鉄道の歴史を変えた「蒸気機関車の父」ジョージ・スチーブンソンとはどのような人物?

鉄道の歴史が語られる際に必ず名前が登場する「ジョージ・スチーブンソン」。彼は1800年代に蒸気機関車の開発を行い、公共鉄道の実用化を成し遂げた功績から「蒸気機関車の父」と呼ばれることで知られていまが、そんな鉄道の歴史を変えた「蒸気機関車の父」ジョージ・スチーブンソンとはどのような人物なのでしょうか。今回は彼の生涯や関係する人物、スポットから見てみましょう。

教育を受けられなかった幼少期

教育を受けられなかった幼少期

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1781年6月9日にイングランド北東端・ノーサンバーランド州ウィラムで父ロバート、母メイベルの2人目の子として誕生したジョージ・スチーブンソン。
父ロバートはウィラムの炭鉱で機関夫の仕事をしていましたが、両親はともに読み書きができないことからジョージは学校に通うことができず、18歳になるまで無学の状態が続くことに。
ジョージにとっては厳しい環境から人生が始まったのですね。

しかしそうした環境でもジョージがへこたれることはありません。
その後父の助手として働くようになったジョージは17歳でニューバーン炭鉱(どこ)の機関夫になると働きながら読み書き・計算などの習得を開始。
1801年からはブラックカラートン炭鉱で巻き上げギアの制御を行う「制動手」に就任。
1804年からはキリングワースの炭鉱へ移ることに。
この頃は家族関係にも変化があり、1802年にはフランシス・ヘンダーソンと結婚、翌年には息子のロバートも誕生。
制動手として働きながら靴・時計の修理の仕事も行っており、非常に忙しい日々を過ごしていました。

しかし1806年に妻・フランシスが結核により亡くなると、ジョージは息子を近所の女性に預け単身でモントローズへ出稼ぎに行くことになりました。
さらに数か月後には父が炭坑での事故により失明。
住んでいたキリングワース近郊の街・ウエストムーアに戻ることとなります。

炭鉱で開発した画期的装置

炭鉱で開発した画期的装置

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家族に次々と危機が襲い掛かったジョージですが、仕事面では大きな躍進を見せていきます。
1811年にはキリングワースの別の炭鉱で故障したポンプの修理依頼がジョージに舞い込み、これを成功させたジョージは技師に昇進。
その後キリングワース付近にある全炭鉱の機会を担当するようになります。

この頃炭鉱では灯りとして焚いた火が原因となる爆発事故が多発、そこでジョージは爆発しない安全なランプの開発を開始。
試行錯誤を重ねたのちに出来上がったのは、小さな穴から空気を取り入れる形のガラスで覆われたランプ。

一方でコーンウォール(イングランド南西部の街)出身の科学者ハンフリー・デービーも同様に開発を進めており、デービーが「ジョージは私のアイデアを盗んでいる」と訴える騒動が発生。
デービー曰く「無学の人間がこのような開発をおこなえるわけない」とのことですが、科学者であるデービーには「正規教育を受けていない」ジョージが自分と同じものを開発することが許せなかったのでしょうか。

最終的にジョージの発明は盗作でないことが証明され、ジョージのランプはイングランド北東部で使われるように。
デービーは最後まで「倒錯である」と考えたまま亡くなってしまいます。

蒸気機関車の開発を開始

蒸気機関車の開発を開始

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炭鉱で使うランプの開発に成功したジョージが次に取りかかったのが「蒸気機関車の開発」でした。
蒸気機関車については1802年にリチャード・トレビシックが「ペナダレン号」としてすでに開発、その後多くの技術者によってさまざまな形の機関車が開発されますが、どれも実用化することは難しいものでした。

そうした中でジョージは1814年、キリングワースで石炭輸送用の蒸気機関車を設計。
機関車はプロイセン(かつてのドイツ)の軍人の名前を取った「ブリュヘル号」と名付けられ7月25日に初走行。
時速6.4kmで30トンの石炭運搬を可能にした「ブリュヘル号」は世界で初めて輪縁付き車輪を採用、キリングワースで16台製造された機関車の多くがキリングワース炭鉱などで運用されることとなります。

