21世紀最初の国となった東ティモールの歴史

21世紀を迎えても、他国の支配から独立する国は存在します。今世紀最初の独立国となったのが、東ティモール民主共和国です。東京・千葉・埼玉・神奈川の合計と同じくらいの面積しかない小さな国ですが、独立に至るまでの歴史は実に濃密でした。

21世紀最初の独立国・東ティモールってどんな国?

21世紀最初の独立国・東ティモールってどんな国?

image by iStockphoto / 40678078

2002年5月30日に独立を果たした東ティモールは、インドネシア南部の小スンダ列島(バリ島~ティモール島間の列島)に含まれるティモール島の東半分を国土の大部分としています。
他に周辺のアタウロ島、ジャコ島、飛び地としてオエクシが含まれます。

すぐ南にはオーストラリアがあります。
一方、島の西半分はインドネシア領東ヌサ・トゥンガラ州となっており、飛び地のオエクシはこの中に含まれているのです。

 

首都はディリですが、日本からの直行便はありません。
そのため、シンガポールやバリ、あるいはオーストラリアのダーウィンを経由して行かなくてはなりません。
移動距離は長いですが、実は日本との時差がないんですよ。
ちょっと驚きですね。

通貨は米ドルが使用されており、公用語はテトゥン語とポルトガル語です。
ポルトガル語を使う人々が多いということで、宗教は99%以上がキリスト教です。

東南アジアの国なのに公用語としてポルトガル語が使われ、宗教がキリスト教ということは、歴史にその理由が秘められていますね。
では、東ティモールの複雑な歴史を見ていきましょう。

ポルトガルとオランダの来訪と支配

ポルトガルとオランダの来訪と支配

image by iStockphoto / 12654219

ティモール島には紀元前2000年頃にパプア語系民族が移住したという説や、紀元前3000年と紀元前2000年ごろにインド=マレー系のグループが移住したという説もありますが、はっきりとは断定されていません。

 

16世紀以前は、リウライと呼ばれる王たちによる国々が乱立していました。

そこにやって来たポルトガル人が、歴史を変えるのです。

1556年にはドミニコ会修道士がリファウという村を造っていました。
そしてポルトガル人はティムール島を征服します。
本国から総督を派遣しますが、原住民や修道士たちの反対とオランダの進出によってなかなか統治はうまくいきませんでした。

このようなことがあり、ポルトガル人は原住民の反乱をおそれ、インフラや学校、病院などを整備しなかったのです。
厳しい統治と搾取だけを行い、地元の人々は辛い生活を送らなくてはいけませんでした。
ポルトガルの目当ては香料となるビャクダンやコーヒー農園だったのです。

 

17世紀になると、オランダが島の西半分(西ティモール)を占領し、東ティモール側に攻撃を加えたため、首都がディリに移されました。

不安定な状況下で、1859年にはリスボン条約が締結され、西ティモールが正式にオランダ領となり、ティモール島は東西に分割された後に国境が確定しました。

 

このような中、本国の経済が弱体化したためにポルトガルはますます植民地から搾取を行いました。
そのため、1911年にはリウライのひとりドン・ドンボアベントゥラが反乱を起こしています。
住民は徐々に不満を表明するようになっていたのでした。

高まる独立の気運

高まる独立の気運

image by iStockphoto / 76557991

第二次世界大戦ではポルトガルは中立でしたが、1941年に東ティモールをオランダとオーストラリアが保護占領します。
日本軍から守るという名目でしたが、翌年には結局日本軍がティモール全島を占領してしまいました。
連合国軍と日本軍の戦いの舞台となった島では、現地の人々の一部さえも二手に分かれて戦ったそうです。
1945年、連合国は海上を封鎖し、島は食糧不足に陥りました。
この時、飢えや戦闘で亡くなったティモールの人々は数万人に及ぶといいます。

 

戦後はポルトガル支配が復活する一方、西ティモールはオランダに対して独立戦争を起こし、1949年にインドネシアの一部として独立しました。

 

東ティモールの運命が変わり始めたのは、1974年にポルトガル本国でカーネーション革命という軍事クーデターが起き、独裁体制が崩壊した時でした。
これによって植民地維持の主張も弱まり、東ティモールでは独立の動きが高まっていったのです。

