実は血みどろ?あまりにもふしぎなフィリピンの歴史

フィリピン共和国。アジアの数ある国々の中でも、実は非常にふしぎな国です。アジアで唯一のキリスト教国。暗闇につつまれている古代フィリピン史。航海士マゼランと戦って勝利した王様の存在……数々の国の利害に振り回されながらも独立を勝ち取り、今ではFTA協定により日本とも強いパートナーシップで結ばれています。フィリピンって、青い海と陽気でおおらかな国民性……というイメージだけと思うなかれ。ふしぎなフィリピンの今昔。あなたものぞいてみませんか?

古代フィリピン史は、長い沈黙の時代

古代フィリピン史は、長い沈黙の時代

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史料によってフィリピンの歴史が詳細にわかってくるのは、世界一周を成しとげたポルトガルの航海士・マゼランら探検家の記録がはじめです。たしかに中国や日本の記録に、マカオやルソンの商人や漂流民の記録は出てきますが、肝心の「フィリピンという国」の正体はうかがい知ることができません。なぜ?そしてどうして、はるばる1万キロ以上も離れた西洋がフィリピンを目指したのでしょう?

「古代フィリピン史」は、現代に残っていない?

いまだに歴史家たちの間でも謎につつまれた、神秘の分野……それが古代フィリピン史です。とにかく考古学的史料が非常に少なく、専門家たちを悩ませ続けています。文字が記されている史料はもちろん、物的証拠とでも言うべき史料も発見が困難。現代の歴史学では、古代フィリピンの全体像すらあやふやです。

なぜ史料が残っていないのでしょう?フィリピンは非常に温暖な気候のため、木などに文字を記したとしても「史料は時とともに劣化してなくなってしまった」という説が主流。そのため、古代フィリピン人の生活は私たちが想像するしかありません。しかしそれは、文明のきゅうくつさを知らない生活だったに違いありません。部族の中で家庭をはぐくみ、狩りや漁をして日々の暮らしをつなぎ。まれに紛争が起こっても原始的な暮らしをする国の常で、大規模なものには発展しなかったのではないでしょうか。

おそらくはのどかな島の生活を送っていたであろう、フィリピンの沈黙していた歴史が急転回を迎えたのは、西暦1521年3月16日のことです。白い肌をした男がフィリピン諸島にたどりつきます。男の名前はフェルディナンド・マゼラン。

「世界の富を山分け条約」!?

人類初の世界一周を果たしたポルトガル人航海士・マゼラン。彼はスペイン王の命を受け、財源である香辛料を求めてついにフィリピン諸島に到達しました。そしてここで命を落とすことになります。

そもそもなぜ、スペインははるばる1万キロも離れたフィリピンにまでやってきたのでしょう?当時は大航海時代。コロンブスがアメリカ大陸に到達したことをきっかけに、ヨーロッパは「新世界」にむけて夢と野望をもって乗り出していきました。

主導権を握ったのは、スペインとポルトガル。しかし問題が発生します。どの国がどのように世界のどのあたりの土地を領土とすればいいのでしょう?秩序を決めなければなりません。この問題を受けて定められたものの一つが〈サラゴサ条約〉。東西に線を引いて、スペインとポルトガルの勢力バランスを定めました。

つまり世界を真っ二つに分けて、スペインとポルトガルが山分けするというもの。ちなみに日本もこの〈サラゴサ条約〉巻きこまれかけ、鎖国政策によって植民地化の難をのがれています。フィリピンは、マゼランのスポンサーであるスペインが〈サラゴサ条約〉でスペイン領にすることができる、まさしく絶妙な場所に位置していました。

植民地化と戦ったフィリピンの英雄・ラプ=ラプ王

植民地化と戦ったフィリピンの英雄・ラプ=ラプ王

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フィリピン史には燦然(さんぜん)と輝くヒーローがいます。その人の名は〈ラプ=ラプ王〉。

マゼラン到来の瞬間から、フィリピン苦難の時代がはじまります。弱肉強食のヨーロッパの原理によって、征服者たちは戦争や虐殺すらいといませんでした。新世界の土地の人々はそれぞれ自分の国で、奴隷として使われていました。一方でキリスト教を布教して人々の心を懐柔し、土地を開発して「文明」を植えつける……それが征服者たちのもくろみでした。

