オーストリア「インスブルック」観光で是非とも見たい歴史的スポットあれこれ

ドナウ川の支流であるイン川のほとりにあるインスブルック。「ブルック」とは「橋」という意味なので「イン川にかかる橋」というのがこの都市の名前の由来です。ドナウ川の支流の一つであるイン川はスイスのアルプス山脈に水源があり、オーストリアのチロル州の中央を東に向かって流れています。イン川流域は盆地になっていて、北にも南にも万年雪を頂くアルプスの山々がそびえています。スイスにルーツのあるハプスブルク家がウィーンを支配するようになったとき、その間にあるチロル州はスイスとウィーンとをつなぐ重要な通路になったのですね。てすからそのチロル州の中央にある州都インスブルックは政治的にも文化的にも大きな意味をもっているのですよ。

インスブルックにもホーフブルク(宮廷)があります

インスブルックにもホーフブルク(宮廷)があります

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ウィーンには壮大なホーフブルクがあり多くの観光客を集めていますが、これはハプスブルク家の宮廷です。
「ホーフブルク」=「宮廷」だとすると、インスブルックにもそのホーフブルクがあるのはなぜでしょうか。
もちろんハプスブルク家がウィーンではなくインスブルックに宮廷をもっていた時代があったということですね。
ウィーンのあの壮大なホーフブルクに比べると小さな宮廷ではありますが、インスブルックという都市自体が山間の小都市ですから、こんな小都市にどうしてハプスブルク家の宮廷があるのか、その謎を解いていくことにしましょう。

まずは簡単にインスブルックの歴史を見ておくことにしましょう

インスブルックはドナウ川の支流であるイン川のほとりにある都市ですから、ここに人が住み始めたのはおそらく石器時代からでしょうが、青銅器時代の遺跡は残されています。
イリュリア人やローマ人が居住した跡も残っていますね。
ローマ帝国時代には小さな城塞が建設されましたが、それは破壊されてしまいました。
12世紀にその城塞があった場所に修道院ができましたが、それは現在インスブルックの町外れにあるヴィルテン修道院教会。
この名前はこの場所がローマ時代そう呼ばれていたからなのですよ。

川にかかる橋は多くの人が行き交う場所でもありますから、そこに市場ができることがよくあります。
インスブルックもまたその良い例ですね。
イン川にかかる橋というのが都市の名前になったわけですが、1180年にはアンデックスという名前の伯爵がこのあたりを支配。
1239年には市場から都市に昇格し、この都市を取り囲む市壁や見張りのための塔が建設されましたが、それは現在インスブルック中央駅からグルリと旧市街を取り囲む道路にその名残を留めていますね。
ハプスブルク家の傍系の領地になったのは1363年。
その後1420年から1665年に宮殿ができて、皇帝マクシミリアン1世(1459~1519)は1493年にハプスブルク家の宮廷をインスブルックに移したのですよ。
インスブルックを歩くと、この皇帝の残したものを数多く見ることができますね。

マクシミリアン1世はインスブルックに宮廷を移しました

ハプスブルク家はもともとスイスのアールガウの貴族でしたが、1254年から始まった大空位時代は、1274年にハプスブルク伯ルドルフ4世がドイツ王に選ばれてルドルフ1世(1218~1291)になったことで終わります。
それと同時にハプスブルク家がヨーロッパの歴史の表舞台に登場。
この当時のハプスブルク家はスイスからライン川を下り、その上流地域であるアルザスやシュヴァーベンを支配下に置いていました。
この地域がハプスブルク家の元来の領地なのでフォアラントと呼ばれていますが、その後獲得したオーストリアに本拠地を移動。
インスブルックのあるチロル地方はそのフォアラントとオーストリアとをつなぐ重要な通路なのですね。

まだボヘミアやハンガリーを獲得する以前だったので、まさにインスブルックこそハプスブルク家の領土の中心。
何かとウィーンにいい思い出のないマクシミリアン1世は、父であるフリードリヒ3世(1415~1493)の死後インスブルックに宮廷を移したのも当然と言えば当然。
もっともインスブルックはマクシミリアンが宮廷を移す前から都市として半ば独立していたので、宮廷はどちらかというと町外れにあると言っていいかもしれませんね。
都市は市壁で囲まれていますが、同時にその市壁の内部が4分割されてまいす。
その4分割の線は、南北のマリア・テレジア通りとレオポルト通り、東西のザルルナー通りとマクシミリアン通り。
旧市街はルネサンスやバロックやロココ様式の建物で埋め尽くされています。
とはいえ、ウィーンなどに比べたら小さな都市ですから、高原の空気を吸いながら歩いてみるのもいいですね。

