【香港の歴史】4億年前から21世紀まで~できる限り調べてみました!

香港の歴史というと、1842年のイギリスによる香港島領有からの出来事を思い描く人が多いと思います。逆に、それ以前、香港がどういった土地だったのか、すぐ思い浮かべることができる人は少ないかもしれません。イギリス統治以前の香港とは、どんな様子だったのでしょう。残されている資料は少ないのですが、ずっと遡って古い時代から少しずつ、香港の歴史を辿ってみたいと思います。

香港の歴史(1)先史時代から南越の誕生まで

香港とはどんなところ?

香港とはどんなところ?

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まず、現在の香港の基本的な情報をまとめておきたいと思います。

香港は中国大陸の南東海岸にあり、南シナ海に面した亜熱帯気候。
北京からは2,000㎞近く離れています。
地形としては、1,000mを超える山はありませんが意外に高台が多く、平地は海岸沿いに集中。
入り組んだ地形に加え、水深が深く波が穏やかなところから古来より”天然の良港”とも言われてきました。
「100万ドルの夜景」という言葉が物語る通り、香港というと建物が集中した大都市をイメージする人が多いですが、実は自然も豊かな場所なのです。

香港の正式名称は「中華人民共和国香港特別行政区」。
位置的には広東省の海沿いの中央付近に位置しますが、省には属していません。
1842年から1997年までの150年あまりの間、イギリスの植民地としての歴史を歩んできたことから、中国の制度に統一するには時間が必要であると考えられていて、中国返還後もこのような特別な名前を持っているのです。

半島と島々を含めた総面積は1,104平方キロメートル(沖縄本島より少し小さくくらい)で、ここに、およそ700万人の人々が生活しており、世界でも指折りの”人口密度の高い地域”として知られています。
その9割以上が華人(移住先の国籍を取得している中国系住民)。
公用語は広東語と英語です。

香港=香港島と思ってしまいがちなんですが、現在”香港”と呼ばれる地域は大きく3つに分けられています。
「香港島」と、香港島の対岸に当たる「九龍半島」、そして九龍半島の北側の地域と233個の島々を含めた「新界」。
新界は香港の総面積の約9割を締めていますが人口は半分以下。
ほとんどが山林や農村でしたが、香港中心街のベッドタウンとして近年開発が進み、目覚しい発展を遂げています。

香港の歴史というと、イギリス植民地時代をイメージすることが多いですが、もちろんそれ以前にもこのあたりには人が住んでいました。
可能な限り古い時代にさかのぼってみましょう。

先史時代の香港

近年、香港では火山活動や地殻変動に関する研究も精力的に行われていて、香港歴史博物館には「四億年前」というコーナーがあり、かなりスペースをとって化石の標本などが飾られています。
1980年代にデボン紀(およそ4億年前)の魚の化石が見つかり、その後も様々な年代の地質や化石が発見されるなど、地質学の分野でも非常に注目を集めているようです。
しかし、それはいくら何でもさかのぼり過ぎかと思いますので、地殻変動が落ち着いて、人類が登場するようになるまでもう少し、時計の針を進めてまいります。

先史時代とは、いわゆる「石器時代」とか「青銅器時代」といった、文字などによる記録や情報がなく、道具や建物跡によって時代の検証が行われる時代。
あまり知られていませんが、香港周辺にも先史時代から人の暮らしがあり、遺跡もいくつか発見されているのです。

2006年、香港西貢市(新界の西南)の黄地ドウ(山片に同という字)という場所で、4万年前のものと思われる石器が発見されました。
旧石器時代のものです。

この発見より前から、1万年前くらいまでは香港島は半島と陸続きであり、海岸沿いには多くの人間が暮らしていたことはわかっていました。
しかしこの発見で、さらに古い時代からこの地で人が生活していた可能性が高くなり、今後の発掘調査にも注目が集まっています。

現在の香港島のような地形になったのは6000年ほど前のこと。
この頃には既に、海岸沿いに多くの人々が暮らしていたと考えられており、この時代の骨をはじめ、紀元前3000年頃のものと思われる石器は香港島でも発見されています。

中国大陸の先史時代の文明・遺跡というと、長江や黄河といった大河沿いのものが有名で、歴史上、多くの王朝が大陸の北側に都を構えていました。
これはおそらく、北方の異民族を警戒・権勢するため、どうしても南より北側へ意識が向いていたためではないかと思われます。

そのためか、香港及び周辺の遺跡や遺構の発掘・研究はこれから、といったところかもしれません。
しかし、穏やかで豊かな海に恵まれたこの地域に、古くから多くの生物と人々の営みがあったことは間違いないようです。

中国王朝の時代と南越国の設立

中国王朝の時代と南越国の設立

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時代はさらに進み、紀元前2000年~前1000年あたりになると、中国大陸には夏、殷といった王朝が誕生します。
しかし、どちらの統治も、中国全土から見ればごく一部分に過ぎず、場所もかなり北のほう。
黄河流域が中心であったようで、香港のあたりまで勢力を伸ばしてはいなかったようです。

その後、多くの国が乱立する春秋・戦国時代が訪れます。
中国大陸にたくさんの国ができて互いに争い合いますが、それらの国々の領地は黄河や長江といった大河の流域の土地が中心でした。

紀元前221年、戦乱の雄となったのは秦という、大陸の西側を拠点としていた国。
万里の長城を築いたとして知られる始皇帝が打ち立てた大国です。

秦は周辺の国々を統一した後、東西南北かなり広範囲に渡って領土を広げていきます。
南側も、香港やマカオのあるあたりに南海郡と呼ばれる郡治が置かれ、秦の支配下に入りました。

