城主が何回も変わり、今日の岡山の名観光地を作り上げた「岡山城」の歴史

岡山城は城主が何回も変わっていますが、それぞれの城主はどんな人物でどんな人生を歩み、どんな人に助けられ、どんな町づくりをしたのでしょうか?そして岡山城とは切り離すことのできない後楽園という庭園はどんな庭園でしょうか?岡山城とその周りの人々と周辺の施設を戦国時代からの歴史を通して見ていきたいと思います。

岡山城の成り立ちと宇喜多氏のおこり

岡山城の成り立ちと宇喜多氏のおこり

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岡山城の位置と周りの施設とその成り立ち

岡山城は岡山市の中心の岡山駅から東に1.7km、歩いて25分の距離にあります。
路面電車ですと岡山駅から岡山電気軌道東山線に乗り「城下」(しろした)の電停から歩いて5分ほどです。
全体的に黒い城であるため「烏城」(うじょう)と呼ばれています。
天守閣は太平洋戦争による空襲で焼けてしまいましたが、1964〜66年の間に修復されました。
その近辺には日本三名園の一つで知られる大名庭園、後楽園(こうらくえん)があり、緑豊かな景観で静かな散歩コースとして岡山市民に親しまれています。
私もたまにこの辺りを散歩して、ついでに岡山城を写真に収めてInstagramに載せたりしています。

さらにこの付近には岡山市民会館、岡山県庁、岡山神社、さらには美術館もあります。
城から少し西にある石山公園ではいろいろなイベントが開催されたりしています。

では、この烏城は最初はどの様にして出来たのでしょうか?まずは岡山城が建てられた時期から辿っていきましょう。
最初に岡山城を建てたのは備前の国の大名、宇喜多直家(うきたなおいえ)です。

宇喜多直家はどの様にして岡山城を建てることになったか?

戦国時代、現在の岡山県のある備前・備中・美作の国は多数の豪族が領地を争っていました。
享禄2年(1529年)宇喜多興家(うきたおきいえ)の子として宇喜多直家は生まれました。
祖父能家(よしいえ)は主君・浦上家(うらがみけ)に三代に渡って頭が良く戦の時も強い名将として数々の武功を立て主家の危機を救ってきましたが島村盛実(しまむらもりざね)に暗殺され、父興家と共に放浪の生活を送っていました。

直家は成人すると浦上家に仕え、浦上氏の勢力を拡大するために中心的な役割を果たしました。
永禄9年(1566年)2月には美作国へ兵を出した備中国の三村家親(みむらいえちか)を鉄炮で暗殺し、翌年7月の明善寺合戦(みょうぜんじがっせん)によりそれまで備前西部に進出していた備中勢を追い返すことにほぼ成功し浦上家で並ぶもののない実力者となりました。

それにより宇喜多家の抱える足軽たちの数も多くなって直家の持っている城であった亀山城(かめやまじょう)も狭くなり、旭川(あさひがわ)のほとりにある石山に大きな城を築き移りました。
これが岡山城の原型である石山城です。

宇喜多直家と毛利家、そして織田信長軍の戦い

宇喜多直家と毛利家、そして織田信長軍の戦い

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岡山城と秀吉

石山城は旭川が天然の堀となり瀬戸内海との水運も良く、(当時、児島湾の海岸線は現在より岡山市中心部に近い所にありました。
海が近かったのです)山陽道(さんようどう)も通り平野が広がっています。
直家はここに備前福岡(びぜんふくおか)や備前西大寺(びぜんさいだいじ)から商人を呼び寄せ、新たに城下町を作ることを考えたのです。
直家は1573年、石山城を持つ金光宗高(かねみつむねたか)を切腹させて石山城に入りました。

その後織田信長に中国地方制圧の大将を任された羽柴秀吉が備前・美作にも進出してきたことに脅威を感じ、直家はそれまでたびたび領地を争ってきた毛利家と一度同盟を組みました。
その後主君浦上宗景(うらがみむねかげ)を追放し宇喜多家の領内での安定した支配権が確立される事になりました。
なぜ宗景を追放したのか?という疑問が湧くかもしれませんが、直家の祖父の能家を暗殺しろと命じたのが宗景であるとわかってきたからです。

羽柴秀吉が上月城(こうづきじょう)に攻めてきて城を落とされ、それから直家は何度も城を奪い返しますがその度に奪い返されていきました。
そのため直家は毛利に援軍を請い、加勢を得て織田軍を播磨を引き揚げさせることに成功しましたが、毛利の動きの鈍さを不安に感じた直家はこの後岡山城下の商人、小西弥九郎(こにしやくろう、後の小西行長(こにしゆきなが))を通じて、織田軍と講和・同盟を結ぶことにしました。

