五稜郭は城だった!箱館戦争を経て特別遺跡に指定されるまで

日本国内最後の内戦といわれている戊辰戦争。その舞台となった場所は北海道函館市にある五稜郭です。元々は江戸時代後期に箱館奉行所の移転先に建てられた城郭(じょうかく)ですが、その役割はたった2年間で終わってしまいました。江戸幕府の役所の一つとして使われていた奉行所が、なぜ戦争の舞台になってしまったのでしょうか。今回は五稜郭の建築から戊辰戦争、そして国の特別遺跡に指定されるまでの歴史について、分かりやすく説明したいと思います。

五稜郭の基礎知識

五稜郭の基礎知識

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今は桜の名所「五稜郭公園」

現代の五稜郭は公園となっていて、桜の名所や観光地としてもその名を聞くことがあります。
しかしその穏やかな場所が、ほんの150年前は戦地だったのです。
旧幕府軍と新政府軍が繰り広げた戊辰戦争、その最後の場所が五稜郭でした。
そのほぼ中央にあるのが箱館奉行所ですが、実はこの奉行所を海外の脅威から守るために、日本で最初に作られた西洋式の城郭が五稜郭なのです。

城郭とは、城や町を敵から守るための施設や囲いのことを言います。
そして、箱館奉行所を囲んでいる城郭は、日本で初めての西洋式の城郭でした。
同時期に作られていた長野県佐久市の龍岡城も函館の五稜郭と同じ様式で、どちらも五稜郭と呼ばれますが一般的に五稜郭と言うと、函館の城郭をさしていることが多いです。

また、五稜郭は別名・亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)又は柳野城(やなぎのじょう)と呼ばれることがあります。
実は五稜郭が建てられた当時、箱館周辺は水はけが悪く湿地でした。
そのため、ネコヤナギがたくさん生えていたために、土地の名前も別名「柳野(やなぎの)」と呼ばれていたのです。

箱館奉行所はお裁きの場所ではない

奉行所というと、悪人や罪人の裁きをする場というイメージが強いですが、実際箱館奉行所はお役所でした。
江戸時代末期ごろ、外国の艦隊が日本沿岸に近づいてきて、当時鎖国をしていた日本に開国を求めることが頻繁に起き、有名なペリー提督もその一人です。
その状況が暫く続いた後、日本は開国をする決意をします。

1854年3月、日米和親条約を結び、下田と箱館の開港が決まりました。
そして、その翌月にペリー提督が箱館にやってきます。
幕府はペリー提督が去ると箱館奉行所を復活させることにしました。
実は、箱館奉行所は当時なかったのです。
34年前に役目を終えたとして、奉行所はそのまま使われていませんでした。
幕府は開港後の諸外国との交渉や蝦夷地(えぞち)の海岸の防備、またその統治をおこなう場として、箱館奉行所を再度設置したのです。
また、開かれた数少ない港の街として、箱館には諸外国の領事館が次々と置かれるようになり、箱館奉行所は外国との窓口となりました。

しかし、問題がありました。
それは箱館奉行所のその場所にあったのです。

箱館奉行所を外国から狙われないように

箱館奉行所を外国から狙われないように

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最初の箱館奉行所の場所は不安だらけ

元々箱館奉行所は、現在の元町公園がある場所に建てられていました。
そこは見晴らしがとても良い場所で、奉行所から街並みや港が一望できたと言われています。
しかし、それは言い換えれば「港からもよく見える」ということ。

日米和親条約により箱館港が開港し、外国の艦隊が出入りをするようになりました。
当時の外国の大砲技術は、箱館港から奉行所までは射程距離の範囲内で、その為奉行所は格好の標的になり得る可能性があったのです。
また背後にある箱館山は外国人遊歩地の一部で山頂付近から、奉行所がよく見渡せるという不安がありました。

外国からの脅威を心配した初代奉行の竹内保徳と2代目堀利煕は、奉行所の場所を移動させることを江戸幕府に提案します。
幕府はこれを受理し、早速場所の候補地を探し始めました。

しかし、奉行所を移転させたところで、箱館港に外国の艦隊が出入りするのは変わりませんし、守るべきものがないと移転させる意味がありません。
そこで、箱館港周辺の防衛対策に港湾を取り囲む台場(砲台)を作る計画も同時に勧められました。

奉行所の守りを固めるために

竹内と堀は奉行所の移転と同時に、その周辺の防衛対策に四方を土塁(どるい)で巡らせることを併せて提案していました。
土塁とは、敵の侵入を防ぐための土でできた堤防状の壁です。
箱館港周辺を固め、砲撃の射程外に奉行所を移転し、更にその周囲にも壁を作ることで、外国からの攻撃があったとしても守ると考えた結果でした。

その提案を受け設計を考えたのが、箱館奉行所支配の諸術長所教授役で蘭学者・武田斐三郎。
そして、五稜郭を現在の星型の土塁にしたのも武田です。

1855年(安政2年)7月、フランスの軍艦・コンスタンティーヌ号が、箱館港に入港しました。
その時、日本に対しヨーロッパで考案された大砲や小銃を使った戦闘の土木技術を教え、また築城術が書かれている本を箱館奉行所に贈呈してくれたのです。
武田はその本から設計図などを写し取り、西洋式の築城術を勉強して五稜郭の構造の参考にしました。

また箱館奉行所が幕府に提出した文書にこう書かれています。
「箱館に入港する外国の軍艦はいずれも大砲が充実していて、それに対応するには西洋の各国で使われている築城術を参考にして、西洋式の土塁を作る方法で役所を築造したい。」と。
日本がいかにして諸外国から国を守ろうとしたかが、伝わってきますね。

五稜郭と台場の建設が始まる

次のページでは『移転先の決定と工事着手まで』を掲載!
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