この頃、香港周辺には越(えつ)族と呼ばれる民族が生活していたのですが、秦の始皇帝によって武力で制圧され、併合されていきます。
越族は百越とも呼ばれ、古代中国大陸の南部(長江南側からベトナム北部のあたりまで)の広大な土地に住んでいたとされる民族の総称。
始皇帝のこの制圧が中国王朝初の南方支配と言われています。

始皇帝の死後、秦の末期に入ると王朝の暴政に反発する人々による反乱が勃発。
中国全土が大混乱となります。
そんな中、南海郡は他の南部の郡治と統合。
混乱に乗じて「南越国」という王国を打ち立てます。
現在の香港やマカオのあたりから、海沿いにベトナム北部まで細く長く延びた国で、南越は漢の武帝に武力で征服されるまで、およそ100年ほど続きました。
南越国滅亡後は、ベトナム北部までの土地も含め、香港周辺地域は全て、漢王朝の支配下に入ることとなったのです。

香港周辺の地域はその後も、大陸の中原を支配する王朝の支配を受け続けました。







「香港」という名前の由来は?

ところで、秦や漢の時代にはまだ「香港」という地名は使われていなかったようです。
「香港」の文字が歴史の史料に登場するのは、もっと後のこと。
最も古い記述として知られているのが清王朝の康熙帝の時代。
1688年に編纂された『新安県志』に”香港村”という地名が登場します。
これより前からこのあたりの地域を”香港”と呼んでいたのかもしれませんが、残念ながらはっきりとした記述はまだ見つかっていないようです。

ところで、「香港」の名前の由来については、いくつかの説があります。
現在、最も有力なのが「香木説」。
香木とは沈香や白檀など香りを持つ木材のこと。
運び出された香木の積み下ろしが行われた港があったことから、いつしか島全体を”香港”と呼ぶようになった……という説です。

他にも”香”という字になぞらえた説がいくつかあるようですが、現在では、この「香木説」が最も有力と言われています。
しかし、どの説が正しいのか、今でも結論は出ていないのです。
もしかしたら、永遠に明らかになることなど、ないのかもしれません。

ただ、香港という名前は、統一王朝によってつけられた郡などの名称ではなく、地元民による呼称がそのまま残ったもの、ということで間違いないようです。

このように、香港島付近の港は、基本的には漁村であり漁港でしたが、香木の集積も行っていました。
荷を上げるのに適した場所だったからでしょうか。
おそらく、多くの船が行き来していたのでしょう。

世界中の誰もが知る有名都市・香港が、その名前の由来も始まりも定かではない、とは、少し意外でした。
常に前を向き先を見据え、古い時代の歴史は振り返らない。
今現在、人々に知れ渡った呼び名があるなら、大昔にどう呼んでいたかなど興味はない。
それが香港の人々の気質なのかもしれません。

香港の歴史(2)唐・宋王朝から明・清へ

唐王朝から宋・元へ

唐王朝から宋・元へ

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7世紀初めに打ち立てられた唐王朝の時代になると、漢王朝時代に設けられた貿易関連の役所がある広州という都市が貿易都市として栄えていきます。
広州は香港島の脇に流れ出てくる珠江(しゅこう)という川が作るデルタ地形の北端に位置する都市で、東南アジアやインド、ペルシャ、中東などの国々の外国商船が行き来していました。
珠江の河口に位置する香港には軍隊の駐屯地が設置され、現在の新界屯門山一帯が軍の管轄下に置かれたのだそうです。

12世紀に入ると、中原は金という征服王朝に支配され、それまで栄華を極めていた宋王朝は都を追われてしまいます。
宋の残党は南へ逃れ、現在の杭州市にあたる臨安というところに都を置いて南宋王朝を開き、主に淮河(わいが・黄河と長江の間を流れる大河)より南の地を治めていました。
金に武力では押され、巨額の金品を納めながらではありましたが、以後100年ほどの間、中国大陸は金と南宋が南北二分するような恰好となります。
この間、南宋独自の文化が華開き、平清盛によって積極性を増した日本との貿易も盛んになっていきました。

13世紀に入ると、中原はモンゴル帝国によって制圧され、元王朝の時代に突入します。
元は北や西方面だけでなく南へも侵攻。
南宋を脅かします。
臨安を追われた帝はさらに南へ。
現在のランタオ島や九龍半島のあたりまで逃げてきたのだそうです。

宋王朝8代皇帝の端宗(たんそう)と弟の衛王(えいおう)はまだ10歳にも満たない幼帝でした。
元軍に追われ、重臣たちに連れられて九龍半島の山中に落ち延びたといいます。
その後、端宗は病でこの世を去り、衛王は重臣たちと共に自ら命を絶ちました。

帝兄弟が逃げ込んだ場所は啓徳空港にほど近い小高い山の上で、湾を見渡すことができる場所。
後の世の人々は歴史に翻弄された幼い帝のことを思い、いつしかその場所を「宋王台(そうおうだい)」と呼ぶようになりました。
今では幼帝をしのぶ場所として、大きな石碑が建てられています。

次のページでは『明王朝時代の香港』を掲載!
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Writer:

歴史と歴史小説と遺跡を愛してやまない東京都在住の主婦。子供のころからの大の時代劇ファン。国内外問わず歴史小説を読むようになり、NHK人形劇「三国志」を見て中国史にはまって大学では東洋史学を専攻。愛猫とじゃれながら歴史小説を読み漁る毎日を送っている。趣味は古地図を眺めることとカメラ片手の街散策。

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