電話を世に広めた「アレクサンダー・グラハム・ベル」とはどのような人物?

19世紀に活躍したイングランドの発明家「アレクサンダー・グラハム・ベル」。彼最大の功績と言えば人間文化に大きな影響を与えることとなった「電話」の開発で、今ではなくてはならない存在になっています。そんな「電話」を世に広めた「アレクサンダー・グラハム・ベル」はどのようにして大発明を成し遂げたのか、今回はその生涯を見ていきましょう。

幼いころから発揮された天才ぶり

1847年3月3日にスコットランド・エジンバラで父アレクサンダー・メルヴィル・ベル・、母イライザのもとに誕生したアレクサンダー・グラハム・ベル。
幼少期から好奇心旺盛であったグラハムは植物標本の採集や実験に熱中。
この頃には親友ベン・ハードマンの家が営む製粉所で「製粉前の脱穀が重労働」との話を聞き回転パドル、ブラシを組み合わせた脱穀機を開発しており、旺盛な好奇心を十分に発揮していました。
そんなグラハムは母から音楽などの芸術も教え込まれ、正式な訓練を受けることなくピアノ演奏を習得。
さらに12歳の頃から母が聴覚に障がいを抱え始めると手話の習得、音響学の学習も開始。

大学教授をしていた父は聴覚に障がいのある人に単語の発音を教える「読唇術」を研究しており、グラハムや兄弟にコミュニケーション方法を伝授。
父から技法を学んだグラハムは父の公開デモンストレーションにおいて実演を行い、自身が知らない言語の発音も披露。
こうして発明家・ベルの下地は幼いころに作られいったのです。

学校の勉強には興味なし

幼くして才能を発揮したグラハムですが、学校での成績はそれほど良いわけではなく、おまけに学校に来ないことも多い生徒でした。
教科についても自身が興味を持つ科学、生物学以外はまるで興味を示さなかったとされており、「興味のある分野のみ集中する」ことは発明家にとって重要なことなのかもしれません。
結局学校を退学したグラハムはロンドンにいる祖父のもとへ向かい、そこからは真剣な勉強をして過ごすことに。
そうしたグラハムの姿を見た祖父はグラハムを教師にしようと考え話法などを伝授。
16歳になったグラハムはスコットランド・マレーの商業の中心地エルギンのウエストンハウス学院に進み、弁論術と音楽の教師、ラテン語などを学ぶ学生を兼ねることになります。
教えながら学ぶことは相当厳しいものですが、当時のグラハムにとっては有意義な時間であったのかもしれません。

父から「オートマタ」を知る

教師として教えながら自身も学ぶ毎日を送っていたグラハムに新しい関心を育てたのは父・メルヴィルでした。
科学への関心を育てようとしたメルヴィルはイングランドの物理学者チャールズ・ホイートストンが開発した機械人形「オートマタ」をグラハムに見せることを決め、興味を持ったグラハムはホイートストンの開発の基となった発明家ヴォルフガング・フォン・ケンペレンの著書を読むことに。
ケンペレンの著書はドイツ語で書かれたものでしたがグラハムと兄弟はそれを翻訳して読み、兄が喉部分、グラハムは頭蓋骨を担当し自作の人形を製作することに。
その後完成した人形は鞴(ふいご。
空間の体積を変化させて空気の流れを生み出す器具)で空気を気管に送ればはっきり発音できることがわかり、この結果を出したグラハムは一家で飼っていた犬に動物実験を実施。
すると犬は人形を通じて教え込んだ発音を理解、それをうなるようになったのです。

動物実験も成功させたグラハムは音響伝達について本格的な研究をするようになり、19歳のときには実験結果をまとめた論文を作成。
論文を父の同僚で言語学者アレクサンダー・ジョン・エリスに送ると、エリスから「このような研究はすでに行われている」との情報を得ることに。
それを知ったグラハムはエリスから借りたドイツ物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの著書を読んで研究に励み、1865年に一家でロンドンに移ったあとも実験器具を使っての実験を続けます。
グラハムの貪欲な姿勢がよく見えてきますね。

家族の不幸・さらなる研究

djmystabean (引用元:Instagram)

