滑稽で大切きわまりない〈老いと性〉――谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』

老いてなお盛んに……日本人の平均寿命はいまや83歳!健康寿命という言葉も行き交う中、人間が生きていればかならず絡んでくる、健康な証拠〈性〉の問題。年をとったら消えるものなのでしょうか?そんなことはありません。生きている限り〈性〉はまつわりついてくるもの。他ならぬお年を召した方ももこっそり、〈性〉に悩んでいるかもしれません……そんなことを本気でまじめに、ユーモアたっぷりに描きだした作家がいます。「大谷崎」と呼ばれた日本の文豪・谷崎潤一郎が〈老いと性〉を描ききった『鍵・瘋癲老人日記』をご紹介します。

あらすじ『鍵・瘋癲老人日記』

ある老夫婦。
夫は自分のつけている鍵付きの日記の鍵を、わざと妻に拾わせます。
こっそり読まれるのを期待して……。
また妻のほうも自分で秘密の日記をつけます。
そこに書かれるのは、夫婦の性生活。
日記を盗み読みしはじめたことからはじまる茶番劇。
おたがい策略をめぐらせる夫婦はやがて、性の解放へむかう。
しかし奇妙な結末へ――『鍵』。

シワシワのおじいさんになってしまった、体中老衰でボロボロの、ワガママでお金持ちの主人公。
美しく意地悪で、男を翻弄することにかけては一丁前な悪女・嫁の颯子は、主人公にまとわりついては欲しいものをせびります。
颯子に翻弄されることで生きる実感を得、生きる希望をつないでいく老人。
――「英国ガーディアン誌が選ぶ、死ぬまでに読みたい1000冊の本」にも選ばれた『瘋癲老人日記』。

20世紀日本を代表する文豪「大谷崎」谷崎潤一郎が〈老いと性〉を描いた問題作。

日本文学に輝く変態・谷崎潤一郎の真骨頂

日本文学に輝く変態・谷崎潤一郎の真骨頂

image by iStockphoto

谷崎潤一郎は『痴人の愛』『春琴抄』などをはじめとした作品群により、読書家の間では「ドMで足フェチの変態」として有名です。
(もちろん変態でない作品も、谷崎にはたくさんあります!)この作品も谷崎の変態性炸裂!しかし嫌らしくないのがフシギです。

この『鍵・瘋癲老人日記』にはさまざまな読み方ができると思います。
ただの変態の話と読むこともできれば、年老いた人間が次のステージに進む物語と読むこともできます。
しかし私は「〈性や性癖〉を肯定しきったポジティブな作品」ととらえています。
谷崎は、性癖や、人間の奥底のドロドロにうずまく欲望をすべて肯定して、そこから生まれる滑稽さやかなしさ、〈性〉ひいては〈生〉の愛おしさを描いています。
〈性〉は生きることに直結すること。
だからこそ尊く、書きがいがある題材だったのでしょう。

ちなみに『鍵』『瘋癲老人日記』ともに、カタカナ文章で一目見ると面食らってしまいますが、一度勘どころをつかめば、スラスラと読めてしまいますよ。

夢中で解放されていく自分の本質『鍵』

夢中で解放されていく自分の本質『鍵』

image by iStockphoto

『鍵』の語りは、夫の日記、そして妻の日記という、二つの語り手が出たり入ったりしながら物語を紡ぎます。
子育ても終わりに近づき、いよいよおたがい自身に向きあう必要ができてきた老夫婦。
古風な教育を受けたがゆえに、夜の営みを楽しまない妻。
しかし夫は、彼女には「素質」があると喝破します。
夜をエンジョイしたいがために夫は、鍵付きの日記、そして自分の若い部下・木村を使って策略をめぐらせます。
あるときから妻は、それにあえて乗る形をとり、自分の悦楽を解放させていくのですが……。

夫婦の営みは、子供を作るためだけ。
そんな考えもあるでしょう。
この作品で夫は、あくまでも夜を楽しもうと願い、妻に要求しますが、昔ながらの教育を受けた妻は断固拒否。
そこでついに夫は酒と日記、そして部下を使った策略を思いつき、妻の体をくまなく楽しむことに成功するのです。
やがて妻もこの策略にあえて乗る形で、自分の強い衝動を解放させていきます。

その様は正気の沙汰ではありません。
しかし〈性〉が、つまり圧迫されていた魂が解放されていく様子は圧巻です。
真の快楽を求めての茶番劇。
やがて奇怪な結末を迎えるのです……。

完全に開き直った先の喜悦『瘋癲老人日記』

完全に開き直った先の喜悦『瘋癲老人日記』

image by iStockphoto

『瘋癲老人日記』は、完全に男でなくなった主人公が、悪女の嫁に金ヅルあつかいされ、翻弄されることで、かえって生き甲斐と希望を得ていく物語です。

自分の妻は『婆サン』と呼びあつかい、実の娘たちに対しては吝嗇で通しますが、長男の嫁である颯子に対しては金を惜しみません。
男を翻弄する本能を持ち、美貌を駆使して主人公を籠絡する颯子。
主人公は彼女を崇拝し、男として彼女を愛せない代わりに、彼女の望みどおりに金を出し、高級品を買い与えます。
それを見て「ちょろいな、この爺さん」とばかりに無理難題をふっかける颯子。
老人はそんな中でも人生の最期を控えて、墓を選ぶ段になり、颯子の足をこよなく愛する主人公はとんでもないアイデアを思いつきます。
死んだあともなお、愛する颯子を感じるために思いついたものとは。

