人を殺してはいけない本当の理由――ドストエフスキー「罪と罰」

あんなやつは死んでしまったほうが人のためだ。どうして人を殺しちゃいけないんだ?そんな疑問を抱いたことが、誰しも一度はあるのではないでしょうか。その「人を殺してはいけない理由」が解答されている作品があります。20世紀ロシアを代表する大文豪・ドストエフスキーの名作『罪と罰』です。緻密な描写とストーリー展開は何度読んでも新しい発見に満ち満ちています。この小説の読み方は1つではありません。サスペンス、恋愛小説、哲学小説……人を殺すという最大の罪を犯した人間が、あらゆる愛によって魂の再生を果たす物語です。

あらすじ――ドストエフスキー『罪と罰』

92322:あらすじ――ドストエフスキー『罪と罰』

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自らの理論の実践と証明のため高利貸の老婆を殺害する、元大学生・ラスコーリニコフ。
しかし現場に偶然居合わせた老婆の妹もいっしょに殺してしまいます。
罪を犯したラスコーリニコフは激しいノイローゼ状態におちいります。
そんな彼のもとに、母と妹が到着しました。
兄の学問を続けさせるために、成金男・ルージンと結婚しようとする妹・ドゥーニャ。
彼女を追ってやってきた淫蕩な紳士・スヴィドリガイロフや、ラスコーリニコフを犯人ともくする予審判事・ポルフィーリィとも対決することになる、ラスコーリニコフ。
そして清らかな心を持ってラスコーリニコフを見守る、娼婦ソーニャ。
ラスコーリニコフは罪にどのように対峙するのか?すべての人物に問われる罪と罰――推理劇、サスペンス、哲学、ラブロマンス、家族愛、神への目覚めなど、多様な要素が1つになって展開される、20世紀世界文学の傑作です。

ドストエフスキーの長編は、序盤を飛ばすべし!

ドストエフスキーの長編は、序盤を飛ばすべし!

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十数年に渡りドストエフスキー作品に耽溺してきた筆者として、ドストエフスキー初心者にはぜひとも言いたいことがあります!

「序盤は飛ばしても、よし!」速読でざっくりいきましょう。
ドストエフスキー作品で物語が走り出すのは、上下巻なら下巻の冒頭あたりから。
インターバルが非常に長い作家なのです。
上巻をじっくり読むのは2回目以降で十分。
そう「ドストエフスキーは、2回以上読む」のが肝要です。
読み返せば読み返すほど、発見と感動が待っている。
ドストエフスキーはそんな「スルメ作家」なのです。

というわけで、『罪と罰』の序盤をおさらい。
まず老婆殺しが行われますが、その直前に酒呑みの官吏・マルメラードフとラスコーリニコフは会話します。
その娘というのがキーパーソンとなる、娼婦ソーニャなのです。
老婆殺しの犯行の直後、ラスコーリニコフは馬車事故で亡くなったマルメラードフの一家を助けることになります。
ソーニャ一家を救うことでラスコーリニコフの心理は次第に変化していきます。
一方で人を殺しておきながら人を助けるという、一見矛盾した行為ですが……一体彼はどうなってしまうのでしょう?

ラスコーリニコフに見る「人を殺してはいけない理由」

犯行前からもともと神経の弱っていたラスコーリニコフですが、犯行後は完全に神経が衰弱した状態になります。
友人の医師や学友・ラズミーヒンが手厚く看病にあたりますが、せん妄状態は続き、老婆殺しの事件の噂や「血」という言葉を聞いて、おそろしい興奮状態におちいったりします。

ラスコーリニコフは完璧なサイコパスではありません。
家族を愛し、人を思いやることのできる青年です。
彼なりに自分の「善」を証明しようとして殺人を決行しました。
罪の意識とそれを否定しようとする動きの中で、彼はおそろしい苦しみを舐めます。
殺人決行後のラスコーリニコフの様子は圧巻のリアリティを持っています。

私が初めて『罪と罰』を読んだとき、ドストエフスキーの怒涛の筆力によって描き出されるラスコーリニコフが殺人後の様子を見て「人殺しなんか絶対やるもんか」と戦慄とともに思ったのを覚えています。
その様子はぜひともお読みになって確かめてみてください。
すごいですよ。

