メジャーリーグ史に名を残す悲運のスラッガー「ルー・ゲーリッグ」とはどのような人物?

現代では数多くの日本人選手が参戦し、日本でも一般的な存在となった「メジャーリーグ」。100年以上の長い歴史を誇る「野球の最高峰リーグ」であるこの舞台には世界中から実力者が集まり、ハイレベルなプレーでスタジアムの観客を熱狂させています。今回はそんな「メジャーリーグ」の舞台で活躍した名選手から「ルー・ゲーリッグ」について見てみましょう。

メジャーリーガーへの道のり

1903年にアメリカ・ニューヨーク州でドイツ系移民の父ハインリッヒ、母クリスティーナ・ファクの息子として誕生したヘンリー・ルイス・ゲーリッグ。
ゲーリッグの家庭は父ハインリッヒが癲癇(てんかん)を患っていたことから、母クリスティーナが働いて生計を立てていました。
幼いころから野球選手になりたいと願っていたゲーリッグですが、両親はゲーリッグが「将来的に野球選手として活躍できる」と考えておらず、母親の叔父が成功していた「建築士」になってほしいと考えていたのです。
プロスポーツのように「結果がすべて」の世界は、生活が安定しないリスクもありますからね。

しかし高校生になったゲーリッグは両親の心配を消し去る大活躍を見せます。
1920年6月26日にカブス・パーク(現在のイリノイ州シカゴにあるリグレー・フィールド)で行われたニューヨーク商業高校(ゲーリッグが通っていた学校)とシカゴ・レーン工業高校との試合で9回表に場外へ消える満塁本塁打を放つ大活躍。
この活躍によりゲーリッグは一気に周囲の注目を集めることに。
スーパースターになる人物はどこで注目されるか知っているのですね。

活躍を続けるゲーリッグの姿を見た母は「彼はプロの野球選手として活躍できるかもしれない」と考え始めますが、両親が「建築士」になってほしいと考えていることを知っていたゲーリッグはコロンビア大学に進学。
大学に進学したあとも野球の類い稀な才能を見せたゲーリッグの姿は新聞記者サム・ブレイク(ウォルター・ブレナン)の目に留まり、ブレイクは名門球団ニューヨーク・ヤンキースにゲーリッグを紹介。
大学に残るか契約するか悩んだゲーリッグですが、当時母親が肺炎を患ったことからヤンキースと契約することを決心。
こうしてメジャーリーガーへの第一歩を踏み出していくのです。

ヤンキース入団・中心打者への成長

ヤンキース入団・中心打者への成長

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1923年に晴れてヤンキースの一員となったゲーリッグは、6月15日のセントルイス・ブラウンズ(現在のボルティモア・オリオールズ)戦で代打としてメジャーデビュー。
しかし入団したばかりのゲーリッグが出場機会を得るのは難しく、メジャー最初の2年間は13試合、10試合とほとんど試合に出ることはできませんでした。

そんなゲーリッグが常時出場できるようになったのは3年目の1925年。
126試合に出場したゲーリッグは打率.295、20本塁打(チーム3位)、68打点(チーム2位)を記録。
リーグ7位(8チーム中)に低迷したチームにあって大器の片鱗を見せます。
レギュラーに定着した勢いは翌1926年も続き、リーグ優勝を果たしたチームの中で打率.313、リーグトップの20三塁打、16本塁打、112打点を記録。
セントルイス・カージナルスと対戦したワールドシリーズでは3勝4敗と(4戦先勝制)惜敗したなかで打率.348、4打点を記録。

レギュラーを不動のものとしたゲーリッグは、いよいよメジャー屈指の強打者へ進化します。
1927年は大きく数字を伸ばし打率.373、47本塁打、175打点の驚異的な数字。
当時チームの顔であったベーブ・ルース(打率.356、60本塁打、165打点)とともに打線を引っ張り、その破壊力は「マーダラーズ・ロウ(殺人打線)」と恐れられるほど。
この年の本塁打ランキングでは2人を除いて最も多かったのが18本であり、それだけこの2人の破壊力はずば抜けていたのです。