そんな征服者たちに敢然と立ちあがったのが、部族長ラプ=ラプ王。東南アジアではじめて西洋人に立ちむかった勇者です。

東南アジアではじめて征服者に立ちむかった、ラプ=ラプ王

キリスト教到来以前、フィリピンで信仰を集めていたのはイスラム教でした。これに対し、征服者はキリスト教を布教していきます。こうすることで原住民を自分たちにしたがわせるのです。マゼランは、最初にたどり着いたセブ島でキリスト教の布教活動を開始します。フィリピンの原住民たちは、次々とキリスト教の洗礼を受けました。

しかしマクタン島の部族長ラプ=ラプ王は、これを拒否。イスラム教を奉じる部族の長であった彼は、フィリピンではじめて西洋人に抵抗します。マゼランはこれに激怒、銃に大砲など最新の武装で武力による襲撃を試みます。それに対し、ラプ=ラプ王はマゼランにこう伝えました。「戦いを受けてたつ」

決戦!ラプ=ラプ王VSマゼラン〈マクタン島の戦い〉

ときは1521年4月27日。ラプ=ラプ王は戦いの場所を、マクタン島の遠浅の海岸に設定。はたしてマゼランは船で決戦場へとやってきます。マゼランは西洋中世の騎士よろしく、全身を金属製の鎧でおおっての登場でした。しかしこの日の午前中は引き潮、ラプ=ラプ王のいる岸辺まで船をつけることができません。海水が足を洗う浅瀬で船をおりるマゼラン。これをラプ=ラプ王は待っていました。不確かな足元、重い金属製の鎧による動きの鈍り。鉄でまもられていない足を、銛(もり)で攻撃されて倒れるマゼラン軍。この時点で勝負はつきました。

マゼランの最期については諸説あります。ラプ=ラプ王との決闘によるものとも、純粋に戦闘による戦死とも。いずれにせよマゼラン軍は敗北、マゼラン本人はラプ=ラプ王とのこの決戦で命を落とします。世界一周の任務は彼の部下が引き継ぎました。

ラプ=ラプ王は堂々とした戦いで征服者に立ちむかい、かつ勝利した原住民として今なおフィリピンの人々に愛され、東南アジア史に大きな光を放っています。しかしこの後、ラプ=ラプ王に関しての目立った記録は出てきません。いずれにせよラプ=ラプ王の亡きあと、フィリピンは大半がキリスト教の洗礼を受けました。フィリピンはついに「スペイン領フィリピン」となるのです。

スペイン植民地化で花開く、魅惑のフィリピン文化

スペイン植民地化で花開く、魅惑のフィリピン文化

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かくして16世紀、フィリピンに西洋文明がもたらされました。スペイン人が次々と入植、教会や修道院など宗教施設も数多く建てられます。

フィリピン発展と統治におもに大きく関わったのは、キリスト教の修道会でした。そのためフィリピンには今も多くのキリスト教の教会や修道院の建物が残ります。

南洋の気候と、西洋風の建築様式が混じりあったフィリピンの教会は、ちょっとエキゾチック。スペインはじめさまざまな西洋のエッセンスが入りこんで発展した独特のフィリピン文化。ちょっとだけ、のぞいてみましょう。

壮麗な〈フィリピンのバロック様式教会群〉

16世紀、ヨーロッパでは〈バロック様式〉が一大ムーブメント。装飾過多な建築様式は「グロテスクでカッコ悪い」と当初言われていましたが、やがて絶対王政を敷く国々で受けいれられ、建物のみならず家具などにまで影響を与えます。その流行はフィリピンにまで伝播。「せっかく新しく建てるなら、イマドキの流行を取り入れてみよう」ということだったのでしょうね。

フィリピンはその後の歴史において何度か、本土決戦や激しい市街戦を経験しています。その中でたくましく残った4つの教会は〈フィリピンのバロック様式教会群〉として世界遺産に登録されています。そのうちの一つ、フィリピン最古の教会〈サン・アグスチン教会〉は石造の重厚な造り。一説には、要塞の役割も果たしていたといいます。内部は柱にも壁にも圧巻の彫刻がほどこされ、豪華なシャンデリア、美しいステンドグラスに十字架像と、見事の一言です。