マクシミリアン1世の2度目の結婚を祝して金の小屋根ができました

旧市街の中央から北に向かうマリア・テレジア通りの突き当たりに、シュタット・トゥルムすなわち都市を取り囲む市壁に建つ見張りの塔があり、その先に金の小屋根があります。
これはマクシミリアン1世が、1494年3月16日にチロルのハルでミラノ公女ビアンカ・マリア・スフォルツァと結婚したことを記念して建造されたもの。
マクシミリアンは若い頃ブルゴーニュ公国の一人娘であるマリーと結婚して、「中世の秋」と呼ばれるブルゴーニュの華麗な宮廷文化を満喫。
しかし1482年にそのマリーが落馬して死んでしまい、この結婚もたった5年で終わってしまいますが、その後マクシミリアンは独身を貫いたのですよ。

「最後の騎士」というあだ名をもったマクシミリアン1世のことですから、ミラノ公であるスフォルツァ家を救うための結婚とも言われていますね。
もちろんその一方で、ブルゴーニュ家やスフォルツァ家の「財産」がハプスブルク家にもたらされたのも事実。
神聖ローマ皇帝とはいってもそれほど豊かな貴族ではなかったハプスブルク家を有数の豊かな貴族にしたのは彼の功績。
広大なスペイン王国の海外植民地を併せて「陽の沈まぬ帝国」を築いたカール5世(1500~1558)は、このマクシミリアン1世の孫なのですから。
金の小屋根とは、1494年から1496年にかけて後期ゴシック様式の建物に2657枚の金貨を瓦のようにした小さな屋根が付けられたもの。

しばらくこの界隈を散策してみることにしましょう

金の小屋根が付いている建物ですが、これは1996年にマクシミリアン1世を記念してマクシミリアン記念館になっています。
皇帝ともなるといろいろな「許可書」や「特許状」などを出すことができるのですが、マクシミリアン1世のサインが入ったものが展示されていますね。
そのほかには、1507年から1508年に宮廷画家であるベルンハルト・シュトリーゲルによって描かれたマクシミリアン1世の肖像画が見られますよ。
金の小屋根の向かい側には美しいヘルブリングハウスがあり観光客の目を引きますが、これはもともとは後期ゴシック様式で建設されていたものを、1730年にバロック様式で改築したもの。
正面のさまざまな装飾が美しいですね。

金の小屋根の手前にあるシュタット・トゥルムは、14世紀に古い市庁舎と一緒になった見張塔として建てられたものですね。
その後シュタット・トゥルム、つまりこの都市の塔となったのですよ。
57メートルの高さで周囲がよく見下ろせます。
イン川の河畔にはオットーブルクと呼ばれる建物がありますが、ここは現在はレストランになっていて、1809年にナポレオンの支配に抵抗したチロルの戦士たちのブロンズ像が見られますよ。
ナポレオンはチロルをバイエルンに与えたのですが、アンドレアス・ホーファーたちはそれに抵抗。
ハプスブルク家とチロルの強いつながりがそこに見えるような気がしますね。

インスブルックには大聖堂もあります

東京ドームなどというものがあるためにDom(ドーム)というと丸屋根の建物を連想してしまうかもしれませんね。
バロック様式の教会はたしかに丸屋根なのですが、ロマネスクやゴシック様式は丸屋根ではありません。
ドイツ語で「ドーム」というのは司教座のある大聖堂のこと。
キリスト教では世界の各地域をたくさんの教区に分けてそこに教区教会を設置していますが、いくつかの教区をまとめてそこに司教や大司教という高位聖職者を置いて司教区・大司教区を設け、そこに大聖堂を建設するのですね。
インスブルックの大聖堂はもともとは聖ヤコブ教区教会で、1964年に大聖堂に昇格。
ウィーンの大聖堂などに比べたら、ずいぶん新しいですね。

建物自体も、1717年から1722年にかけてバロック様式で建てられたもの。
教会の名前になっている聖ヤコブはキリストの十二使徒の一人で、その遺体がイベリア半島の海岸に漂着し、当時ここを支配していたイスラム教徒との戦いを勝利に導いたという伝説があるのですよ。
その場所は現在はスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラという世界三大巡礼地の一つになっていますね。
ハプスブルク家もバロック時代にイスラム教国であるオスマン・トルコと戦って勝利したのですから、聖ヤコブを祀る教会があっても不思議ではありませんね。
バロック様式の教会にはステンドグラスはあまり見かけませんが、そのかわり天井や壁に独特の絵画が描かれています。
インスブルックの大聖堂に描かれた絵は、このヤコブの物語ということになります。

