【パナマの歴史】運河に翻弄されながら繁栄を遂げた熱き国の物語

「パナマ運河」~社会科の教科書で覚えた記憶がある、という方も多いでしょう。南北アメリカ大陸の間の、細くなったところにある国「パナマ共和国」のちょうど真ん中あたりに造られた全長およそ80kmのその運河は、太平洋と大西洋の行き来を可能にし、歴史を大きく変え、パナマ共和国の歴史にも大きな影響を及ぼしました。北海道より少し小さいくらいの国土面積に、400万人ほどの人々が暮らす中南米の熱き国、パナマ。どんな歴史を歩んできたのか、その足跡をたどっていきましょう。

パナマの歴史(1)先史~スペイン統治時代

 

パナマ=漁師?

 

パナマ=漁師?

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パナマ共和国は赤道の少し北側、中米コスタリカと南米コロンビアの間をつなぐ、取っ手のような形をした細長い国。
北側は大西洋に、南側は太平洋に面しています。

この地には紀元前3000年頃の土器や貝塚、洞窟遺跡などがいくつか見つかっていて、先史より多くの人々が暮らしていたと考えられていました。
マヤ族、カリブ族、チブチャ族などと呼ばれる民族がいくつかのグループを作って生活していたものと思われます。
紀元前300年ごろには農耕が行われていたようで、周辺の遺跡からは土器のほかに金属器もいくつか出土。
住居跡もいくつか見つかっていて、数百人規模の集落に成長していたものと考えられています。

それから1000年以上もの間、この地の人々は独自の文化を育み、生活を続けていました。
15世紀の半ばから始まった、ヨーロッパ人によるアジア・アフリカ・アメリカ大陸への大規模な航海・いわゆる「大航海時代」。
この頃になるとパナマ一帯の人口は数万人規模にも膨れ上がっていたものと考えられています。

ところで、「パナマ」という国名の由来については諸説あるそうなのですが、16世紀初頭にスペイン人がやってきたとき、原住民たちが、魚の豊富な場所や猟師のことを”パナマ”と呼んでいたことに由来する、という説が有力なようです。

ヨーロッパ人、太平洋を発見する

 

ヨーロッパ人としてこの地を初めて発見したのは、スペインの探検家ロドリゴ・デ・バスティダスという人物だと伝えられています。
1501年のことです。
そしてこの翌年の1502年にはあのコロンブスの第4回航海で、やはりカリブ海側のモスキトス湾沿岸の探査が行われました。
その後も次々とスペインの探検家たちが上陸を果たします。
船はスペインからやってくるので、探検家たちが到達するのはカリブ海側、パナマの北側の海岸でした。

スペイン人たちは幾度となくこの地の支配を試みますが、先住民たちの抵抗や疫病などによって、数年間は足踏み状態が続きます。

事が大きく動いたのは1513年。
バスコ・ヌニュス・デ・バルボアというスペインの探検家は、現地人たちの話から「南の海」の存在を始めて知ります。
南の海のかなたには黄金の国があるのだとか。
そこでバルボアはパナマの海ではなく陸地を探検。
その先に大きな海(太平洋)があることが初めて明らかになりました。
この発見により、以後、この地は交通の要衝として、外部からの圧力を受け続けることになるのです。

スペイン人による支配の時代

 

スペイン人による支配の時代

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1530年頃、スペインの軍人フランシスコ・ピサロはパナマに陣を取り、現在のペルーのあたりにあったインカ帝国を滅ぼします。
スペインはペルー周辺を植民地化し、様々な物資をパナマ経由で本国に輸送し続けました。
パナマの太平洋側、S字に食い込んだ部分にあるパナマ市に辿り着いた船は荷を陸におろし、陸路でカリブ海側の港町まで運ばれ、そこから別の船に積み込まれてスペインに送られます。
陸地を移動することにはなりますが、南米大陸を南端までぐるっとまわることを考えれば相当な時間の短縮となり、かつ、安全。
当時はまだまだ、長い船旅には危険がつきものだったため、貿易で大きな利益を得ようとしていたヨーロッパ人たちにとって、パナマは非常に魅力的な場所となったのです。