「どうしてあなたは、自分を駄目にしてしまったのです」

ドストエフスキー作品で大きなウェイトを占めているのは「神」です。
キリスト教は「愛と赦し」の神。
ドストエフスキーのキリスト観はそれが非常に徹底しています。
ロシアの大地と直結した神、そして聖母の象徴である人物がいます。
娼婦ソーニャです。

虐げられつづけ、父の死にあたって助けの手をさしのべてくれたラスコーリニコフと出会った彼女は、信仰によって清らかな心を保ちつづける娼婦。
ひたすらに無欲で与えることを惜しまないソーニャは、神への愛を体現する一方、「恋」という大きな深い愛でもって、ラスコーリニコフを受け止めます。

ラスコーリニコフが犯した罪とは、何への罪だったのでしょう?ドストエフスキーは、ソーニャを通してラスコーリニコフの罪をあばき、洗い清めます。
ラスコーリニコフは深い苦悩の末に、彼以上に苦悩し苦しんでやまないソーニャの前に頭を下げました。







「太陽におなりなさい」2人の終わった人間

作中、2人の「終わった人間」が登場します。

1人はスヴィドリガイロフ。
ラスコーリニコフの妹・ドゥーニャを追ってやってきたストーカー男です。
淫蕩に染まったこの男は、清純な心を持ちたくましく美しいドゥーニャに恋をして言い寄ってきます。
ラスコーリニコフの罪を知ったスヴィドリガイロフは、逃亡を持ちかけ、ラスコーリニコフはこの男の甘い言葉と誘いに惑います。
魅力的な闇を抱えるスヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフのもう1つの側面であり、そしてラスコーリニコフがひょっとしたら、なっていたかもしれない姿です。

もう1人は予審判事・ポルフィーリイ。
彼は早くからラスコーリニコフを老婆殺しの犯人と見立て、3度に渡り対決します。
彼は自らを「終わった人間」と言いきりますが、大人の達観でもって彼に希望を指し示します。
「苦悩は正しいのです」と彼は言いました。
私たちが「避けるべきものだ」と無意識に思っている「苦悩」を受けいれ、愛していくことをポルフィーリイはラスコーリニコフに示しました。
ラスコーリニコフはそれを受けて、一体どんな決断を下すのでしょう?

3つの「愛」と、罪の自覚

ラスコーリニコフを救った愛を主に3つ数えるとするなら、家族愛、ソーニャからの愛、神からの無私の愛です。
第6部ラスト、ラスコーリニコフはついに決断を下します。
その決断を告げに行く過程で、家族や恋人、友人たち一人一人を訪ねます。
そこで彼は思い知るのです。
すべての人を傷つけ、苦悶に陥れ、それでもなお「英雄となるため」人を殺す価値はあるのか?どの人間が死んでいいということを、誰かが裁くことはできるのでしょうか。

ドストエフスキーは、現代の作家がおよびもつかないリアリティと勢いとで、深く人間を掘り下げ精神世界を描きます。
かつ、この『罪と罰』はエンタテインメントとして非常に良質です。
1人1人のキャラクターは非常にイキイキとして、踊り出すかのよう。
ポルフィーリイとの対決は「犯人のわかっている推理小説」かつ「サスペンス」であり、ソーニャとの「恋愛小説」、そして神とまともに向きあう「哲学小説」です。
この物語の先に待っている「救い」を、どうか、あなたの目で。

苦悩と赦しを、信じられる気がする傑作

人を殺しては行けない理由。
それは自分に注がれた神からの、家族からの、周囲からのおびただしい愛を裏切ることになるから。
自分を駄目にする行為だから。
けれど罰を受けることで罪から人は立ち直れる、とこの作品は教えてくれます。
「苦悩」を肯定します。
悩むことは正しい、と支えてくれます。
私たちは1人の罪人の魂の軌跡を追うことで、たしかに心に大きな太陽がともった気分になれるのです。
そして赦しと再生は存在するのだとはっきり信じられる気がする、そんな壮絶な魂の再生の物語。
一生に一度は手にとってみてください。
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