その後も機関車の開発は続き、線路破損や蒸気機関の不調などによる運用中止はありながら、1820年にヘットン炭鉱からサンダーランド間の鉄道建設を担当した際には下りで重力、上りで蒸気機関車の力を使う鉄道を建設。
これは「畜力(車や耕具を引く家畜の力)を使わない」鉄道であり、この形は世界で初めての鉄道となります。

技師として招聘・鉄道開発にかかわる

蒸気機関車の開発で腕を見せるジョージを周囲は放っておきません。
1821年に「ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道」建設に関する法案が議会で可決されると、鉄道会社の社長を務めていたエドワード・ピーズはスチーブンソンを技師として招聘することに。

技師に就任したジョージは自身を招聘したピーズと蒸気機関の製造会社「ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニー」を創業。
本格的な開発を始めたジョージたちは1825年に最初の蒸気機関車「ロコモーション1号」を製造。
同年9月に鉄道が開通すると「ロコモーション号」は80トンの石炭を搭載したまま2時間で15kmを走行し、速度の最高速は39kmを記録。
さらにこのとき機関車に旅客用車両を連結した走行も行われ、これが蒸気機関車によって旅客輸送が行われた初の事例となりました。

ロケット号開発・蒸気機関車の父へ

ロケット号開発・蒸気機関車の父へ

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世界初の「蒸気機関車による旅客輸送」も成功させたジョージが次に取りかかるのは「リバプール・アンド・マンチェスター鉄道」の開発でした。
キリングワースで行った実験の際に「260分の1の勾配でも蒸気機関車の力は半分になる」という弱点を突き止めていたジョージは、この鉄道建設の際に線路をなるべく平たんにする方法を採用。
試行錯誤しながら建設に取り掛かります。

こうして鉄道完成が近づいた1829年、鉄道で使用される蒸気機関車を選ぶ「レインヒル・トライアル」の開催が決定。
重量6トン未満・全長97kmを走り切れることを条件に車両開発が行われることに。
この条件下で完成した蒸気機関車「ロケット号」はフランスの技術者マルク・スガンが発明した煙管ボイラーを採用、熱交換効率に優れた機関車となり、見事コンテスト優勝を飾ることに。

こうして鉄道に採用されることとなった「ロケット号」は1830年9月15日に行われた鉄道開通式典において運転されることに。
ここには当時の首相・ウェリントン公爵らが出席しており、「蒸気機関車の進化」を見せるには最高の場所であったのです。
この「ロケット号」はのちに製造される蒸気機関車の基本設計となり、ここからジョージが「蒸気機関車の父」として周囲の尊敬を集めるようになるのでした。

ちなみにこの鉄道を建設する際にはレインヒル(イングランド北西部・マージ―サイド州の街)に斜め形のアーチ橋も築かれており、これは世界で初めて「鉄道の斜めに交差する橋」に。
現在は国内の歴史的建造物 「Listed building」に指定されており、国の歴史で重要なスポットとなっています。

さらなる鉄道開発・晩年

「リバプール・アンド・マンチェスター鉄道」での成功により「蒸気機関車の父」と呼ばれたジョージは忙しい日々を過ごすこととなります。
ジョージのもとには多くの鉄道事業者から依頼が殺到するようになり、ジョージの技術を学ぼうと遠く離れたアメリカからやってくる人もいるほど。
遠くの国の人々も引き付けるのですから、ジョージの影響力は相当なものであったのです。

多くの仕事を抱えたジョージはその後も「ノース・ミッドランド鉄道」や「ヨーク・アンド・ノース・ミッドランド鉄道」など多くの鉄道設計を手掛け、1847年には「英国機械学会」の初代会長に就任。
鉄道の第一線から退いた後はダービーシャー(イングランドのイースト・ミッドランズにある地域)で鉱山経営などに関わり、ノース・ミッドランド鉄道で新たな石灰層を見つけるとその採掘に資金を投入するなどして過ごします。

忙しい時期を経た晩年は1848年に家政婦をしていたエレン・グレゴリーと結婚、そして半年後の8月12日、ダービーシャー州チェスターフィールドの自宅で67歳の生涯を閉じます。

