「万里の長城」は誰が?なぜ?いつ作ったの?歴史の成り立ちから世界遺産になるまで

総延長20000キロメートル以上。2000年以上の時をかけて造り上げられた、世界最大・最長の建造物といえば、答えはもちろん、万里の長城です。広大な中国大陸に横たわる巨大龍のようなその姿は壮大で神秘的。誰が、どのような目的で、どうやって築き上げたのでしょうか。今なお多くの謎に包まれている万里の長城。その魅力をたっぷりとお話ししてまいります。

万里の長城とは何か

万里の長城とは何か

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現存するものはおよそ3割?

幾重にも重なる緑深き山を、風そよぐ平原を、砂塵舞う砂漠を、一頭の巨大な龍がうねりを上げて駆け抜ける。
世界最大・最長の巨大建造物『万里の長城』。
その大きさは・長さは圧巻です。
山間を抜けるのではなく、あえて山頂を通るように造られているため、波打って躍動しているように見えます。
訪れた多くの人が、固いうろこに覆われた巨大な龍の体を連想するに違いありません。
多くの歴史家や詩人が、長城の姿を龍に例えてきました。

全盛期には全長20000キロあったと言われています。
地球の直径がおよそ40000キロですから、20000キロというとその半分。
想像を絶する長さです。

しかし現存するものは総延長およそ6000キロと言われています。
長い年月の間に、ある箇所は風化し、ある箇所は人為的に取り除かれ、1987年の世界遺産登録以来、保全活動が進められてはいますが、その巨大さゆえ、浸食や破損を食い止められない箇所も多々見られます。

一方で、現代に至っても、数年に一度くらいのペースで、万里の長城の痕跡が新しく発見されています。
2010年にも、陝西省(中国大陸のほぼ中央に位置する省)で新たに、古い時代の万里の長城が見つかったと発表されました。

万里の長城は、今もなお数々の謎に包まれており、新・世界七不思議のひとつに数えられています。
広大な大地のどこかに、まだ、巨大龍の背中が埋まっているかもしれないのです。

なぜ、このような長い建造物を造ったのでしょうか。
そして、なぜ、その七割近くが失われてしまったのか。
そのあたりに、万里の長城を深く知るための鍵が隠されているようです。

建造は誰が?理由は?

建造は誰が?理由は?

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万里の長城は大きさや長さだけでなく、その歴史のスケールの大きさも桁違いです。

秦の始皇帝が建造したとも伝わっていますが、それは百パーセント正解ではありません。
確かに秦の始皇帝の偉業でもありますが、近年の研究で、壁自体はもっと古くから存在していたことが明らかになってきています。
「万里の長城は誰が造ったのか」。
この問いの答えを一言で表現するのは至難の業です。

始まりは紀元前。
2000年以上に渡って、主が変わっても龍は中国大陸に横たわり、世の移り変わりを見つめ続けてきました。

その間、中国大陸では数々の統一国家の誕生と争い、衰退が繰り返されてきました。
どの国家に代わっても、万里の長城は壊されることなく、常に増築・改築が繰り返されてきました。
建設場所は、決して平坦な場所ばかりではありません。
重機もなく、測量技術も乏しい時代に、どうやってこんな巨大な建造物を築いたのか。
新・世界七不思議と言われるゆえんです。
もし人力でこれだけの建造物を造ったとするならば、何十万という民が過酷な労働を強いられたに違いありません。
長城を増築・延長させることで、国の力を世に知らしめようとしたのだと、容易に想像がつきます。

仮にここで多くの名もなき労働者が、家族の顔を見ることもなく命を落としていったとしても、この巨大龍が彼らの最期を語ることはないでしょう。

多くの民を犠牲にしても、万里の長城は多くの覇王たちによって維持され、延長され続けてきました。
その理由は?権力者たちが長城を必要とした理由も、じっくり探っていきましょう。

国の防衛に役立ったのか?

万里の長城は外敵の侵入を防ぐために建てられた城壁。
外敵とは主に北方の遊牧騎馬民族を指すことが多いです。
現存する長城が主に北部に連なっていることから見てもそも目的は明らか。
領土を守るだけでなく、貿易ルート、つまりシルクロードを守る、という役割を担っていた時代もありました。

”城”という漢字を使ってはいますが、英語名は「The Great Wall」。
居住する機能を備えているわけではありません。
あくまで、その役割は”壁”なのです。

万里の長城は高い壁によって外敵の侵入そのものを防ぐほかに、通信網としての機能も果たしていました。
長城にはところどころ、数多くの”のろし台”や”物見やぐら”が存在します。
高いところからあたりを見渡し、煙を立てて敵の侵入を知らせました。
煙は城壁をつたうようにのろし台からのろし台へと伝わり、非常に短い時間で遠方まで情報が伝わった、と伝えられています。

