山田方谷氏により、まるで会社を経営するように運営された「備中松山城」の歴史

備中松山城はどの様にして城主が変わっていったのでしょうか?そして、備中松山城を語る上で欠かすことのできない山田方谷という人はどんな人物で、備中松山藩を運営する上でどんな政策を行ったのか?これを知ることは現代を生きる人にとっても何かのヒントになるのではないか?と思います。それでは、備中松山城の成り立ちを最初から見ていきましょう。

備中松山城はどんな城か?

備中松山城はどんな城か?

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備中松山城はどこに立っているか?

備中松山城は新幹線のとまる岡山駅から電車で約1時間の、岡山県の北西部の盆地にある高梁市にあり、天守閣は江戸時代から残る12天守の一つで国の重要文化財に指定されています。
臥牛山(がぎゅうさん)という標高430mの山の上に立っており、これは天守閣を持つ日本の山城としては一番高い所にあるとされていますね(山城としては兵庫県北部の竹田城が有名ですが、建物が残っておりませんので)個人的な話になりますが、私の父の実家に行く途中で高梁を通るのですが、前述の通り標高430mの山登りをしなければならない事と、登る途中に猿が出るという話を聞いてから、残念ですが未だに登る決断ができないでいます。
あと、この城は大河ドラマ「真田丸」のオープニングに少し出てきます。

さらに毎年お盆には三日間かけて備中高梁駅前で「備中松山おどり」が開催され、これは駅前の道路を使って老若男女が(今の時代には珍しいですかね?)盆踊りみたいな「やとさ」とかそういう踊りをするお祭りで、私も参加したことがあり、すごく楽しいのです。
では、この城にはどの様な歴史があり、どの様に成り立っていったのでしょうか?

備中松山城はどんな建物で構成されているか?

備中松山城では、天守と二重櫓の2棟の建物と三の平櫓東土塀の1基の土塀が国の重要文化財に指定されています。
備中松山城の天守は現存天守12天守のうち、唯一の山城に残っている天守です。

二層二階の層塔式天守で、天和3年(1683年)に水谷勝宗(みずのやかつむね)の大改修の際に現在の形になったといわれており、約330年間経過しております。
天守の高さは約11mで、現存天守の中では最も低いものになります。

二重櫓は天守の後方に建つ二重二階の櫓で、一階の床面は7.9m×5m、棟までの高さは8.4mあります。
入母屋造りの屋根は本瓦葺きで、大棟の両端に一対のしゃちほこを据え、破風(はふ)には梅鉢懸魚が飾られています。
入口は一階の北と南の2箇所に設けられていて、本丸と後曲輪(うしろぐるわ)を結ぶ役割を持っていたのではないかと考えることができます。
漆喰塗りの連子窓は各面1・2ヵ所に開いていますが、城外に面した西面のみ3ヵ所とし、石落しも設けて防備を固めています。
備中松山城には14棟の櫓がありますが二階建の櫓は二重櫓のみなので、天守の次に重要な役割を持っていたと思われます。

備中松山城はどんな人々に取り争われたか

備中松山城はどんな人々に取り争われたか

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備中松山城を作ったのは誰か?歴代城主は誰がいたか?

備中松山城は、延応2年(1240年)に秋庭三郎重信(あきばさぶろうしげのぶ)が臥牛山に築城したのが始まりと考えられています。
承久の乱(1221年)の功績によって任じられ、備中一円への進出を考え陰陽道(山陰と山陽を繋ぐ道)の要地にあり天然の要害ともいえる臥牛山の大松山に築城したことが伝えられています。

この後秋庭氏にかわり備後の三好氏の一族である高橋九郎左衛門宗康(たかはしくろうざえもんむねやす)が大松山に入城しますが、この頃に小松山まで縄張りを広げ、以後城郭の縄張りは時代とともに変わっていきます。
高橋氏は秋庭三郎重盛(しげもり)によって備中松山城を追われ以後、備中松山城には秋庭氏が6代にわたって城にいて守護代を務めた後、備中松山城主は上野氏や庄氏などに変わっていき、さらに永禄4年(1561年)には安芸の毛利元就の力を得た成羽鶴首城主・三村家親が備中松山城主となりました。
しかし家親は宇喜多直家(うきたなおいえ)によって銃で暗殺され、家親の子・元親も明禅寺合戦(岡山市東部で行われた合戦)で大敗しました。
その後は尼子氏が備中松山城を取ったり元親が取り返したりしています。

戦国時代での備中での争いはどの様だったか?

