清朝西太后の離宮として知られる名園「頤和園」の歴史ってどんなんだろう?

乾隆帝と西太合が造った、中国に現存する最大規模の庭園です。この壮大で美しい庭園がどうやって造られていったのかって気になりませんか?今回は、中国王朝の権力の象徴ともいえる巨大な皇族の庭園「頤和園」の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

頤和園とは?

頤和園とは?

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北京の中心部にある故宮から約15キロメートル離れたところに位置する、世界で最も知られる古典庭園の一つで、1998年にユネスコの世界遺産に登録されています。
290万平方メートルある庭園は北京最大で、その約4分の3を湖が占めるという水の庭園としも有名です。
周囲は約8キロメートルあり、背後の玉泉山と西山を借景に、壮大かつ優美な景色が広がっています。

乾隆帝が杭州の西湖を模して造った昆明湖と湖を作った時に出た土で築かれた万寿山、湖畔に佇む約3000の美しい楼閣や建物などから構成されています。
これは、江南地方の風景を庭園内に再現すると共に、中国伝統の神仙蓬菜思想を庭園の各所に再現しています。
仏香閣、長廊、仁寿堂、十七孔橋、諧趣園、蘇州街、清晏舫が主な見所で、観光に訪れる人々の心を和ませてくれています。

頤和園の始まり

頤和園の始まり

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頤和園の起源は、1153年の金王朝第4代皇帝の海陵王がこの地に身を寄せるための場所(行宮あんぐう)を作ったことが始まりです。
行宮はこの時「大離宮清漪園」と命名しました。
これが頤和園の前身です。
元々この付近は三山五園といわれ、万寿山、香山、玉泉山の3つの山と、静宜園、静明園、暢春園、圓明園と最後に造られた清漪園の5つの庭園からなっています。
その後、清漪園が皇族たちの避暑地として定着したのは、明朝第11代皇帝正徳帝の時でした。
この正徳帝は、父の弘治帝がやっと立て直した国政をまた衰退させてしまい、明朝を滅亡に追い込んだ要因を作った人物であるといわれています。

ここまでの間にこの庭園は、水利事業家で「授時暦」の作成で知られる郭守敬によって上流の水源開発が行われ、昌平白浮村神山泉水から疏水することで、宮廷で使用する水源を確保する貯水池となりました。
弘治帝の乳母、助聖夫人らが1497年に円静寺を建立。
これ以降楼閣や建物などが次第に建てられていきます。
先ほどお話しした正徳帝が湖畔に行宮を建て、南の西湖と共に「好山園」と命名したようです。
この正徳帝や万暦帝が舟遊びのために行幸しています。
この万暦帝は10歳で即位し、初めのころは聡明利発で将来の大器といわれたようですが、豊臣秀吉が起こした朝鮮の役などの乱が続き国政を圧迫。
当の皇帝は全く政治に関心を持たず、「明朝は万暦に滅ぶ」と酷評された人物です。
昆明湖では、昔の皇族たちになったような気分に浸りながらの舟遊びも楽しめます。
ぜひ、体験してみてはいかがでしょう。

清漪園から頤和園へ

清漪園から頤和園へ

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1568年ごろになると、天啓帝という皇帝を操り人形のように使い、実権を奮った悪徳官僚「魏忠賢」が権力を奮います。
彼は、山園を所有したようですが、彼の悪政に不信感を持った次の皇帝崇禎帝が滅ぼしました。
この地は、清時代になって宮廷の養馬場として牧草地にされてしまったようです。
12世紀ごろから清漪園内には、各皇帝の権威を象徴するかのように、美しい建物が建てられ、日を追うごとに豪華になっていきました。

1750年に清朝第6代皇帝の乾隆帝が母、崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦の祝いとして清漪園を造営。
彼は、寺を改築し、付属の建物や庭園を整備するなど素晴らしい庭園を造りだしました。
造営にかかった費用は洋銀480万両以上だったとか。
1764年に完成しています。
でも、政務施設や居住の建物まで豪華にすることはできず、行幸は日帰りのみだったとか。

