「自殺されちゃった僕」(吉永嘉明著)から考える“自殺されちゃわない方法”とは

2016年は2万1,764人―、この数字は厚生労働省による自殺者の統計です。

今回紹介する本は、たった5年間に身近な人間が3人も自殺してしまった男性が、その経験と思いを赤裸々に綴った手記です。先の調査によると、自殺者は1998年以降14年連続で3万人を超えており、この本に登場する3人もその期間に自ら命を絶っています。

Wondertripには“世界をもっと知りたい”というテーマがあります。今回は決して明るくはないけれど、実在する世界の断片として、“自殺を選ぶ人たち”を紹介したいと思います。

自殺志願者の命は感情論で救えるか

92936:自殺志願者の命は感情論で救えるか

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まず、自殺した3人と著者の関係を紹介します。
最初に亡くなったのは仕事仲間兼友人であった女性、次が仕事仲間の男性、そして最後が内縁関係の妻という順です。
著者は冒頭で、この本を書く目的を次のように語っています。

“「自ら死ぬ権利」を主張する人もいるだろう。
僕はそういう人を否定はしない。
ただ、「死にたい」と思っている人が、「やっぱり生きよう」と思い直すことを望んでいる。
”(中略)“だって、死なれると本当につらいんだ”(中略)“二度と僕のような「自殺されてしまった人間」を増やさないためにも”

日本の自殺者は減少傾向にあるものの、毎年2万を超える人たちが自ら命を絶ち、その何倍もの家族たちが遺族となり、苦しみを抱えています。

この本が、本当に自殺志願者を生きる道へと導いてくれるのなら、苦しむ遺族や友人も減るはずです。
著者の語る「死なれるとつらいから、自殺しないでくれ」という感情論は本当に死にたい人の命を救えるのでしょうか。

当然のことかもしれませんが、著者にとって3人の中で妻の存在が最も大きく、失ったダメージも比例したそうです。
本書の中に占める情報量の割合も一番大きかったので、今回は妻の自殺に焦点を当て自殺志願者の心の闇を探りたいと思います。

「いい子の早紀ちゃん」という生き方

「いい子の早紀ちゃん」という生き方

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まずは、妻(以下、早紀とします)の生い立ちを紹介します。
実の親に溺愛されて育った早紀は、その思いに応え、両親の前では両親の喜ぶようにふるまっていたそうです。
偏差値が高くインテリな女性だったそうですが、人前ではそれを隠し、明るく控えめな態度を取り、常に「いい子の早紀ちゃん」を演じていたとのこと。

一方、早紀には悲観主義の一面があり、死に向かう類の本を読み漁り、中学生の頃から死にたい願望を自覚していたそうです。
この自殺願望を、著者は“人前で演技をすることによる無理”が原因ではないかと分析しています。
外面の良さによる皺寄せは家庭に向けられ、家で爆発する早紀の姿を著者は見ることがあったそうです。

自分を偽る、他人の前で良い子ぶるという術は、多くの人が行う処世術だと思います。
それがなぜ自殺したい程のストレスになるのかというと、推測ですがその方法を家庭の中で身に付けたからではないでしょうか。

家の外で遠慮しても、家の中で我儘であれば、家庭が安心できる場所として機能しています。
一方、早紀のように、家の中でも外でも顔色を窺っている状態では安心できる場所がなく常に緊張と不安を抱えた状態になります。
その受け身で脆弱な生き方は、太宰治著の「人間失格」を想起させます。

「恥の多い生涯」という人間失格な生き方

「恥の多い生涯を送ってきました」という冒頭で知られる小説「人間失格」には、小さい頃から自分を偽り、周りの顔色を窺い、道化を演じることで他人に受け入れられようとした主人公(以下、葉蔵とします)の苦悩が描かれます。
感受性が強く過敏な葉蔵は、人間の本能的な醜さ、ずるさを早期に見抜き、恐怖と不安を抱えています。

例えば、多くの大人は日常的に本音と建前を使い分けて生きています。
それはある意味、欺き合っている状態なのに、そこに無頓着でいられる気持ちが葉蔵には理解できません。
実の親さえ信じられず、深い人間恐怖に囚われた葉蔵は、作品中で何度か自殺(心中)を試みます。

早紀と葉蔵の共通点は、育った家庭内における自己の置き方ではないでしょうか。
自分を客体として捉え、どうふるまえば喜んでもらえるのかという視点が先立って、自分の気持ちや感情を優先していません。
嫌なことを嫌だという勇気はなく、嫌だと言うべきか否かを常に考える受動的な習性は年月と共に板につき、本来の自分、あるがままの自分という存在を掻き消してゆきます。

