中国地方を一手におさめた戦国武将!毛利元就って実は苦労人だった

毛利元就は、「三本の矢の教え」で有名な、中国地方随一の知将と呼ばれた戦国武将です。幼少時代は、父親がアル中で結構苦労人だったとか?山間の一国人から彼がどのようにして中国地方を征服していったのかって、気になりませんか?今回は、毛利元就について調べてみました。少しだけ、お付き合いくださいね!

毛利元就ってどんな人?


毛利元就は、安芸吉田盆地一帯のみしかなかった領地を、中国地方10ヶ国所有するほどの大大名になった人物です。
1497年3月14日に毛利弘元の次男として生まれ、1571年7月6日に亡くなるまでの75年の人生は、波乱万丈でした。
27歳で家督を継いだ時は、出雲の尼子氏と周防の大内氏の二大勢力に挟まれており、両国から狙われる立場にあったのです。

機転を利かせ備後南部の竹原小早川氏に三男隆景を、安芸の吉川氏に次男の元春を養子に送り込み、地盤固めをしたことから、逆転に転じ一挙に伸し上がりきました。
その後、陶晴賢、大内義長、尼子義久らを滅ぼし、山陰と山陽の10ヶ国を所有するほどの戦国大名になっています。
織田信長や豊臣秀吉らの先輩的な存在として、したたかに生き抜いた、イクメンパパ的な印象がありますよね。
俺について来いタイプではなく、実は謙虚で家来から慕われていました。

病の床に就いた時に、3人の息子を呼び、1本の矢ではすぐに折れてしまうけど、3本の矢ではびくともしないことを、実際に矢を使い子供たちに体験させ、「兄弟が力を合わせることが大切だ」と、教えたという伝説は有名ですよね。
でもこの「三本の矢」は、後の創作だったとか。
でも、毛利大大名を作り、毛利家が長く続いたことは彼の力だと思います。

父の引退と幼少時代の元就

父の引退と幼少時代の元就

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毛利元就は、室町時代の終わりから戦国時代を、生き抜いた武将です。
毛利弘元の次男に生まれ、幼名は松壽丸といいます。
父弘元は33歳という若さで、まだ8歳だった長男幸千代丸(興元)に家督を譲り隠居しました。
そして、元就を連れて郡山城から、多治比にある猿掛城に居を移しました。

応仁の乱の荒廃から立ち直り始め、世が平静を取り戻していた頃で、今にも民衆が立ち上がり、いつ乱が起こってもおかしくなく、弘元の引退もやむにやまれぬことでした。

辛い幼少時代


結構やんちゃだったという元就は、小さな頃は寂しく辛い日々を送っています。
長男と長女、元就の3人の子を産んだ母が、猿掛城に移った翌年に亡くなりました。
家督を譲るも陰で長男を支えるべく、周囲の味方をつけようとするも上手くいかなかった父は、妻の死による寂しさとで、心労と酒害(アル中)により、猿掛城に移った6年後の、1506年に亡くなりました。

弘元が亡くなると当然のように、元服した興元の目付役として大内氏が後見役となり、毛利は大内の支配に下ります。
宗家存続を奔走する父の姿は、痛々しくも元就の脳裏に焼き付いたようです。
4~10歳の子供が、アル中の父を見て、心を痛めるってどんなだったのだろうと、胸が詰まる思いがします。
しかし、これが元就の、イクメンパパで人望のある人物像を形成したといわれています。

興元の後見人だった、毛利家家臣井上元盛が、横領するという事件が起きました。
でも、子供だった兄弟には何もできなかったようです。
たった一つ、元就には幸せがありました。
弘元の側室杉大方が母代わりとなり、愛情をもって育ててくれたことでした。
元盛は領地まで横領したとされており、猿掛城を追われた元就は、杉大方と共に多治比の「土居」に逃れたとの説が残っています。
しかし、悪いことはできないもので、元盛は急死し、猿掛城は元就に戻されたようです。

