狩野派ってよく聞くけど何?日本美術界のエリート「狩野永徳」の生涯

永徳vs等伯!プライドをかけた直接対決

それまで有名どころの仕事は全て自分たちが独占してきたのに、ぽっと出の無名絵師などにかすめ取られ、プライドはズタズタ。
特に、等伯とはほぼ同世代であり、狩野派のトップとしての立場もある永徳の心中は穏やかではなかったはずです。
そこから、永徳と等伯の戦いが始まります。

二人の直接対決は翌1590年(天正18年)。
評判となった等伯に、京都御所での仕事が舞い込んできたのです。
当時、豊臣秀吉が造営していた後陽成天皇御所の対屋(たいのや)という建物を飾る障壁画の制作、という名誉ある仕事。
絵筆一本で狩野派の牙城に挑んだ等伯の苦労が報われた瞬間でもありました。

しかしここで永徳が動きます。
このままでは、狩野派の将来も危ぶまれると危機感を覚えた永徳は一門を守るべく、懇意にしていた勧修寺晴豊という有力公家に「長谷川等伯を使わないで」と進言。
結局、等伯は降ろされ、障壁画は狩野派が請け負うことになります。
非情ともとれる永徳の行動ですが、彼には狩野派を守る責任があったのでしょう。
あるいは、名門の御曹司をそのような行動に走らせるほど、等伯の才能は脅威だったのかもしれません。

等伯の存在は、ただでさえ忙しく様々なプレッシャーを抱えていた永徳に、さらなる心労を与えます。
このことがどれほど影響したのか図ることはできませんが、対屋障壁画の1件から1カ月後、永徳はこの世を去ってしまうのです。

華麗・秀麗!天才画師・狩野永徳の代表作

狩野永徳の代表作(1)「洛中洛外図屏風」

狩野永徳の真筆とされる作品は、戦火で建物ごと焼けてしまったものも多く、現存するものは少ないのですが、残るものの中から有名なものをいくつかご紹介いたします。

まずは「洛中洛外図屏風」から。
洛中洛外図とは京都の中心部(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵のことで、戦国時代から江戸時代にかけて数多く描かれてきました。
現存するもので状態のよいものだけでも30点ほどあると言われていますが、その中でも狩野永徳筆の作品(上杉家本)が最も有名と言ってもいいはずです。

織田信長(発注者室町幕府第13代将軍足利義輝だったのではという説も)から上杉謙信に贈られたものと考えられており、米沢藩藩主の上杉家に伝来。
現在は米沢市立上杉博物館蔵が所蔵しており、1995年に国宝に指定されています。

縦160.6×横364.0cmの六曲一双、紙本金地著色。
屏風の中には京都の町の四季折々、人々の暮らしが活き活きと描かれており、登場人物は公家から町人までおよそ2500人!少し上から見下ろしたような、鳥瞰(ふかん)的な構図で描かれており、美術品としてだけでなく、当時の都の様子を知る資料としての価値も高いといわれています。







狩野永徳の代表作(2)「唐獅子図屏風」

狩野永徳といえば「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」と言われるほど有名な、狩野派を代表する作品のひとつで、明治時代に皇室に献上され、現在は皇室に代々伝わる美術工芸品と共に宮内庁の三の丸尚蔵館に収蔵されています。

六曲一双m縦223.6cm×横451.8cmという巨大な屏風で、紙本金地着色の鮮やかな色彩。
岩場を歩く雌雄の獅子の堂々たる姿を、力強い筆づかいで描いた力作。
その大きさも相まって、目を見張るほどの迫力。
目の当たりにすれば誰でも「想像以上の迫力だった」と感じるはずです。
皇室所蔵ということで、普段はなかなかお目にかかる機会がないこともあって、狩野派の作品の中でも特に人気。
永徳はこの絵を、豊臣秀吉の支援のもとで書き上げたと考えられています。
秀吉はこの屏風を毛利家に送ったのだそうです。

