【書評】自由をむしり取られた先の「楽園」――ジョージ・オーウェル『一九八四年』

正義は悪に打ち勝つと思っていませんか?本当にそうなのでしょうか。「どこにもない」という意味の〈ユートピア〉、楽園はこの世に実現した試しがありません。しかしその反対、〈ディストピア〉は?人権が踏みにじられ、恐怖政治が横行する非寛容の世界である〈ディストピア〉――。そこで振るわれる権力は非常に強大です。それに立ち向かうことは正義なのでしょうか?少なくとも、救いにつながるのでしょうか?この物語は、絶望という名の「楽園」を得るまでのストーリー。最後の一行、愕然のラストが待ち受けています。ディストピア文学の傑作にして頂点『一九八四年』の紹介です。

あらすじ――ジョージ・オーウェル『一九八四年』

あらすじ――ジョージ・オーウェル『一九八四年』

画像/Amazon.co.jp

偉大なる党指導者〈ビッグ・ブラザー〉が支配する全体主義社会の近未来。
世界は3つに分かれて大戦争を繰りひろげていました。
日々行われる言論統制、思考制御の習慣、逮捕状なしの連行……。

その社会の中、歴史の改ざんを行う〈真理省〉に勤務するウィンストンはひそかに党および〈ビッグ・ブラザー〉に反抗心を抱いています。
憎悪による連帯で成立している社会をいとうウィンストンは、同じく党を憎み社会のあり方を嫌悪する、美しく若いジュリアと恋愛関係になります。
快楽を否定する世界の下で、2人の恋は大罪です。
しかしその恋愛の快楽にひたることで、彼らは体制に対してひそかな抵抗をしていました。
しかしうるおいのある時間もつかの間、当局の魔の手は忍びより、ウィンストンとジュリアは捕らわれてしまうのですが……。

物語の打ちのめされる、愕然の一行で物語は締めくくられます。
世界のその後を知るヒントとなる〈ニュースピークの諸原理〉も必見です。

わたしたちの場所と背中あわせにある世界

わたしたちの場所と背中あわせにある世界

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言うまでもなくこの物語は冷戦期、共産主義圏の全体主義体制に対する強烈な風刺です。
執筆されたのは、1948年。
オーウェルの生まれ住むアメリカで共産主義者の疑いをかけられた人びとに対する社会的制裁である「赤狩り」が行われたのがまさしく1948年のことです。

おそろしいことに、オーウェルはこの世界を完全に構築すべく、世界情勢や政治体制のみならず言語まで創りあげています。
たとえば〈ビッグ・ブラザー〉の敵であり、人びとをおびやかすとされる共通の憎悪対象の映像にむけて、集団でスクリーンに毎日罵倒をあびせる〈二分間憎悪〉。
これは歴史でたびたび行われてきたスケープゴート、あるいは民主主義国家でも頻発する「○○叩き」に酷似しています。
これによって党は人心を掌握し、結束させることに成功させています。
またこれは世界のあちらこちらにある「愛国無罪」、すなわち愛国心ゆえの行動ならば罪に問われないという法と心理につながっています。

すべての小説は「if(もしも)」をシミュレーションすることで成立しています。
この作品はディストピア世界ですが、読むにつれて「本当によくできた世界だ」と思わずうなってしまいます。
そして思わず思いをはせてしまうのです。
現実の私たちの世界の歴史、そして現在に。
ウィンストンたちの世界はたしかに私たちの住む場所と背中あわせにあるものです。
そう、この現実に。

1+2=3と言う「権利」

「1+2=3」です。
そうでなければ計算が成立せず、あらゆる工業・産業も進みません。
当たり前じゃん、とわたしたちは思います。
しかしこの世界は問うのです。
「本当に1+2=3が正しいと、言えるのか?」と。

〈ビッグ・ブラザー〉の世界では〈二重思考〉という概念が徹底されています。
穏健な言い方をすれば「ホンネとタテマエ」。
たとえ真理では「1+2=3」でも、同時に真実は「1+2=4」にも脳内ではなりうる。
そうして思考コントロールを行うのです。
また、ウィンストンが与えられて行っている仕事は「歴史の改ざん」。
真実、つまりたしかにあるものをゆがめ、党が人びとを統率するのに都合の良いようにするのです。
「あったけど、ないことにした」が「あったかもしれないけれど、ない」となり、そして「なかった」ことになる……。