甥の後見として初陣を飾る元就


1511年に、京都にいた兄興元の許可を得て松壽丸は15歳で元服し、多治比(丹比)元就と名乗り分家となりました。
1516年に興元が父と同じアル中で他界しました。
家督は、元就後見人の元で、興元の嫡子幸松丸が継ぎました。
幼い幸松丸の面倒を見るだけでも大変だった毛利にさらなる危機が襲います。
興元の死をいいことに、安芸の守護職武田元繁が攻めてきたのです。

元就21歳の時で、甥の後見役としての初陣でした。
この戦いは、元繁を戦死させ大勝利を飾りました。
この時、京都にいる大内義興に、元就の存在を知らしめることになり、この大勝利に関する感状を貰っています。
これが、元就の生涯200といわれる戦の始まりでした。
この頃元就は、小倉山城の吉川国経の二女と結婚しています。
はっきりとした、年月日は分かっていませんが、天涯孤独の元就にとっては心のオアシスになったことは間違いありませんね。
夫婦仲もよく、5人の子供を授かっています。

家督を継ぐも反乱に合う元就

家督を継ぐも反乱に合う元就

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しかし、1523年に、幸松丸が、9歳で病死してしまいました。
この死は、鏡山城攻めで味わった、心身の疲労だったといいます。
9歳の子供が、本物の刀をもって殺し合う姿を見るのは…。
言葉になりませんね。
この時、元就は、志道広良をはじめ、5人の毛利一門の宿老15人全員からの推挙を受け家督を継ぎました。
やっと猿掛城から郡山城へ入城しました。

しかし、元就が家督を継ぐことに不満をもつ家臣たちを取り込んだ人物がいます。
これが、尼子経久です。
でも、宿老15人全員の署名を受けていたので、尼子氏に家督を継ぐことに全員一致との報告をし、お家騒動をおさめました。
尼子経久の陰謀で、異母兄弟の相合元綱を擁立した坂広秀(さか ひろひで)の一派を粛清し、自刃させました。
坂氏の長老格、桂広澄が責任を感じ自害しています。
尼子氏は面白くなく関係は最悪になり、1525年には大内義興の傘下に入りました。

国盗り合戦が始まる毛利

国盗り合戦が始まる毛利

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1529年には家督相続において相合元綱を擁立した高橋氏を討伐。
この時、人質に出していた長女が処刑されたとの説もあります。
1535年には備後の多賀山氏の蔀山城を降伏させました。
戦で領地を奪っただけでなく、婚姻による領地拡大もあったようです。
知謀とされる元就には婚姻による結びつきの方が、あっているような気がします。

1537年には、長男の隆元を大内氏の人質として送り、家臣となりました。
山陰の尼子氏と山陽の大内氏の勢力が強く、どちらに滅ぼされるかヒヤヒヤものでした。

因縁の尼子との戦い


1540年に20年もの間激闘を繰り広げていた、尼子との争いを決着するべく大戦争が勃発します。
元就が44歳の時に起きた郡山合戦です。
この頃の尼子の領地は平和で穏やかになっており、当主も経久から孫の晴久に代替わりされています。
若い晴久は、元就が尼子を裏切り大内氏に寝返ったことが許せなかったのです。
しかも、ちょうど山陽侵攻を強めていた時期でもあり、より怒りは甚大なものでした。
毛利に対しての復讐心に燃えていました。

若いけど、器量物の晴久で、3万の大軍が、吉田郡山城を取り囲んだのです。
しかし、陶隆房(晴賢)を指揮官に大内が援軍に来てくれたことで、大勝利を収めることができました。
人質強し!この戦いは4ヶ月も続いたようです。

ピーターラビット

Writer:

世界遺産ブームをきっかけに歴史に目覚めてから、国や城、庭園などの成り立ちに魅了された主婦です。何だろう?と思ったことを調べて、皆さんにお伝えすることで気持ちを共有できたら幸せだな~と感じながら仕事をしています。ちょっとマニアックな歴史記事ですが、軽い気持ちで触れてみてくださいね!

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