歴史漫画キングダムの前の話。「春秋時代」の歴史を簡単にチェック!

今から2500年以上も昔、紀元前の中国大陸は戦乱の時代でした。大陸には多くの国が存在していて、食うか食われるかの激しい争いを繰り返していました。その時代を人は「春秋時代」と呼びます。今人気の歴史漫画『キングダム』の舞台となる戦国時代へと続く、戦乱の幕開けの時代。戦いは数百年に渡って続けられていきました。いったいなぜ?その謎を紐解くべく、前王朝の崩壊から戦国時代に至るまでの諸国の動きにスポットをあててまいります。

神話と伝説の時代と聖王・暴君の誕生

神話・伝説の時代の帝

神話・伝説の時代の帝

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春秋時代に入る前、中国大陸ではどんなことが起きていたのでしょうか。

石器時代や黄河文明などの黎明期から、中国大陸には数多くの集落が点在しており、人々は狩猟や農耕などを行って生活していたと考えられています。
その後、三皇・五帝が現れて天下を治めたという神話・伝説の時代に入ると、農耕や漁業などの技術が徐々に発展し、人口が増えて集落の規模も大きくなっていきました。
薬の知識が増え、近くの集落との交易なども始まっています。
集落の人口が増えるに従って、人々は安定した生活のために強い指導者を求めるようになります。
耕作の効率が上がったとはいえ、干ばつや河の氾濫など天災には逆らえません。
食料が十分に確保できなかった年はどうするべきか。
時折、近くの集落を襲って食べ物を奪う、という行為が見られるようになっていきます。
兵法など集落を守るための技術も発達し、力の強い豪族たちが誕生していきました。

三皇五帝は神話や伝説の時代のものであり、残された書物や記録によって内容が異なり諸説存在していますが、三皇は神、五帝は聖人(理想の君主)であると考えられています。
五帝のひとりである舜(しゅん)は非常に徳の高い帝でしたが、息子があまり優秀ではなかったため、舜は禹(う)という優秀な人物に禅譲(ぜんじょう)します。
禅譲とは血縁に関係なく有能な人物に地位を譲ること。
禹も五帝の系列ではあったようですが、舜の直系ではありません。
三皇五帝の時代は(神話・伝説の域ではありますが)帝は世襲ではなく、国を治めるための能力のある人物に譲渡されていたと考えられています。

夏王朝と世襲統治

禹は即位の後、夏(か)という王朝を開きました。
紀元前1900年頃から紀元前1600年頃と考えられており、考古学的な発掘・発見がないため実在性に疑問の声もありますが、史書に記された最古の王朝と言われています。
禹は常に人民の声に耳を傾け、黄河の治水工事に心血を注ぎました。
城の増築よりも民衆の暮らしを注視し続け、後々、聖王とも呼ばれ良い君主の手本としてたびたび名前があがるような帝。
夏は大きく栄えたと考えられています。
豪族や有力者たちは何かしら手柄を立てた際、王朝から土地を分け与えられて(封国)領主となり(諸侯)、与えらた国を統治していました。
夏王朝の領域は黄河の中流一帯。
そのまわりに諸侯が治める土地が散らばっています。
夏の西と南、東側には異民族の領域が広がっていました。

禹は長く帝の位にいましたが、亡くなった後、禹の子供である啓(けい)が帝となりました。
禹は他の者を後継にしようと考えていたという説もありますが、実際に即位したのは息子。
ここに、初の世襲王朝が誕生したのです。
夏王朝は十七代に渡ってずっと世襲による即位が続けられてきました。

夏の最後の帝は名前を桀(けつ)といい、大酒飲みで女性に心を奪われ、暴君の代名詞としてその名を世に残しています。
彼と彼の取り巻きの悪政が続いたため、民衆の心はすっかり離れていってしまいました。
そしてとうとう、夏王朝の最期の時が訪れます。
紀元前1600年頃のこと。
代々夏王朝に仕えていた家臣の子孫で商という国の諸侯である湯(とう)が挙兵し、桀を追い払って400年以上続いた夏王朝を滅ぼしたのです。
桀に押さえつけられていたほかの諸侯も湯に従いました。

殷王朝と暴政の果て

殷王朝と暴政の果て

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商は夏の領域の少し東側に位置していた国。
湯の先祖は、禹の治水事業を支えた功績から商を封じられた(土地を分け与えられた)と言われています。
湯は商の諸侯でしたが、桀を追い出して夏を滅ぼし、商王朝を開きました。
商は何度も都を移動させていましたが、だいぶ経ってから殷という場所に遷都したようです。
そのため、商は殷とも呼ばれています。
初代帝となった湯は夏の禹と同じく聖王として後世に名を残しました。
近年の研究により、必ずしも直系による世襲統治ではなかったという説が有力で、どうやら、いくつかの氏族が集まって殷王室を形成していたようです。
暴政を敷いた帝が追放されたり国の力が衰えたり、そうすると次に即位した帝ががんばって国力を盛り返したり。
そのような記録が残されていて、殷王朝は脈々と三十代、700年ほど続いたと考えられています。

殷の時代も、国を与えられた諸侯は数多く存在していました。
南に楚、越。
北側に唐や蘇。
西側に周、さらに西方に蜀、巴。
そのほかにも数多くの群雄が統治に精を出し力をつけていました。
また、北方や西方、南方の異民族の存在も大きなものになっていきます。