16世紀中ごろまでにはこうしたルートがほぼ確立され、スペインのパナマ周辺の支配権は確固たるものに。
カリブ海には貴重な物資を積んだスペインの船が数多く行き来しており、それを狙う海賊たちも横行したと言われています。

このようにしてパナマは、他国の貿易・航海のための”近道・通り道”として繁栄を続けていきました。

パナマの歴史(2)スペインからの独立~パナマ運河建設

 

スペインからの独立とコロンビアとの関係

 

スペインからの独立とコロンビアとの関係

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18世紀後半、アメリカの独立戦争やフランス革命など、力の弱い庶民や植民地の間にも、『自由』を呼びかける動きが広がり始めます。
パナマでも、スペイン王国に対して『自由』を求める声が高まりつつありました。
南米の解放活動を続けていたベネズエラ出身の革命家シモン・ボリバルの指導のもと、1821年11月28日、ついにスペインからの独立を果たします。

パナマはボリバルが打ち立てた大コロンビア(現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、パナマ全域と、ガイアナ、ブラジル、ペルーの一部の領域を網羅する共和国)に加わることになりましたが、この大コロンビアが1830年に早々と内部崩壊。
ボリバルは失脚し、大コロンビアに加わった国々は再び袂を分かつことに。
パナマも独自の道を歩もうとしましたが、結局、お隣コロンビアとの統合の道を進むことになったのです。

しかし、コロンビアとの関係も決して良好というわけにはいかず、パナマに穏やかな時間は訪れませんでした。
スペインからの独立後まもなく、今度はコロンビアの支配に対する不満が沸き起こり、度々反乱が起きるようになったのです。

パナマ鉄道の構築とアメリカとの関係

 

パナマ鉄道の構築とアメリカとの関係

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確かに、南米大陸の最南端・マゼラン海峡経由の渡航ルートから考えれば、例え陸路を挟むにしてもパナマを横断したほうが渡航日数は大幅に短縮でき、座礁や難破のリスクは回避できます。
しかし、船なら一度に大量の荷物を運ぶことができるところを、陸路となれば船からおろして人力で輸送しなければなりません。

19世紀中頃、パナマに再び、外部の大きな力が加わります。
アメリカです。

この頃アメリカ大陸では、ゴールドラッシュの影響でアメリカ西海岸側に移り住む人々が増えていました。
アメリカはご存知の通り大変広い国で、しかも東西を引き裂くかのようにロッキー山脈がそびえ立っています。
馬車に荷物を積み峠を越えるより、西海岸から船で荷を出してパナマを横切ったほうが日数がかからず大量の荷物を運ぶことができる、アメリカ人たちはそう考えました。
そして、カリフォルニアを出た船は南下してパナマの太平洋側・パナマ市に着き、陸路を渡ってカリブ海側にで再び出航、アメリカ東海岸を目指すルートが使われるようになったのです。
でももし、ここに、単なる道ではなく鉄道が通っていたら?もっと大量の荷物をもっと楽に運べるはず。
アメリカ人たちがそう思いつくまでにそれほど時間はかかりませんでした。

1848年、アメリカの起業がパナマに鉄道を敷く権利を取得。
1850年から5年の歳月をかけ、太平洋側のパナマ市とカリブ海側のコロン市を結ぶ、全長77kmの横断鉄道が完成します。

この鉄道は、この後、パナマ運河が開通したことにより意義が薄れてしまうのですが、現在でも現役。
平日1日1往復、中南米独特の熱帯ジャングルの間を駆け抜ける人気のツアーが、多くの観光客や鉄道ファンを楽しませています。

パナマ運河とコロンビアからの離脱

 

パナマ運河とコロンビアからの離脱

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アメリカ主導で鉄道が開通したパナマではありましたが、以前としてコロンビアの支配が続いていました。