強大な権力の前で、集団心理の中で、自由意志は許されません。
ウィンストンは命がけで日記を書き、ジュリアとの関係を続けます。
偉大で強大な存在が言えば「1+2=4」にだってなりうる。
だって権力は偉大だから。
何者もゆるがることができないから。
ウィンストンたちはこの不条理にどう対抗するのでしょう?そして、あなたなら、そう主張しつづける勇気と信念はありますか。

すべてをむしり取られた先にあるもの

捕らえられたウィンストンとジュリアはついに〈思考警察〉に、思考犯として逮捕、連行されます。
そこでは拷問、そして洗脳が行われるのですが……。

ウィンストンはついにすべてをむしり取られます。
彼にわずかでもついていたはずの人権、自由……。
ウィンストンは私たちと同じ「体制に不満と反感を持つ、ふつうのしがない一般市民」にすぎません。
彼は彼なりの信念で、洗脳に抵抗します。
恋人ジュリアを裏切らないためにも、正義を信じるためにも。
彼の姿に私たちは共感するでしょう。
しかし与えられる恐怖に、洗脳にウィンストンたちは抵抗することはできると思いますか?それに屈したなら自分をあざむき、敗北を認めることになります。
しかし洗脳を受け入れれば、「楽」になれるのです……。
『一九八四年』は私たちに現実世界の闇の部分をあらわしてみせます。
「自分がもしこの世界にいたら、どうするだろう?」と自問自答しながら読むことになるのです。

ラスト、彼は拷問と洗脳を乗り越えます。
そして読者は一番見たくなかった〈ハッピーエンド〉を眼にすることになるのです。
「1+1=2」という権利。
自分の意思を表明する権利……。
悪は正義に打ち勝つと思っていませんか?本当に、そうだと思えますか?

〈ニュースピークの諸原理〉に見る「敗北」

最後に、巻末に付録されている〈ニュースピークの諸原理〉について解説しましょう。
作者オーウェルが「これを掲載しないかぎり、刊行は許さない」とまでこだわったもの。
この奇妙な小論は何の意味を持つのでしょうか?

論文の体裁をとっているため、多少難解なように読めるこの〈ニュースピークの諸原理〉は、『一九八四年』の世界が成立したのち、作品の重要な鍵となっている〈ニュースピーク〉〈二重思考〉に関してまとめたものです。
オーウェルが自己満足のために掲載を要求した、ただの設定集ではありません。

このような分析論文が書かれた「未来世界」が成立しているということは、〈ニュースピーク〉自体が過去の研究材料となり、客観的立場から分析できる存在となったということ。
すなわちウィンストンたちの生存した『一九八四年』のディストピアはのちに崩壊したということを示しています。
私たち読者は緻密に作られたこの世界に触れて圧倒されます。
難解かつわかりづらい「ほのめかし」のエピローグ。
それが付録〈ニュースピークの諸原理〉です。

最悪かつ最高の〈ハッピーエンド〉

ディストピア文学の傑作、のみならず、20世紀文学の頂点として不滅の作品である『一九八四年』。
ラスト1ページ、ウィンストンは永久の至福を手に入れます。
このラストのために物語からちょっとでも眼をそらさないでください。
ディストピアでの「幸せ」とは、こういうこと。
そしてこの世界は私たちの背中合わせの隣にあります。
この作品を読んで彷彿としてしまう実在の国は、いくつも存在する……。
本編最後の一行。
あなたはぶちのめされるはず。
善は悪に、打ち勝つと思いますか。
正義は本当に人を助けると思いますか。
そしてそれは、本当の救いになると思いますか。
photo by iStock

あきこのむ

Writer:

文学少女が世界文学の時代背景に興味を持ち、調べていたら大学では文学部じゃなくて歴史学部に入ることになっちゃった。生粋の文学好き美術好きの27歳です。現在はライターとして活動中。夢はロシアのサンクトペテルブルクでドストエフスキー「罪と罰」ごっこをすること。楽しくおもしろい歴史と本の世界を少しでも伝えられれば幸いです。

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