殷王朝最後の皇帝は紂王(ちゅうおう)といい、夏の桀と並んで暴君の代名詞といわれるほどの悪政を続けました。
大変頭のよい人物だったとの記述もありますが、そのためか増長し、家臣たちの言うことを聞かず好き勝手な振る舞いを続けていたようです。
税も重くなり、民衆は苦しめられていました。
民衆も諸侯も紂王を恐れ、悲観して、当時、勢力を拡大しつつあった周という封国を頼るようになります。
国力が衰えきっているというのに紂王の悪政は変わりません。
ついに周の発(はつ)という人物が挙兵します。
兵力では殷の強大な軍隊が圧倒的多数で勝っていましたが、紂王に忠誠を誓うものは少なく、周が攻めてくると反旗を翻して殷に攻めかかる者もいました。
紂王は死に、殷はあっけなく落ちたといいます。







周王朝の没落と東周の誕生

周もまた、夏の禹の頃に業績を上げた諸侯を祖とする封国のひとつ。
周も700年以上続いた大国でありましたが、統一国家として威厳を持っていたのは前半の200年余。
中盤から後のおよそ500年間は権力を失い、飾りだけの王朝となってしまいます。
都も移しているため、前半と中盤以降で、前半を西周、中盤以降を東周と区別して呼ぶことが多いです。
この、東周の時代が別名「春秋戦国時代」。
さらにこの500年のうちの前半を「春秋時代」、後半を「戦国時代」と分けるのが一般的です。

では、なぜ周は途中で権力を失ったのでしょうか。
ここまでくれば容易に察しがつきそうなものですが、そうです。
この王朝にも暴君が現れます。
紀元前781年に即位した十二代幽王。
政治を顧みず、贅の限りを尽くし、お妾さんに入れ込んで奥さんと子供、つまり太子を宮殿から追い出したり、もうやりたい放題。
能力ある側近たちは絶望して次々と国を離れていき、機会を伺っていた北や西から異民族たちが侵攻するようになります。
夏、殷の末期がそうであったように、周の国力もどんどん衰えていきます。
しかし幽王の悪政は止まりませんでした。

宮殿から追い出された幽王の正室は、申という小さな封国の出身。
父親の申侯は西方の異民族である犬戎(けんじゅう)に応援を求めてついに挙兵。
周へ攻め込んでいきます。
当時の都は宗周(現在の西安のあたり)。
異民族の領地との距離も近く、

幽王と側室の息子は犬戎に殺され、それを聞きつけた晋、秦、衛、鄭(てい)といった有力諸侯が異民族を制圧。
功績を上げます。
特に鄭は周とはもともと血縁・同族であり、西周末期から東周復興のために大いに働いたことで力を持つようになっていきました。

紀元前771年、周に反発する諸侯たちに推挙され、平王が周の王となります。
幽王の元を追われてきたあの太子です。
平王は、宗周は犬戎と距離が近いことから、都を東方の洛邑(現在の洛陽のあたり)に移します。
これ以降が東周。
力のある諸侯が台頭し、戦乱の世が始まるのです。

春秋時代の幕開け

東周と諸侯の台頭

東周と諸侯の台頭

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夏から殷、周にかけて、中国大陸にはたくさんの国が存在していました。
国といっても君主がいるわけではなく、王朝はあくまでもひとつ。
前述の通り、王朝から土地を託され統治を行う諸侯という立場の者たちが収める都市のことです。
そのため、東周の時代に入っても諸侯は、一応は周王朝への礼節を示していました。
周の国力は弱まっていましたが、それでも、周辺の土地を諸侯に与えたり、諸侯が周の王にお伺いを立てたりといったやり取りはあったようです。
弱まった国など興味がなかったのか、取って代わるより利用したほうが価値があると考えたのか、諸侯の目は周王朝より他の強豪国に向けられていました。

春秋時代初期の頃、紀元前6世紀~7世紀頃の中国大陸で特に力を持っていた諸侯は、平王の即位や遷都に一役買った晋、秦、衛、鄭の他に、魯、曹、蔡、燕、呉、斉、陳、楚、宋。
このほかにも、小さな国が少なくとも100以上は存在していたと考えられています。
この後、晋が3つに分裂する紀元前403年までの間が春秋時代です。
数多くあった国は戦乱の後、強い国に吸収されるか滅びるかで淘汰されていきます。
春秋時代とは、夏、殷、周の悪政や暴政、内紛や異民族の侵略などを背景に力をつけた諸侯たちの、生き残りをかけた戦いの時代なのです。
もはや周(東周)には諸侯の争いを鎮める力はありません。

ところで、春秋時代の”春秋”とは、どのような意味を持つのでしょうか。
これは儒教の経書の中でも特に重要とされる「四書五経」のうちのひとつ、『春秋』に記された時代である、という意味と考えられています。
『春秋』とは歴史年鑑のようなもの。
紀元前722年から前481年までのおよそ240年間の間の魯を中心に各国の出来事を簡単な文章で記した書物の総称です。
作者は定かではありませんが、孔子が関わっているとも言われています。
”春秋”という表題の意味や由来には諸説あり、これもはっきりしていませんが、春と秋という季節を並べることで、”歳月”を表しているのではないか、とも考えられています。

春も秋も、一年中、戦いに明け暮れる。
中国大陸はそんな時代へと移っていくのです。

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