【謎の古代国家】邪馬台国があった場所はどこ?

いまだに謎に包まれたままの邪馬台国。昔から日本の何処かにあったのでしょうが、いまだに謎なんです。弥生時代の後期に日本にあり、30もの国々を支配下に置いていたという「邪馬台国」ってどんな国なのか気になりませんか?今回は、謎?なぞ?ナゾ?の日本にあった古代国家邪馬台国の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

邪馬台国の始まり

邪馬台国の始まり

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日本は、紀元前300年ごろから紀元300年くらいの約600年は倭と呼ばれる国でした。
その倭の国は、100以上もの小国に分かれていました。
その小さな国々がやがてまとまりを見せて、約30の倭国になっていきました。
中国から渡ってきた米文化が日本で盛んになり、各地で争いが起こり始めます。
「どうして米を作るのに争いが起こるの?」って思いませんか。
米作りの技術が発展すると共に指導者が生まれるようになり、それまでは勝手気ままに作っていた米を、計画的に作り始めたのです。
人々は定住するようになり、やがて村を作りました。

この頃になると作った米を備蓄することも始まり、安定して食糧を確保するようになったのです。
しかし、ここで大問題が起きます。
人間っていつの時代も欲深いもので、その米を作るための土地や水を巡って争いが起こりました。
人々は槍や矢じりで殺し合い土地を奪い合ったのです。
奪った土地を基礎に村ができ、争いに勝ったものは、村を徐々に大きくしました。
その結果、ある地方で一つの国が出来上がっています。
それが、邪馬台国です。
邪馬台国は、米作りによる土地争いから始まってできた国でした。

吉野ヶ里遺跡から見る邪馬台国時代の日本

吉野ヶ里遺跡から見る邪馬台国時代の日本

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吉野ヶ里遺跡は佐賀県神埼郡にある、紀元前5~紀元後3世紀にあったといわれる3つの村にまたがった日本最大の遺跡です。
弥生時代の国の中心的な集落を垣間見られる遺跡として重要視されています。
ここには見張り用のやぐらや敵の侵入を防ぐための深い濠(ほり)、お墓まで備わっているのです。

お墓には戦いで亡くなった人の骨も見つかっており、骨の間には矢の破片が残り、この時代に戦いがあったことを示しています。
また、現在は水田なども再現されています。
この遺跡が、邪馬台国だったのではという説があるんです。
邪馬台国が歴史上初めてこの世に登場するのは、中国の『魏志倭人伝』。
この時代を彷彿させる遺跡として、国の特別史跡にもなっています。
また、ここから出土した、有柄銅剣やガラス製管玉等の出土品も国の文化財となっています。

卑弥呼ってどんな人?

卑弥呼ってどんな人?

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この争いだらけで乱れ放題の日本を、まとめた人物がいます。
魏志倭人伝に邪馬台国では女性の王が治めていたと記されています。
この女王が卑弥呼です。
彼女は、「鬼道(きどう)」と呼ばれるまじないを使って国をまとめていました。
卑弥呼はあまり人前に出なかったようで、その姿を見た人はほとんどいません。
1000人の侍女が世話をし、卑弥呼の部屋には一人の男性だけが出入りしていました。
まじないや占いの結果を彼が下々に伝え、政を行っていたようです。
卑弥呼には夫がいなかったので、弟が補佐していたと考えられています。
ということは、側近の男性は弟だということになりますね。

更に239年には、当時中国にあった「呉・蜀・魏」の大国の中で一番の勢力を誇っていた「魏」に卑弥呼は使いを送りました。
その使いのお礼として、魏国から、日本の王を意味する「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を与えられたのです。
更に100枚の銅鏡を授かっています。
銅鏡で国中の人々に鏡を示し魏が後ろ盾になっていることを証明するよう伝えました。
これで、後ろ盾も確かなものとなり、卑弥呼が倭国の王女としての地位が確立されました。
諸国王たちの墓からは、この銅鏡がたくさん発見されています。
これは卑弥呼が権力を知らしめるために送ったものといわれています。

邪馬台国があったのは何処?