直家の死と毛利家との戦い

直家は織田軍の一員となった事を証明するため、毛利側の城を攻撃しましたが、これに怒った毛利軍は軍を進め次々と城を落としていきました。
敵になったり味方になったり大変ですが、みんな生きるために必死で仕方がなかったのですね。
この後直家は病に倒れ、天正9年(1581年)享年53歳で息を引き取りました。
織田信長は直家の遺領である備前・美作・播州・佐用・赤穂の五郡と備中の一部を、直家の嫡男・八郎(後の秀家)に受け継ぐ許可証である朱印状を与えました。

天正10年(1582年)春、播磨の三木城、因幡の鳥取城を落とした秀吉は信長の命を受け、毛利征伐として備中高松城に出陣しました。
備中高松城は沼地を利用した天然の要塞で、あいにく雨の多い時期で鉄砲も使えず馬も兵もぬかるんで進めず、兵糧攻めは時間がかかり毛利の本隊が近付いてきているため、秀吉の軍師の黒田官兵衛は高松城の南に堤防を築き、足守川(あしもりがわ)の土手を壊す「水攻め」を提案しました。

ちなみに少し前の大河ドラマの主人公として有名なこの黒田官兵衛は現瀬戸内市にあった備前福岡の市の辺りの出身であったと言われています。
このため後に官兵衛が封ぜられた筑前国の城下町に、出身地の名前を付けて「福岡」と呼んだと言われています。
今日の福岡市・福岡県の名前の由来はここにあるそうです。

秀吉の時代と秀家の躍進

秀吉の時代と秀家の躍進

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備中高松城水攻めと本能寺の変

有名な「一夜城」の話など土木工事の得意な秀吉は2000余人の労働力を集め、他にこの地方の百姓町人ほぼ一万人に「土俵1俵を運んでくれば銭百文と米1升を与える」という夢の様な条件を出しました。

堤が完成し足守川の水を高松城の周りに引き入れたために城主の清水宗治(しみずむねはる)は孤立し、そこで秀吉は「宗治の命を助けて備中と備後を与えるから降伏しろ」と毛利側に言います。

毛利側もこの勧告に応じて5カ国を秀吉に譲り渡すことを決断しますが、この時秀吉の軍に毛利側の密使が入り込み、「織田信長が京都の本能寺で、明智光秀によって討たれた」という情報を得ました。
それにより秀吉は本能寺の変を知らない毛利との休戦協定を結ぶのを急ぎ、城主の清水宗治を切腹させました。
さらに秀吉は大軍を京都に向けて引き返し(このあまりにも早い大軍の行軍は「中国大返し」と呼ばれました)信長の重臣の中で一番早く上洛し、京都の南側にある山崎で主君の仇、明智光秀を倒しました。

この後の清洲会議で信長の長男、信忠の長子(信長の孫)である三法師(さんぼうし)を後継者にすることを提案し、その意見が通って秀吉は三法師を織田家の後継者として助けて育てていくこととなり、秀吉が織田家で一番大きな権力を握ることを決定付けました。

秀吉の天下統一への道と宇喜多秀家の成長

天正11年(1583年)、秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒し、織田家の旧領を手に入れ、さらに翌年小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦い、ここで宇喜多勢としては、岡利勝(おかとしかつ)・長船貞親(おさふねさだちか)・花房職秀(はなぶさもとひで)などが秀吉軍として参戦しました。
宇喜多勢はその後の四国征伐にも参加し、秀吉の全国統一を助けていきます。
秀吉は49歳で朝廷から関白に任命され、「豊臣」の姓を与えられました。
「豊臣秀吉」と名乗るのはこの時からです。

秀吉は新しく完成した大坂城に入城し、直家の妻であったお福と直家の子の八郎を呼び寄せました。
天正13年(1585年)、八郎は元服し秀吉の「秀」と直家の「家」を取って、「秀家」と名乗るようにその後秀吉と親子関係を結びました。
天正15年(1587年)、秀家は参議従三位(さんぎじゅさんい)に昇進し、秀吉の養女の豪姫(加賀の前田利家の長女)を正室とし、秀吉の九州征伐のため一万三千の兵を率いて初陣を飾りました。
この時豪姫の付き添いとして加賀から中村次郎兵衛が宇喜多家に加入し、秀家は秀吉から豊臣姓と羽柴姓を与えられ、豊臣家の一門として小田原征伐にも参加し、豊臣政権を支えました。

