【書評】「暗黒から何かを掴み取ってください」――夏目漱石『こころ』真のテーマ

「精神的向上心のないやつは、馬鹿だ」というセリフがクラスの流行語になった、なんていう思い出もお持ちなのではないでしょうか。高校の読書感想文にも指定される、夏目漱石『こころ』の中のセリフです。なぜ殉死したの?明治の精神って?そして本当のテーマは一体何なのでしょう?wondertripでは「世界をもっと知りたい」をテーマに、旅行記事を主に配信していますが、本記事は同じく「世界をもっと知りたい」を切り口に書評を掲載するものです。今回は日本文学史の頂点に立つ文豪・夏目漱石の代表作『こころ』をあつかいます。

あらすじ――夏目漱石『こころ』

ある暑中休暇に、海水浴場で出会った〈私〉と〈先生〉。
ふしぎな魅力を〈私〉に与える〈先生〉を慕って書生として家に出入りする〈私〉は、謎にみちた〈先生〉の過去を知ることを欲します。
世間どころか人間そのものを厭(いと)う先生は、ある日こう言います。
「恋は、罪悪ですよ」。

やがて〈私〉の父の病態が悪化、東京から帰郷した〈私〉の目の前で〈私〉の父はゆるゆると弱っていきました。
そして明治四十五(1912)年7月30日、明治天皇が崩御。
同年9月13日、明治天皇の大喪の日に乃木希典大将が殉死します。
〈私〉の父の臨終がせまるそのさなか、〈私〉のもとに〈先生〉から手紙が届きました。

「この手紙があなたの手元に落ちる頃には、私はこの世にはいないでしょう」……先生の遺書につづられていたのは、先生が財産をなくすまでの経緯。
そして〈先生〉と〈お嬢さん〉、先生の親友〈K〉の悲劇的な恋愛でした――多くの謎をはらみ、哲学とサスペンスのような心理展開で魅せる、日本文学の巨人・夏目漱石後期の名作。

「明治の精神」って何だったの?

「明治の精神」って何だったの?

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明治時代。
日本は世界史において類を見ないおそろしい発展を遂げます。
その真っただ中の日本国民にとってカリスマ・明治天皇は非常に大きな存在でした。
日本は日露戦争までは無邪気に前だけを向いていられました。
「西洋に追いつこう」という明確な目標があったからです。
別の作家になりますが太宰治は『惜別』という作品の中で、日露戦争後当時の日本が戦況に一喜一憂するさまを見たある中国人に「日本人の愛国心というのは、実に無邪気ですね」と語らせています。

それらをふまえて考えると明治の精神とはつまり「無邪気」、少しむずかしい言葉を使えば「稚気(ちき)」ということになりはしないでしょうか。

しかし日露戦争後、目標を達成してしまった日本は奇妙な袋小路に入ってしまいます。
子供だった日本は徐々に成長し、思い悩むようになり、そこに強く大きい存在、明治天皇が崩御された――この喪失感、空虚感は現代人には想像を絶するものだったに違いありません。

小説としては失敗作?〈私〉というキャラクターの正体

〈私〉は〈先生〉と偶然出会い、〈先生〉を慕って数年に渡りその家に入りびたります。
しかし彼自身の情報はほぼまったく作中に出てこないのです。
つまり〈私〉はあくまでも〈先生〉を知るための「視点」としての役割。
自分から物語を動かす能動的な「キャラクター」ではありません。
第2部のラストで〈私〉はとうとう臨終の父をうちやり東京の先生のもとへと汽車に飛び乗る、ここでようやく能動的な「キャラクター」となりますが……その先は一切書かれていません。
これは『こころ』に残された大きな謎の一つに数えられています。

その後は、読んだ方ならご存知のとおり、第1部と第2部を合わせたのと同じほどの量である第3部『先生の遺書』に移ります。

ここでお気づきの方もいらっしゃるでしょう。
3部構成だとしても、全体の構成バランスが完全に崩れています。
これは小説としては致命的な失敗です。
あくまでも憶測ですが、漱石は〈私〉の続きを書くことを初期プロットで構想していたのではないでしょうか。
しかし後半に行くにつれて(作品にとっては歓迎されるべきことに)漱石の筆は暴走していきます。
小説の「魅力」は上がれど、結果的には小説の「完成度」は下がった――「完成度」という面から見れば『こころ』は明白に失敗作です。

「恋か友情か」ではない?『こころ』真のテーマとは

さてストーリーの核心・第3部に移りましょう。
若き学生の日の〈先生〉は叔父に裏切られ、財産のほとんどを横領されます。
人間をまったく信じられなくなった彼は、ひょんなことから〈奥さん〉と〈お嬢さん〉に出会いました。
二人のところで生活をするにつけ、心が解けていく〈先生〉。
そして〈お嬢さん〉に恋するわけです。
一方〈先生〉はノイローゼ寸前の同郷の親友〈K〉を自分のところ、つまり〈奥さん〉と〈お嬢さん〉のもとへ引き取りした。
しかし〈先生〉が〈お嬢さん〉への恋に関連して〈K〉に嫉妬をはじめ、ついに〈K〉が〈お嬢さん〉に好意を持っているという告白をしたそのとき、破局は訪れるのです。

〈先生〉はその後、一体何に悩んだのでしょう?