この2人を擁したヤンキースはシーズンで110勝44敗の成績を残しリーグ優勝、ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズも4連勝で制覇。
ゲーリッグはアメリカン・リーグの年間MVP(最優秀選手)に選出されます。

ライバル「ベーブ・ルース」との関係

ライバル「ベーブ・ルース」との関係

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相手から「マーダラーズ・ロウ(殺人打線)」として恐れられたヤンキース打線を引っ張っていたゲーリッグですが、その裏にはベーブ・ルースの存在がありました。

1923年に入団してからしばらく出場機会を得られなかったゲーリッグは、1925年にレギュラー選手の欠場をきっかけにレギュラーを奪取。
レギュラー奪取をするなかでルースはゲーリッグに直接指導を行うこともあり、その指導の甲斐あってゲーリッグは不動の存在に。

プロスポーツの世界と言えば「結果がすべて」の世界。
ほかの選手が成績を伸ばすことで「自分の地位が危うくなる」こともありますが、そんな中でもルースは若きゲーリッグに指導を行ったのです。
ゲーリッグにとっては大打者への道を歩むことができ、ルースにとっても「張り合うライバル」ができたわけですから両者にとってこの関係は重要であったのですね。

連続試合出場記録を更新した「鉄人」

偉大な大打者であったゲーリッグは、試合出場記録でも後世に残る記録を打ち出します。
1925年6月1日に代打として出場したゲーリッグはその後1日も休むことなく試合に出続け、最終的には2130試合連続出場を記録。
この記録は1995年9月6日にカル・リプケン(元ボルティモア・オリオールズ)塗り替えられるまで続くことに。

けがをすればすぐ別の選手にとって代わられてしまうプロスポーツの世界ですから、活躍することはもちろん「試合に出続けること」も重要なこと。
出続けることによって自分にチャンスが回ってくることは数多くありますからね。
実力以外で屈強さも兼ね備えたゲーリッグは「鉄の馬(Iron Horse)」と呼ばれ、記録は1925年から1939年の14年間に渡ることになりました。

突然襲いかかった病魔・記録の終焉

圧倒的な成績と試合に出続ける屈強さで人気となったゲーリッグですが、そんな彼に不運が襲い掛かります。
1938年のシーズン途中から成績が下降し始めたゲーリッグはこの頃から体に力が入らなくなり、グラウンドで倒れることもあるなど体調に変化が見られるように。
1938年の最終成績は打率.295、29本塁打、114打点と依然好成績でしたが、明らかにゲーリッグの様子はおかしくなっていったのです。

その年のシーズンが終了するとニューヨークの専門家に話を聞きに行き「胆嚢(たんのう)に問題がある」との診断を受けますが、その後も症状は改善せず。
翌1939年の春季キャンプが開幕したころにはバットにボールを当てることすら厳しくなっていました。

症状が改善しないまま迎えたシーズン成績は8試合の出場で34打席4安打1打点、打率.143とこれまでのゲーリッグからは考えられない成績。
そして2130試合目の連続出場となった1939年4月30日ワシントン・セネターズ(現在のミネソタ・ツインズ)戦で無安打に終わると5月2日の試合では「自分は試合に出ない」意思を監督に表明。
14年間に及ぶ大記録に自ら終止符を打つことに。
当日はデトロイト・タイガースとの試合で遠征に出ていましたが、ゲーリッグが試合に出場しないことを知った観客はスタンディング・オーベーションでゲーリッグを称賛。
本人にとってはあまりに不本意な形で記録が終わってしまいます。

病名の発覚・無念の引退

不本意な形で記録に終止符を打ったゲーリッグはその後もチームと行動を共にしていましたが、その間も症状は悪化の一途をたどることに。
この様子を見た妻・エレノアはヤンキースが滞在していたシカゴからミネソタ州・ロチェスターの「メイヨー・クリニック(アメリカ有数の病院)」へゲーリッグを連れて行くことに。

1939年6月13日に診察を受けてから6日後の6月19日、ゲーリッグの病名は「筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう。
のちに彼の名前を取ってゲーリッグ病と呼ばれる)」であることが判明。
この病気は筋肉の萎縮や筋力低下が発生する原因不明の神経変性疾患で、多くの患者は3年から5年で呼吸筋麻痺により死に至るというもの。
この日はゲーリッグ36歳の誕生日、残酷な運命を突き付けられる誕生日になってしまいます。