そんな中、パナマは3度目の大きな転機を迎えます。
運河の建設です。

パナマ鉄道が開通して十数年後の1869年、地球の反対側で大きな変化が起きていました。
地中海と紅海の間のスエズ地峡を結ぶ運河、スエズ運河が完成したのです。

作ったのはフランス人技師で実業家のフェルディナン・ド・レセップス。
この運河によって、アフリカ大陸を大回りしなくても、地中海から直接、インド洋側に出ることができるようになり、アジアとヨーロッパの距離がぐっと近くなりました。
しかし、当初はなかなか運営が軌道に乗らず、赤字が続いていたといいます。

スエズ運河で利益が見込めるようになった頃、レセップスはコロンビアからパナマに運河を建設する権利を購入し、1880年に建設を開始。
しかし、疫病や資金難など問題が相次ぎ、1889年には計画は頓挫してしまいます。

フランスがパナマ運河建設から手を引いた後、この計画を拾ったのがアメリカでした。
建設に当たって、アメリカはこの運河を自国の管轄下に置くことを望みましたが、コロンビアは首を縦には振りません。
そこでアメリカはパナマのコロンビアからの独立に手を貸します。
そんなことがあって1903年、パナマはコロンビアから独立。
パナマ共和国が誕生しました。

アメリカは間髪入れず、独立から数日後にパナマ運河条約を結び、運河建設の権利と土地の永久租借権などを取得。
パナマ運河の建設が始まります。

疫病や技術面の問題など数々の試練を乗り越え、パナマ運河が開通したのは1914年8月15日。
建設には3億ドル以上の式が費やされたのだそうです。

パナマの歴史(3)パナマ運河の返還~現代へ

 

国民熱望!パナマ運河返還へ

 

国民熱望!パナマ運河返還へ

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パナマ運河完成後も、パナマはアメリカの影響下に置かれ続けました。

20世紀初頭、第一次世界大戦下にあって、世界中が不安定な情勢に揺れていた時代。
アメリカは戦争でもパナマ運河を役立てようと軍隊を駐留させ、世界戦略・アジア制圧の要としてパナマを支配下に置こうとしていました。
パナマではアメリカに対する不安や不満が次第に高まって、暴動が起きるなど不安定な情勢が続きます。
パナマでは運河や運河関連の土地の返却を求める声が上がるようになりますが、アメリカの巧みな外交により、なかなか達成には至りませんでした。
第二次世界大戦後も、反米運動は続いていきます。

そんな中、1956年、あのスエズ運河がエジプトに返還され、国有化されたというニュースが届きます。
これにはパナマの世論も大きく沸き立ちました。
運河奪還の希望が膨らむ一方で、加熱した反米運動から市民の間に血が流れるなど、もはや一刻の猶予もならない状況に。
事態を深刻に受け止めたアメリカ、パナマ両政府は運河に関する条約の見直しをすると宣言。
1977年、当時の最高司令官オマル・トリポスと、アメリカのカーター大統領の間で新パナマ運河条約が成立します。
この条約の中で、1999年までにアメリカの主権を終了し、パナマに無償で譲渡・返還されることや、運河は国際的通航水路ということで中立化され、いかなる状況下でもあらゆる国の船が平等に利用できる、などの条項が盛り込まれました。

再びのアメリカ軍侵攻

 

再びのアメリカ軍侵攻

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条約は成立したものの、返還となる1999年までの日々は、決して平穏とは言えないものでした。

20世紀半ば過ぎるとオイルショックが始まり、世界経済は不安定な状態に陥ります。
そんな中、トリポスが飛行機事故でこの世を去ってしまうのです。
パナマは大混乱となりますが、1983年、マヌエル・ノリエガなる人物が最高司令官に就任。
日本では”独裁者”として報道されることが多かったノリエガ将軍です。
パナマのトップとして政治の表舞台で腕を振るう一方、コロンビアの麻薬組織との結びつきなども噂され、反対勢力を亡き者にするなど黒いイメージが定着していきました。

1988年、アメリカは麻薬密売などの罪でノリエガを起訴し、ノリエガの退陣とパナマの民主化を唱えて経済制裁などの措置をとり、パナマに圧力を加えます。
1989年ノリエガの退陣が決まっても混乱はおさまらず、逆に大統領が解任されてしまうという事態に。
パナマは世界の中で孤立していきます。

