野望と裏切りのドラマ渦巻く「関ヶ原の戦い」について語り尽くす!

戦国時代最大の戦にして、天下を二分した決戦でもあった関ヶ原の戦い。この戦いの後に徳川家康が天下を取ることは、ご存知の方も多いことかと思います。対するは、大河ドラマ「真田丸」でも人気となった石田三成。そもそも、なぜこの両軍は対決することになったのでしょうか。その背後には、複雑すぎるほどの事情が存在していました。同じ豊臣政権という屋根の下でも、恨みつらみや嫉妬など、団結にひびを入れるのには十分すぎる理由があったんですよ。さて、では関ヶ原の戦いについて、語り尽くしてみましょう。

関ヶ原の戦いとは?

関ヶ原の戦いとは?

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関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日(1600年10月21日)に美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で起こった戦いです。
ここは岐阜県南西部で、滋賀県との県境にも当たる場所ですよ。
ちなみに、東海道新幹線がこの付近で雪の影響を受けてしまうことでも有名ですね。

日本国内における多くの戦国大名が、東軍と西軍に分かれて戦いました。

東軍の総大将は徳川家康。
後に江戸幕府を開くことになる実力者です。

西軍の総大将は毛利輝元(もうりてるもと)。
1本では折れてしまう矢も、3本集まれば折れないという逸話でおなじみの毛利元就(もうりもとなり)の孫に当たる人物です。
しかし、輝元自身はこの戦いで何ら武将らしい役割を果たすことはなく、もっぱら、中心にいたのは、豊臣政権のブレーンでもあった石田三成でした。

では、肝心の豊臣秀頼はというと、まだ7歳だったこともありますが、直接この戦いに関与することはありませんでした。
この戦は豊臣政権内での家臣同士の争いという位置付けであり、両陣営とも「秀頼のために相手を排除する」という建前を掲げていたので、秀頼は出てこなかったんですよ。

秀吉亡き後の豊臣政権内部の亀裂

秀吉亡き後の豊臣政権内部の亀裂

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慶長3(1598)年に豊臣秀吉が亡くなると、その後継ぎとなった秀頼がまだ幼かったこともあり、豊臣政権の運営は、秀吉が生前指名していた五大老と五奉行に任されることになりました。
五大老とは徳川家康をはじめとする有力大名5人、五奉行は石田三成を筆頭とした実務担当の家臣たち5人のことです。

しかし、この10人が一致団結して政権運営…というわけにはいきませんでした。

まず動き出したのが家康です。
秀吉が死ぬと、決まりを破って大名や家臣たちへ婚姻を仲介したり、勝手に家臣へ領地を与えたりし始めたんですね。

それが、「超」マジメな三成には面白くありません。
当然、家康を咎めるようになり、両者の関係は急速に悪化していったんです。

しかし、それ以外にも政権内部の対立があったんですよ。
「武断派(ぶだんは)」と「文治派(ぶんちは)」の対立です。

犬猿の仲!武断派と文治派

犬猿の仲!武断派と文治派

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武断派というのは、豊臣政権で軍事の中心を担っていた戦国大名たちのことです。
いわゆる体育会系のような感じですね。
代表的な武将は加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)などです。
秀吉の天下統一までは戦がたくさんあったため、活躍の場がありましたが、その後は力を発揮する場所をなくし、鬱憤もたまっていました。

文治派は直接戦場に出ることは少なく、後方で政務を担当していました。
石田三成の他、大谷吉継(おおたによしつぐ)や小西行長(こにしゆきなが)などがいます。
天下統一後は政務担当の彼らの活躍の場が増え、存在感を増していました。
いわゆる、官僚的な役割です。

加えて、石田三成が仕事に関してはとてもドライで官僚肌であり、人情などと無縁の対応をすることが多かったため(悪気はなかったようですが…)、それが武断派たちには面白くなかったんですよ。

そういうわけで、両派の関係も悪化していきました。
そして、武断派は文治派の三成が批判した家康の方に接近していったんです。

三成襲撃事件と家康のもくろみ

三成襲撃事件と家康のもくろみ

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そんな中、ブレーキ役でもあった五大老のひとり・前田利家(まえだとしいえ)が死ぬと、武断派は三成への不満を爆発させ、何と彼を襲撃してしまいました。
三成は逃げおおせますが、失脚して領地に引っ込むこととなってしまいます。

そんな時、武断派をなだめたのが家康でした。
三成に事件の責任を取らせたのも家康だったんです。
家康は、いちばん中立的であり人々の信頼もあつい秀吉の正妻・おねに仲介を頼み、結果的にこれが家康自身の評価も上げることになりました。

