一生に一度はおとずれたい!絶景の秘境、九寨溝の歴史と見どころ

中国の四川省北部の山中にある九寨溝(きゅうさいこう)。その神秘的な景観から、世界自然遺産に登録され、また近年では中国西部随一の観光スポットとしておおくの観光客がおとずれています。「こんな景色は見たことがない」「生きているうちに見れてよかった」と、満足度もたかい景勝地です。今回はこの九寨溝の成り立ちと見どころ、そしてそこに暮らすチベットの人々の歴史を紹介しましょう。

九寨溝ってどんなところ?

九寨溝ってなに?どこにあるの?

九寨溝ってなに?どこにあるの?

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九寨溝とは渓谷の名前です。
四川省の北部、標高2000メートルから4500メートルの山々にかこまれた場所に、九寨溝はあります。
中国名は「九寨沟(ジウジャイゴウ)」。
この呼び名は、ちかくにチベット族のちいさな集落(山寨)が9つあったことに由来します。
国の認める景勝地のひとつであり、正式名称は「九寨溝国家級風景名勝区」といいます。

九寨溝は、四川省内のアバチベット族チャン族自治州に位置します。
アバとは、チベット語の「ガパ」あるいは「ガワ」に由来し、いずれも「収穫」を意味します。
またチャン族とは中国に55ある少数民族のひとつです。
中国の行政区分ではチベット族と同列の少数民族とされていますが、チベット族の分派ともいわれています。
この自治州には、45万人のチベット族と、15万人のチャン族、そして23万人の漢民族が暮らしています。

このアバチベット族チャン族自治州の北東部に、九寨溝があります。
近年までずっと、現地の住民以外はだれも知らない秘境でしたが、20世紀後半の森林伐採によって発見され、またたくまに有名な景勝地となりました。
1992年には「九寨溝の渓谷の景観と歴史地域」として、ちかくの黄龍(こうりゅう)とともに、世界遺産に登録されました。

九寨溝の見どころは?

九寨溝の見どころはなんといっても、その神秘的な景観です。
とくに大小100以上の湖の、青く透きとおった湖水は、見るものをかならず魅了します。
幻想的なエメラルドグリーン、水底の倒木まではっきり見える透明度、周囲の木々と空をうつすおだやかな水面、そして圧倒的にひろがる山々と空……。
信じられないほどの景色が目の前にひろがります。

また九寨溝には瀑布とよばれる横長の滝もいくつかあり、白い布のように水が流れおちる様はまさに絶景。
日本ではめったに見ることのできない景色です。
周囲の山々は四季によって姿を変え、冬には雪景色を、春には新緑を、夏には鬱蒼としげる深い緑を、そして秋には紅葉を楽しむことができます。

こうした景観をもとめて、日本からも毎年おおくの観光客が九寨溝をおとずれます。
「どこまでもつづくブルーと大陸ならではの圧巻の景色」「日本の裏磐梯を1000倍すごくしたところ」「絶景の連続に息をのむばかり」「一生に一度は見て」など、じっさいにおとずれた場合の満足度がとても高いのも特徴。
中国西部に行くなら、九寨溝は外すことのできない必見スポットです。

九寨溝の自然はどうやってつくられた?

かつて九寨溝は海の底だった

かつて九寨溝は海の底だった

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九寨溝の自然にふれると、こんな神秘的な風景がどうやってつくられたのか、不思議になりますよね。
現地の伝説では、天上で女神が鏡をつかって悪魔と戦ったとき、あやまってその鏡を地上に落としてしまい、割れて分かれていまの湖がつくられたと伝わっているほど。
そこでまずは自然の成り立ちから、九寨溝の歴史の説明をはじめていきましょう。

2億年以上前、まだすべての大陸がひとつだったころ、九寨溝は海の底にありました。
海底にはサンゴや貝など、石灰質の殻をもつ生物の死骸が堆積し、ゆっくりかたまって、石灰岩となっていきました。
やがて地殻変動によって大陸は分裂し、同時に九寨溝のある場所はもりあがって、地上に出てきました。

