大坂城と同じ大きさ?秀吉をもてなすための海の城「広島城」の歴史

広島城といえばどんなイメージがありますか?毛利氏の城、原爆投下の目印とされた城などがあると思います。ではその毛利氏にはどんな歴史があるのか?発展の祖・元就は吉田郡山城の戦い、厳島の戦い、第2次月山富田城の戦い、立花城の戦いと大きな戦を経験しましたが、その結果毛利氏はどの様に大きくなっていったのか?そして秀吉と接近し、また関ヶ原の戦いで毛利氏はどう変わっていったのか?毛利氏の後の城主はどう広島を治めたのか?これらについて紹介したいと思います。まずは広島城がどんな場所にあるのか?ということから見ていきましょう。

広島城はどんな城?

広島城はどんな城?

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広島城はどこにある?どんな所に建っていた?

広島城は広島県広島市の中心部にあり、新幹線の止まる広島駅から市内電車に乗り、紙屋町東もしくは西のどちらかの電停で降り、北に歩いて約15分の位置。
アストラムラインの城北駅で降りると歩いて12分です。

広島城は太田川河口のデルタ(三角形)に築かれた平城で、その規模は城下町をも掘で囲む南北約3.2km、東西2kmに及び、南限は平和大通り辺りでした。
満潮時には濠に海水が逆流する海城的な構えでした。
ということは、江戸時代くらいには平和大通りから南は海だったということになるでしょうか?現在は平地の真ん中にありますが、築城当時は海水で囲まれた海城だということになりますね。

広島城の東南約1.5kmの位置に比治山(ひじやま)がありますが、毛利元就の時代には比治山の西と南は海で、西北は京橋川河口で(スマホの地図アプリで広島市の比治山付近を確認してみると想像しやすいかと思います)、元就は比治山に新たな本拠地を築こうとしたそうですが、理由は明らかではありませんが元就は城地を五ヶ村(現在の位置)のデルタに変更したといいます。

天守閣はどんなものだった?

天守は2基の小天守を伴う複合連結天守で、天正17年(1589年)に起工、慶長4年(1599年)に楽慶法要が営まれました。
大天守は下2層(12間に9間)の大入母屋(おおいりもや)の上に、3、4、5層が順次小さくなっていき、5層は(3間4方)は廻縁(めぐりえん)がつく望楼。
高さ12.4mの石垣の上に26.6mの高さの天守があったことになります。

小天守は東と南の2基が3層でありましたが、明治5年(1872年)の破却令により解体され、大天守のみが残りました。

当時の秀吉の大坂城天守に近い大きさを有した全国最大級の天守でしたが、昭和20年(1945年)の原爆投下により大天守は木っ端微塵となりましたが、昭和33年(1953年)、外観が復元されて鉄骨コンクリート製で再築。
しかし、各階の武者窓である突土戸(つきつちど)は省略され、望楼に金網がめぐるなどして、昭和20年以前と比べて違和感のある部分も。

個人的には城の最上階に金網があるのは複雑な気分。
城のてっぺんから周りの景色を見渡すと、その街の形が分かって好きなので金網がない方がスッキリ見れていいのですが、同時に高い所が苦手でもあるので、望楼が狭いと転落しないか不安でもあるので、その点を考えるとやはり金網はあった方がいいのかという複雑な感じです。

広島城にはどんな建物がある?

本丸南側には地元では実質上の二の丸だったと言われている角馬出(かくうまだし)があり、(他の城だと二の丸って大きいのですが、広島城のものは規模が小さいそう)その名の通り、外部へ出撃するための施設。
本丸表御門と共に太鼓櫓、多聞櫓(たもんやぐら)、橋御門など一連の建物が原爆投下前まで残っていました。

これらは平成6年(1994年)に旧状どおりに木造で復元され、特に太鼓櫓の2層目は廻縁つきの吹き放ち構成で、内部に登城合図を告げる太鼓が吊るされ(これで少し当時の光景が想像できますね)、壁も真壁仕上げで、古式な城郭建築の姿を伝えています。