なんとこの教会、今も毎週ミサが行われ、結婚式やお葬式も執り行われています。つまり、今も現役。キリスト教は征服者の道具として使われた節はありますが、現在ではその教えと信仰は人々の生活における強い支えとなっています。悪いことばかりではありませんね。

西洋×南国!おおらかで独特のキリスト教信仰

スペインはじめ、西洋人がフィリピンに到来して以降、バリバリとキリスト教が入ってきます。キリスト教文化、信仰、絵画……実際にフィリピンの方にお会いすると、その強い信仰心におどろきます。というよりも「神様が全部なんとかしてくれる」という、良い意味での丸投げ精神。それは西洋のキリスト教とは対照的。戒律や教義を守り、よく聖書をたしなむ……というのとはちょっと違います。

「だって神様は、愛とゆるしの方だからね」「懺悔すれば、神様はちゃんとゆるしてくれる懐の広い方だからね」ある意味で、能天気。カトリックという宗派のせいもあるかもしれませんが、フィリピンの信仰の本質は、南国のおおらかさ。西洋の「罰の宗教」という概念ではなく「ゆるしの宗教」の側面が非常に強いです。

教会で毎週日曜日、楽しくミサ(礼拝)にあずかり、友達や親戚とおしゃべりして家に帰り、ちょっとおいしいものを食べる……というのが、フィリピンの人々の週末のすごしかた。実際に私の見たフィリピンの人々のミサ、とりわけ復活祭でのタガログ語の賛美歌は、楽しくリズミカルで、人生をエンジョイしている感じ。とても愉快でした。しかし土地の人の形になじんでしまうキリスト教も、ずいぶんおおらかな宗教ですね。

あの日本人も、この日本人もフィリピンに

16世紀、日本は戦国時代。〈種子島鉄砲〉の到来、そしてフランシスコ・ザビエル来日以降、多くキリシタン大名が生まれ、キリスト教が日本で大ブーム。日本も、中国や朝鮮半島以外の世界に目を移します。南蛮貿易の活発化によって、多くの日本人が海を越えていきます。その交易地、および中継地点としてフィリピンにも多くの日本人が足跡を残しました。

ここでは、ほんのわずかですが、フィリピンを訪れた歴史上の人物を紹介します。日本史の授業でおなじみの、あんな人、こんな人。フィリピンに行ったら、その足跡をたどるのもいいかもしれません。

キリシタン大名・高山右近の最期の地・マニラ

キリシタン容認姿勢から一転、キリスト教の布教とキリシタンを取締りする方針を固めます。理由は秀吉の愛人問題を叱責した西洋人に秀吉が激怒したからとも、西洋人による日本植民地化や奴隷貿易の危険性を秀吉が察知しての政策だったとも、諸説あります。次の天下人・徳川家康も引き継ぎました。1614年〈キリシタン追放令〉が発布されます。数多くのキリシタンや修道士、神父が、苛烈な拷問のすえに殉教しました。取りしまりは大名たちとて例外ではありません。殉教か、棄教か……ここで思わぬ動きをしたのが、キリシタン大名として全国に名高かった高山右近。かの細川ガラシャにキリスト教を教えた人物としても有名です。

高山右近はあっさりとすべての領地を返還。「信仰をとがめられない、海外にて生きる」と言い放って、あっけにとられた周囲をしりめに、日本からフィリピンに船で渡りました。そのまま生涯、日本の土をふたたび踏むことはありませんでした。彼はフィリピンのマニラで、その生涯を終えます。非常に敬虔な信徒だった彼は地元の修道院に大歓迎されますが、過酷な船旅と老齢のため、到着からわずか40日後に病死します。今でも、マニラの日比友好記念公園には彼の銅像がそびえています。

フィリピンを見た、二つの遣欧使節団

日本の大名たちも、交易の開拓とキリシタン信仰のさらなる発展を願って、ヨーロッパに目をむけました。キリシタン大名と修道士の企画により、結成されたのが〈天正遣欧少年使節団〉。千々石ミゲル、伊東マンショら、平均年齢13歳の少年武士たち。彼らはポルトガル、スペイン、神聖ローマ帝国の皇帝などに熱烈な歓迎を受け、ローマ法王にも謁見しました。まさしく、日本のキリシタンの栄光が頂点に達した瞬間でした。