約9000万年前、南のゴンドワナ大陸からインド大陸が分裂します。
インド大陸はゆっくりと北上して、やがて約5000万年前に、ユーラシア大陸とぶつかりました。
ぶつかった後もインド大陸はユーラシア大陸の下にもぐりこんでいったので、衝突場所が上に押しあげられて、ヒマラヤ山脈やチベット高原になりました。
その東では、しわをつくりながら大地が押しあげられ、たくさんの山脈が形成されました。
こうして九寨溝は山脈のなかに位置する高地となりました。

透明度が高いのは炭酸カルシウムのおかげ

約300万年前からは、何度も氷期がおそいました。
山脈は氷河によって削られ、九寨溝をはじめとするたくさんの渓谷がつくられていきました。
やがて氷期がおさまると、渓谷には、炭酸カルシウムをおおくふくむ水が流れこむようになりました。
石灰岩は水に溶けやすく、水中にたくさんの炭酸カルシウムを放出するからです。

とくに九寨溝には、おおくの炭酸カルシウムをふくんだ水が地下から湧き出していました。
炭酸カルシウムは水中のチリやホコリを吸着して沈殿し、水の透明度を上げます。
また倒れた木々はつめたい地下水と炭酸カルシウムによって、腐食することなく、水底に残りつづけます。
そしてこうした沈殿物や木々によって、地下水が地表でせきとめられ、おおくの透明な湖を形成していったのです。

いまでも九寨溝の湖は炭酸カルシウムをたくさんふくんでいます。
湖水がおどろくほど透明なのも、このおかげです。
また透明度が高いと水は青くみえますが、光の当たり方によって、エメラルドグリーンになったり、深い青になったり、周りの木々を鏡のようにうつして緑色になったりします。
1日のなかでもいろんな表情をみせるのが九寨溝の特徴のひとつです。

九寨溝の歴史はチベットと中国のまざりあい

九寨溝周辺のチベット部族、羌と氐

九寨溝周辺のチベット部族、羌と氐

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九寨溝はチベット高原の東端に位置し、東や南はすぐ中国の平原です。
そのため九寨溝は歴史上つねに、チベットの人々と中国文明とがぶつかりあい、またまじりあう土地でした。
その結果、九寨溝はチベットの人々がおおく住みながらも、中国文化も多量にまじった、特徴ある地域となったのです。
ここからは、そんな九寨溝の歴史を見ていきましょう。

広大なチベット高原には、いつのころからか、インドや中国などからやってきた人たちが住みつくようになりました。
古代中国王朝の殷(商)の文献に記述があるので、すくなくとも紀元前11世紀以前にはいくつかの部族にわかれて暮らしていたようです。
九寨溝周辺にはふたつの部族があって、中国人はかれらのことをそれぞれ「羌(きょう)」「氐(てい)」と呼んでいました。

形からもわかるとおり、羌という漢字は「羊と人」という意味です。
おそらく山の中で羊とともに遊牧生活をしたり、また狩猟をしたりしていたのでしょう。
九寨溝周辺ではいまでも、農業のかたわら牧畜をする人もおおくいます。
氐とよばれた部族もまたおなじような暮らしぶりだったと推測されます。
この羌・氐という2部族の勢力は、九寨溝とそれより西の広大な山間部にひろがっていました。

古代中国の歴史に深くかかわった羌と氐

紀元前5世紀末から、中国では戦国時代をむかえます。
この時代に、九寨溝は戦国七雄のひとつ、秦の領土に組み入れられました。
これ以降、九寨溝の人々は中国王朝の支配のもとで暮らします。
秦がやがて中華を統一し、漢がそれにつづいてからも、九寨溝は中国の勢力範囲内にとどまりました。
三国時代には蜀の勢力範囲でした。

いっぽうで、九寨溝から西においやられた羌と氐の部族は、それぞれ王をいただく国となって、独自の道をあゆんでいました。
やがて紀元220年に漢王朝が滅亡すると、羌と氐は中国の歴史に積極的にかかわっていきます。
三国時代には、魏の曹操に反乱をおこしました。
曹操にやぶれてからは、蜀の国内で一定の勢力をたもちました。

三国時代ののち、中国内の王朝が衰退すると、羌と氐は北の匈奴などとともに平原に進出し、王朝を建てていきました。
これがいわゆる「五胡十六国時代」です。
しかしこれらの王朝はひどく短命でした。
また中国の中心に進出して、中国文化を受け入れたことで、羌と氐はみずからの独自性をなくしていきました。

