代にかけては弥生時代や飛鳥時代などに掛けて大陸から移住してきた『渡来人』の家系が優遇され出身による差別があった事もあり、804年の遣唐使として「最澄」と共に中国へ行く頃はまだ無名の一僧侶でしかありませんでした。

そんな遣唐使として過ごした二人は同じ仏道の修行と勉強をしながら正反対の道を辿るようになります。

「最澄」は1年の短い期間で彼が目指した『円(天台)』『密(密教)』『禅』『戒(戒律)』を幅広く学び、日本でこれらを一つにした『四宗兼学』の場を作ったのに対して、「空海」は約2年間の間に中国の東寺で『密教』をみっちりと学び『真言密教』を日本へと持ち込み広めたのです。

その後「最澄」は「法華一乗。
人間は生まれに関係なく誰でも仏になれるし、宗派も家柄も血筋も関係ない」と、比叡山に籠り研究と修行を続けながら門下の人たちに天台宗の教えを広め、当時の貴族や僧侶への権力の集中と政争を避けるために「桓武天皇」が「最澄」を支持した事で、広く民衆に受け入れられ広まりました。
それゆえに「最澄」の元で天台宗を学んだ僧侶たちは市井の人々の求めに応じて日本各地のまだ栄えいてない北から南まで教えを伝えに行き、また遣唐使として何度も中国へ渡りさらに各々で仏道への理解を深めていきました。

その懐の広さと当時では考えられないほどの柔軟な思想は多くの人に受け入れられ、のちに数多くの名僧を生み出す根幹となり、いつしか「最澄」の天台宗は『日本仏教の中核』と言われ浄土宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗などの天台宗から独自の発展をさせた新しい仏教『鎌倉仏教』を作り出した各宗派の祖を輩出するに至ったのです。

「伝教大師」と「弘法大師」

「伝教大師」と「弘法大師」

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何かと比べられる事の多い「最澄」と「空海」はけっして不仲だったわけではなく、時折意見の食い違いを起こす事があっても、それぞれがそれぞれの主張や思想を認め共に別の視点から平安仏教を作り上げていきました。

「最澄」は比叡山にて天台宗の道場で弟子を育てつつ仏教の研究を続け、「空海」は修行の傍らで人々の暮らしを改善するための土木工事を行ったり、庶民が勉強ができる施設を作ったりと表に出る活動を行っていたのです。

どちらも『仏教を通して人々を救う』という目的は同じで、それぞれの信念の元で常人では真似できない努力の末に天台宗と真言宗という現在でも多くの人々の心の拠り所として、また数多くの文化を生み出して継承を続けているのには変わりありません。

そんな二人の功績はその死後にさらに認められるようになります。

「最澄」は822年6月に入寂(死去)し、866年に「清和天皇(せいわてんのう)」から生前の功績を称えられ高徳な僧侶に朝廷から送られる『大師』の諡号(贈り名)がついた「伝教大師(でんぎょうだいし)」を日本で初めてプレゼントされ、以降「最澄」は「伝教大師 最澄」と呼ばれるように。

「空海」もまた835年に入滅(後代では即身仏)し921年に「醍醐天皇(だいごてんのう)」から「弘法大師(こうぼうだいし)」の諡号を贈られ、現在でも「弘法さん」の愛称で多くの人々に親しまれています。

年齢は離れているものの同じ時に遣唐使として大陸へと渡り、それぞれの思想や信念の元で学んだ二人のお坊さんはそれぞれの方法で多くの人々を救おうと尽力し、後世へ大きな影響を残しました。

「最澄」が目指した求めた集大成と「延暦寺」の名前

「最澄」が目指した求めた集大成と「延暦寺」の名前

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全ての仏教を包含する『法華一乗』の考えの元、『大乗戒壇』とも呼ばれる仏教の戒律を出家者に授ける場所を作る事が「最澄」の最大の望みだったといいます。