ところで、私たちがイメージする石造りの長城は、実は明代に入ってからのものなのです。

観光客の多い八達嶺(はったつれい)や慕田峪(ぼでんよく)といった場所には見慣れた造形、つまり石造りの城壁が連なっています。
いかにも長城といった姿ではありますが、このような石の城壁は、2000余年の長城の歴史の中では比較的後半に作られたものなのです。
それまでは、土を練って盛った、土塁のようなものが中心でした。

それら土盛りの長城は、残念ながら今はもう見ることはできませんが、西方地域の砂漠には、土を盛り固めた長城が今でも残っています。
その姿は、場所によって様々です。

石造りの強固な壁ならまだしも、土盛りの壁などで国を守ることができたのでしょうか。
なぜ、最初から石積みの壁を造らなかったのか。
その点についても是非、詳しく考察してみたいと思います。







月から見ることはできない?

月から見ることはできない?

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ひところ、万里の長城は「宇宙から(月から)見える唯一の人工の建造物」と形容されていました。
本当に見えるのか?

この疑問については、先にお答えいたしましょう。
答えはノー。
大変残念ですが、宇宙から肉眼で万里の長城を見ることは難しいようです。

21世紀に入って、中国人宇宙飛行士が「長城は見えなかった」と発言。
大変な騒ぎとなりました。
中国の人たちは、子供の頃に教科書で習うほど、このことを信じ、誇りに思っていたのです。
発言したのは中国人飛行士。
教科書の記述を変えざるをえません。
中国の人々がどれほど落胆したか、想像に難くありません。

その後、宇宙ステーションから撮影した写真に、かすかではありますが万里の長城が写っていたことが発表されましたが。
しかし、やはり肉眼で確認することはできないと考えた方がよさそうです。

宇宙から最もよく見えるものは人工の光。
都会の光や高速道路の灯りなどです。
万里の長城も、観光客向けにライトアップしている箇所もあるようですが、全体を照らしているわけではないため、おそらく、大地の色と識別できないのではないかと思われます。

なぜ、月から見える、などという話になったのか定かではありません。
おそらく、写真や映像のなかった時代に、長城のをじかに見た人がその大きさを伝えようと「とても大きな建造物だった。
あんなに大きな建造物なら、月から見えるのではないだろうか」などと書き残しているうちに、「宇宙から見える建造物」というイメージが定着してしまったのではないでしょうか。

非常に残念ではありますが、それでも、万里の長城が地上最大・最長の建造物であることに変わりはありません。
「本当に月から見えるかもしれない」と思わせてしまうほど、見た人に強烈な印象を与え続けてきたのでしょう。

ここまで、万里の長城についていろいろお話してまいりました。
巨大龍の背中は不思議でいっぱいです。

・始皇帝より前に長城を築いたのは誰か。

・なぜ長城を築く必要があったのか。

・本当に20000キロもの長さがあったのか。
等々。

これらの疑問の答えを見つけるためには、万里の長城の歴史を見ていく必要がありそうです。

舞台は2000年以上昔へ。
歴史を紐解き、長城のさらなる魅力に迫りましょう。

長城の歴史(1)-戦国時代から中世へ

周の没落から春秋・戦国時代へ

周の没落から春秋・戦国時代へ

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万里の長城というと秦の始皇帝が造ったものと思われがちですが、前に述べた通り、それより数百年前に、壁は存在していました。
始皇帝は長城を新しく築いたのではなく、それらをつなげ、延長し、壁をより強化にしたことで、その名を深く歴史に刻んだのです。

では、秦の始皇帝より前は、どのような時代だったのでしょうか。

秦の統一より前の時代の時代は、春秋・戦国時代と呼ばれています。
紀元前700年頃からおよそ500年間続いた、戦乱の時代です。

春秋・戦国時代に入る前は、周という国が栄えていました。
悪政が続き王が失脚。
内紛が起き、西方の遊牧民族に攻め込まれる事態まで引き起こします。
紀元前770年、周は東周と名を変えて一小国にまで落ちぶれていきました。

それと入れ替わるように、それまで周の王に使えていた有力諸侯たちが次々に国を打ち立て、力を誇示し始めたのです。
大国が力を失うと均衡が崩れ、諸侯の間の緊張も高まります。
中でも、斉、晋、宋、秦、楚といった諸侯が強い力を持ち、互いにけん制し合うようになりました。

さらに異民族も多く入りこんで、中国大陸では数多くの国が乱立。
大小合わせて200以上の国が存在していたとも考えられています。
東周には既に権力は残っていませんでしたが、それでも最初のうちは、東周の王に多少の敬意を払っていたと考えられています。

しかし、それも長くは続きません。
春秋・戦国時代の半ば過ぎに入ると、諸侯はおのおの、自らを”王”と名乗るようになり、力で国を奪い合う時代へと移行していったのです。

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