マリア・テレジアにとってインスブルックは忘れられない都市です

マリア・テレジアにとってインスブルックは忘れられない都市です

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マリア・テレジア通りにその名を残すマリア・テレジア(1717~1780)は「女帝」として知られていますね。
ハプスブルク家の男系が絶えて、広大なハプスブルク家の家領を一人で相続したマリア・テレジアは、一方では16人もの子供を出産。
母親としても存分にその力を発揮したのですが、それとともに6歳のときから恋い焦がれて結婚した夫フランツ1世(1708~1765)への愛を、生涯にわつたて貫いたことでも知られています。
いやそれどころか死んだあともウィーンのカプチン派教会にある皇帝廟に2人で同じ棺に永眠しているのですよ。
それほど愛していた夫とのこの世での別れは、1765年8月18日にインスブルックで突然に訪れたのでした。

マリア・テレジアの三男レオポルトの結婚式が行われました

マリア・テレジアの長男は啓蒙専制君主として有名な皇帝ヨーゼフ2世(1741~1790)ですが、2度も結婚したのに結局男児には恵まれませんでした。
次男のカール・ヨーゼフは成人することなく1761年に死亡。
三男のレオポルトが1790年のヨーゼフ2世の死後に皇帝レオポルト2世(1747~1792)になるのですが、この時点ではまだ誰もそんなことは想像もしていませんね。
先祖伝来のロレーヌ公国をトスカナ大公国と交換することでマリア・テレジアとの結婚が許されたフランツ・シュテファンですから、ハプスブルク帝国は長男に相続させ、三男をトスカナ大公にすることで後継者問題はうまくいきますね。

将来のトスカナ大公レオポルト1世のために、結婚式はウィーンではなくインスブルックで行われたのですね。
1765年8月5日、相手はスペイン王女マリア・ルトヴィカ。
彼女の父親はフランスのブルボン家出身のスペイン王カルロス3世、母親はザクセン選帝侯女マリア・アマーリア。
政略結婚ではありますが、それは当時としては当たり前のことで、これまでずっと敵同士だったハプスブルク家とブルボン家にようやく蜜月が訪れようとしていたのですよ。
しかし、高山の盆地の夏の暑さはただ事ではなく、その暑さとウィーンからの旅の疲れのせいでしょうか、カール6世は突然死去。
生涯喪服を着続けたと言われているマリア・テレジアですが、息子の結婚式と夫の葬式を同じ場所でしなくてはならなかったわけです。

マリア・テレジア通りを歩いてみましょう

マリア・テレジア通りに立って金の小屋根の方向を見ると、2,300メートルを超える高さのアルプスの山々の頂が背景になっているという絶景。
この通りの真ん中、新市庁舎の前にアンナ記念柱が立っていますが、これは1703年に侵攻してきたバイエルン軍を撃退した日を記念して1706年に建設されたもの。
その記念の日がちょうど聖アンナの日というわけですね。
聖アンナは聖母マリアの母親で、マリアと同じように聖霊によって身ごもったことになっています。
オーストリアでは、聖母マリアがオスマン・トルコとの戦いで出現したという伝説があちこちに伝えられているのですが、その母親である聖アンナも無視できませんね。

この通りを少し南に行くと旧市庁舎がありますが、これは1725年から1728年にかけてバロック様式で建設されたもの。
この旧市庁舎のすぐ南の広場に記念碑がありますが、これは1945年に「オーストリアのために死んだ人々を記念して」建てられたものですね。
1938年にドイツ第三帝国に併合されて「ドイツ」として第二次世界大戦を戦ったオーストリアですが、戦後すぐにもう「ドイツ」から身を切り離したということです。
マリア・テレジア通りが終わるところにある凱旋門は、1765年にマリア・テレジアが三男レオポルトの結婚を記念して建設したもの。
1774年にこの門の南側には結婚を記念するレリーフが、北側にはこのときに死んだカール6世を悼むレリーフが付けられているのですよ。

