「黒猫」(ポー著)を19世紀アメリカ版のダメンズ本として読む

日本では江戸川乱歩の方が有名かもしれませんが、その名の由来はエドガー・アラン・ポーというアメリカの作家です。

ポーは怪奇小説家としても高く評価され、本書「黒猫」もその一つですが、超自然現象を題材とした上に、ポーの独特な言い回しが手伝って難解な印象を与えるのも事実。

でも、安心してください。読み方によっては、19世紀アメリカと現代日本に存在する共通点が描かれた親しみやすい本なのですよ。

あらすじ

93750:あらすじ

画像/Amazon.co.jp

本書は短編小説が5編集録されていますが、「黒猫」は特に短く、文庫にして15ページ程度です。
あらすじは、明日に絞首刑を控えた主人公が、その原因となる妻殺害の経緯について説明するというもの。
主人公は「私」として登場し、物語のナレーションを行います。
(以後、主人公を「私」とします)

それによると、元は温厚であった「私」は、酒癖の悪さから妻やペットに暴力をふるうようになり、ある日愛玩していた黒猫の目をえぐり取り、木に吊るして殺めます。
以後、その「黒猫の呪い」の如く、現実とも妄想とも思える奇怪な事件が「私」に起こり、「私」を苦しめ、衝動的に妻を殺害します。
殺害後冷静になった「私」は、自宅の壁に妻を遺棄したものの、家宅捜査に訪れた警察に最後の最後で自ら犯行をアピールし、結果的に絞首刑の身とります。

個人的な感想ですが、この物語を一読した時、意味不明で後味が悪かったです。
怪奇小説ですから当然かも知れませんが、ポーの独特な文体や言葉遣いが妙に残り、ストーリーは荒唐無稽の極みでした。

ここに書いたあらすじは一部で、恐怖を誘う黒猫の呪いを思わせるシーンが多々現れますが、妻や猫を殺めた現実と怪奇現象とが複雑に絡まるのが本書の基本的な構造です。

教科書的に読む1

教科書的に読む1

image by iStockphoto

難解な本書を毛嫌いしてしまわないように、まずは教書的な読解法を紹介します。

「私」は冒頭で、「自分には一連の出来事が恐怖でしかないから、この怪奇現象に自然の因果を見付けて欲しい」と読者に訴えます。
一方で、「私」は猫や妻を殺めた動機について、「天邪鬼」というひねくれ者の性質や「酒癖」からくる衝動的な苛立ち、「黒猫の呪い」による極限的な精神状態にあったと説明。
“殺された側”である妻や猫に問題はないと認めつつ、“殺した側”である自分の問題は理性的でない状態だと主張します。

超自然的な怪奇現象と複雑な人間心理を、「私」が独特の言葉で説明するので、読者は余計に難解に感じるのだと思います。

そこで、視点を変えます。
「私」は“故意に”、話を荒唐無稽に演出しているのではないでしょうか。
なぜなら、黒猫の呪いや「私」の理性的でない状態をアピールすることで、罪を免れたいから。
明日に死刑を控え、何かに責任転嫁して自分を慰めたいのかも知れません。

すると本書は、偏屈で酒癖の悪い「私」が、犯行の言い訳をして免罪符を得ようとする、卑怯で滑稽な姿を描いていると解釈できるのです。

教科書的な読み方2

こうして読み解くと、妙な印象を受ける言葉遣いやメタフォリックな表現も腑に落ちます。

翻訳しきれない部分もありますが、やけに示唆的な言葉を選ぶのが一例です。
黒猫の目をえぐった道具を「ペンナイフ“pen-knife”」としながら、この物語を書くという動詞は“write”でなく“pen”(=書く)を選びます。

他にも、「吊るす“hang”」に対し、「絞首刑執行人“hangman“」を使い、猫を吊るしたことで、自分が吊るされると因果関係を暗示し、妻を遺棄した「穴蔵“cellar”」に対しては、自分が収監された「独房“cell”」を対比させ、読者の恐怖心を煽ります。

「黒猫」に対する「私」の呼び名も印象的で、愛玩していた頃は「彼“he”」と呼び、虐待が始まると「それ“it”」、最終的には「獣“beast”」や「怪物“monster”」になります。
「私」の黒猫に対する愛情が怒りや恐怖に変わる様子が窺えますが、「怪物」というのは明らかにメタフォリックです。

「私」からは決して黒猫の呪いだと言及しないものの、読者側に「黒猫の呪い」を連想させ、「私」が呪われていると解釈させたいのではないでしょうか。

ダメンズ本として読む

「私」が読者に対して呪いをアピールするのは、つまり殺害も絞首刑も、「私」のせいでなく「呪い」のせいだとしたいからです。
もしも「呪い」が妄想だと指摘されても、妄想に囚われた極限状態として、本来の自分を守ることができます。