もう一つ、フィリピンを経由してヨーロッパへむかった侍の一団がいます。仙台藩がローマへ遣わした〈支倉使節団〉です。支倉常長を使節団長としたこの侍たちの集団がローマめざして出帆したのは、すでにキリシタン弾圧がはじまっていた頃でした。彼らは苦難のすえに〈遣欧少年使節団〉の少年らと同じく、ローマ法王謁見を果たします。が、帰国した支倉たちを待ち受けていたのは、栄光でも賞賛でもありませんでした。彼らが帰り着いたころには完全なキリシタン禁制が敷かれ、国家体制が完全に変わっていたのです。便宜上、キリスト教の洗礼を受けていた支倉常長らは帰国後、キリシタンとして幽閉、そして処刑されてしまいます。

その悲劇的な運命は遠藤周作の小説『侍』で、うかがい知ることができます。作中では、フィリピンの修道院の情景が非常に真に迫った描写で描かれています。

スペイン領フィリピンから、アメリカの統治下へ…

スペイン領フィリピンから、アメリカの統治下へ…

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「スペインの植民地になったんでしょ?でもなんでフィリピンの人って英語ペラペラなの?」その答えは19世紀に起こった二つの戦争にあります。

フィリピンの歴史の転換点がやってきました。スペインの植民地から解放される日がやってきたのです。しかしそれは、次なる苦難のはじまりにすぎませんでした。ですが、いっときですがたしかにフィリピンは「独立」を果たします。フィリピンの独立記念日6月12日が生まれた背景、そして新たな宗主国・アメリカの登場です。

ヒーローしたかったアメリカが起こした〈米西戦争〉

当時世界には「独立&革命ブーム」が吹き荒れていました。アメリカのお隣の島国・キューバでも独立運動が盛んに。このときキューバはスペイン領でした。ここでちょっかい出したのが「独立」「正義」という言葉が大好きのアメリカ。「アメリカはキューバ独立を支援する」という理由でスペインに宣戦布告。〈米西戦争〉の開始です。

戦火は、スペイン領であったフィリピンにまで飛び火します。独立運動家・エミリオ・アギナルドはアメリカに対し、フィリピン独立に全面協力という条件に、対スペイン共同戦線を敷きます。香港に亡命していたアギナルドはフィリピンに帰国、彼の自宅で同志たちとともに独立宣言を行います。1862年6月12日。この日は今も〈フィリピン独立記念日〉として人々に祝われています。

しかしアメリカは、スペイン軍降伏と同時に完全に手のひらを返します。〈米西戦争〉の結果はスペインのボロ負け。アメリカが要求したのはフィリピンの領土でした。2000万ドルというはした金で領有権を購入したアメリカは、こう言いました「フィリピンは合衆国の旗のもとにしたがうべき」――これにフィリピンの人々がしたがうわけがありません。

フィリピン全土が戦火につつまれた〈米比戦争〉

フィリピンをふたたび戦争が襲います。独立を賭けた〈米比戦争〉です。フィリピン独立に全面賛成、援助まですると言っていたアメリカは、あっさりと裏切りました。フィリピン国民は激怒、またアメリカもアジアに植民地がほしいという本音がありますから、ここで引き下がるわけにはいきません。フィリピンをめぐる近代戦…それは激しい本土決戦を意味していました。

この戦争は凄惨な結果を生みました。市街戦、虐殺、ゲリラ戦……フィリピンの島々のいたるところで民間人が殺害され、両国の兵士が犠牲になりました。一説には、〈米比戦争〉で殺されたフィリピンの民間人は150万人にものぼると言われています。大統領となっていたアギナルドは捕虜となり、アギナルドのもとで成立していたフィリピン第一共和国はこれによって滅びてしまいます。その後、フィリピンが真の独立を果たすのは太平洋戦争後まで待たなければなりません。

アメリカの統治下となったフィリピンでは、英語が普及。アメリカ式の教育が導入されます。これが、フィリピンの人々に今も英語が浸透している理由です。

太平洋戦争の日本統治時代、激戦区へ

太平洋戦争の日本統治時代、激戦区へ

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20世紀初頭。世界を巻きこむ大戦の渦にフィリピンも逆らえませんでした。〈米比戦争〉以降、事実上アメリカの領土だったフィリピンは、大東亜共栄圏の拡大をはかる日本に狙われます。1942年にフィリピンは陥落。大日本帝国の統治下に置かれました。その後、ミッドウェー海戦で日本が劣勢に立ちます。アメリカはフィリピン奪還作戦を実行。フィリピンはふたたび戦禍にみまわれます。この中で生まれた、日本とフィリピンの絆とは?日本の統治下で誕生した、もう一つの共和国とは、どんなものだったのでしょう?