岡山城と新しい城下町の完成

岡山城と新しい城下町の完成

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岡山城天守閣の築城

この頃、秀吉の家臣としての地位が上がってきた秀家にとって、石山城は手狭になってきており、秀吉の提案もあり、石山城を隣の岡山(現在の岡山城のある山)に移す拡張工事をすることを決めました。
この時豪姫と共に加賀からやってきた中村次郎兵衛(なかむらじろうべえ)を普請奉行(ふしんぶぎょう)に任命しています。

工事が始まってしばらくしてから朝鮮出兵(文禄の役)の命令が下り、工事は中断し、宇喜多軍は宇喜多忠家が先発し19歳の秀家も海を渡ります。
朝鮮では加藤清正・小西行長らと共に戦いました。
翌年の暮れに秀家は朝鮮よりその時朝鮮より医学書など先進的な書物を持ち帰り、当時の日本文化に貢献しました。

秀家が戻ってきてから岡山城の工事は再開され、犬島から石を採掘し旭川を上って運ばれ、石垣が作られました。
川岸の石垣は堤防となるため、北と東を厳重に積み上げ、城全体を三段に整地し、東の高い台地を上段としその西側に一段低くした中段、その下を川の堤防の高さと同じ下段としました。
しかし、普請奉行の中村次郎兵衛は自分の頭の良さを鼻にかけ、なおかつキリスト教を信奉していて、宇喜多家は日蓮宗の信徒が多いため譜代の家臣たちに不信に思われます。

岡山城の完成とその作り

岡山城の完成とその作り

後楽園へと渡る橋の上から撮った岡山城の天守閣です。/筆者撮影

慶長元年(1596年)、再び秀家率いる宇喜多軍は朝鮮に渡り(慶長の役)その出兵中に岡山城の天守閣が完成しました。
天守の屋根は金箔を押し、黒漆塗り板を張り詰め、周りを威嚇(いかく)し威厳を持って光り輝く金烏(きんう)(金のカラスで太陽も示す)を仕上げられていたそうです。
秀吉の意向があったため、大阪城と同じ様なきらびやかな装飾になったのでしょうか。

現在の天守閣も金の金具が屋根の所々に仕掛けられています。
大きさの異なる二階建ての建物を三重に重ね、3層6階になっており、軒の丸瓦には宇喜多の家紋「太閤桐」が見え、天守の高さは約20m50cm、入り口の塩蔵の1階は塩や武器の倉庫に使用され、天守一階の部屋は72畳を板戸で3室に仕切り、二階も同じ間取りでした。
武者走りで不等辺五角形を調整し、二階に24畳の城主の間があります。
この部屋の天井の丸太は土佐から取り寄せた松の木で、3階は85畳、4階は56畳、5階と最上階の6階は17畳の正方形です。

そしてこの後の慶長3年(1598年)、太閤秀吉が伏見城で亡くなり、秀家も朝鮮から帰国しました。

岡山の町はどうでき上がっていったか?

岡山の町はどうでき上がっていったか?

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新しい岡山の街並み

秀家は山陽道(兵庫県西部から山口県を結ぶ当時の幹線道路)を岡山の城下町を通る様に付け替え、戦の時の防備のために5つ直角に曲げられました。
京や大阪のものを売る店が立ち並んだ京町ができ、旭川の中にある二つの小島、東の東中島と西の西中島があり、この島を結ぶ様に豪商の那須半入(なすはんにゅう)が東から小橋(こばし)・中橋(なかはし)・京橋(きょうばし)を架け、現在はこの橋は路面電車が走っています。
岡山の下町を感じさせる雰囲気があって私も好きなところで、京橋の西岸では月に一度朝市が開かれています。

船着町には上方からいろいろなものが船で運ばれ、商人の町には西大寺町・福岡町・片上町・児島町などがあり、これらは商人が集められた町の名前を指しています。
現在も「新西大寺町商店街」という商店街がありますが、私も「なぜ岡山なのに西大寺(岡山市中心部から東にある町)なんだろう?」と不思議に思った事があったのですが、これによるものなのですね。

職人町も職業別に名前が分けられていて、大工町・桶屋町・瓦町・磨屋町・紙屋町・仏師町・紺屋町などがあります。
侍屋敷の区画も分けられていて天瀬(あませ)や番町(現在ここには裁判所があります)がこれにあたります。
秀家は城下が武士・商人・職人の町に分けられて城を守りながら城下町全体が栄える様に考えたのです。

