愛憎渦巻くスペクタクル王朝・ムガル帝国の歴史が面白すぎる!

16世紀初頭から19世紀半ばまで、300年強も永らえた大帝国・ムガル帝国。インドを基盤としながらも、実はそのルーツは中央アジア・ウズベキスタン付近にあったことをご存知でしょうか。そしてこの王朝、必ずと言っていいほど後継者争いが起き、多くの血が流れたんですよ。一方、深い愛で結ばれた王と王妃がいたことでも有名です。まるで昼ドラのスケールが大きくなったようなドラマティックな展開が、歴史上で起きていました。今回はそんなムガル帝国の歴史についてご紹介したいと思います。

ムガル帝国、そのルーツ

ムガル帝国、そのルーツ

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ムガル帝国は、1526年から1858年まで続いたイスラム王朝です。

北インドを拠点に、全盛期にはインドの南端を除くほぼ全土を支配しました。

そのルーツの根本はモンゴル帝国にあると言われています。

モンゴル帝国の末裔で、1370年から1507年までイラン付近に存在したイスラム系のティムール朝が、ムガル帝国の始祖・バーブルの出身なんですよ。

バーブルの父はティムール朝の王族の血を引き、母はモンゴル帝国の始祖チンギス・ハンの二男の血を引いているんです。

つまり、超がつくほどの名門の家系なんですね。

ムガル帝国の「ムガル」とは、ペルシア語でモンゴルを指す「ムグール(モゴール)」が転じて「ムガル」となったそうです。

つまり、ムガル帝国=モンゴル帝国ということになるのですが、当のムガル帝国自体は自身でそうは名乗っていなかったんですよ。

彼らは、あくまで自分たちはティムール朝の流れを汲む者たちだと思っていたんだそうです。

ムガル帝国の建国まで

ムガル帝国の建国まで

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ムガル帝国の始祖・バーブルは、中央アジアのウズベキスタンの都市・フェルガナの領主の子として生まれました。

しかし自分の領地を奪われてしまい、1504年には現アフガニスタンの首都であるカブールへと移動し、ここを征服して拠点とします。

アフガニスタンはイランやパキスタン、中央アジアに囲まれた国ですので、少し移動してきたということになりますね。

カブールを征服したバーブルは、弟たちに他の主要都市を任せると、周辺の民族を征服・懐柔しながら支配下に置いていきました。

そして、かつての領地だった中央アジアを奪い返すのが困難であるのを悟ると、すぐさま目標を北インド方面へ転換し、当時その付近に勢力を張っていたローディー朝を倒したのでした。

これが1526年に起きたパーニーパットの戦いです。

建国のきっかけ・パーニーパットの戦い

1526年、北インドにありローディー朝の首都だったデリーの北・パーニーパットで、バーブル率いる軍1万2000とローディー朝軍10万が激突しました。

圧倒的な兵力差に加え、ローディー朝軍には1,000を数える戦象部隊がいたため、数字上ではローディー朝が勝つかに見えましたが、バーブルには秘策がありました。

それが、銃火器(鉄砲や大砲)です。

これらは大航海時代に伴ってインドへと進出してきたポルトガルによって、この地にもたらされていました。

銃火器を駆使した戦法によって、バーブルはローディー朝の大軍を粉砕します。

荷車を連結して並べ、その隙間から象や騎馬主体の相手を狙い撃ちしたんですよ。

これでは数に勝るローディー朝もたまりません。

ちなみにこの戦いの経過、とても似たものが日本でも起きていました。

織田信長が武田勝頼を破った長篠の戦いでは、信長が鉄砲を導入して当時最強をうたわれた武田軍を打ち破ったんですよね。

やはり、鉄砲の導入というのはとても大きかったということがわかります。

そしてこの戦いの勝利により、ローディー朝は滅亡に追いやられ、バーブルはデリーともうひとつの大都市アーグラを制圧し、以後1858年まで332年も続く大帝国・ムガル帝国が創設されたのです。

パーニーパットは、インドの桶狭間!?

パーニーパットはデリーの北にある交通の要衝でした。

1526年の戦いの後も、1556年には3代目のムガル皇帝アクバルがヒンドゥー系のスール朝に大勝利を収めた戦場となりました。

1761年には、ムガル帝国はすでに弱体化していましたが、アフガン系のドウッラーニー朝とデカン高原に勢力を伸ばしてきたマラーター同盟との戦場にもなったんですよ。

このように、歴史の転換点となったパーニーパットは、日本で言えば織田信長が今川義元を討ち破った桶狭間か、天下分け目の戦いの場となった関ヶ原か…そんなイメージが浮かびます。







呪われたダイヤ「コ・イ・ヌール」

さて、バーブルが制圧したアーグラには、かつて世界最大を誇り、世界最古のダイヤモンドと言われる「コ・イ・ヌール」がありました。

これについては、バーブルが後に記した回想録「バーブル・ナーマ」に記載があります。

ペルシア語で「光の山」を意味する「クーヘ・ヌール」にその名の由来を持つコ・イ・ヌールは、呪いの宝石とも言われていました。

というのも、持ち主が暗殺されたり、奪い合いによって血なまぐさい戦いが起きたりしたためです。

ところがこれは持ち主が男性であったときのみで、女性が所有したときにはそうした争いは起きなかったそうなんですよ。

そのため、ムガル帝国の後にインド支配に及んだイギリスのヴィクトリア女王に献上されると、ロンドン塔に展示されるようになりました。

ムガル帝国の始祖・バーブルとは?

では、ここでムガル帝国を建国したバーブルについて少しご紹介しますね。

ティムール朝とモンゴル帝国の末裔として中央アジアに生まれたバーブルは、前述の通り、故郷を追われて北インドへと流れてきます。

そして、1526年のパーニーパットの戦いでローディー朝を破り、ムガル帝国を建国しました。

ローディー朝の首都でもあったデリーを手に入れると、バーブルは積極的に版図拡大に乗り出しました。

ところが間もなく病に倒れてしまい、帝国の基盤をしっかり固められないまま1530年に亡くなってしまったのです。

バーブルの人となり

バーブルは母語であるチャガタイ・トルコ語(今は死語)の他、ペルシア語やアラビア語にも堪能な知識人であり、部下に対しては公正・寛容な人物でした。

その聡明さは、彼が自分の波乱の人生について記した回想録「バーブル・ナーマ」からも読み取れます。

これは後世でもとても評価が高い著作なんですよ。

一方、宴席で初めて口にしたワインに溺れてしまい、禁酒に苦しむ率直な思いを吐露したりもしており、人間味ある人物だということもわかります。

そして愛情深い父親であり、息子の2代皇帝フマーユーンを大事にしていました。

フマーユーンが任地へ赴く際には付き添い(これって過保護だと思いませんか?)、晩年、彼が病気になると自分の命を捧げて回復を祈ったりもしています。

この結果、フマーユーンは回復しましたが、バーブル自身は間もなく亡くなってしまったんです。

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