題名にある「瘋癲」とは、精神状態が正常でない人、という意味。
瘋癲老人と悪女の織りなす喜劇。
私は『鍵』よりも『瘋癲老人日記』のほうが好きです。
主人公の老人の様はたしかに滑稽。
が、なりふり構わずここまで開き直ることができた主人公は、すべてを飛び越えた喜悦の中にいるのですから。

〈性〉と〈老い〉を受け入れることで、自由になる

〈性〉と〈老い〉を受け入れることで、自由になる

image by iStockphoto

生きていれば、健康ならば、どんな人間でもかならず〈性〉について考え、経験し、喜びを感じ、一方で悩むことでしょう。
それをネガティブにとらえるか、ポジティブにあつかうかで、人生は転回するのかもしれません。
年老いても〈性〉は衰えず、それどころか、閉経してから性欲は盛んになるという研究結果も出ています。

『鍵』も『瘋癲老人日記』も、〈性〉そして〈性癖〉の解放の物語です。
自分の本性があらわされ、〈性〉を鬱屈させることなく、真正面から向きあっていき、そうすることで自己が解放されます。
〈性〉に向き合うことで次のステージへと踏み出していくのです。
それは時に狂気的ですらありますが、しかし、人生の新しい光明であることに変わりはありません。

この作品は、子育ての終わり、次の人生を歩んでいこうという方にこそ読んでいただきたい物語です。
夫婦とは、人生とは、性とは、そして老いの中での性とは。
それを考える鍵を、谷垣は私たちの前に落としてくれたのです。

谷崎自身の解放経験を活かした作品

谷崎自身の解放経験を活かした作品

image by PIXTA / 12671570

谷崎自身もまた、性癖、つまり自らの本質の解放になかなか手こずった人生でした。
処女作『刺青』からして、そのマゾヒスト性を文学的に開花させた作品です。
一方の私生活はどうだったかというと、最初の妻・千代子は昔風の教育を受けた古典的な女性で、退屈な夜しか谷崎に提供することができませんでした。
まさしく『鍵』に出てくる妻のような人物だったわけです。

しかし谷崎が49歳のとき、谷崎の作品を慕ってやってきた、運命の女性・松子とこれまでの妻を離縁して再婚。
松子は谷崎にとって理想の女性でした。
つまり、マゾヒスト・谷崎の願いに叶うような夜の生活を送らせてくれる女性だったようです。
彼女との生活を通し、作家・谷崎潤一郎は傑作『春琴抄』などをものにしました。

谷崎は「ドM変態作家」という偏見でもって語られがち。
しかし谷崎ほど自分の欲望・欲求を作品に美しい形で昇華させ向き合った、そして芸術作品として高い完成度と美しさを誇った作家は日本では他に類を見ません。
騙されたと思って、一度、谷崎ワールドをのぞいてみてはいかがですか?

もう一度、向き直ってみよう。

もう一度、向き直ってみよう。

image by iStockphoto

なんとなく声をひそめてでしか話せないような〈性〉の問題。
そしてなんだか語るのが嫌な〈老い〉の問題。
そんな〈老いと性〉についてこんなにも真剣に、自由奔放に描いた作家が日本にはいました。
それらは自分の身のうちにある、大切きわまりない存在です。
谷垣はこの問題作で、性や性癖を肯定し、そうすることで生きることに希望を見出し喜ぶ人間の姿を示しています。
50代から上、第二の人生へ突入した人生の先輩方に特にオススメ!老いてなお盛んに、健康に。
性と生を、楽しんでしまいませんか。
photo by PIXTA and iStock

あきこのむ

Writer:

文学少女が世界文学の時代背景に興味を持ち、調べていたら大学では文学部じゃなくて歴史学部に入ることになっちゃった。生粋の文学好き美術好きの27歳です。現在はライターとして活動中。夢はロシアのサンクトペテルブルクでドストエフスキー「罪と罰」ごっこをすること。楽しくおもしろい歴史と本の世界を少しでも伝えられれば幸いです。

この記事のカテゴリ

書評

書評の記事を見る

【書評】「もやしもん」~主人公はもしかしたら菌? 石川 雅之著
【書評】天にしたがい、道を説く人――下村湖人『論語物語』
【書評】イギリスの新米獣医「ヘリオット先生奮闘記」/ジェイムズ・ヘリオット 著
【書評】考古学学会では無視される壮大なロマン「神々の指紋」/グラハム・ハンコック著
【書評】「記憶に自信のなかった私が世界記憶力選手権で8回優勝した最強のテクニック」 /ドミニク・オブライエン 著
【書評】ものづくりには夢がある!「世界を変えるデザイン」/シンシア・スミス著
人種差別だけじゃない!「GO」(金城一紀著)が描く容姿差別
「黒猫」(ポー著)を19世紀アメリカ版のダメンズ本として読む
「自殺されちゃった僕」(吉永嘉明著)から考える“自殺されちゃわない方法”とは
【書評】“恋愛”の意味は“一時の精神異常”だった!?皮肉で答えるビアス著「悪魔の辞典」とは
【書評】罪を命でつぐなわせることは、正しいのか――ユゴー「死刑囚最後の日」
【書評】あの子を、学校に行かせつづけた手ぬかり――ヘッセ『車輪の下』