「恋か友情か」という問題の結末に苦悩したと思われがちですが、しかしその苦悶はふりかえれば、叔父に財産を奪われたときから兆(きざ)しています。
金を前にして、血のつながった自分を裏切られた「エゴ」に深く傷ついた〈先生〉。
しかしみずからも最終的に、恋の「自分勝手」ゆえに〈K〉を裏切ってしまった――つまり『こころ』のテーマは「エゴ」です。
だから先生は言います「恋は、罪悪ですよ」と。
こう言いかえてもいいかもしれません「恋はエゴだから、罪悪なのだ」と。

「精神的向上心のないやつは、馬鹿だ」とは?

ストーリーのキーパーソンにして〈先生〉の親友・〈K〉について語りましょう。
〈K〉は〈先生〉の親友で、実家が寺ゆえにか謹厳な僧侶のような性格を持つ人物です。
自分を痛めつければ昔の聖人のようになれると思いこみ、過酷な境遇に自分を進んで置くことで精神を高めようとしました。
しかしこの〈K〉という人物、この作品で驚くべきことに、「他人を救う」という積極的な行為には一切出ていません。
彼はひたすらに内向きな人物でした。

『こころ』作中の謎に満ちた名言の一つ、〈K〉の発した「精神的向上心のないやつは、馬鹿だ」の、〈K〉にとっての意味は「自分をきたえぬいて、修練しない人間は馬鹿だ」というような意味合いでしょう。
ひたすらに自分をいじめぬいてきた〈K〉はしかし、自分の信念に逆らう形で〈お嬢さん〉に恋をしてしまいます。
「精神的向上心のないやつは、馬鹿だ」と〈先生〉の口から自分の言葉をもう一度聞いたことで、彼の心理は転回します。
そして悲劇的な結末が待ち受けているのですが……〈K〉もまた「エゴ」に祟られた人物だったのです。

近代人の「人生」「恋愛」を描きつづけた作家・漱石

漱石はその作家人生で一貫して「三角関係」そして「近代人の自我」について追求して描いています。
「世界」を描くか「人生」を描くか、作家はおおよそ2つのタイプに分けられますが、漱石は確実に後者です。
『こころ』もそれにもれることなく、〈先生〉と〈K〉、そして〈お嬢さん〉の「三角関係」が展開されます。
近代人の人生を通して、自分の中でこんがらがっていた鬱憤(うっぷん)に近いモヤモヤを解消しようとしたのです。

この『こころ』で漱石は「エゴ」に苦しむ人間の人生を描いています。
近代は「エゴ」が発達した時代、と言えるでしょう。
そういう意味では明治というのは、現代のストレス社会の萌芽でもあります。
〈先生〉はじめとして登場人物は〈私〉にいたるまで、物質的に恵まれていても、精神的に渇いていました。
その意味でも〈先生〉は明治をある意味では体現しています。
最終的に人間は「エゴ」で死ぬだろう――漱石はそう、そっとメッセージを送りたかったのかもしれません。

夏目漱石の後世への遺言『こころ』

漱石の絶筆は、未完に終わっている長編小説『明暗』です。
しかし事実上、漱石が後世の人びとに遺言として書いたのは『こころ』でしょう。
近代人の心に根ざしはじめた「エゴ」を、恋愛の三角関係を通じて描きだした『こころ』は、多くの謎をはらみながら、名言や哲学を通して現代人の行く先をさし示しています。
日本そのものを想いつつ、近代人の人生を描きつづけた夏目漱石はそうして言うのです、「私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿ることができるなら満足です」と。
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あきこのむ

Writer:

文学少女が世界文学の時代背景に興味を持ち、調べていたら大学では文学部じゃなくて歴史学部に入ることになっちゃった。生粋の文学好き美術好きの27歳です。現在はライターとして活動中。夢はロシアのサンクトペテルブルクでドストエフスキー「罪と罰」ごっこをすること。楽しくおもしろい歴史と本の世界を少しでも伝えられれば幸いです。

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