対立する三成が失脚し、家康にとっては「ラッキー!」な方向に進んでいったというわけです。

会津征伐と三成挙兵、諸将は大混乱

会津征伐と三成挙兵、諸将は大混乱

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三成は失脚しましたが、家康には嫌な相手が各地にいました。
そのうちの最大勢力が、五大老のひとりで会津(福島)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)です。
彼は家康が力を増していく中、独自に軍事力を増強していました。

家康はこれを逆手に取って、弁明に来いと要請していたんです。
しかし、景勝の返事はノー。
そのため、家康は自分のほぼ全兵力で征伐に向かうことにしたんですね。

ところがその道中、なんと三成が近しい大名を引き入れて挙兵したという報せが届きました。
家康の部下が守る伏見城を攻め落とし、各大名が大坂に残してきた妻子を人質に取ったというのです。

これを聞いて、家康は小山(栃木県小山市)で軍議を開きました。
三成の挙兵については、元々豊臣家に恩ある大名も多かったため動揺もありました。
東軍(家康)に付くか、西軍(三成)に付くかで内心は迷いがあったかもしれませんが、家康自身は彼らの去就について東軍に付くことを強制はしませんでした。
一方、家康の命を受けた黒田長政(くろだながまさ)が、東軍に付いても秀頼に何ら害はないこと、三成のすることは秀頼のためにはならないと説得し、揺れる諸将の心を東軍に引きつけたのです。

また、ここはさすが家康、抜け目ないというところですが、西軍についた大名に内応(いわゆる裏切り)をはたらきかけていました。
この中に、関ヶ原の戦いの勝敗を決める小早川秀秋(こばやかわひであき)も含まれていましたが、その他にもわりと多くの大名が内応を決めていたんですよ。

つまり、西軍は最初から一枚岩ではなかったということになります。
前途多難の予感ですね。

東軍と西軍の主な面々

東軍の総大将は徳川家康、以下、家康の有力家臣たちや、武断派(福島正則、黒田長政ら)ら戦上手がずらりと顔を並べています。
また、東北では伊達政宗、九州では加藤清正や黒田如水(くろだじょすい:黒田官兵衛)などが東軍勢力とみなされました。

一方、西軍は毛利輝元を総大将とするも、その実態は石田三成や大谷吉継を中心とした面々でした。
五大老のひとり宇喜多秀家(うきたひでいえ)もいましたが、小山での軍議から西軍に参加した真田昌幸(さなだまさゆき)・信繁(のぶしげ)は、関ヶ原本戦に参加することはありませんでした。

真田に負けた徳川軍、しかし揺れる西軍内部

真田に負けた徳川軍、しかし揺れる西軍内部

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家康は軍を転じ、東海道を大坂方面に向かいました。
一方、息子・秀忠(ひでただ)率いる軍は東山道を進み、途中の信州・上田(長野県上田市)を守る真田昌幸・信繁親子と交戦します。
これが第二次上田合戦と呼ばれる戦ですが、ここで秀忠軍は経験豊富な真田軍に翻弄され、大幅な遅れを取ってしまうことになりました。
何と、関ヶ原の本戦に間に合わなかったんです。

一方、関ヶ原本戦に至るまでには、各地で前哨戦が起きていました。
ほとんどの前哨戦は西軍の優勢で進みましたが、三成が求めた総大将毛利輝元や豊臣秀頼の出馬は結局果たせず、西軍の中心では徐々に歯車が狂い始めていったのです。

天下分け目の関ヶ原、開戦

天下分け目の関ヶ原、開戦

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やがて東海道から家康率いる東軍本隊が近づいてきました。
それを見た西軍は、関ヶ原に先に布陣します。
その数8万余。
一方、後から来た東軍は7万余、数だけなら西軍がやや優勢でした。
加えて、西軍は先に布陣できたことで山の上など有利な場所を得ることができたんです。
鶴翼(かくよく)の陣という、鶴が羽を広げたようなV字の陣形で、懐に突っ込んでくる東軍を迎え撃ちました。

本来なら東軍は陣形的にも不利でしたが、ここで家康の内応工作が功を奏しました。
多くの西軍武将がすでに東軍に内通していたため、陣形のところどころは既に意味を成さなくなっていたんですよ。

関ヶ原の戦いは、福島正則隊から宇喜多秀家(うきたひでいえ)隊への銃撃で火ぶたが切って落とされました。
そして、両軍の猛者たちが次々と激突し、激しい戦となっていったのです。