ホーフブルクの界隈を歩いてみましょう

ホーフブルクの界隈を歩いてみましょう

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旧市街を見て回りましたが、それではホーフブルクの界隈を歩いてみることにしましょう。
マクシミリアン1世はインスブルックに宮廷を移しましたが、インスブルックがチロルの中心都市として整備されるのはやはりバロック時代。
オーストリアでバロック時代というと、マリア・テレジアの祖父レオポルト1世(1640~1705)から父カール6世(1685~1740)までと考えるのが一般的です。
シェーンブルン宮殿の完成で知られるマリア・テレジアの時代になるとロココ様式の時代。
インスブルックのホーフブルクもマリア・テレジアが大幅に手を加えたのですね。

ホーフブルクはマリア・テレジアによって改築されました

金の小屋根の北側にホーフブルクがあります。
現在は後期ロココ様式で建てられていますが、それよりずっと以前、ハプスブルク家の傍系のレオポルト4世公(1371~1411)がここに基礎を作ったのですよ。
当時のハプスブルク家はアルブレヒト系とレオポルト系に分かれていたのですね。
その後レオポルト4世公の弟のフリードリヒ4世公(1383~1439)が1402年にインスブルックを獲得。
そしてレオポルト4世公の息子のジギスムント公(1427~1496)が1453年から10年かけて改築し、チロル系ハプスブルク家の宮廷になったのでよ。
マクシミリアン1世の父親である皇帝フリードリヒ3世もインスブルックの生まれですが、レオポルト系の傍系であるフリードリヒがのちに皇帝になるなどとは誰も想像していなかったでしょうね。

ここに自分の二度目の結婚を記念して金の小屋根を作ったマクシミリアン1世にとって、その意味でもインスブルックは特別の都市。
しかしその後、1534年にこの宮廷は焼失。
1565年にカール5世の弟でオーストリア系ハプスブルク家の皇帝フェルディナント1世(1503~1564)の次男、チロル伯のフェルディナント2世大公(1529~1595)が相続して改築。
そかしその後男系が断絶して宮廷の意味を失っていたところ、マリア・テレジアが1754年にウィーンに次ぐ第二の宮廷として本格的な建築を開始。
三男レオポルトの結婚式もここで行われた次第です。

フランツ1世が死んだ場所は宮廷礼拝堂になりました

1765年7月4日にマリア・テレジアたちはウィーンを出発し、7月15日にインスブルックに到着。
花嫁のマリア・ルトヴィカが到着したのは8月2日で、結婚式が挙行されたのは8月5日。
しかしその日は天候が悪くて、旅の疲れと重なって花嫁は半病人の状態だったということです。
一方、フランツ1世も8月18日には体調不良を訴えたものの、その夜は家族でオペラ鑑賞。
これまでの無理がたたったのか、その日の夜中の10時に卒中発作で死亡。
「私たちの結婚生活である29年6か月6日は、335か月、1,540週、10,781日、258,744時間です。」とマリア・テレジアは嘆いたとか。
夫の遺体を載せてイン川を下る舟を見送ったあと、マリア・テレジアはもう二度とインスブルックに来ることはなかったのですが、その一方でインスブルックの宮廷の大改築を指示。

1766年に改築が始まりましたが、フランツ1世の死んだ部屋は宮廷礼拝堂になりました。
ニコラウス・パッカーシーによりインスブルックの宮廷はロココ様式の華麗な宮殿に大改装されたのですね。
天井や壁には美しいフレスコ画が描かれましたが、なかでもハプスブルク家の勝利の寓意画は一見の価値がありますよ。
インスブルックの宮廷は宮廷教会と一体になっている感じですが、チロル伯のフェルディナント2世大公の遺骸を安置するための礼拝堂が1578年から1587年にかけて建築されたのですが、銀箔を施された聖母像が祭壇に飾られているので、銀の礼拝堂とも呼ばれています。
1580年に死んだ妻のフィリピーネ・ヴェルザーと1595年に死んだ大公の遺骸がここに納められているのですね。

宮廷教会ではマクシミリアン1世に関係する人たちと出会えます

宮廷教会はもともとは1553年から1563年にかけて後期ゴシック様式で建設されました。
ゴシック様式の教会ですが、内装は18世紀後半、つまりロココ様式ということになりますね。
正面の扉を入って突き当たりにある主祭壇は1758年、脇にある祭壇は1775年に完成。
また、正面入口の左側に、ナポレオンの支配下でチロルがバイエルン王国の領土になったとき、これに抵抗して1810年に銃殺されたアンドレアス・ホーファー(1767~1810)の墓石が1834年に作られています。
その隣には抵抗軍の同志だったヨーゼフ・シュペックバッハー(1767~1820)とカプチン派修道僧ヨアヒム・ハスピンガー(1776~1858)が永眠。