しかし「最澄」が存命中にその願いがかなう事がなく、入寂した7日後に朝廷の許可を得る事ができ現在の『戒壇院』が建立されました。

現在の建物は1678年に再建されたもので普段は堅く閉ざされているお堂は、年に一度だけ『円頓受戒』の法義の時にのみ開かれ内部にある石造りの戒壇を拝観する事ができます。

基本的に僧侶と認められるには『戒壇』を受けなくてはなりませんでしたが、当時の日本の『戒壇』は奈良県の『東大寺』を始め、福岡県太宰府市の『観世音寺』、栃木県下野市にあった『薬師寺』の通称『三戒壇』のみで、延暦寺の『戒壇院』は中国の仏教界からは『戒壇』と認められず、その思想を色濃く残し「最澄」の存命中から対立していた南都仏教からも朝廷が建立を許可した事に対して強い反発を持つ切っ掛けとなりました。

その反発は後に起こる様々な抗争や焼き討ちへと繋がる確執として延暦寺の歴史に根深く残るものとなり、多くの悲劇を生みます。

しかし同時に独自の『戒壇』を作った事と天台宗の広く受け入れる思想の元で数多くの人が受戒し僧侶となり、中には堕落してしまう人もいましたが後世で名僧を輩出する地盤となりました。

『戒壇院』に勅許が下りたさらに翌年の823年、「嵯峨天皇(さがてんのう)」の許しを得て「比叡山寺」は建立された年号の「延暦」を日本で初めてお寺の名前とした「延暦寺」となり、「最澄」の描いた理想と志は現代に至るまで受け継がれ続けているのです。

厳しい荒行の果てに見出す「最澄」の理想

厳しい荒行の果てに見出す「最澄」の理想

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延暦寺といえば厳しい荒行を行う事でも有名です。

数ある荒行の中で最も有名なのが、比叡山の峰道を白装束の行者が歩く『千回峰行』。

延暦寺で行われる荒行は地獄に例えたもので、横川の朝から晩まで座ったまま途切れずに読経を続ける看経地獄(かんきんじごく)の『看経行』、西塔の浄土院で行われる掃除地獄は「最澄」が今も生きているという考えの元で比叡山で最も神聖な聖域である浄土院でのお世話と堂内外を塵一つ残さず掃き清める事を12年間続ける『籠山行(ろうざんぎょう)』、そして東堂の無動寺での読経を含む勤行の後に比叡山内にある大小様々なお堂の全てに読経と礼拝を行い進む回峰地獄の『千日回峰行』の三大地獄があります。

経験者が最も辛いというのが籠山行と言われていますが、最も有名なのがこの千日回峰行であり7年目の満行を迎えると『北嶺大行満大阿闍梨(ほくれいかいほうぎょうだいうまんだいあじゃり)』と呼ばれるようになります。

あまりにも過酷な修行ゆえに過去の成功者は少なく、現在のスタイルの千日回峰行が始まった1571年頃から満行の日を迎えられた行者は50人、二回満行が出来た行者は現在まで3人しかいません。

千日回峰行は一度始めたら例えどんな自然災害に巻き込まれようが、どんな獣や虫に襲われようが、生死を彷徨う程の病に倒れようが毎日続けなくてはなりません。
万が一この行を辞める時が来たらそれは死ぬ時であり自ら腹を切る時だという覚悟の元、白い死装束に護身と自害用を兼ねた短剣、埋葬料10万円を常に持ち歩き満行を目指して続けます。

その内容は最初の1~3年は白米だけのおにぎり2個と500mlの水を持って無動寺の『明王堂』を午前2時に出立し、真言を唱え不動明王の印を結びながら西塔、東堂、横川にある諸仏菩薩260のお堂を順番に巡り、比叡山の麓にある坂本の「日吉大社」を順拝して無動寺へ戻る約30kmの距離と工程を約6時間ほどを年100日のペースで行い合計で300日を目指し、次の4年目と5年目では年200日と倍のペースで合計700日を目指します。
この5年目をクリアすると『堂入り』と言われる修行に入るのですが、これがまた過酷を極めた地獄そのもの。
無動寺の明王堂で9日間の断食と断水に不眠、さらに横になる事もできない不臥の状態で不動明王へお供えする水を汲む以外には真言を唱え続ける『念誦修法』と呼ばれる行を行うのです。