貪欲に研究に励むグラハムでしたが、そんなグラハムに思わぬ出来事が続きます。
1867年に入りグラハムは体調不良が続くようになりますが、その中で弟が結核にかかり寝たきりに。
グラハムは翌年に入って回復しますが、弟は回復することなく帰らぬ人に。
さらにこの頃は兄が結婚のため家を出ることになっており、家庭環境は大きく変化していました。
しかしこうした変化があってもグラハムの研究意欲は変わりません。
グラハムはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学位を得ることを目標に勉強を続行、父が行う視話法のデモンストレーションの手伝いにもかかわるように。
またこの頃ロンドンのサウス・ケンジントンにある学校で聴覚に障がいを持つ少女と出会い、グラハムは彼女たちの指導を行います。
学んだことを生かす場所を得たグラハムの研究はますます進んでいくかに見えました。

カナダへの移住・新環境での研究

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学校での指導を行う機会を得たグラハムにまたしても悲劇が襲います。
1870年の5月になると愛が結核にかかりそのまま他界、父もこの頃体調を崩して一家は大きな危機を迎えていました。
こうした状況に危機を感じた両親、グラハム、兄の未亡人は同年にカナダ・オンタリオ州パリに向かい、近郊のブラントフォードに農場を購入。
グラハムはここの車庫に仕事場を設け、川岸のへこみを「夢見る場所」と呼んでここで過ごすことに。
困難に見舞われても自分のできることを探り研究を続ける「貪欲さ」が表れているのですね。

新天地で研究の場を得たグラハムは電気・音声の研究を続けるうちに体調も回復。
またこの頃は自身が学んだ「モホーク語(アメリカやカナダに住む先住民族「モホーク族」の言語)」を視話法のシンボルに翻訳する試み、ボストンの学校において視話法の指導を行っており、後者はハートフォード(コネチカット州)などアメリカの別の場所でも成功させることに。
研究のヒントになるものは何でもやってみるものですね。

学校の開校・激務による体調不良

視話法の指導経験を積んだグラハムが次に行ったのは「学校の開校」でした。
1872年になるとボストンで視話法を教える学校「School of Vocal Physiology and Mechanics of Speech」を開校、1873年からはボストン大学で発声生理学と弁論術の教授に就任。
活動領域を次第に広げていきます。
しかし広がる活動に体がついていきません。
この頃のグラハムは日中は講義、夜は遅くまで実験という激務をこなしながら毎日を送っていましたが、この激務がたたり頭痛に悩まされるなど健康状態が悪化。
1873年にボストンへ戻ると音響実験に専念することとなります。
あらゆる研究をしたいなかで「苦渋の決断」であったかもしれませんね。

こうして音響実験に専念することを決めたグラハムは、聴覚に障がいを抱える16歳のジョージ・サンダース、15歳のメイベル・ハバード(のちに彼の妻)を雇用するなどして研究続行。
1874年の夏になるとすす(煤)を塗った紙に音の波形を描く装置「フォノトグラフ」を使った実験により「音波と同じ波形の電流を生成できる」、「異なる周波数の金属リードで脈打つ電流を音に戻せる」可能性を発見することになります(いずれも実証するための実験はしていない)。

援助者を得て・電話の誕生へ

グラハムが音響実験で新たな可能性を見出した頃のアメリカでは電信を用いて文書を送る「電報」が盛んとなっていましたが、発達に伴い新しい電信線を設けるコストを抑えることが必要に。
これに対して当時国内最大の電信会社「ウェスタンユニオン社」の会長ウィリアム・オートンは「1本の線で複数の文書を送る」方法をトーマス・エジソンらに研究させるなど解決策を模索していました。
こうした流れでグラハムも動きます。
自身が「1本の導線で複数の高さの音を送る方法」を研究中であることを実業家で弁護士ガーディナー・グリーン・ハバード、トーマス・サンダース(グラハムが雇った少年ジョージ・サンダースの父)に伝えると、2人はグラハムへの支援をすることに。
強力な支援者を得たグラハムはハバードとサンダースの援助により助手として電気に詳しいトーマス・ワトソンを採用して研究を続行。