宮廷教会の中央にはマクシミリアン1世の立派な墓石があるのですが、戦いに行く途中で死んだ皇帝はヴィーナー・ノイシュタットに遺体が安置されていますから、この墓所には遺体がありませんね。
ここに宮廷を移した皇帝の見事な銅像のある黒い棺だけが置かれているのですよ。
このマクシミリアン1世の棺の側面には24枚の大理石のレリーフが刻まれており、それがマクシミリアン1世の人生を物語っているのです。
またこの棺の周囲には28体の像が立っているのですが、ハプスブルク家の始祖ルドルフ1世をはじめとするハプスブルク家の人たちのほか、伝説のアーサー王までがマクシミリアン1世の棺を見守っているわけですね。

チロルにしかない博物館もあります

チロルにしかない博物館もあります

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劇場と博物館があることが都市として成立するための必要条件なのですが、宮廷のすぐ隣にある広い宮廷庭園には劇場があります。
この劇場は大学通りに立っていますが、この通りの反対側には大学の旧館があり、その隣にはチロル地方博物館があります。
また、宮廷教会の隣にはチロル民芸博物館、インスブルックの中心部にはチロル民俗学博物館があります。
これらの博物館にはアルプスに連なるチロル地方独特のものが展示されているのですよ。

チロル独特の博物館を見て歩きましょう

まずチロル民芸博物館ですが、「民芸」という言葉を聞いて何を想像するでしょうか。
ヨーロッパの建築物というとすぐに石でできたものを思い浮かべるでしょうね。
たしかに教会建築は石工たちの技術によるもので、秘密結社として有名なフリーメイソンの「メイソン」はこの石工を意味しています。
しかし、ヨーロッパでも山岳地帯になると豊富な森林資源を活用した木造建築が普通であり、家具調度品ももちろん木製。
民芸博物館はこれらの木工品が展示されていますが、なんといっても驚かされるのは、20を越えるチロルの農家の部屋。
インスブルックの都市部にいてチロルの田舎を見ることができるとともに、そこに生きる農民たちの独特の衣装も見られますよ。

馬小屋で誕生したイエスを祝福に訪れた東方の三博士や動物たちの、クリッペという木製の飾り物がありますが、18世紀から現代までに作られたクリッペも展示されていますね。
もちろん木製のものばかりではなくガラス製の食器などもあり、「民芸」の幅の広さが見えてきます。
博物館通りにあるチロル地方博物館は、チロルで製作されたゴシック時代の芸術作品のようなチロルの歴史や芸術を示す多くの展示物のほか、普通の美術館のようにオランダやフランドルの有名な画家たちの作品も展示。
チロル民俗学博物館はその名が示すように、チロル地方の芸術史・自然史の博物館で、鉱山とそこで採取される鉱物、狩猟や技術などの歴史を見ることができます。
アルプス地方独特のカッコウ時計やオルゴールも展示されていますよ。

アルプスの動物を集めた動物園もあります

インスブルックの旧市街のはずれには、ローマ帝国時代の城塞が破壊されたあとにできたヴィルティン修道院があります。
1138年の建物が最初のものですが、その後増築された複合的な建築物。
この修道院の教会は1651年から1665年にできたのですが、1670年から1695年にバロック様式で改築されています。
その隣の2つの塔のあるヴィルティン教区教会は1751年から1755年に建設された、この地方でもっとも美しいロココ様式の教会。
主祭壇の砂岩でできたマリア像は14世紀のものですね。

方向を転じ旧市街を通り抜けてイン川を渡り、1キロメートルほど山を登ったところに15世紀にできたヴァイアーブルク城があり、その近くにアルプス動物園がありますね。
普通の動物園とは違って、アルプスに生息する動物が集められています。
水族館も併設されていて、チロルの自然を満喫するにはいい場所ですね。
インスブルックはイン川の谷にある都市なので、動物園のある北側にも反対側の南側にもロープウェイが設置されていて、インスブルック市内の交通機関に有効な定期乗車券でこれらのロープウェイに乗ることができますから、アルプスを存分に楽しんでみてください。
ただし真夏でも肌寒いことは忘れないように。