この行を終えた行者は生身の不動明王『阿闍梨』と呼ばれるようになり、5年目までは自分の為の修行ですが6年目からは衆生の為の修行として、さらに厳しい修行を続けることになります。

千日回峰行6年目には260か所の礼拝にプラスして西の麓にある『赤山禅院』への順拝含む約60kmの工程を合計800日までに行い、満行の7年目では最初の260か所の順拝に戻って合計900日まで京都洛中の寺院を巡る『京都大廻り』を含む約84kmを行います。
そして最後の100日では最初の260か所の順拝へと戻りようやく満行の日を迎えるのです。

しかし満行を迎え生き仏の『大阿闍梨』となったからと言って修行を終えたわけではなく、さらに2~3年以内に行う100日間の『五穀絶ち』や7日間の断食断水で行う大量の護摩を炊き上げる『十万枚大護摩供』を行わなくてはなりません。

この修行の発案者であり「最澄」の孫弟子にあたる平安時代初期の僧侶である「相応和尚(そうおうかしょう)」がこの荒行を始めたのは、「最澄」が目指した苦しむ人々を救う『菩薩僧』理念を具現化し養成を目指したものであり、歴史上で成功者が少ないのも当然と言えますね。

修行体験で「延暦寺」の一端に触れる

修行体験で「延暦寺」の一端に触れる

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普通の人に地獄と呼ばれる荒行は無理ですが、延暦寺では気軽に参加できる「修行体験」を行っており、延暦寺会館や居士林での日帰りまたは数日の宿泊をしながら座禅と写経を行うものから一日だけの回峰行が体験できるので、近年パワースポット巡りと一緒に心と身体のデトックスとして人気があります。

「最澄」の教えの中に『一隅を照らす、此れ即ち国宝なり』という言葉が残されており、延暦寺で行われる修行や行事で大切にされている思想です。

この意味は『一隅』=『自分が今いる場所、立場』で自分自身を照らす事が周囲を照らし世界を照らす『国宝』となるというもので、修行体験ではこの言葉の信念の元で日常で見失った自分自身を見出す事を目的としており、個人や仲間と、団体での参加者が多くいます。

観光のついでに日本仏教の母山の一端に触れて、心身ともにリフレッシュしてみるのはいかがですか?

「延暦寺」が生み出した現代へ続く「鎌倉仏教」

「延暦寺」が生み出した現代へ続く「鎌倉仏教」

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日本仏教の母山と言われる「延暦寺」は、形を変えて後世へと受け継がれています。

日本国内には様々な宗派の仏教寺院が存在しますが、その中でも根幹となる宗派の宗祖の多くは若い頃に延暦寺で修行と勉強を行っており、「最澄」とその弟子たちによって発展させた『大乗仏教の法華一乗』の教えを学んでいます。

それぞれの宗派が掲げるスローガンは違えど根幹にある理念は『衆生の救済』であり、お経を紐解くと同じような文言が多く含まれているのは、延暦寺での修行が生きているのかしれませんね。

行う修行も宗派によって異なりますが、なんとなく宗派によって延暦寺の厳しい荒行を受け継いだ所と荒行を一切せずに仏の道を目指す所といった風に分かれたのは、各宗祖の人達の延暦寺での経験が反映されているような気がするのは気のせいでしょうか。

延暦寺の修行で最も過酷を極めた鎌倉時代にはまさに「地獄」の果てに挫折して自害する人や病や不慮の事故で命を落とす人も多くいた中で、地獄の底から立ち上がる精神力を持ち自らの『仏教』を開眼して宗派を立ち上げた宗祖が多くいるのは間違いありません。

なにはともあれ現在へ続く様々な宗派を生み出した根幹には、延暦寺ひいては天台宗の持つ「全ての仏教を包含する」という大きな教えがあっての事であり、現代でも「最澄」の教えがごく身近に息づいているのです。