支援者と助手を得て実験を続けるグラハムは1876年2月14日についに特許出願。
このとき発明家イライシャ・グレイも同じ日に特許を出願していましたが、約2時間の差で特許はベルのものに。
わずかな時間差が運命を変えたのです。
こうして特許は1876年3月3日に認可、7日に公告を果たすことになり、3日後の10日には電話の実験に成功。
この実験時にベルが発した「ワトソン君、ちょっと来てくれ」が電話の最初の声となったと言われています。

世界に広がる電話の影響

電話の開発に成功したグラハムは次なる作業に取り掛かります。
1876年にはアメリカ・フィラデルフィアで開催された「フィラデルフィア万国博覧会」に登場し電話を公開、国の皇帝など世界の著名人に電話の機能を紹介することに。
このあとヴィクトリア女王からも高い評価を受けることになり、王室の離宮「オズボーン・ハウス」にも招待されることに。
国の女王を驚かせるところまで来たのです。
電話の機能を証明したグラハムは1877年に「ベル電話会社」を設立、その後設立から10年間で電話使用数は15万台になり、1879年にはエジソンが開発した「カーボンマイク」の特許を取得して長距離電話も可能に。
1915年1月にはニューヨークにある「AT&T」本社とワトソンがいるカリフォルニア州・サンフランシスコをつなぐ「大陸間横断通話」が実現。
ここまで来れば電話の機能を疑う人はいないでしょう、グラハム長年の努力はついに実ったのです。

衰えぬ研究意欲・晩年

電話の開発という大きな偉業を成し遂げたグラハムですが、彼の開発意欲はとどまるところを知りません。
その後も光を使って音や声を送る「フォトフォン」や体内に埋め込まれた金属を発見する「金属探知機(1881年)」などの開発にかかわりました。
1906年には水中翼の基本原理を解説した「サイエンティフィック・アメリカン誌」の記事を見て水中翼船の開発を計画。
世界旅行に出かけて実験を行ったのちに水中翼船「HD-4」の開発に成功。
第1次世界大戦後には改良報告書をアメリカ海軍に提出、1919年9月9日には当時の水上世界記録である時速114kmを記録することに。
彼ほどの存在になれば「過去の栄光」で生きていくことも十分できるでしょうが、そうしなかったのは彼の研究に対する貪欲さ、「発明家としてのプライド」が許さなかったからなのかもしれませんね。

こうして発明を続けたグラハムは1922年8月2日、長い闘病生活の末75年の生涯を閉じることに。
電話という人間文化最大級の発明を成し遂げ、最晩年まで他分野の研究を続けた「研究おたく」であったのですね。

奇跡の人ヘレン・ケラーとの交流

伝記にも多く取り上げられ「奇跡の人」と呼ばれることも多いヘレン・ケラー。
1880年にアメリカ・アラバマ州で生まれたヘレンは1歳半のときに「しょう紅熱(子どもに多いとされる発疹性伝染病)」と考えられる病気で聴力と視覚を失うことに。
そんなヘレンがグラハムと出会ったのはグラハムが1872年に「School of Vocal Physiology and Mechanics of Speech」を開校したころ。
ヘレンの父親がグラハムに教育の相談をしようと訪れたことがきっかけで、このときにグラハムがヘレンに紹介した人物が家庭教師となるとなるアニー・サリバン(サリバン先生)でした。
ヘレンはここからサリバン先生とともに約50年を過ごすこととなり、ヘレンの人生に「なくてはならない」存在となっていきます。

この交流についてヘレンは後年「グラハム先生は父のように接してくれた」と感謝の気持ちを語っています。
先生を紹介したグラハムがいなければ、彼女の人生は全く違うものになっていたでしょうからね。

自分が「やりたいこと」を見つける能力があった

今回紹介したアレクサンダー・グラハム・ベルは自分が関心を持つ分野、家族とのつながりから「本当にやりたいこと」を見つけ出し、大偉業である「電話の開発」につなげてきました。
こうして見てみると「周辺環境とかかわりながら、自分の活躍する場所を見つける」能力は現代に必要なものであり、そこから「自分がやりたいことの見つけ方」を学んでみても良いですね。