江戸時代に入ってから、狩野常信が図様をあわせてほぼ同じ大きさの屏風を制作。
これを左隻、狩野永徳が描いたほうを右隻として、揃えて一双として伝わり、こちらも三の丸尚蔵館に収蔵されています。
狩野常信も永徳と同じように狩野派のトップとなり、時の権力者である徳川家光や家綱に仕えた幕府お抱えの画師。
狩野派の四大家として高久評価されている天才のひとり。
永徳から数えると3代後、100年近く後のこと。
時代を超えて二人の才能が一双の屏風を作り上げるなんて、何ともしびれる話です。

狩野永徳の代表作(3)「檜図屏風」

「檜図屏風(ひのきずびょうぶ)」は東京上野の東京国立博物館に所蔵されている、縦170.3cm×横460.5cm、四曲一双の紙本金地着色。
現在は屏風に表装されていますが、もともとは1590年(天正18年)頃に描かれた、八条宮邸の障壁画であったと考えられています。
1881年(明治14年)に宮家が廃絶された後は宮内庁のもとに移り、その後、東京国立博物館に移されました。

当初は絵の具が剥がれ落ちたり亀裂が生じていたりと、かなりの劣化が見られたそうです。
また、襖から屏風に作り変えたため、扇間の絵が途切れてぴったり合っていない個所があるなど、問題も抱えていました。
そこで2012年から2年の歳月をかけて修理が行われ、真ん中から半分に分けて、八曲一隻だったものを四曲一双に改装。
以前は檜の枝に少しズレが生じていましたが、つなぎ目もきれいになり、躍動感ある枝ぶりがより一層引き立つようになりました。
今にも飛び出してきそうな檜の姿や、背景の金色が映える大胆な構図と色遣いは凛としていて力強く、見ごたえ満点です。

永徳はこの檜図(宮家の襖絵)を描いた年の秋にこの世を去っています。
天下人・豊臣秀吉の仕事をこなしつつ、他にも大作の制作作業を抱えて多忙を極めていたと思われ、果たしてこの檜図の完成まで携わることができたかどうか、知る術はありません。

狩野永徳幻の作品:「安土城之図」

狩野永徳幻の作品:「安土城之図」

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狩野永徳の作品として非常に特異な状況にある絵があります。
所在不明の一枚。
織田信長が描かせたとされる「安土城之図」です。

今や幻の城と言われ、どんな形をしていたのか、図面も絵図もほとんど何も残っていない安土城。
そんな安土城の在りし日の姿を、信長は可能永徳に命じて屏風に設えていたというのです。
しかもその屏風を信長は、安土を訪れた宣教師・ヴァリニャーノに贈っており、後に天正遣欧使節によって海を渡りヨーロッパへ運ばれます。
そして何と、バチカンへ運ばれローマ教皇(グレゴリウス13世)に献納されたというのです。
教皇は住居と執務室を結ぶ廊下に「安土城之図」を飾っていたと言われていますが、教皇が亡くなった後、行方不明になっていました。

1984年と2005年に、自治体主導でバチカンに調査を依頼し、屏風絵の行方を追いましたが、発見には至っていません。
1750年に行われたバチカンの所蔵品に関する調査の段階で既に所在がわからなくなっていたそうで、それ以前の建物の修復工事の際にどこかに移動した可能性が高いと考えられています。
「ない」で済ますな!と言いたいところですが、バチカンの所蔵品の数は膨大だと聞くので、なかなか見つからないのも致し方ないのかもしれません。

永徳はどんな安土城を描いたのか、下絵すら見つかっておらず、絵の内容も不明のまま。
何とも残念でなりません。

安土町にある「安土城郭資料館」に、永徳が描いたであろう「安土城之図」を推定復元した陶板壁画が飾られています。
あくまでも”推定”ですので永徳風に安土城らしき城を描いたもので、本物と似ているかどうかも確かめようがありませんが、これはこれで大迫力。
見て損はなし!です。

次のページでは『日本、いや世界最大の画師集団を率いた狩野永徳』を掲載!
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