その後、毛利・宇喜多連合軍と、織田家と組んだ元親が戦いましたが、結果として三村氏はその戦いで滅びました。
この頃には備中松山城は全山が一大要塞となっていたようです。
三村氏滅亡後の備中松山城は毛利氏が支配し、家臣の天野氏や桂氏などが城にとどまりました。
天正7年(1579年)今度は宇喜多と織田が毛利と戦いますが毛利輝元はその前線基地として備中松山城を選び、輝元自ら指揮して備中松山城の強化の普請にとりかかっていたことがうかがえ、現存する小松山城の前身がこの頃までには出来上がっていたものと考えられています。

天正10年(1582年)備中高松城の水攻めを契機に織田と毛利の攻防は終了し、戦後の協定で高梁川以西を毛利氏が、以東を織田氏が支配することとなりますが、その中にあって備中松山城だけは高梁川以東に位置するにもかかわらず毛利氏が譲らず毛利氏の領地となりました。
それだけ毛利にとって松山城は戦略的に大事な土地で譲れなかったということですね。
山陰・山陽道を結ぶ位置にある、攻めにくい山城ということで大事なんでしょうね。

江戸時代の備中松山城を治めたのは誰か?

江戸時代の備中松山城を治めたのは誰か?

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江戸期には誰が松山城を支配していたか?

関ヶ原合戦後、徳川家康は没収した毛利領のなかで最も東にある備中松山城に西国の目付けとして奉行を置き、城を預けました。
ここに赴任したのが小堀正次(こぼりまさつぐ)・政一(まさかず、遠州ともいう)父子で、備中松山城が荒れ果てていたため、当初は頼久寺で政務を行っていましたが、慶長11年(1606年)頃から政一によって御根小屋と備中松山城の修築が進められています。

この修築の時に描かれた2枚の備中松山城絵図のうちの1枚によると、城の縄張りや石垣は後世とほとんど変わりませんが、石垣は数か所で崩落しており土塀もいたるところで崩壊している状況で、建物としては瓦葺きの大手門・搦手門・櫓3棟の他、二の丸に草葺きの様な建物が1棟あるだけです。
やはり戦いの多い厳しい時代において、高いところにある備中松山城も壊れて荒らされて放置されてしまった時期もあったのですね。
しかし、今ある天守閣は江戸期のものなので、この後の時代の城主にしっかり建て直されて大事にされてきたのですね。

江戸期の城主たちと山田方谷の登場

その後、政一(遠州)は国替えとなり、備中松山城には因幡国鳥取から池田長幸(いけだながゆき、6万5千石)が城に入りますが、その子長常に子供がなく廃絶となり、寛永19年(1642年)に水谷勝隆(みずのやかつたか)が入城します。
元禄6年(1693年)に水谷氏が断絶すると、播州赤穂藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が城の受け取りにあたり、城代家老大石内蔵助(おおいしくらのすけ)はその後1年近く在番として備中松山城にとどまっています。

その後、安藤重博(6万5千石)・信友、次いで正徳元年(1711年)に伊勢国亀山(現三重県亀山市)から板倉勝澄(かつずみ)(5万石)が入城し、板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝●(●は日へんに夌)・勝織・勝静・勝弼と7代続き、廃藩置県を迎えました。
このいわゆる「幕末」の時代を迎えようとしていた勝静の時代、備中松山城近辺の人物で日本全国に誇れる山田方谷(ほうこく)という家老が出てきますので、この人について紹介したいと思います。
農民出身の方谷の財政政策によって備中松山という小藩が建て直されたのです。