そしてこれ以降、羌と氐は歴史の表舞台から姿を消します。
ただ、いま九寨溝などに暮らすチャン族は羌の末裔だとも言われています。
チャン族の漢字表記は「羌族」です。

中世・近代の九寨溝の歴史は……







チベット仏教がおこり、浸透していく

チベット仏教がおこり、浸透していく

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紀元589年、隋が中国を再統一し、29年後には唐がそれにとって代わりました。
おなじころ、広大なチベット高原ではたくさんの部族が統一されて、吐蕃(とばん)が建国されました。
建国者はソンツェン=ガンポ。
かれは建国と同時に、それまでのボン教とよばれる土着の宗教に代えて、インドと中国から仏教を輸入しました。
これがチベット仏教のおこりです。
これ以降チベットは仏教国となるので、ソンツェン=ガンポはいわばチベットの聖徳太子といえます。

それから中国王朝と吐蕃は、領土をめぐってひんぱんに争いました。
九寨溝をふくむ一帯もまた領土争いの場となり、隋・唐・宋という時代をつうじて、たびたび隷属関係を変えました。
やがて13世紀にモンゴル帝国がおこると、九寨溝一帯もチベット高原もモンゴルの支配下となりました。
第5代皇帝フビライ=ハンのもと、チベット仏教は手厚く保護されて、ひろく浸透していきます。

ちなみにチベット仏教には独自の仏具があります。
手のひらサイズの車輪に経典を入れて回すとお経を読むのとおなじ効果があるといわれる「マニ車」や、「タルチョー」とよばれる五色の旗などです。
九寨溝でもよくみかけます。
ただ九寨溝では土着のボン教のほうがさかんなので、チベット仏教とはちがって、マニ車を反時計まわりにまわします。

中国の「内地」となった九寨溝

14世紀にモンゴルの大帝国がほろびると、中国では明が、つづいて清が勃興します。
いっぽうチベット高原では、チベット仏教の各宗派がいれかわりたちかわり政権についていきました。
そして17世紀にはゲルク派のダライ=ラマ5世がトップに立ちます。
これ以降、チベットの指導者は観音菩薩の化身として、ダライ=ラマの称号を引き継いでいきます。

九寨溝一帯もふたたび領土争いの場となりました。
18世紀初頭にはチベットに属していましたが、1723年、ときの清朝皇帝である雍正帝が侵攻し、九寨溝はじめ広大なチベット高原全体を支配します。
そして雍正帝はチベット高原の西部をダライ=ラマが治める自治区とし、九寨溝などのある東部を直轄領として、分割しました。
こうして九寨溝は、チベット人の居住地でありながら、中国の「内地」とされたのです。

現在、九寨溝のあるアバチベット族チャン族自治州は四川省の中にありますが、伝統的なチベットの地理区分では「アムド地方」とよばれる地域の東南部にあたります。
雍正帝がおこなった分割によって、九寨溝はチベットから切り離されたのです。
そしてこの分割政策は、のちの中国にも引き継がれていきます。

現代になってやっと九寨溝が「発見」される

中国のチベット支配と九寨溝の「発見」

中国のチベット支配と九寨溝の「発見」

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1949年に中華人民共和国が誕生すると、すぐに人民解放軍がチベットに侵攻します。
中国政府はときのチベット指導者ダライ=ラマ14世を屈服させて、チベット高原の西側を自治区とし、東側を四川省や雲南省としました。
そして「内地」とされた四川省や雲南省では、社会主義への改革がすすめられました。

チベット人たちはこれに反発して、1956年にチベット動乱をおこします。
しかし人民解放軍によって大量の虐殺とともに鎮圧され、ダライ=ラマ14世はインドにのがれて亡命政府をたてました。
そしてこの後、九寨溝をはじめとするチベット各地には、おおくの漢民族が入植していきました。

このころ中国では「大躍進政策」が掲げられて、各地で人海戦術での開発がすすめられていました。
九寨溝の森の木々も、1960年代にかけて、大量に伐採されました。
そしてあるとき、ひとりの労働者が森の中に、青く透明な湖をたたえた美しい渓谷を発見します。
じつはこのときまで、九寨溝は地元のチベット人たちしか知らない秘境だったのです。
そしてこの「発見」によって、九寨溝はいっきに人気の観光地への道をたどります。

