【初心者向き】ざっくりわかる三国志と、中国旅行での観光スポット

およそ1800年前の中国大陸。魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(ご)という三つの国がしのぎを削る戦乱の時代がありました。後漢王朝という巨大な国が傾き始めた頃から次の統一王朝が誕生するまでのおよそ100年間。大陸は大きく揺らぎ、多くの英傑が知力を尽くして大陸を駆け巡りました。その興亡の記録が『三国志』。戦国武将たちの活躍は後の世まで長きに渡って語り継がれ、現代でも、小説や漫画や映画、ロールプレイングゲームのモデルにもなっています。なぜ三国志は、そこまで多くの人々の心をつかんでいるのでしょう。壮大で魅力溢れる三国志の世界をご紹介してまいります。

三国志・人気の秘密

三国志とは?

三国志とは?

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中国の正史のひとつ。
後漢末期から三国時代(180年頃~280年頃)の歴史の記録です。
三国時代が終わった後、蜀の陳寿という官僚がまとめたもので、魏書(志)、蜀書(志)、呉書(志)と三国それぞれに分かれた三部構成、65巻の膨大な書物。
陳寿は蜀が滅びた後、次の統一王朝となる西晋に仕えており、三つの書はそれぞれ対等に書かれてはいますが、言葉遣いなど細かいところに若干、蜀に対する思い入れが見え隠れしているようです。
魏書の中にはあの邪馬台国のことが書かれた「魏志倭人伝」が含まれていることで日本でもよく知られています。
つまり三国志とは元々は、お役人がまとめた歴史の記録なのです。

しかしながらこの時代、漢という約400年続いた大国が悪政や内紛によって傾きかけた後に中国大陸に三つの国(皇帝)が誕生したという、非常に特異な時代でありました。
そのため後々、この時代を舞台にしたお芝居や読み物などがたくさん作られます。
いつの時代も苦しい生活を強いられる庶民にとって、悪い奴らをバッタバッタと切り倒して正義を貫く英雄の姿は胸すくものだったに違いありません。
日本で大岡越前や遠山金四郎、水戸黄門などのお話に人気があるように、三国時代の武将たちの活躍は後の世の庶民の心をつかみました。
三国志が単なる歴史の記録に留まらず、広く知られるようになった理由は、こうしたところにあったのです。

『三国志』と『三国志演義』

三国志を題材とした読み物や芝居の代表格に『三国志演義』というものがあります。
三国時代から1000年以上後の明代に書かれた時代小説で、著者ははっきりとはわかっていません。
しかし、当時の中国で最も多く読まれた書物ではないかと言われているほどで、江戸時代には既に日本にも伝わっています。
正史が元になっていますが、かなりドラマチックに脚色されているようです。
正史では魏、蜀、呉それぞれ同じくらいの分量の書物が残っていて、起きた出来事が淡々と書かれています。
しかし『三国志演義』では蜀を創立した劉備玄徳(りゅうびげんとく)を主役に据え、魏の礎を築いた曹操孟徳(そうそうもうとく)との対峙の様子を描くことで大変な人気を博しました。
劉備は義理人情に厚く人徳があり多くの民に慕われる好人物であり、対する曹操は強大な武力に物を言わせて傍若無人に振舞う悪役として描かれています。
もちろん曹操は暴君ではありませんが、この対立関係を主軸としたストーリーが人気となり、『三国志演義』は広く知られるようになっていきました。

その後、この『三国志演義』の影響を受けた読み物や芝居が数多く作られたため、正史『三国志』と『三国志演義』が混同してしまうこともあるほど。
それほど『三国志演義』に人気があったという見方もできますが、逆に、三国時代という時代が、読み物や芝居と混同してしまうほど劇的な時代であった、と言えるのかもしれません。

「桃園の誓い」は創作?

「桃園の誓い」は創作?

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例えば、主人公の劉備と関羽雲長(かんううんちょう)、張飛益徳(ちょうひえきとく)とが義兄弟の契りを交わし生死を共にすることを誓い合う「桃園の誓い」は『三国志演義』の序盤に登場する人気の一場面ですが、正史『三国志』にはこのような記述はありません。
関羽も張飛も一騎当千の兵(つわもの)でありながら他の武将につくことはなく生涯劉備に尽くします。
劉備はというと、漢王朝の血をひいてはいますが貧乏で学問も剣術もそれほどではなく、稀代の英傑二人がなぜ劉備に従ったのか、劉備はなぜこの二人を信頼し大事にしたのか、その疑問の答えを埋めるべく作られてた逸話ではないかと考えられています。

