【書評】イギリスの新米獣医「ヘリオット先生奮闘記」/ジェイムズ・ヘリオット 著

会社員でもバイトでも、何か仕事をしたことがある人なら、思うように役に立てない失敗や恥ずかしい思い出が、一つや二つはあることでしょう。
もし、その仕事が動物の命を預かる獣医だったなら、いったいどんな出来事が待ち受けていると思いますか?「ヘリオット先生奮闘記」は、そんな隠しておきたいような獣医の新米時代を、ユーモラスに書きしるした半自伝小説です。

イギリスの田舎町で、馬や牛を治療する獣医の物語


 イギリスのグラスゴー獣医大学を卒業したばかりの獣医ジェイムズ・ヘリオットは、イングランド北部のヨークシャ山間部で、獣医助手としてシークフリード・ファーノン氏に雇われました。
この本は、初めて一人で行った往診治療や、獣医としてヨークシャに馴染んで行くまでの経験をもとに、赤裸々に当時の新米獣医生活を書いたものです。

 世の中にはさまざまな仕事がありますが、どんな仕事をするにしても新米時代というものがあります。
私はといえば、途中で一度転職をしましたが、会社員生活を10年経験しました。
特に資格や免許のない私は、会社に入ってから業務内容を学び、専門職として仕事をしていました。

 そこで感じたことは、仕事を身につけてプロになるには3年ちかくかかる、ということです。
一年目はすべてが新鮮ですが、すべてがわからないことだらけ。
2年目でやっと仕事らしい仕事ができるようになり、3年目には、自信をもって仕事することができるようになりました。

新米時代に経験する数々な出来事

新米時代に経験する数々な出来事

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 誰でも新米時代には、張り切っている気持ちとは裏腹にやるせない経験や失敗をしますね。
私も新入社員として入社した新人時代には、早く一人で仕事をして認められたいという思いに、満ち溢れていました。
しかし、そんな気持ちに水を刺されるように、経験不足による失態をしてしまったり、コミュニケーション不足で誤解されたりすることに、悩まされたりしました。
お客さんからプロとしての仕事を期待されながら、それに答えられない、残念な思いなどもありました。

 人は専門家の仕事に対しては、無意識のうちに信頼感を寄せているものでしょう。
料理人には美味しい料理を食べさせてくれるだろうと期待し、医者には病気を治してくれるものと期待しています。

 その期待に答えられることは、仕事をしていく醍醐味にもなっていくのでしょう。
そして、その人々の期待がとりわけ強い職業があります。
それは、牧場の牛や馬を診る獣医師です。

 ジェイムズ・ヘリオットが学校を卒業した時代のイギリスは、ベットブームの今とは異なり、獣医の主な仕事は、牧場の牛や馬を診ることでした。
牧場で難産の牛がいると牧場に往診に出かけて、無事に出産させます。
また、馬が病気になったときにも、山道を車で往診して病気を治療します。

 治療する家畜は、牧場や農家にとっては生活を支える大切な財産になります。
ジェイムズ・ヘリオットの治療が成功するかどうかは、生活を左右するような出来事だったのです。

 そんななか勇んで出かけたヘリオットの初の単独での往診は、なんともつらい結果で終わってしまいました。

実際の仕事は、教科書には書いてないことばかりだった

実際の仕事は、教科書には書いてないことばかりだった

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 たとえ憧れの仕事につけたとしても、実際に仕事をしてみると憧れのイメージそのままであることは少ないものです。
実際には憧れていた仕事をするためには、長い下積みの時代を必要とすることもあります。

 なかなか憧れていたような感動的な仕事が出来ずに、悩むこともあるでしょう。
  

 また、私生活の時間に、仕事を優先しなければならないこともあります。
苦手なタイプの人やさまざまな人々と、好き嫌いなくうまくやっていかなければならないこともあります。

 仕事への期待を感じるのと同時に、新米獣医のジェイムズ・ヘリオットは、思わず考えてしまいます。
こんなことは教科書には書いてなかったと。

 当時の獣医の仕事は今ならば、間違いなくブラックな職場と呼ばれてしまいそうな、仕事環境です。
動物が相手なので、24時間365日休みなし、とも言えます。
そして、その仕事内容も毎日異なり、まったく同じ仕事はありません。
いつも違う場面に直面させられるようなものです。

 現実は、小説よりも奇なり。
実際の仕事の現場では、教科書にも小説にも書いてない出来事が、次々とおこるのです。

 仕事での失敗は、誰もが忘れてしまいたいと願い、思い出すと暗くなってしまいます。
でも、失敗もまた、次につながる大切な仕事の経験であることを、私達は忘れがちです。
そのことを思いださせてくれる本でもあり、さまざまな出来事への、向き合い方を教えてくれる本でもあるような気がします。

ジェイムズ・ヘリオットの魅力的な人柄に触れられる本


 お金には縁が無いが、やりがいのある仕事と変化に富んだ獣医の日々が、そこには綴られています。

 そして、偏屈な農場主や泥にまみれる獣医という仕事が、この本を読んでいるうちに、何故かとてつもなく魅力的に思えてくる、不思議な本でもあります。

 いつの間にか、ジェイムズ・ヘリオットと共に田舎道を車で走り、牧場で動物を往診してみたくなってくるのです。
読み終わった頃には、田舎で獣医をすることの魅力に、取り付かれている自分に気づくかもしれません。

 この本は、大学以前に読んでいれば、職業として獣医を検討したくなるほど獣医の魅力を感じられる本でもあります。

 この本の魅力は獣医という仕事の魅力と同時に、ジェイムズ・ヘリオットという人の仕事への思いが魅力となっているのかもしれません。

 仕事に真摯に向き合い、困難な場面や人間関係、とんでもない失敗があっても、仕事や人生を前向きにとらえユーモアで乗り切っていきます。
ジェイムズ・ヘリオットの生き方には、仕事に疲れた人への癒し効果があるのです。

本を読むことで、いくつもの人生を生きる

本を読むことで、いくつもの人生を生きる

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 人は星の数ほどある仕事の中から、一つの仕事を選びます。
あなたはどんな仕事を選び、選ぼうとしているでしょうか。

 世の中に魅力的な仕事は沢山あるけれども、人は一つの人生しか生きることが出来ません。
でも、この本を読んでいるひと時だけは、イギリスの新米獣医のジェイムズ・ヘリオットの人生を、追体験できるのです。

 特に、都会の真ん中でビルに囲まれて働いている人々とは、正反対の人生がこの本の中にはあります。
晴れわたる空の下、ぼろぼろの車でガタガタの山道を往診するジェイムズ・ヘリオットの生活は、日々の仕事で忘れていた何かを思い出させてくれるような気もします。

 どちらの仕事が良いのか、どちらの人生が良いのかということではなく、正反対の人生を知ることもまた、人生を豊かにします。
そして自分の生活エリアだけでは得られない、大きな癒しが得られるような気がします。

 本を読むことで、もう一つのジェイムズ・ヘリオットの素敵な人生を、追体験してみませんか。
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