最終的には1989年にアメリカがパナマに侵攻し、ノリエガが逮捕・身柄拘束されたことで、事態は一応の終息となりました。
ノリエガはその後、アメリカで禁錮40年の判決を受け、服役することとなります。

多くの混乱がありましたが、アメリカの介入によって、パナマは再び息を吹き返し、民主主義へとゆっくり歩み始めたのです。

パナマ運河の返還~現代へ

 

パナマ運河の返還~現代へ

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1999年12月31日正午、パナマ運河とその周辺地域が、アメリカから正式にパナマに返還されました。
パナマはその地形の利点から、古くは大航海時代にスペイン王国の植民地となり、独立後はコロンビアの支配を受け、運河の建設と共にアメリカの影響下に置かれることに。
長い間、他国に支配され利用される歴史を歩んできました。

現在のパナマ運河は、パナマが管理をしています。
運河の通行料はパナマの貴重な財源となっているのです。
長年、船舶の大型化への対応など様々な課題を抱えてきましたが、50億ドル以上もの資金を投じて行われていた拡張工事が2016年に完了し、輸送量が従来の3倍にもなったとか。
開通して100年以上が経過した歴史ある運河は、今もなお、世界の貿易を支え続けているのです。

長きに渡り、諸外国の影響を受け続けてきたパナマの現在のGDP(国内総生産)は、中米7カ国で最も高いと言われています。
パナマ市の海沿いには高層ビルが建ち並び、忙しく行き交うビジネスマンの姿も。
一方、路地を抜けて旧市街地へ向かうとスペイン植民地時代を彷彿とさせる、コロニアルスタイルの美しい街並みも見られ、車で30分も移動すれば熱帯雨林の大自然や、さらに足を伸ばせばカリブ海に浮かぶ美しい島々を見ることもできます。

様々な顔を持つ熱い国、パナマ。
街ゆく人々のまなざしは明るく陽気で、他国に翻弄され続けた歴史など少しも感じさせないほど穏やかな笑顔で溢れていました。

世界を震撼させた「パナマ文書」とは?

 

世界を震撼させた「パナマ文書」とは?

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パナマと聞いて、パナマ運河のほかにもうひとつ『パナマ文書』を思い浮かべる人も多いでしょう。
2016年、パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密情報のこと。
世界中のお金持ちがパナマに架空の会社を設けるなどして税金逃れをしていた記録ややり取りが白日のもとにさらされることとなったのです。

パナマは法人税、所得税、相続税などが非課税。
法人税の高い日本人からすると、ここに会社を設けたり資産を預けることでかなりの節税に。
とはいえ、パナマで起業など、庶民には思いも付かないこと。
パナマのほか、バハマやケイマン諸島なども同様に非課税。
また、香港やアイルランドなどは税率が低いことで有名。
こうした国のことを「タックスヘイブン」と呼んでいます。
ヘブン(heaven・天国)ではなく「租税回避地(tax haven)」という意味です。

なぜ非課税、または税率を低くできるのかというと、タックスヘイブンは小国であったり、独自の産業や資源がほとんどない国がほとんど。
海外の富裕層に来てもらってお金を使ってもらうために、税率を低く、あるいはなくしているのです。

厳密には、パナマに会社を作っての”節税”は、概ね違法ではありません。
ただ、少々”せこい”イメージが先行してしまったことでわかりにくさが増し、不信感を抱く人が多かったのでしょう。

日本人から見ると理解しにくい仕組みではありますが、これを機に、パナマの違った一面に注目してみるのもいいのかもしれません。

カリブの熱い風とパナマ運河

 

パナマ運河は閘門式(こうもんしき)という仕組みで船を通す代表的な運河。
スエズ運河とは基本的な仕組みが異なります。
閘門式とは閘門(水門)で水位を上下させ、船を行き来させるというのが基本的な仕組み。
これによって海抜26mの高さにあるガツン湖まで、動力を使わず水の力だけで船を上げ、移動させることが可能になります。
通過にはおよそ9時間かかるのだそうです。
この仕組みを利用して年間13,000隻を超える船がここを通過。
たくさんのコンテナを積み込んだ巨大船舶が通航していくさまは一見の価値あり、圧巻です。
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