方谷と主人の関係

方谷と主人の関係

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藩政代行者としての山田方谷

農民出身の山田方谷を登用した板倉勝静はもともと板倉家の人間ではなく、「寛政の改革」を推進した松平定信の子孫である桑名藩主松平定永の第8子であり、天保13年に板倉家の当主勝職(かつつね)の養子となり、7年後の27歳の時に藩主の座を継ぎました。
勝静は農民出身の山田方谷を脇に置いていろいろな意見を聞き、勝静は安政4年に寺社奉行に任命されさらに老中になった後はほとんど江戸や京都にいて傾いた幕府の力をなんとか保とうとし、幕府の壊滅を1日でも先延ばそうと努力しました。

山田方谷はこのように主人の勝静が中央の仕事に専念している間に藩主の代行として備中松山藩政を守り抜いた人です。

方谷は学者として有名で、明治維新後岡山の閑谷学校を再建したことでも有名になりました。
閑谷学校は岡山藩の学校で備中松山とはなんの関係もなく、閑谷学校の衰退を嘆く岡山藩の人々が方谷に期待し、それほど方谷の学者としての地位は高かったのです。

しかし彼の本領は傾いた幕府をどうにか立て直そうとしている主人・勝静に中央の仕事に専念させたことにあります。
今の言葉を使えば「社長代行者」です。

「モノは水の道、人は土の道」とは?

「モノは水の道、人は土の道」とは?

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高梁川の舟運と高瀬舟にはどんな関係があるか?

古代から岡山県のあった備前・備中の国は3本の大きな川が流れていました。
東から吉井川、真ん中が旭川、そして西が高梁川で、それぞれ大きな川の港がありました。
それは「モノは水の道、人は土の道」という不文律があったからです。
土の道では人間が担いだり車を使ってもモノを運べる距離はたかが知れていて、そのため川や海では舟運(しゅううん)が盛んで港が設けられ賑やかになりました。
吉井川では福岡、旭川では岡山、高梁川では倉敷と水島という港がありました。
松山城主の中でも水谷氏は特に舟運に気を使い、倉敷と玉島の港を整備し、高瀬舟の活用に力を使いました。

京都に高瀬舟を航行させたのは角倉了以という豪商でしたが実は角倉了以は高梁川でヒントを得たのです。
了以は倉敷に親戚がいて、川遊びをして舟の上で酒盛りを始め、自分たちの舟の脇をしきりに底が浅く大量の荷物を積んだ舟が行ったり来たりし、ているのに気付き親戚にそれを聞くと「高瀬舟だ」と答えました。
親戚は「日本ではいろいろなことを西と東で片付けたがるが、南と北の問題、備中国の高梁川流域は北が山岳地帯、南が平野部で取れる物が違う。
それを互いが交換すれば生活の落差はなくなる。
この高瀬舟は水田の中を走るのに使われ、底が浅くてたくさん荷物が積める。
川上に行く時は平野部の荷物が積まれ、上から下がってくる舟には山岳部の製品が積まれているんだ」といい、この話は了以にヒントを与えました。

高瀬舟は高梁川で最初につくられた?

了以は倉敷で得た「日本の国は狭い蹴れど、存在するのは東西問題ではなく南北問題もある」という発想で京都に戻って考え、これを活用できないか考えました。
「日本海と太平洋を結ぶ物流ルートをつくることができないだろうか」ということを考えました。

京都の背後には琵琶湖があり、大津から今津は大きな舟の航行が可能で、山越えをするが抜ければ越前の小浜か敦賀に出る、ここに日本海側の産品を集積できれば琵琶湖を通じて京都に運び込めます。
今日tには鴨川がありますが、これは流れが急で使えません。
とくに流れをさかのぼるのは難しく「新しい運河が必要だ」と考え「高梁川と同じような運河を京都に作れないか」と思いつくに至りました。