乱世で起きた「延暦寺」の惨劇

乱世で起きた「延暦寺」の惨劇

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開創以来、延暦寺は度重なる災難や惨劇に見舞われています。

その背景には歴史的な南都仏教との対立や時勢の流れによる寺院の武装化など様々な要因が複雑に絡まって起きていますが、その中でも最大の惨劇と語られるのはやはり戦国時代三英傑の一人である「織田信長」による『比叡山焼き討ち』ではないでしょうか。

近年まで一方的な暴力とされていた「織田信長」による焼き討ちと現在についてご紹介いたします。

「織田信長」による焼き討ちとは

「織田信長」による焼き討ちとは

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1571年9月30日(旧暦では9月12日)は安土の武将「織田信長」による比叡山の焼き討ちが行われた日です。

延暦寺史上もっとも凄惨でまさに地獄の様だったといわれる焼き討ちは、比叡山にいた僧侶(僧兵)は逃げまどいながら信長軍の兵士へ炎の中へと追い立てられ、またその場にいた女性や子供をふくめて1500人以上が虐殺されたと言われ、「信長」の神仏を恐れぬ所業として彼の苛烈な一面を示す出来事として語られています。

そんな焼き討ちでは比叡山にある数々の諸堂がことごとく焼き払われ、残ったのは西塔にある『瑠璃堂』だけ。

さらにこの焼き討ちでは比叡山から逃れて20km近く離れた京都市山科区の牛尾山まで逃げた人々も助命嘆願空しく首を刎ねれたと言われ、京都市中から北の空が真っ赤に染まった姿と悲鳴でまさに地獄絵図のようだったとも記録されています。

「最澄」によって開創されてから幾度となく争いや災害で延暦寺は堂塔の焼失を繰り替えてしてきていましたが、その中でももっとも凄惨で修羅地獄と呼ばれたのはこの「信長」による焼き討ちであり、その後の歴史にも少なくない影響を与える出来事だったのです。

「信長」が求めた『天下布武』と「延暦寺」の選択

「信長」が求めた『天下布武』と「延暦寺」の選択

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では「織田信長」はなぜ虐殺と焼き討ちという暴挙にでたのでしょうか。

そこには決して天下統一を目指した「信長」の傲慢さや苛烈な人柄からくる事ではなく、戦国時代らしい国取り合戦における戦略と合理的な理由が存在していたのです。

足利将軍家が栄えた安土桃山時代に愛知県勝幡町で生まれた信長は、戦国時代の始まりと共に天下統一を目指し現在の愛知県のあたりになる尾張地域の統一から戦国時代の有力大名だった「今川義元(いまがわよしもと)」との『桶狭間の戦い』を経て、『天下布武』をスローガンとして各国の制圧と「武田氏」や「北条氏」などの戦国大名との激しい合戦を繰り返しながら拠点の地盤堅めを行っていました。

その中で「信長」は腰を据える拠点として選んだのが現在の滋賀県になる『安土』で、日本の西側を攻める障害として琵琶湖を挟んで湖北の有力大名「浅井氏」、湖南にある鎌倉時代からの仏教の宗派「一向宗」や湖南最大勢力だった「六角氏」、そして京都の北方守護である「延暦寺」が「信長」の野望の前に立ちはだかっており、これをどうにかするのが課題だったのです。

1570年7月30日に「織田軍」と「徳川軍」の連合で、湖北の「浅井軍」と「朝倉軍」の連合と現在の滋賀県長浜市のあたりで戦った『姉川の戦い』で勝利した「織田軍」はその翌年に延暦寺の焼き討ちを行っています。

しかし何の告知もなく攻撃したのではなく、「信長」は延暦寺側へ「浅井・朝倉軍」を倒した後に召し上げた元々比叡山の領地だった近江と美濃の土地を自軍に味方をすれば返すと約束をしていました。

