出奔されてもコイツが必要!と伊達政宗に思わせたデキる親戚・伊達成実ってどんな人?

朝鮮出兵と秀次事件

朝鮮出兵と秀次事件

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完全に秀吉に屈服することとなった政宗は、文禄元(1592)年の最初の朝鮮出兵「文禄の役」に参戦し、成実も従軍します。

この時、伊達隊は見物客が詰めかけるほどド派手な軍装で臨んだと言われていますが、もしかすると成実も…?と思ってしまいます。

ところで、武将の兜ってかなり個性的なものが多いんですが、成実もまたその例に漏れません。
兜の前面にあしらわれた飾りは「前立て」と言いますが、成実のものはなんと「毛虫」。

これ、決して気持ち悪いものではないんですよ。
毛虫には「退かない、つまりは前進あるのみ」という意味がこめられており、他の武将も使用しています。
でもやっぱり、ちょっと気持ち悪い…と思ったら失礼なんですが。

文禄の役の後の文禄4(1595)年、秀吉の後継者と目されていた関白・豊臣秀次(ひでつぐ)が、突如謀反の罪に問われ、切腹させられてしまいます。

政宗は秀次と親しくしていたため、危うく連座の罪を問われる事態になりました。

そこで、成実を含む在京の伊達家臣たちが誓詞を提出して事なきを得たのですが、この時、成実の署名は二番目でした。
これが、後の彼の出奔の一因ではないかと言われているんですが…さて、次項でご説明しましょう。

突然の出奔!原因は?

突然の出奔!原因は?

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秀次事件の後、突然、成実は出奔してしまいました。

いったいどうしてこんなことになったのか…現在でも、はっきりとした理由は謎に包まれています。
そして、出奔したとされている時期もまちまちなんです。
文禄4(1595)年から慶長3(1598)年の間とされており、行き先も、高野山とも相模・糟谷(神奈川県伊勢原市)とも言われており、何ともモヤモヤした出奔劇でした。

理由はいくつか推測され、仮説が立てられています。

まずは、先ほどの項目で少し触れた、誓詞での署名が二番目だったということ。
これはつまり、伊達家における席次が二番目であるということなんですが、一番目になったのが石川義宗(いしかわよしむね)という政宗のいとこであり、父の代では政宗に一度敵対した家でもあったんですね。
成実としては、なんでそんな奴の下なのか…という思いがあったことかと考えられます。

他にも、功績に対する所領が少ないことへの不満があったとか、独立して大名を目指そうとしたとか、はたまた諸国を巡り政宗が天下を取るための工作をしていたとか…いろいろな説がありますが、いちばん有力視されているのは、最初に述べた席次への不満だとされています。
それでも、はっきりとはわからないんですけれどね。

出奔後の成実は…そして出戻りへ

出奔後の成実は…そして出戻りへ

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成実が出奔してしまったので、角田城で留守役をしていた家臣たちは、政宗が差し向けた接収軍に抵抗した末にほぼ皆殺しにされてしまいます。

その後、成実自身は徳川家康に仕えようとしましたが不首尾に終わったとも伝わっています。

また、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの際には、上杉景勝に5万石で家臣にならないかと誘われますが、「本来なら家臣になるはずの奴に従えるか」と断っています。
確かに、父・実元が養子に入っていれば、謙信も景勝も家臣扱いになったかもしれませんからね…。

と、そこへ、片倉景綱と甥に当たる留守政景(るすまさかげ)らが成実を説得にやって来ます。
そして、何だかあっさりと成実は政宗の下に復帰しました。
抵抗して命を落とした家臣団は何だったのか…と突っ込みたいですが、このあっさりとした出戻り劇の裏では、きっと片倉らが奔走していたんでしょうね。

そして、政宗も成実を受け入れていることからすれば、政宗も成実を必要としていたんでしょう。







政宗との交流と信頼

政宗との交流と信頼

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慶長7(1603)年、成実は仙台伊達藩の南の要害・亘理城(わたりじょう/宮城県亘理町)を任されます。
出戻りとはいえ、政宗に相変わらず信頼されていたことがわかります。

政宗は成実にしょっちゅう手紙を書いており、「特に用はないが手紙を書いてみた」という何とも笑ってしまう手紙や、「沙汰がないので心配している」という手紙も残っており、交流があったことがうかがえます。
鶴や魚など、多くの贈り物がやり取りされていたようですよ。

政宗の娘が徳川家康の息子と結婚する際は婚礼の使者となったり、最上家改易の際には城を接収する大役を担ったりと、伊達家にとっては欠かせない存在でした。

政宗が亡くなってからも、跡を継いだ忠宗からも重用され、名代として江戸に参上しています。
この時、将軍・徳川家光に人取橋の戦いの思い出を語り、家光に「すごい!」と感嘆されたそうですよ。

こうした過去の戦の経験や政宗とのエピソードを、成実は「成実記」としてまとめています。
戦だけでなく、文才もあったんですね。

そして、正保3(1646)年、養子の宗実(むねざね/政宗の九男)に家督を譲ると間もなく亡くなりました。
79歳と、当時としては長寿を全うしました。

亘理伊達家初代としての名君ぶり

亘理伊達家初代としての名君ぶり

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亘理城主となった成実は、城下町の整備や農業の振興に尽力しました。
稲作に向かない沿岸部は塩田として開発したりして、なかなかの行政手腕を発揮しています。

こうした彼の業績により、最初は6千石余りだった亘理の石高は、後世には2万5千石弱にまでなったんですよ。

そして、名君として慕われた成実は、明治時代には亘理神社の祭神となっています。

また、亘理伊達家14代当主・邦成(くにしげ)は、戊辰戦争後に北海道へ渡り、ここで苦難を乗り越え開拓を果たしているんですよ。
当時は逆賊だった伊達家でしたが、この功績によって男爵となりました。
邦成自身も養子であるため、成実の直系の子孫ではありませんが、その行政手腕が後に受け継がれたような気がしてなりません。

出奔劇の真相が知りたいが…

出奔劇は気の迷いだったのかとしか思えないほど、成実はその時期を除いては政宗に尽くしています。
今となってはその理由を推測することしかできませんが、のっぴきならない事情があったのでしょうね。
彼の兜にあしらわれた毛虫の前立てのように、とにかく前に進むしかなかったのでしょう。

しかし、彼を失わなくて済んだ政宗は、本当に良かったと思いますよ。
もちろん、出戻りの成実を受け入れた政宗も度量が広いんですが。
すべてを水に流して再び信頼関係を再構築できたのは、成実のこれまでの功績と人となりがあってこそだったのではないでしょうか。

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