そして3つの政党が結成されました。

反植民地主義、独立を掲げる東ティモール独立革命戦線(フレティリン)、ポルトガルとの関係維持を唱えるティモール民主同盟、インドネシアとの統合を望むアポデディです。

こうした動きをインドネシアのスハルト政権は見逃さず、すぐさま介入してきました。
そして東ティモールは独立派と反独立派の対立が深まっていったのです。

インドネシアによる抑圧を越えて

インドネシアによる抑圧を越えて

image by iStockphoto / 97650503

1975年、フレティリンは東ティモール民主共和国の独立を宣言しました。
が、直後にインドネシアが東ティモール全土を制圧し、27番目の州として併合宣言を出します。
そして、抵抗勢力に容赦のない弾圧を加えたのです。

 

しかしここで西側有力諸国は、占領を非難する国連決議を出したものの、インドネシアの動きを黙認したのです。
いったいなぜ?と思われるでしょうが、当時インドネシアは反共産主義の立場を取っており、同じく反共主義(つまりは反ソ連)だった西側諸国は表立った攻撃を控えたのです。
もちろん、この中には日本も含まれていました。

国益のためとはいえ、虐げられた人たちを見て見ぬふりをしてしまったのです・・・。

 

1991年、デモ隊にインドネシア軍が無差別発砲し、人々を虐殺するという事件が起きました。
サンタクルス事件です。
口封じのため、病院に運ばれた負傷者までもがそこで殺されたそうです。

こうしたひどい虐殺などのために、インドネシア占領下では20万人もの東ティモール人が命を奪われたと言われています。

 

このような状況に、国際世論は徐々に東ティモール擁護へと移り変わっていきます。
1996年には、ベロ司教と独立運動家のラモス=オルタにノーベル平和賞が授与されました。

 

1998年にスハルトが退陣すると、ハビビ政権は東ティモールを容認する方向となり、1999年には国連東ティモール・ミッションが設立されました。

ただ、ここで独立派と反対派が激しく争うという東ティモール紛争が起きてしまいます。
多国籍軍が派遣され、ここでインドネシアは東ティモールをからの撤退を決定し、国連東ティモール暫定統治機構が設立されました。

その後行われた選挙ではフレティリンが圧勝し、ついに2002年、東ティモール民主共和国として独立を果たしたのです。







image by iStockphoto / 84797233

独立後の混乱と未来への一歩

独立後の混乱と未来への一歩

image by iStockphoto / 65412853

しかし、独立後も東ティモールでは混乱が続きました。

西部出身と東部出身の軍人の間で差別や待遇の差があり、ストライキが起き、その後暴動に発展してしまいました。
鎮静化のためにオーストラリア軍が展開されたほどです。

この背景には西部と東部の軋轢や、高い失業率がありました。

こうした混乱の中、ラモス=オルタ大統領襲撃事件なども起きています。

現在、状況は緩やかに改善に向かっており、ASEANへの加盟などを目指して国づくりが進められています。
かつてインドネシア支配を黙認した日本も、技術・人道援助など様々な援助活動を行っています。

次のページを読む >>

関連記事を見る

千葉の記事を見る

舞浜デートでディナーするならここ!記念日ディナーもバッチリ&予約推奨レストランランキングTOP7
千葉県民が伝授!「京成バラ園」の楽しみ方。見どころ、レストランにお土産まで
千葉県民が教える絶景、佐倉のチューリップフェスタ
千葉行ったら訪れたい! パワースポット決定版15選
首都圏で宮崎を食す!恵比寿と浦安で『宮崎フェア』開催中
千葉デートならここ!カップルで行きたいおでかけスポット30選
カップルで泊まりたい?千葉にある7つのラグジュアリーホテル
イベント盛りだくさんの「稲毛海浜公園」で楽しむ千葉観光
四季が最も美しい頂上決戦!千葉県はこんなに絶景に溢れています
ディズニーランドだけじゃない!舞浜~東京駅付近でもっと遊ぶならここ
週末行きたい!関東の絶景・秘境ランキングTOP10
ファーストキスするならここ!狙って行きたいデートにおすすめ絶景スポット5選