戦況は西軍が地形的にやや有利で進み、三成は一気にたたみかけようと、山の上にいる諸将に突撃を要請しました。

ところが、いちばん頼りにしていた軍が動かなかったのです。

いったいどうしたのでしょうか。

何で!?「宰相殿の空弁当」

何で!?「宰相殿の空弁当」

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三成があてにしていたのは、南宮山に布陣していた毛利秀元(もうりひでもと)らの兵でした。
秀元は総大将・毛利輝元の養子で、実質上、毛利軍の大将でした。
その補佐には、重臣中の重臣・吉川広家(きっかわひろいえ)が当たっています。

しかし、広家は西軍の負けを予想し、何とか毛利家を存続させようと、東軍と密かに通じていたんです。
毛利の領地を奪われたりしないように徳川方と交渉し、約束を取り付けていました。

その約束の代わりに、広家は「軍を動かさない」という約束をしていたんですよ。

広家は秀元の兵の前に陣取り、なんだかんだと理由をつけて動こうとはしませんでした。
これでは毛利軍は戦に参加できません。
その間にも催促の使者が秀元のところに来ますが、どうしようもないので、彼は苦し紛れに「兵に弁当を食わせているのだ!」と答えるしかありませんでした。

秀元の官位である参議の中国名「宰相」を取って、「宰相殿の空弁当」という逸話名が付けられたんだそうですよ。

戦の勝敗はヤツに委ねられた!小早川秀秋

戦の勝敗はヤツに委ねられた!小早川秀秋

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吉川広家が東軍に通じていたように、ここにも寝返りを約束していた人物がいました。

小早川秀秋です。

なかなか動きを見せなかった彼ですが、ついに意を決し、1万5千の兵を味方だった西軍に向かって突撃させました。

すると、周りにいた別の部隊までが寝返り、大軍勢となって押し寄せたのです。

たちまち戦局は東軍の有利となり、大谷吉継軍は壊滅し、西軍は敗走を始めました。
石田三成も敗走し、行方不明となってしまいます。

天下分け目の戦は、わずか1日で決着がついたのでした。

主を守る部下の執念!島津の退き口

主を守る部下の執念!島津の退き口

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西軍に参加した薩摩(鹿児島県)の大名・島津義弘(しまづよしひろ)は、300の兵と共に敵中に取り残されてしまいました。

名将として名高い彼が取った策は、何と、全員で敵陣を正面突破することに決めたんです。

大将である義弘だけでも逃がそうと、兵たちは数人が戦場に残り死ぬまで戦って敵を足止めし、そして次の数人がまた死ぬまで戦って足止めをする…という壮絶な戦法を取りました。
この反撃はすさまじく、東軍の指揮官クラスを負傷・落馬させるほどでした。

そして、義弘は薩摩まで帰り着いたのです。
しかし、300ほどの兵のうち、たった80人しか国に戻ることはできませんでした。

この撤退劇を、「島津の退き口(のきぐち)」と言います。

石田三成の最期

石田三成の最期

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行方不明になっていた石田三成は捕らえられ、京都で斬首となりました。

こんな逸話があります。

喉が渇いたためお湯を所望した三成でしたが、なかったために干し柿を出されると、「腹に悪い」と断ります。
もうすぐ処刑されるのに、と笑われると、こう言い返しました。

「大義を果たそうとするならば、最後の瞬間まで命を大事にするものだ!」と。

真面目一徹、豊臣家に忠義を尽くした人物だったんですよ。

戦後、家康の天下へ

戦後、家康の天下へ

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関ヶ原の戦いの後、東軍武将は軒並み領地を増やしました。
ただ、江戸周辺や畿内など要衝には譜代大名や徳川一門が置かれ、東軍であっても豊臣家に近い大名は遠方へ配置されました。
家康が、天下取りへのステップを着々と歩んでいることがわかります。

戦に参加することのなかった豊臣秀頼ですが、豊臣政権の直轄地は西軍大名の領地と共に没収されてしまい、豊臣氏という大名自体の領地は222万石から65万石にまで激減してしまいました。
ここにも、家康の意図があったと考えられますよね。

ちなみに、吉川広家の内通により領地を保証されたはずの毛利家ですが、結局は減らされてしまっています。

また、あの小早川秀秋は、この2年後に21歳で急死してしまいました。

そして、慶長8(1603)年、家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開くのです。

多くのドラマを生んだ戦国最大の戦

大坂の役が始まるのはこれから約10年後のこと。

関ヶ原の戦いで敗者となり、領地を奪われた西軍諸将は豊臣方に参戦し、再び徳川に刃を向けることになります。

それぞれの正義や思惑が複雑に絡まり、戦国の一大ドラマとなった関ヶ原の戦いを、ぜひもう一度見直してみませんか?

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