そう考えると、荒唐無稽な現象を紐解くという表向きの目的の下に、故意に荒唐無稽な物語を作る「私」という人間の姿が、真のテーマとして浮かびます。

さて、以上が教科書的な読み方の見本で、大学で扱った内容も含みます。
そして、ここからはもっと親しみやすい読解法を紹介します。

実は本書のナレーターである「私」という人物を考察すると、いわゆる“ダメンズ”であることが判明するのです。
ダメンズという言葉は漫画家の倉田真由美が作った造語で「ダメなメンズ」という意味。
浮気性、極度な貧乏性、DV癖など困った特徴を持つ男性の総称です。

黒猫のナレーターである「私」は、貧乏で酒癖が悪くDVですが、それ以外にも「いるいる、こういう男性!」と指摘したくなるダメンズ要素が多分にあるのです。







言い訳ばかりのミスター否定文

「私」のダメンズぶりは、物語の第一文から顕著なのでまずは引用します。

「私がこれから書こうとしているきわめて奇怪な、またきわめて素朴な物語については、自分はそれを信じてもらえると思わないし、そう願いもしない。」

そうです、最初の文章から否定文なのです。
“思わないし、願いもしない”なら敢えて言う必要もないと思いますが、この後「私」は続けます。

「自分の感覚でさえが自分の経験したことを信じないような場合に、他人に信じてもらおうなどと期待するのは、ほんとに正気の沙汰とは言えないと思う。」

そう、また否定文。
“思わないし、願わないし、正気の沙汰とは言えない”と、否定を重ねることで読者を混乱させますが、「私」はさらに続けます。

「だが、私は正気を失っているわけではなく、」

あろうことか、また否定文でした。
“思わないし、願わないし、正気の沙汰とは言えないけど、正気を失ってはいない”とはどういうことですか。

もうこれ以上は引用しませんが、要するに「自分の話は信じられないだろうけど、信じて欲しい」と言いたいが為の文章なのです。
どれだけ読者の読解力を試したいのか、遠回り過ぎて疲れます。

そもそも、否定文自体が相手に解釈を求める依存的なスタイルですよね。
「こうだ」と断定せず、「こうではない」とほのめかし、「つまりこうですね」と相手に判断させる―、他力本願で否定文を繰り返す「私」にはダメンズ感が溢れています。
ミスター否定文と呼びましょう。

同情を求めるミスター欲しがり屋

次のダメンズ要素は、共感と同情を誘うための巧みな話術に隠れています。

「私」は自分の身を破滅へ導いた原因として「天邪鬼」を挙げます。
天邪鬼とは“するなと言われるとやりたくなってしまう”ひねくれた精神のこと。

「私」はこの天邪鬼によって、飼っていた黒猫を木に吊るして殺めたと告白しますが、この説明が実に長いので、部分的に抜粋します。

「してはいけないという、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。
(中略)なんの罪もない動物に対して、自分の加えた傷害をなおもつづけさせ、とうとう仕遂げさせるように私をせっついたのは、魂の自らを苦しめようとする(中略)この不可解な切望であったのだ。」

要するに、“殺めてはいけないとわかっていたから、猫を殺めた”そうです。
これを色々な言葉で長々と聞かされるうちに、「人間には天邪鬼なところが確かにある、「私」の気持ちもわかるかも」と共感しそうになりませんか。

トリッキーなミスター三段論法

三段論法という考え方があります。
「A=B B=C故に、C=A」というものですが、似た論法を「私」は使っています。

「“天邪鬼”≒“自分を苦しめる愚行”“自分を苦しめる愚行”≒“猫を殺める行為”故に、“天邪鬼”≒“猫を殺める行為”」という流れです。
この論法により、猫を殺める行為を、天邪鬼の延長線上に置くことで一般化し、読者の共感を得ようというのが「私」の狙いではないでしょうか。

さて、ここで冷静に考えましょう。
「私」の三段論法は「=」でなく「≒」ですから、AとCの関係は絶対に「=」になりません。
誰にでも天邪鬼という要素はありますが、誰もが天邪鬼を理由に猫を殺めていては大変ですからね。

このように「私」は色々な表現を使って少しずつ論点をずらすトリックで、悪行を正当化しながら素直な読者を「私」の気持ちに寄せつけます。
トリッキーな三段論法とも呼べるこの手法は本当に狡猾で、かくして「私」は周囲の同情を買うことに成功。
ダメなくせにダメを認めず自分を守ろうとする姿が正にダメですね!

回りくどいと揶揄していますが、ポーの難解な文章は個人的に好みです。
母国語が日本語なら、趣深さは翻訳の方が伝わると思います。

次のページでは『ダメで世界を共有化』を掲載!
次のページを読む >>