歴史の長い植物園

image by iStockphoto
むむ、なにかちょっと違和感を覚えませんか?タイトルで150年の歴史を誇るとシンガポール植物園をご紹介していますが、シンガポール建国は50年と説明しました。
シンガポール植物園は、シンガポール建国よりも長い歴史を持っているんです。
ゴム産業を躍進させシンガポールの経済発展の礎となった歴史ある植物園は、世界遺産となった今でもシンガポールの都会のオアシス的な存在として市民に親しまれています。
園内にはある歴史的建造物や英国式庭園、絶滅に瀕している植物も保護しており、見どころも満載です。
しかも、ナショナル・オーキッド・ガーデン以外は入場料が無料なんですよ。
それでは、シンガポール植物園の歴史に触れてみたいと思います。
シンガポール植物園の始まり

image by iStockphoto
このラッフルズはイギリスの植民地行政官で、シンガポールの建設者です。
この時の植物園の主な目的は、果物、野菜、香辛料、その他の素材などを産出し、栽培価値を見出せるかどうか見極めることでした。
この実験植物園は1829年に閉鎖されますが、植物学に興味を持つ、彼と英国の植民政策の基盤として、1859年に農業園芸協会によって「シンガポール植物園」が設立されました。
この時、政府からは32ヘクタールの土地を与えられており、ローレンス・ニーベンが監督者となり共に景観デザイナーとして活躍しました。
現在のシンガポール植物園の配置は変更されていますが、デザイン的な基礎は彼が造っています。
開園後は英国の「キュー王立植物園」のスタッフなどの協力を得ることにより、東南アジアにおける植物研究所として本格的に研究が始まりました。
特にゴムの木やランの研究は積極的に行われています。
1850年代にはビクトリア様式の美しい展望亭が、建設されています。
1969年に移築され現在はスワンレイクのガゼボとして活躍しています。
また、1859年からジンジャーの研究が行われており、現在はジンジャーガーデンで、生姜の仲間たちが1000種以上も栽培されています。
色とりどりのジンジャーの花たちを眺めながら歩くのも、シンガポール植物園での素敵な過ごし方ですね。
ガーデンのランドマーク的存在の「バンドスタンド」は、1860年代の初めごろに小高い丘を整地して造られました。
この名前は、バンドの演奏をしていたことから作られています。
本格始動を始めるシンガポール植物園

image by iStockphoto
初代園長となったのはヘンリー・ニコラス・リドリーです。
リドリーはキュー植物園から来た人物で、彼が造った実験植物園時代のゴム園はすっかり荒れ果てていました。
1888年から23年間延長として勤め、この荒れ果てたゴム園を立て直すことから植物園での仕事が始まりました。
また、リドリーはマレー半島のプランテーションの経営者たちにゴムの木を育てるよう熱心な活動をしています。
しかし、当時はコーヒー栽培が主流でパイナップル、タピオカなども造っていました。
農場主たちからは「狂ったリドリー」とか「ゴムリドリー」といって馬鹿にされてしまったようです。
でも、これが功を奏して、シンガポールの経済を支えるようになるのだから凄いことをやってのけた人だったんですね。
1890~1900年代前半までリドリーはゴムの木の研究を続けました。
彼の主な功績は、木に害を及ぼすことなくゴムを取得する方法を発見したことです。
後に、自動車産業が盛んになったおかげで、ゴムの需要が急成長し、大変な利益をもたらしました。
しかも、この植物園の研究成果が東南アジアのゴム生産はもとより、近代産業を担ったのだから立派なものですよね。
シンガポール植物園でゴムの木が栽培された経緯

image by iStockphoto
1877年には、発芽した種子のうち約1700本がスリランカ、そして22本がシンガポール植物園に送られました。
先ほどリドリーが園長のことは書きましたが、1877年に種子と一緒にロンドンから派遣されていたのです。
ここから試験的な栽培が始まりました。
ゴムをプランテーションで栽培するよう、農園主たちを説得することは至難の業でした。
早期にゴム園の経営に着手したタン・カー・キーは、「東洋のヘンリー・フォード」、「ゴム王」と呼ばれるまでに財を成したのです。
ゴムの需要が飛躍的に伸びたことにより、ゴムの生産者はどんどん増えました。
現在では、世界最大のゴムの生産地となりました。
これにより、中国やインドの人が移民し、日本人もシンガポールにやってきており、日本人街も大いに栄えています。
リドリーの功績により、世界のゴム貿易の中心地として大きな発展を遂げました。
こんなに凄い歴史を持つシンガポール植物園が、2015年の世界遺産なんて遅くないですか?
太平洋戦争下の日本軍による占領

image by iStockphoto
1942年~1945年は、シンガポールは太平洋戦争では日本に占領されました。
この時、東北帝国大学の地理・地質学者の田中館 秀三(たなかだて ひでぞう)がシンガポール国立博物館と共に管理することになりました。
彼は、管理をはじめてすぐに、博物館や植物園で奪略が起きないように保証し、自然科学研究施設としての機能を大切に保持し続けました。
日本占領前に園長をしていたイギリス人のホルタムや副園長のコーナーは、日本軍によって投獄されてしまいそうでしたが、これを阻止し植物園に収容した上で研究を従属させました。
この時の、シンガポール植物園の呼び方は「昭南植物園」と改名しています。
でも、シンガポール人は資源がない国なだけあって、加工業で成り立ってきた日本は恰好のお手本でした。
今でも、「日本に学べ」という方針があったことが言い伝えられています。
日本人として誇らしいですね。
1942年の後半からは後任として、京都帝国大学などで植物学を研究していた郡場寛が、陸軍司政長官としてシンガポール赴任し戦争終結まで植物園の園長と博物館の館長を務めました。
戦後はもちろん敗戦国の日本は退き、シンガポール植物園はイギリスに戻されました。
戦前の園長ホルタムから管理を受け継いだ、ヘンダーソンが1949~1954年まで園長を務めました。
現在のシンガポール植物園

image by iStockphoto
ボタニックガーデンが育てたランは、丈夫で優れたものとして世界中に評価されるようになりました。
シンガポールにおける重要な輸出品となっており、ランの切り花は世界市場の15%を担っています。
特にデンファレは盛んに輸出されており日本でも大人気となっています。
また、世界最大のラン「タイガー・オーキッド」と呼ばれる、シンガポールの在来種も見る価値ありです。
ランの繁殖の様子はボタニー・センターにある、ラン繁殖実験室で見学できます。
また、世界でも最大級の規模を誇るナショナル・オーキッド・ガーデンには、700を超える原種と約2100種の交配種の約6万株が集められているのでぜひ、寄ってみてくださいね。
シンガポール初の世界遺産の植物公園に出かけてみませんか?
可憐に咲き誇るシンガポールの国花「バンダ・ミス・ジョアキム」やプルメリアの群生地、ダイアナ妃という花や美智子皇后というランなども見られます。
植物を通して、シンガポールいや、世界に貢献しているシンガポール植物園へぜひ、足を運んでみてくださいね。