ジョージと関わる人物・スポット

世界初の蒸気機関車を生んだ「リチャード・トレビシック」

リチャード・トレビシックは1771年にイングランド南西部にあるコーンウォールで6人兄弟の末っ子として誕生。
勉強が得意ではないものの好奇心旺盛な少年であったトレビシックは、19歳の頃から炭鉱で働き始めることに。

やがて蒸気機関などへの知識を身に着けたトレビシックは1797年にイングランド初の高圧複動蒸気機関を稼働させ、1801年には高圧蒸気機関を用いた蒸気自動車「パフィング・デビル号」を試作。
線路が重い車両の走行に耐えられず長時間走行はできませんでしたが、蒸気機関を用いた交通機関の試験運転は「パフィング・デビル号」が世界初と言われています。

この実験に気づきを得たトレビシックは「蒸気機関車」の製作を開始。
1804年に南ウェールズ地方・ペナダレン製鉄所と運河を結ぶ専用貨物線で蒸気機関車「ペナダレン号」を走行させ、走行距離16km、平均時速は約3.9kmを記録。
これが世界で初めての蒸気機関車の走行となったのです。

さらに開発を進めたトレビシックは1808年に蒸気機関車「キャッチ・ミー・フー・キャン号」を製造。
ロンドンの広場で機関車に客車をつなぎ走行させますが、大きな進歩は見られず。
この実験以降トレビシックは蒸気機関車の製造から撤退したため、この機関車は彼が製造した最後の蒸気機関車に。

開発をやめたあとは高圧蒸気機関の応用などに取り組みますが晩年は資金面で恵まれず、1833年に亡くなった時は無一文の状態。
ジョージよりも先に機関車に目を付けたのですから「先見性」は間違いなくあったと言えますが、大きな結果につながらなかったのは無念ですね。

息子でありビジネスパートナー「ロバート・スチーブンソン」

ジョージの1人息子であるロバート・スチーブンソンはイングランド北東部にある「ニューカッスル・アポン・タイン」の「ブルース・アカデミー」で基礎教育を受けたのち、キリングワース炭鉱の管理業務に従事。

エディンバラ大学に在学中の1821年には父ジョージが建設に関わった「ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道」の予定地調査に助手として参加。
1823年には父が鉄道会社社長エドワード・ピーズと共に創業した「ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニー」の常務取締役に就任。
「リバプール・アンド・マンチェスター鉄道」建設時に使用する蒸気機関車を決める「レインヒル・トライアル」で優勝した「ロケット号」は設計の大部分をロバートが担当しており、ジョージの偉業にロバートが大きく貢献していたことは明らかですね。

ロバート自身は1833年に「ロンドン・アンド・バーミンガム鉄道」の主任技術者となり、ブリタニア橋(ウェールズ北西岸・アングルシー島の橋)、ロイヤルボーダー橋など橋の制作も担当。
このほかに1847年から亡くなるまでウィットビー(ノース・ヨークシャーに属する街)選挙区の保守党下院議員も務めており、父とは違った形で才能を発揮していたのです。

生家や「ロコモーション号」も見られる

ジョージの功績を振り返るスポットは、イングランド国内に現在も残されており、ジョージが生まれた生家は故郷・ウィラムに、ゆかりの品々はダービーシャー州チェスターフィールドにある「チェスターフィールド博物館」に展示されています。
住所:St Mary’s Gate, Chesterfield S41 7TD

1825年に製作した「ロコモーション1号」が展示されているのは、イングランド北部・ダーリントンにある「ダーリントン市博物館(Head of Steam – Darlington Railway Museum)」建物は「ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道」時代の旧ダーリントン駅(現在のノースロード駅)を博物館にしたもので「ロコモーション号」以外の機関車や改札口、プラットホームなどの駅設備を展示。
住所:Darlington Railway Museum Station Road, Darlington DL3 6ST, England

名言から「人生論」を見るのも良い

無学の状態から這い上がったジョージの姿は19世紀ビクトリア朝時代において「立身出世」の代表例とされており、作家サミュエル・スマイルズが1859年に発表した『自助論』でも大きく取り上げられることに。
のちにジョージは「我々の目的は成功ではなく、失敗にたゆまずして進むことである」との名言を残していますが、この名言から彼の「人生論」について見てみるのも良いですね。
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