武将派と官僚派の対立、関ヶ原の戦い

宇喜多家では武将派と官僚派の対立が激化し、国の政治に関わり始めた中村次郎兵衛に武将派が激しく反発。
そして大坂備前屋敷の秀家に中村次郎兵衛の処分を迫ったのですが、これに対し秀家が戸川達安(とがわみちやす)の暗殺を企てているという噂が流れ、両者がぶつかりかねない事態となりました。
そこへ徳川家康が取りなし、戸川達安・花房職之(はなぶさもとゆき)・宇喜多詮家(うきたあきいえ)(関ヶ原後に「宇喜多」の名を嫌った家康により「坂崎直盛」(さかざきなおもり)と名を改めました)ら武将派は宇喜多家から離反し、徳川家康の預かりとなり、中村次郎兵衛はこの騒動で身の危険を感じ秀家と豪姫の取り計らいで加賀の前田家に逃れました。

そして慶長5年(1600年)、石田三成・宇喜多秀家らの西軍と、徳川家康らの東軍が対立し、関ヶ原にて対陣、秀家は西軍八万五千の総大将として戦いましたが、小早川秀秋(こばやかわひであき)が裏切り西軍の側面を突いた事により西軍は大崩れし、東軍の大勝利となりました。
その後秀家は薩摩の島津家にかくまわれましたが、捕らえられて八丈島に流され、明暦元年(1655年)84歳で亡くなりました。
島流しにあったにしては長命だった様で、天寿を全うできたのは運が良かったのではないでしょうか。

宇喜多氏以降の岡山城の統治

宇喜多氏以降の岡山城の統治

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小早川秀秋は短い統治でどんな街づくりを行ったか?

関ヶ原の合戦の翌年、小早川秀秋が東軍を勝利に導いた功績により備前・美作2万5千石を与えられ、岡山城主となりました。
秀秋は豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)の兄木下家定(きのしたいえさだ、初代足守藩主)の五男として、天正10年(1582年)に近江の長浜で生まれました。

秀秋は城の固めるため外堀を築き、領民や家臣を動員し二十日間で完成させたため「二十日堀」(はつかぼり)とも呼ばれました(現在の柳川筋(やながわすじ)のこと)。
この外堀の西側に蓮昌寺(れんしょうじ)や岡山寺、大雲寺(だいうんじ)などを移転して寺町とし、領内の小城を廃城し、櫓・城門を岡山城に移しました。
東軍として戦った旧宇喜多勢の者達もそれぞれ知行が与えられ、坂崎出羽守直盛は津和野、戸川達安は庭瀬藩、花房職之は備中高松の知行所を与えられました。

この様に秀秋は入国当初は良い政治を行いましたがそれもわずかな期間で、次第に狂乱状態になっていきました。
関ヶ原で三成率いる西軍を裏切った事を気にしていたのでしょうか(大河ドラマにはそういう演出がありましたね)、そのためか秀秋が家老を殺したりしたため家臣が他国に逃げ出したりして国政は乱れました。
そして慶長7年(1602年)、秀秋は23歳の若さで急死、子供もいなかったためお家断絶となりました。

池田氏の政治のはじまり

小早川氏の後、池田輝政(いけだてるまさ)の子、わずか5歳の池田忠継(いけだただつぐ)が岡山城主になりました。
幼少のために兄の利隆(としたか)が変わって岡山の藩政を取りました。

利隆は岡山城西の丸(旧内山下小学校内、余談ですがこの小学校は廃校になった今もいろいろなイベントなどに有効活用されています)を整備し西手櫓(国の重要文化財)を建て、二の丸の対面所(林原美術館)や旭川の河口付近に軍港を作り、法源寺も建立して多くの功績をあげました。

輝政が病死したため利隆が姫路に帰り、忠継が急死すると、幕府は忠継の弟の淡路藩主、忠雄を任命し、岡山城に入りました。
忠雄は城郭の整備や城下町の拡張整備などを行い、大手門を現在の位置(烏城公園正面入口を渡ったところ)に改め、高麗門を構えて枡形門を作りました。
さらに月見櫓を新設し武器が鉄砲から大筒(大砲)へと進んだための防衛施設として作られたものですが、「月見」という風流な名前が付けられたのは軍事施設であることを幕府から隠すためです。
さらに飲料水や防火用水に使うために西川を通し田町(侍屋敷)を作りました。

池田光政が今の岡山に何を残したか

池田光政が今の岡山に何を残したか

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カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きで、城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べていて、過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。 よろしければブログも読んでみてください。http://tatsuyakawakami.hatenablog.com

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