九寨溝の自然保護と観光地化

1975年、中国の農林水産省の作業チームが九寨溝をおとずれて調査します。
そして「九寨溝はゆたかで貴重な動植物を有するほか、世界でもまれにみる景勝地である」と結論づけました。
おなじ年、中国の林業科学院院長が九寨溝をおとずれて、その景観に衝撃をうけ、九寨溝の保護を四川省と政府にうったえます。
中国政府はすぐにこれを受け入れて、九寨溝周辺の伐採を禁止しました。

1978年には九寨溝に対する伐採が全面的に禁止され、2年後には国の保護区に登録されました。
こうして自然保護がすすむとともに、九寨溝の観光地化も急速にすすめられていきます。
中央政府によって国家級景勝地と認定され、管理局もつくられて、1984年からは観光地として本格的に営業を開始しました。
九寨溝のうわさはすでにひろく伝わっていたので、中国全土から観光客がおしよせるようになりました。

ちなみに九寨溝は、9つのチベット人の集落があることからこう名付けられたのですが、観光地化がすすむにつれて、集落の数ははんたいに減っていきました。
2017年現在では、3つの集落をのこすのみとなっています。
このうち樹正寨という集落は、お土産屋さんや飲食店がたちならぶ観光の町となっています。

世界でここだけ?トリプルスリーの栄冠をもつ九寨溝

「世界自然遺産」と「生物圏保全区域」に登録される

「世界自然遺産」と「生物圏保全区域」に登録される

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観光地となってからも、九寨溝の自然は中国政府によって手厚く保護されていきました。
こうした取り組みとその景観が認められて、1992年、九寨溝はユネスコによって世界自然遺産に登録されました。
世界遺産になったことで、九寨溝の名はさらに知れわたり、世界中から観光客がおとずれるようになりました。

また、くりかえしおこなわれた調査の結果、九寨溝には貴重な動植物もたくさんいることが確認されました。
標高が高いため、めずらしい高山植物が色とりどりの花を咲かせます。
またジャイアントパンダや、孫悟空のモデルといわれるキンシコウという猿など、めずらしい動物も暮らしていました。

これらの多様な生態系と、人間との共生がはかられていることから、1997年、九寨溝はユネスコによって「生物圏保全区域」にも登録されました。
これは世界自然遺産よりも、生態系と人間との共存関係によりポイントをおいた制度です。
日本では志賀高原や、屋久島・口永良部島などがこの生物圏保全区域(日本では「ユネスコエコパーク」とも呼びます)に登録されています。

「グリーングローブ21」にも認定される

観光客がさらに増加すると、九寨溝の管理局は渓谷ぞいに木の歩道をつくったり、天然ガスを利用した低公害型のグリーンバスをはしらせたりと、観光と自然の両方に配慮した取り組みをしていきます。
また九寨溝の道路ぞいには、たくさんのホテルや飲食店、演芸館がつくられました。
演芸館では、チベット仏教の説話にもとづいたダンス劇や、ソンツェン=ガンポのもとに嫁いだ文成公主という女性の故事などが上演され、チベット文化にもふれることができます。

こうした観光業が評価されて、九寨溝は2001年、国際的な認証制度である「グリーングローブ21」に認定されました。
グリーングローブとは世界的な認証機関で、ホテルや観光地などに国際標準の評価をあたえ、エコツーリズムを推進しています。
この制度に認定されたことで、九寨溝は3つの栄冠をもった、世界でもまれな観光地となりました。
いま九寨溝には、美しい自然と貴重な動植物とチベット文化をもとめて、おおくの観光客や研究者がおとずれています。

以上、九寨溝の歴史をみてきました。
このように九寨溝はすばらしい景観をもつだけでなく、チベットと中国が絶えず交差した複雑な歴史ももっています。
世界遺産の登録名が「九寨溝の渓谷の景観と歴史地域」となっているのもこうした理由です。
つづいて、こうした九寨溝の見どころを紹介しましょう。

九寨溝のおススメの見どころ

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