他に現在残っている物では福島正則の時代に建てられた石垣があったり、日清戦争の時に天皇が戦争を直に指揮する機関だった大本営の跡、また被爆したクロガネモチやマルバヤナギなどの樹木が残っていて、さらに昭憲皇太后が日清戦争の際に滞在した御座所や他にも戦時中の軍の施設、また明治31年に広島に水道が引かれたことを記念して作られた「桜の池」もあります。
原爆の被害を受けたということで、他の城とは見る上で違う意味合いのある建物などが特徴的でしょうか。
ただ城を見るということ以外に感じるものがたくさんあるかもしれません。







毛利氏発展の祖・毛利元就とは?

毛利氏発展の祖・毛利元就とは?

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あっちについたりこっちについたり毛利元就

広島城を建てたのは毛利輝元ですが、輝元が大大名なのはやはり祖父の元就が基礎を作ったことによるものなので、毛利氏と毛利元就について説明したいと思います。

毛利氏は鎌倉時代に相模武士だった毛利時親が安芸吉田荘の地頭として安芸に入り、室町時代には国人領主に成長していったのが始まり。
吉田荘で3000貫文の地を支配する在地領主に過ぎなかった毛利氏が戦国大名に成長したのは、やはり元就の活躍があったからです。

安芸国の守護は武田氏で、その下に300人ほどの国人が被官として名を連ねていて、元就もその一人。
元就は他の国人たちと国人一揆を結び守護武田氏を凌駕し、同じ国人だった吉川氏には次男元春を、小早川氏には三男隆景をそれぞれ養子として送り込み(たまたまどちらの家にも後継がいなかったのはラッキーでしたね。
吉川の方は吉川家中が内部分裂してこれを収めるために当主の興常(おきつね)を無理やり隠居させるためのものでしたが)、また同じ国人の宍戸氏(ししどし)には娘を嫁がせるなどして、国人一揆の中では頭一つ飛び出す形となりました。

もっともその時点ではまだ毛利氏は独立大名というわけではなく、尼子氏か大内氏のどちらかに付かなければ家を保つことはできませんでした。
元就ははじめ尼子氏につき、のちに大内氏につき、自分の嫡子の隆元(たかもと)を人質として大内義隆のもとに送っています。
隆元の「隆」は大内義隆から一字もらって名乗ったものだそう。
「あっちについたりこっちについたり!」と元就に怒る人もいそうですが、どんな戦国大名もこれをやっていますし、自分の家を守ることが最優先なので、仕方のないことだったのです。

安芸郡山城(あきこおりやまじょう)の戦いはなぜ起こった?

安芸郡山城(あきこおりやまじょう)の戦いはなぜ起こった?

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尼子晴久(はるひさ)は天文6年(1537年)に経久(つねひさ)から家督を相続したばかりだったにもかかわらず、急速に備中・備前・美作を攻略し、中国地方一の大名になっていきました。

晴久にとって元就が大内氏についたことは許せるものではなく(あっちについたりこっちについたり常識化した戦国時代とはいえど、裏切られた方は嫌でしょうね)天文9年(1540年)、ついに元就征伐の心を固め、6月に三刀屋(みとや、島根県東部)→赤穴(島根県飯石郡飯南町)→三次(広島県北東部)を通って元就の郡山城を攻め、要するに備後路から安芸に攻め入りましたが、甲立城主(五龍城)の宍戸元源(ししどもとよし)が粘り強く抵抗したため失敗に終わります。

そこで晴久は今度は赤穴から石見国(島根県)に入り、都賀(つが、島根県中部)→口羽(くちば、同じく島根県中部)→多治比(たじひ、広島県安芸高田市)という石見路を通って安芸に攻め入らせることに。
尼子軍は総大将久幸(ひさゆき、経久の弟)・国久・誠久(さねひさ)を中心に総勢3万を数えたと言われています。
元就勢は8000ほどで、元就にとって最初の大ピンチだということになりますか。
しかし、織田信長も徳川家康もこういう多勢に無勢の大ピンチを乗り越えてきていますよね。

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