この診断を聞いたゲーリッグは6月21日にチームを通じて現役引退を発表。
診断を聞いた時点で「もう野球はできない」ことは理解していたのでしょうが、はっきり決断した時は相当落胆していたことでしょう。

メジャー史に残る「引退スピーチでの名言」

引退を表明したゲーリッグに対しヤンキースは1939年7月4日 、セネターズとのダブルヘッダーで「ルー・ゲーリッグ・デー」を制定。
ここではほかのチーム関係者、当時のニューヨーク市長フィオーレロ・ラガーディア、かつてのライバルであるベーブ・ルースらが訪れ、1927年のワールドシリーズ制覇の記念旗が掲げられるなどゲーリッグを祝福。

この試合で行われた式典でスピーチに登場したゲーリッグは「ここ2週間に私が経験した不運について皆さんは知っているであろうが、今日、私は自分をこの世で最も幸せな男だと思っている」との思いを表明。
このスピーチに対し観客は約2分間スタンディング・オーベーションを送りゲーリッグは涙、スピーチが終わるとルースがゲーリッグにかけ寄り2人は抱擁。
このスピーチは人々の心に残るものとなり、メジャーリーグ史を語るうえで欠かせない名場面の1つになっていきます。

このとき当時のヤンキース監督ジョー・マッカーシーもスピーチを行っており「君が“チームに迷惑をかけるので辞める”と言いにきたデトロイトでの夜は自分の人生で最も悲しい日のうちの1つだ」と涙を浮かべながら思いを表明。
ゲーリッグの引退は本人以外の周囲の人間にとっても「ショッキングな出来事」であったのですね。

史上最年少での殿堂入り・晩年

史上最年少での殿堂入り・晩年

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引退したゲーリッグはヤンキースから経済的に困らないようにフロント入りを確約(のちに取り消しされる)、1939年の年俸全額支払いなど手厚いバックアップを受けることに。
ゲーリッグが使用していた背番号「4」は今後誰も付けることのない番号に指定され、これは野球界で初めての「永久欠番」に。

1939年10月からはラガーディアに請われて「仮釈放委員会委員」に就任、死の1ヶ月前まで出勤したゲーリッグの仕事ぶりはラガーディアが満足するほど良いものでしたが、病気の信仰は止まらず次第に寝たきり状態に。

同じ年には当時史上最年少となる36歳で野球殿堂入りを果たしますが、これはゲーリッグ引退の経緯などを考慮した「全米野球記者協会(BBWAA)」が特例で投票を実施、実現したものでした(通常は「メジャーリーグで10年以上プレーすること」、「現役引退から5年以上経過している」などの条件がある)。
殿堂入りした際は式典に参加するになっていますが、ゲーリッグは病気の進行もあり参加はかなわず。

そして1941年6月2日、不治の病と闘い続けたゲーリッグは37歳の若さで帰らぬ人に。
ゲーリッグの死に対しラガーディア市長は市内全域に半旗を掲げるよう命令、6月4日に行われた葬儀ではゲーリッグの亡骸を一般公開、ファンやルースが最後の別れを告げにきました。

彼の人生は死の翌年1942年に公開されたサム・ウッド監督の伝記映画『打撃王(The Pride of the Yankees)』で取り上げられ、ゲーリッグ役をゲイリー・クーパーが演じ、ルースをはじめとしたヤンキース時代のチームメートも本人役で出演。
クーパーの演技はゲーリッグの未亡人エレノアが絶賛したと言われており、1943年の第15回アカデミー賞では11部門でノミネート。
人々はゲーリッグのことを記憶にとどめておきたかったのでしょうね。

死後の影響力も絶大

球場内外での優れた精神や人柄を称える賞が彼の名前を取った「ルー・ゲーリッグ賞」として1955年に制定、1999年には「メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チーム」で全選手中トップの得票数を獲得するなど、死後もその影響力は絶大。
ベーブ・ルースと違い日本の伝記で取り上げられることは多くありませんが、ゲーリッグの人生もぜひ注目してみたいところですね。
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