インスブルックの郊外にアンブラス城があります

インスブルックの郊外にアンブラス城があります

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ウィーンでは郊外に華麗なシェーンブルン宮殿がありますし、パリだとかなり離れた場所にあのヴェルサイユ宮殿があり、ベルリンでもポツダムにサン・スーシー宮殿がありますね。
都市の内部にある宮殿より、郊外にある宮殿の方が広い土地を確保できるので、その分だけ立派な宮殿が建設できますね。
インスブルックには、3.5キロメートルほど南東にアンブラス城がありますが、山間の盆地の都市のインスブルックですから、アンブラス城は山の中腹に建っています。

フェルディナント2世大公が大改修しました

インスブルックの町外れにあるヴィルティン修道院もそうですし、アルプス動物園の近くにあるヴァイアーブルク城もそうですが、山には戦闘のための城塞が建てられます。
現在は豪華な別荘のようなアンブラス城も、もとはオーバーバイエルンの城塞だったのですよ。
ハプスブルク家がチロルを領地にするよりずっと以前、チロルはドイツからイタリアへと向かう通路だったのですね。
1133年にヴェルフェン家のハインリヒ高慢公がこの城塞を破壊。
その後1282年にゲルツ家のマインハルト2世伯がチロルを領有。
この頃にはハプスブルク家はオーストリアを領有していたので、チロルはオーストリアとフォアラントとをつなぐ通路の役割が生まれたのでしたね。

1493年にインスブルックに宮廷を移したマクシミリアン1世はこの城を狩猟に利用していましたが、残念ながら改築のための費用は出せませんでした。
それどころか1510年にはこの城を借金のために差し出す始末。
しかし、フェルディナント1世が1563年に息子であるチロル伯フェルディナント2世大公のために多額の金額で買い戻したのですよ。
そしてこの城はハプスブルク家の宝物庫になったのですね。
1564年に父の遺言によりフェルディナント2世大公はチロルとフォアラントを相続。
1567年までボヘミア総督としてプラハにいたフェルディナント2世大公は、そのプラハからアンブラス城の大改修を命じたのでした。
それにはもちろん、あまり人には言えない秘密があったのですよ。

「美しいヴェルザー」とその子供たちのためにルネサンス様式に

貴族の家に生まれると、結婚相手は身分相応の人でないといけません。
同じ貴族でもランクがあるので、皇帝を独占するようになっていたハプスブルク家の男性は、王女や公女ないし候女と結婚する必要がありました。
兄のマクシミリアン2世(1527~1576)が皇帝になる予定だったので、次男のフェルディナント2世大公は1557年に秘かにアウクスブルクの商人の娘であるフィリピーネ・ヴェルザーという2歳年上の女性と結婚していたのですね。
これは許されないことで、この2人に男の子が生まれてもその男の子にはハプスブルク家の相続権がありません。
1559年に父フェルディナント1世は「秘密にする」という条件でこの結婚を承認。
秘密の結婚ですから、インスブルックの宮廷に妻子を置くことはできません。

そこで、郊外にあるアンブラス城をルネサンス様式の宮殿に改築し、ここに妻子を住まわせることにしたのですね。
立派な宮殿にはトイレも浴室もないという俗説が出回っていますが、なんとここには深さ1.6mで銅メッキの浴槽があり、フレスコ画に飾られた着替え室まであるフィリピーネ・ヴェルザーのための浴室があったのですよ。
1570年から72年にかけて作られた大広間には、チロル伯アルベルト1世からフェルディナント2世まで27人のチロルの領主の肖像画が掛けられ、19世紀にはスペイン広間と呼ばれました。
こんな豪華な宮殿ですが、1580年にフィリピーネが死んだ2年後にはもう、51歳の大公は15歳の姪カタリーナ・コンツァガと2度目の結婚をしたといいますから、何と言えばいいでしょうか。
1595年に大公が死んだあと、大公の息子のカール・フォン・ブルガウがアンブラス城を相続するのですが、維持するのに多額の費用がかかり、結局1607年にカールの従兄弟である皇帝ルドルフ2世(1552-1612)に売却されたのでした。
収集家として知られるルドルフ2世はアンブラス城の収集品に興味があったのですね。

アルプスの雄大な自然のなかに人間の残した「歴史」が見えます

ウィーンに次ぐハプスブルク家の宮廷があったインスブルックですが、人口わずか10万人程度の小さな都市。
雄大なアルプスの山々に囲まれたこの小さな「大都市」には、ルネッサンス様式・バロック様式・ロココ様式の建物が、文字通り所狭しと立ち並んでいます。
アルプスの大自然とこれらの人工物との奇妙な調和こそがまさにインスブルックの魅力。
是非一度インスブルックを訪れてみてください。
1964年と1976年に冬季オリンピックも開催されたのですよ。
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