全体的に、劉備本人や彼に従う者たちはかなりかっこよく描かれていて、特に劉備の軍師となった諸葛亮孔明が打ち出す奇策が次々的中する様などは「出来過ぎだろ」と思わず笑ってしまうほど。
史実かどうかは別にして、読んで胸すく物語であることは間違いありません。

『三国志演義』が作られた時代に限らず、中国は常に異国民族の攻撃に喘いでいました。
三国志の武将たちの活躍を通して、自分たちもこのように強くありたいと願っていたのでしょう。
ただ強いだけでなく、義理人情に厚く仲間を重んじる温かい登場人物たちに思いを重ねていたのかもしれません。







三人の武将と三つの山場

三国時代では100年ほどの間に数え切れないほど戦いが起き、中国の人口が二割以下に減少したと伝わるほど激しい時代でありました。
短い間に様々な出来事が次々と起きて、人の動きもめまぐるしいため、小説は大作ばかり。
日本の三国志小説の先駆けとして今も読み継がれている吉川英治「三国志」は文庫本でも全8巻。
横山光輝の漫画「三国志」は単行本で60巻にも及びます。
どちらも『三国志演義』がベースになっていますので読みやすく面白いのですが、とにかく長い。
三国志を題材にした小説や漫画はどれも長編なので、取り組む前にざっくりと要点を抑えておいたほうがよいでしょう。
キーワードは「3」。
劉備、曹操、孫権の3人の動きと、時代の転機となる三つの山場を大まかに頭に入れておくと、長編でも読み進めることができるはずです。

劉備は蜀の初代皇帝、曹操は魏の礎を築いた猛将(初代皇帝は息子の曹丕)、孫権は呉の初代皇帝。
孫権は劉備、曹操より一世代若いのですが、父親孫堅と兄孫策を相次いで亡くしたことで若くして一門を率いることとなります。
どうしても劉備と曹操が中心になりがちな三国志ですが、若い孫権の苦悩と活躍も見所のひとつなのです。

前半のキーパーソンは董卓(とうたく)。
絵に描いたような悪役です。
この男の悪政ぶりが多くの武将たちの奮起につながるのですが、この頃はまだ曹操も劉備も下っ端でした。
続いて中盤の山場は「赤壁の戦い」。
全国統一目前まできた曹操が劉備・孫権連合軍とぶつかる大戦です。
そして後半の山場は劉備の死。
彼の死後も時代は続きますが、徐々に新しい勢力が力をつけ始め、三国時代は終焉に向かいます。
中盤の赤壁の戦いの後に、三国(魏、蜀、呉)が建国されるのですが、物語としては、建国前のほうが人気があるようです。

では、三国時代とはどんな時代であったのか、3人の活躍と三つの山場を中心に見ていくことにいたしましょう。

三国時代・前夜

悪政の世と黄巾の乱

悪政の世と黄巾の乱

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今からおよそ2000年前。
中国大陸は漢という王朝によって統一されていました。
司馬遼太郎の「項羽と劉邦」という小説をご存知の方も多いのではないかと思いますが、あの劉邦が築いた国が漢です。
この王朝は紀元前後またいで足かけ400年ほど続いたのですが、末期は悪政が続いていました。
幼い皇帝が即位することが多くなり、皇帝の母や親戚、役人たちが私腹を肥やすようになっていたのです。
国庫は逼迫。
社会情勢は悪くなる一方。
割りを食うのは民衆です。

この頃、大陸の北の方に、張角という人物が指導する太平道という新興宗教がありました。
生活に困窮した民衆がこの宗教にすがるようになり、張角を首領として、腐敗した漢王朝を倒すために184年、ついに反乱を起こします。
太平道のシンボルである黄色の頭巾をトレードマークとしたため、この反乱は「黄巾の乱」と呼ばれるようになりました。
事態を重く見た漢は有力武将たちを次々送り込み、反乱の鎮圧に当たらせますが、その勢いはなかなかおさまりません。

反乱の鎮圧には、地方で募集した義勇軍の活躍も見られました。
このとき我らが劉備玄徳その人も、手柄を立てて一旗揚げようと、関羽、張飛らと共に義勇軍に加わり、戦いに身を投じています。
曹操も同様に、黄巾賊の鎮圧に当たっていました。
数か月の後、張角が病死し、張角の弟たちが漢の黄巾討伐軍に討ち取られ、黄巾の乱は終わりを迎えます。

乱は収束しましたが民衆の怒りは収まらず、残党がほうぼうで暴れるなど、火種はあちこちでくすぶったままでした。
また、これらの反乱を抑え込む戦いの中で地方の豪族たちがめきめきと頭角を現し始めます。
その中に、孫権の父孫堅(そんけん)もそのうちのひとりでした。

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