乗りに乗ってる「織田信長」に対して逆らうのは得策ではなく、多くの戦国大名がその軍門へ下る選択を選んでいる中、延暦寺もこの時に相当悩んだと言います。

しかし古くからの誼もあった「浅井氏」と「朝倉氏」を裏切る事ができず「信長」の提案には乗らない選択を選ぶことに。

その結果、強力な僧兵を有し武家に並ぶ権力と軍事力を持つ延暦寺を敵と見做した「信長」によって比叡山焼き討ちという惨劇は起きたのでした。

この時の延暦寺の選択が正しかったのかどうかは人によって意見が分かれる所ですが、まさに弱肉強食の戦国時代で生き抜く為には誰もが苦渋の選択を繰り返していたのだろうという事が伺えます。

時代の流れとは言え本来は身分生まれ関係なく迷う人々を救う事を目的とした「最澄」は、焼き討ちの惨劇とそれの要因の一つとなった権力と武力を持つ血生臭い姿をどう感じるのか、少し聞いてみたい気がしてきますね。

不滅の法灯と焼き討ちからの復興

不滅の法灯と焼き討ちからの復興

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焼き討ちによって西塔の瑠璃堂を残し全ての堂塔が焼けてしまいましたが、近年の発掘調査によって長らく語り継がれるほどの状況ではなかったのではないか、という説が出ています。

その理由として比叡山の焼けたと言われている場所の土の層(焼土層)が薄くて山の全てが燃えたという判断がしにくく、また様々な研究から焼き討ちが行われた段階で多くの堂塔がすでに存在していなかったという話しも出ているのです。

それ以外にも全てが焼けてしまったと言われているわりには、焼き討ち以前に延暦寺で保管されていた多くの仏像や紙や木簡でできた経典が多く残されていた事もあって、語られる程に凄惨であったかどうかは今後の発掘調査によって変わるかもしれません。

しかし焼き討ちのあった事実とその際に少しでも多くの仏像や経典を逃がそうとした人たちがいたのも確かなことなのです。

さて焼き討ちによって多くの僧侶と堂塔を無くした延暦寺は、それでも「最澄」の『一隅を照らす』という言葉を胸に少しずつ比叡山の復興を始めます。

その中には「織田信長」が本能寺で斃れた後に天下統一を成した「豊臣秀吉」や「徳川家康」らが延暦寺の再興再建を手伝い、明治期以降から現在に至るまでそれは続けられています。

そんな復興のシンボルとなったのは、現在も根本中堂に静かに灯る『不滅の法灯』。

『油断大敵』の語源ともなったこの火は「最澄」が本尊である薬師如来像の前に明かりとして灯し、以来1300年絶える事なく灯り続けているもので、毎日油が絶えぬように朝夕と継ぎ足してその明かりを守り続けています。

この不滅の法灯は「信長」の焼き討ちの際に根本中堂と一緒に焼失してしまったものです。

現在の法灯は「豊臣秀吉」が延暦寺の再建に着手した後、1585年に山形県山形市にある『立石寺』に分灯されていたものを戻したもので、火種は違えど「最澄」が灯した火である事に変わりがありません。

不滅の法灯の明かりの元、焼き討ちによって全国各地に散っていた比叡山の僧侶達も延暦寺へと戻り、「豊臣秀吉」と「徳川家康」そして徳川四天王の一人であり天台宗の僧侶でもあった「慈眼大師天海(じげんだいし てんかい)」の庇護と尽力の元、少しずつ本来の姿を取り戻していきました。

世界遺産となった「延暦寺」

いかがでしたか?

様々な困難と悲劇を乗り越えて今日まで続く延暦寺は1996年にユネスコの世界遺産へと登録をされていますが、その背景にはただ古い歴史や文化を持つという理由だけでなく1987年から10年ごとに開催される『比叡山宗教サミット』の存在があります。

このサミットは世界中の宗教宗派問はず多くの指導者を集め、民族や文化、人種といった壁を越えて宗教と人々が共存する世界を模索する事を目的としたもので、現在も多くの悲しみを生む争いや差別を無くし平和な世界を目指したものです。

絶えることなく開催されるこのサミットの姿こそ「最澄」が求め「延暦寺」が目指す姿を現しているのかもしれませんね。

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