邪馬台国があったのは何処?

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先ほども触れましたが、邪馬台国があった場所は実はまだ分かっていません。
説によると近畿説では、邪馬台国は奈良県にあったといわれています。
この奈良説では、邪馬台国は大和朝廷の前身だったといわれているのです。

1998年に奈良の天理市で、黒塚古墳が発見されました。
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)という銅鏡が33枚も発見されたのです。
こんなに一つの墓から多くの銅鏡が発掘されることは今までになく、100枚の銅鏡ではないかといわれています。
同じく奈良県には、2009年に纏向遺跡(まきむくいせき)が桜井市で、発見されました。
ここにある箸墓古墳は3世紀ごろのもので規模も最大級であり、時代も大きさからも卑弥呼という女王にピッタリだというのが説です。
しかも、王宮や市場はあるのに農具類がほとんど発見されていません。
これから見ると、都市という役目を担っており、政治的な場所だったとの説も濃厚となっています。
特に大きな柱穴が見つかり、これは「卑弥呼の居館跡」の可能性が高いともいわれているのです。
残念なことに説だけでしっかりとした確証は得られていません。







邪馬台国があったのは九州?

邪馬台国があったのは九州?

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九州説としては、先ほど説明した吉野ヶ里遺跡が怪しいといわれています。
この国は大和朝廷に滅ぼされたとか、ここから近畿に移り大和朝廷になったなど説は色々です。

魏志倭人伝に出てくる宮殿や祭殿に使われた楼観(物見やぐら)が、吉野ヶ里遺跡にあるやぐらとよく似ているといわれています。
他にも宮室や城柵なども発見され、同じく魏志倭人伝に記されています。
しかもここは環濠集落で、2重の環濠が巡らされ、3100基を超える甕棺墓も発見されているのです。
また、近畿で見つかった銅鏡は、国内産だったという説もあり、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国ではないか?という説が有力視されています。

邪馬台国の終わり

邪馬台国の終わり

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魏志倭人伝には「卑弥呼、もって死す」と記されており、卑弥呼自身の記載もこれが最後になっています。
魏志倭人伝においては、その最後も謎のままです。
邪馬台国の王は、卑弥呼が亡くなった後、男性の王が誕生したと伝わっています。
しかし、男性の王が誕生すると、反乱が起こってしまいました。
卑弥呼の親族からは、13歳の女性を女王に立てることになり、これでこの乱は終結しました。
彼女は「壱与(いよ)」と呼ばれています。
壱与は、魏志倭人伝に「卑弥呼宗女壱与」と書かれており卑弥呼の血族の娘だったようです。
彼女は3歳のころから卑弥呼が持っていた鬼道という不思議な力を持っていたと伝わっています。
ヨーロッパなどでも魔女伝説があるように、女性の魔力は日本でも強かったんでしょうか?あくまでも想像ですが…。

日本の倭国に関する掲載は、中国の史書から150年近く書かれることはなくなりました。
日本の『古事記』や『日本書紀』からも、邪馬台国や卑弥呼について明確なものは書かれていません。
現在も、邪馬台国の後のことや大和朝廷とのつながりは全く不明です。
先ほど触れた三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の銅鏡といいましたが、これもすでに400枚以上さまざまなところから見つかっています。
本当に、邪馬台国は日本古代史における謎となっているんです。
新日本の七不思議という本には、邪馬台国=岩手説という話も登場します。
他にも中国地方にも九州を超える古墳や集落が存在しているから怪しいといわれています。
まだまだ、説は色々あるようで、現実に謎が解ける日は先のようですね。

存在すら謎のままの邪馬台国は、いったい何処にある国なんでしょうね

日本に実在したとされる邪馬台国。
説についてはいろいろ出てくるものの、まるで昔アニメで見たトムとジェリーのように、仲良く追っかけっ子が続いていて、何処だったかという詳しい説は分かっていません。
でも、歴史スペクタクルという観点では色々な総論が出てきて楽しいものなのかも知れませんね。
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