もう一つの「独立」――〈フィリピン第二共和国〉、誕生

日本統治下において、フィリピンは「独立」を果たしています。1943年〈フィリピン第二共和国〉の誕生です。〈米比戦争〉のときにすでに、フィリピンの独立運動家を支援する日本人があらわれていました。日本の影響下に置いたままではありましたが、日本はフィリピン統治において、フィリピンの人々の心をやわらげるために「独立」を承認したのです。大統領は〈フィリピン第一共和国〉において将軍として活躍した、ホセ・ラウレル。また、〈フィリピン第一共和国〉のときに大統領であったアギナルドも、このとき支援をしています。フィリピンは、東京で行われた〈大東亜会議〉に独立国として参加しました。

しかしこの〈第二共和国〉も、太平洋戦争終盤にアメリカ軍がフィリピンに再侵攻すると、〈第一共和国〉のときと同じく瓦解。ラウレル大統領たちは日本に亡命します。日本で玉音放送があった8月15日の2日後、8月17日に〈フィリピン第二共和国〉の解散を宣言しました。

〈ビガン歴史都市〉を守った日本人「高橋大尉」

アメリカと日本の戦いにおける市街戦で、フィリピンの街は多くが焼かれてしまいました。にも関わらず、ビガン歴史都市は奇跡的に無事で現在にまで残る、貴重な街並みです。ここに一人の日本人が関わっています。

16世紀にスペイン人がやってきた折、彼らはフィリピンに多くのスペイン風の街を作りました。そのうちの一つ〈ビガン〉という街に赴任した日本人将校がいました。彼は憲兵隊長。「高橋」という苗字、そして階級が「大尉」であったことがわかっています。高橋大尉はフィリピン、とりわけ〈ビガン〉の街をこよなく愛しました。また現地で結婚し、フィリピン人の愛妻や子供ももうけます。平和な生活はほんのいっときでした。フィリピン奪還をめざすアメリカ軍は、〈ビガン〉を砲撃する作戦を立てます。

高橋大尉はこれを受け、地元の司教にこのように懇願します「自分はこの地で結婚し、妻も子供もいるが、愛する家族を残して私たちは敗走していく。しかしこの美しい街が戦争で破壊されないよう、どうかお願いします」司教は約束を守りました。アメリカ軍に対し「このあたりに日本兵はもういない」と説き伏せ、砲撃作戦は中止となったのです。

「高橋大尉」は〈ビガン〉を守った日本人として、フィリピンの人々に伝わっています。その後彼の守った〈ビガン歴史都市〉として世界遺産に登録され、現在も残っているのです。

夢の独立を果たし、堂々たるアジアの一員へ

夢の独立を果たし、堂々たるアジアの一員へ

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第二次世界大戦が集結。フィリピンもついに独立を勝ち取ります。しかし独立後も内戦、独裁政権、暗殺劇など苦難はたえませんでした。マルコス政権の独裁統治20年、そしてそれに終止符を打った、ベニグノ・アキノ氏の暗殺。ともあれ様々な形によってフィリピンは発展し、堂々たるアジアの一員、現在では有望な発展途上国です。波乱のフィリピンの現代史をのぞいてみましょう。といっても、ご記憶の方もずいぶんいらっしゃるかもしれませんね。

あきこのむ

Writer/Editor:

文学少女が世界文学の時代背景に興味を持ち、調べていたら大学では文学部じゃなくて歴史学部に入ることになっちゃった。生粋の文学好き美術好きの27歳です。現在はライターとして活動中。夢はロシアのサンクトペテルブルクでドストエフスキー「罪と罰」ごっこをすること。楽しくおもしろい歴史と本の世界を少しでも伝えられれば幸いです。

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