自殺志願者の依存とは

主体性を欠いた生き方は、自分自身でありながら自分自身ではない状態ですから、突き詰めると「生きる意味があるのか」という問題に集約されます。
早紀にしろ、葉蔵にしろ、自殺したい願望の根底にはそういった虚しさ、寄る辺なさがあるように思えます。

少し別の視点で考えてみます。
自分がどう思うかでなく、他人にどう思われるのかを考えて生きる状態は、一種の「依存」と呼べるのではないでしょうか。

ここで冒頭の問題に戻りますが、著者は、「死なれるとつらいから、自殺しないでくれ」という感情論で、自殺志願者を説得したいと書いていました。
もしも著者の説得に応じれば、自殺志願者は「周りを悲しませないために生きる」ことになります。
でも、それは結局、自分の意志を無視して、誰かのために生きるという、自殺志願者が自殺を志願した所以の依存的な生き方に戻ってしまうことにならないでしょうか。

依存することで生きる意味が奪われているのですから、そこで新たに提案した依存が有意義に働くとは思えません。
従って、著者の目的である“感情論による自殺志願者の救済”は不可能ではないかというのが個人的な見解です。







精神科医、春日武彦による解説

著書の巻末にある解説では、精神科医の春日武彦により自殺したがる人間の心理が分析されています。
春日氏は、「死」というものを誰もが必ず経験する極めて“凡庸なもの”であると定義し、「自殺志願者」を、“究極の凡庸に魅せられた人”と位置付けた上で、その心理を掘り下げます。

自殺した3人について、育った家族内に歪な心性があったことにより自分ではコントロールできない怒りや自己嫌悪や空虚感があったのではないかと推測。
そういった“特別な”パーソナリティーを抱えて生きることに疲れたとき、その対極にある、“凡庸な”死へと飛び込みたくなるのではないかと指摘します。

春日氏の分析はとても興味深く、明晰な文章ですので本書にて確認して頂きたいのですが、ここからは春日氏とは異なる個人的な見解を述べたいと思います。

先ほど「依存」という言葉を使い、“感情論による自殺志願者の救済”は不可能だと言いましたが、改めて考えると、「自殺」というのは、「依存を脱却する姿勢」だと捉えることが可能ではないでしょうか。

他人の期待に応える生き方を放棄し、家族が絶対に望まない生き方を自分の意志で選択すること、それが「自殺」だったのかも知れません。
皮肉ですが、自分の人生を自分で生きたいという思いの、稚拙で不器用で屈折した表現という見方もできると思います。

春日氏の解説を楽しむ

著者によると、本を書く動機には、未だ癒えない悲しみを吐き出して気持ちを整理したいという思惑もあるそうで、愛する妻を失った悲しみ、苦痛、絶望がリアルに描かれています。
その筆致は、著者であれ早紀であれ、同じ境遇にいる読者の感情移入を助ける力になる一方、冷静に読むと自己憐憫が過ぎるというか、日記の領域を脱しない自慰的な印象を受けることも事実です。

先に紹介した春日氏の解説では著書のクオリティを鮮やかに一蹴します。
“本書は詰めが甘く、「ぬるい」(中略)金を取って他人に読ませる水準の文章なのだろうかと首を傾げたくなる”のだとか。
春日氏は解説内の至る所で批判を述べ、散々悪態をついた後、最後の最後でまったく別の角度から本書の価値を見付けます。

この解説には、解説だけで一つの作品と呼べるようなストーリーと感動があり、いわゆる“オチ”まで用意されていますので、一読する価値があります。
本書における登場人物に感情移入しなかった読者でも、ひょっとすると春日氏に移入するというか、何か納得できる説明が得られる可能性があると思います。

書評についての補足

今回は自殺という倫理的にデリケートなテーマを扱いましたので、最後に補足させて下さい。

早紀の生い立ちに関しては、家族側に非があったと指摘しているわけではありません。
家族が原因でパーソナリティーに問題を抱えたわけではなく、顔色を窺ったのも、期待に応えようとしたのも強要されたものではないと思います。
家族側に何かしらの要因はあるにせよ、早紀自身の感受性やその他の状況も大いに影響しているはずです。

また、自殺に対しては、「人間が選ぶ一つの行為」と捉え客観的に考えています。
その行為に対する悲しみや辛さという感情は敢えて介入させていませんが、それは悲しみを抱えている方を無視したり軽視したりする意図ではなく、論点が異なるということです。

最後に、私自身はこの本の早紀や、人間失格の葉蔵に自分を重ねるところがありました。
物事に対する感じ方や、依存する生き方、堆積する虚しさに共感したのは確かで、自殺を肯定する意図はありませんが、そういう人間がこの書評を書いたことを付け加えます。

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