そこで幕府に申請し許可を得て完成したのが高瀬側です。
そして作られた運河で人や荷物を運ぶのに使われたのが底の浅い高瀬舟でした。
高瀬川や高瀬舟は京都のものと思いがちですが角倉了以の方が高梁川でその考えを拾ってきていたのです。
水谷氏は高瀬川運行のために高梁川を改修したり玉島港を整備し、同時に北方山岳地帯の千屋鉱山の開発も行いました。
地方の資源開発とその搬出ルートの設定を先がけていたのです。

私がよく見る今の国道180号沿いの高梁川には小さな船も浮かんでいるのはそう見た事がないので、この川が昔は水運で栄えていたというのは少し驚き余した。

山田方谷はどの様に育ってきたか?

山田方谷はどの様に育ってきたか?

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今でも地元の人に愛される方谷

岡山駅から鳥取県の米子に通じる伯備線という鉄道がありますが、この伯備線の備中高梁駅の北にある臥牛山という山の上に備中松山城があり、ふもとに「牛麓社」という方谷の塾の跡が残されています。
牛麓というのは臥牛山の麓(ふもと)という意味でこの辺りには方谷林とか方谷橋など山田方谷の名前が付けられた市民施設がたくさんあります。
それほど高梁市民にとって山田方谷は誇れる存在なのでしょう。

伯備線で20分ほど北に向かうと「方谷」という駅に着きます。
この駅名も山田方谷の名を取って付けられましたが、これにはひと悶着あり、鉄道当局に「人命を駅名にした例はない」と言われましたが、地域の人々は熱心で「山田方谷先生はこの地域が生んだ素晴らしい方です、ぜひ方谷駅と名付けてください」と頼みましたが、前と同じ理由で断られました。

鉄道当局は妥協案を出してきましたが住民達は気に入らず、知恵を出し合ってこういうことに気がつきました。
この村の中を流れている西方川はここで高梁川と合流します。
なので「西方川の谷という意味で『方谷』という意味を持たせたらどうか」という案でした。
これを鉄道当局に持っていくと担当者は苦笑しましたが、折れて駅は「方谷」と名付けられました。
日本国内の中でも個人の名前が駅になっているのは長い間ここだけでしたが、その後同じ岡山県で宮本武蔵を記念して「武蔵」駅ができました。
今は「宮本武蔵」駅ですがこれはどういう経緯で人名駅が認められたのでしょうね?

父と母からの方谷への期待

方谷は上の方谷駅が建てられる辺りに住んで長瀬塾という学塾を営んみましたが、その敷地の大部分は線路や駅舎などの敷地に変わり、そのため現在は迫り出した山腹の一角に「山田方谷先生旧宅址」という石標が建てられています。
方谷はこの地域の特性を「鉄」に結びつけて詩にし、「鉄気は山にこもって山勢高し さらに人心の剛なることは鉄に似たり」と詠んでいます。
この地域は奥へ行けば行くほど鉄の産地として有名だからだそうです(吹屋の「べんがら」のことでしょうか?)

山田方谷は備中松山藩領の阿賀郡西方村に生まれ、父親は農業を営み五郎吉といい、母は梶といいました。
方谷の名は球で通称安五郎であり方谷は号です。
方谷の父は、方谷の家は元々武家でしたが、衰えて農民になったことを嘆いていました。
そこで方谷を幼い時から丸川松隠のもとで学問を習わせ、祖先についで家運を興すようにとしばしば訓戒を与えたそうで、方谷の母は必ず傍から方谷を励ましたそうです。
方谷の母はわずか40歳で亡くなり、父もまた翌年に亡くなったそうで(辛いですね)、その後備中松山藩に学問の道で仕官が叶い、藩の要職を歴任し、藩政を預かることとなりました。

学問をすることにより山田方谷がつくられた

学問をすることにより山田方谷がつくられた

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カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きです。城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べてもいます。過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。

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