荒廃と再建を繰り返す頤和園

荒廃と再建を繰り返す頤和園

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道光年間以降、清朝も国力は衰退しはじめており、清漪園もだんだんと荒廃していきます。
頤和園最大の悲しい歴史といってもよい事件がここで起こります。
1856~1860年には、イギリスとフランスの連合軍対清の間で起こったアロー戦争によって、1860年に清漪園は破壊されてしまったのです。
しかし、光緒帝は、歴代の皇帝たちが権力の象徴として造り続けたこの清漪園を見捨てることはしませんでした。
彼は、この清漪園を3000万両もの費用をかけて再建しました。

1884~1895年にかけて西太后の隠居後の居住スペースとすべく、この清漪園を再建する命令を下したのです。
その途中1888年に、庭園の名前を「清漪園」から現在の「頤和園」に改名しました。
頤和園という名は、「頤養沖和」から来ており、隠居場として最適な意味を持つ「身体と心を安らげる」という意味だそうです。
やっと完成にこぎつけたのは1895年のこと。
この時、西太后は、万寿山の中腹に建つ八角形の三層造りの塔「仏香閣(ぶっこうかく)」の中に、高さ5メートルの千手観音菩薩像を安置しています。
仏香閣は、乾隆帝が母のために造ったもので、前面回廊から見る昆明湖は素晴らしく見応えがあります。
母思いの皇帝だったんだということが伺えます。







頤和園の再建が清朝を傾かせた

頤和園の再建が清朝を傾かせた

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西太后のために改装されたのは、経費の問題等があり前山建築群に限定しています。
西太后は、昆明湖に浮かぶ、全長36メートルの大理石の清晏舫を建設しました。
内部は木造でステンドグラスの美しい西洋式建築で、頤和園の中で唯一の様式の建造物です。
これらを再建するために、彼女は、1888年に海軍の造艦資金を流用するなど膨大な費用をかけて再建しました。
これが、国の経済の悪化を招き日清戦争に負けた要因の一つといわれています。
名前を頤和園としてからは、西太后の避暑地として使われました。
しかし彼女は1年の3分の2を頤和園で過ごしており、紫禁城から毎日のように、銀1万両が運ばれていました。

頤和園と名前が変わってもこの庭園の安堵はなかなか訪れません。
政権が交代する度に北京のあらゆるところで戦争が起こり、頤和園への破壊行為は続きました。
その上1900年には義和団の乱において破壊されました。
これは1902年に修復されています。
1911年には清朝が崩壊し、中華民国が設立すると清室の私有財産とされました。
その後、中国政府の所有となり改修改善が行われ、1914年には有料で一般公開されています。

頤和園の正殿と長廊

頤和園の正殿と長廊

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昆明湖には、頤和園の正殿で豪華絢爛な排雲殿が立っています。
そこから左右に伸びているのが長さ728メートルの長廊で、1992年に世界最長としてギネスブックに掲載されました。
長廊には273間あり、内部の梁や欄干に老子、三国志、西遊記など、中国4000年の悠久の歴史を今に伝える物語が極彩色の絵で描かれています。
描いた彩画は「蘇式彩画」と呼ばれ、格式は「和璽彩画」より下ですが、皇太后が好んだことにより「蘇式彩画」で描かれたようです。
中国古典建築においても、この長廊は芸術的に高い評価を得ています。
十七孔橋には約540体の獅子像が彫られているので、そちらも歩いて見学してみてはいかがでしょう。

中華人民共和国が成立する1949年には、中国共産党中央党校が設置され、柳亜子や江青などが聴鸝館等に居住していたようです。
1953年以降は、頤和園は公園となり一般公開されています。

中国の皇帝たちが、自らの権力の象徴として雅なものと造り上げていった頤和園に訪れてみませんか?

広大な敷地を持つ頤和園は、宮殿区、湖岸区、万寿山区、後山・後湖区、昆明湖区の五つのエリアに分かれています。
1日では見て回れないほどの広さなので、事前に見たいところを絞って観光することをおすすめします。
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