金沢城の今昔-加賀百万石の城はどのようにして誕生したのか

金沢城と言えば”加賀百万石”前田家の居城としても知られる、難攻不落の名城。現在では『金沢城公園』として、隣接する名園『兼六園』と共に金沢を代表する観光地として多くの人に親しまれています。平成に入ってから、門や壁、櫓など、城内の修復・復元作業が着々と進んでおり、見所満載・迫力満点。そんな金沢城はどのようにして造られ、守られてきたのでしょうか。金沢城の成り立ちや歴史を追いながら、その魅力に迫りたいと思います。

金沢城築城前の加賀とは?

金沢城築城前の加賀とは?

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先史時代の遺跡も多い町・金沢

金沢城がある金沢市の中心地は本州のほぼ中心に位置し、山も海もあり、また、犀川や浅野川といった清流のほかにも湧き水が豊富。
さらに古くから各所で砂金が出るなど、土壌に恵まれた土地でもありました。
そんな金沢市、加賀藩のイメージが強いですが、それよりずいぶん前から多くの人々の営みがあったと考えられています。
それを証拠に、市内および隣接市では数多くの大きな遺跡が見つかっていて、縄文式土器など貴重な遺構が数多く出土しているのです。
金沢には先史時代から多くの人々が集落を作って暮らしていたものと思われます。

政治の舞台としては、平安時代の律令制のもと、823年に越前国から分離して加賀国という国が設置されたのが始まり。
熊坂荘(くまさかのしょう)などいくつかの荘園が置かれ、田畑の数は多かったようです。

室町時代になると、この地に富樫一族が守護大名として入ってきて統治するようになります。
しかし富樫氏の守護職の地位は安泰とは言えず、幾度となく地の有力者たちに脅かされ続けました。
加賀では富樫氏と有力豪族たちの間の政争が100年以上に渡って続けられていったのです。

加賀一向一揆

加賀一向一揆

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1488年、守護職であった富樫(冨樫)政親(とがしまさちか)が、一向宗(いっこうしゅう)の門徒が起こした一揆によって攻め滅ぼされるという事件が起きます。
世に言う加賀一向一揆(かがのいっこういっき)です。

それより10年ほど前、蓮如という名の浄土真宗の僧が北陸地域にやってきて、浄土系のグループを次々と統合して廻っていました。
浄土系を統括するのは本願寺です。

蓮如は各地を廻りながら、富樫政親の要請を受けて長く続く守護職にも関わりを持ち、敵対勢力の追放に貢献。
本願寺の勢いに恐れをなした政親は、逆に本願寺の門徒の弾圧を始めます。
一向宗(浄土真宗)を大切にしてもらえると思っていた蓮如や多くの門徒たちは、残念ながら政治に利用され使い捨てられたようなものだったのです。

これに不満を抱いた門徒たち。
政親の敵対勢力たちと結託し、蓮如が諌めるのも聞かず、高尾城(たこじょう)にいた政親を攻め、自害させます(長享の一揆:ちょうきょうのいっき)。
膨れ上がった門徒たちの数は20万にも及んだとか。
彼らの憤りと、政親を亡き者にしようと目論む有力者たちの策略が相まって、騒動は一向に収まる気配を見せません。
京の都でも将軍足利義尚自ら、加賀のこの事態を何とかしたいと考えたようですが、京は京でまだ応仁の乱の傷が癒えていません。
そのうち、一向宗の偉い人たちがどんどん加賀にやってきて、加賀は実質、本願寺が統治するような形になっていきました。

金沢御堂の時代

金沢城址は、犀川と浅野川という2つの清流に挟まれた、金沢平野を一望できる小立野台地(こだつのだいち)と呼ばれる台地の先端部分にあります。
見晴らしもよく防衛にも長けた地形で、城を築くにはもってこいの場所。
この場所に1546年、金沢御堂(尾山御坊、御山御坊とも呼ぶ)という、本願寺の寺院が建立されました。
城にふさわしいこの場所に、まず建てられたのは城ではなく、寺だったのです。

寺といっても、空堀や柵を備え、まわりに石垣を廻らせた「要塞」とも呼ぶべき施設であったと伝えられています。
本願寺の門徒たちはこの場所に強固な建物を建て、以後、この場所が加賀本願寺の、しいては加賀一向一揆の拠点となっていきます。

加賀一向一揆は、富樫政親が滅びて蓮如がこの地を去った1488年から実に100年間、”百姓の持てる国”として近隣の戦国大名と肩を並べるほどの国力を維持し続けるのです。

金沢御堂の周辺には、農地の他に鍛冶屋や鋳物師、醸造所などがでい、実際に寺町としても大変な賑わいを見せました。







御堂陥落

御堂陥落

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この周辺地域には、先に述べたように先史時代から多くの人の営みがあったようで、土器や青銅器、古墳、勾玉、瓦、農具などが数多く出土しています。
先史から飛鳥、奈良、平安と、長きに渡って豊かな暮らしがあったことが伺えるのです。

しかし、それに比べると、さらに多くの人々が暮らしていたはずの鎌倉、室町時代の遺構は圧倒的に数が少ない。
おそらく、加賀一向一揆の混乱の中で、町の防衛のために建物は次々に取り壊され、建て替えられていったためではないかと考えられます。
もしかしたらそれ以前の過去の遺構も、かなり壊されてしまったかもしれません。

大名ではなく、一向宗の門徒主導で100年もの間、自治が執り行われていた加賀。
”百姓の持てる国”とは言いますが、庶民はそれまで大名たちに納めていた年貢とほぼ同じものを、本願寺に納めていました。
庶民の暮らしぶりはそれほど変わらなかったかもしれませんが、日本各地で起こっていた一揆は守護大名たちへの不満の表れであったと考えてよいでしょう。

とにかく、このようにして金沢の地は15世紀~16世紀にかけておよそ100年の間、本願寺が納める国として機能し続け、16世紀中盤に入ると、守護職であるはずの富樫氏の影響力は完全に失われ、本願寺は金沢御堂を中心として周辺の戦国大名と対峙するようになっていくのです。

異例の継続を見せた加賀一向一揆でしたが、16世紀後半、時代とともに現れたある人物によって幕引きとなります。
織田信長です。

加賀百万石の城・金沢城の歩み

加賀百万石の城・金沢城の歩み

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信長vs本願寺

事はまず、大阪で起きました。

天下統一に動き始めていた織田信長は、1570年から1580年にかけて、現在の大阪府中央区にあったとされる石山本願寺を制圧すべく動いていました。
世に言う『石山合戦』です。
当時の時代背景として、信長が掲げる天下布武を成し遂げるために、本願寺勢力の排除は避けて通れないものでした。
信長は単なる宗教弾圧ではなく、石山という土地にこだわったと考えられています。
それほど当時の本願寺は、攻守の要となる場所を牛耳っていたのです。
信長は10年にも及ぶ長い歳月をかけて本願寺を激しく攻め立て、ついにここを落としました。
補給路を断たれ食糧不足に陥ったたためだそうで、石山本願寺は信長をしても武力で落とされることはなかったのです。
このことからも、難攻不落の要塞であったことが伺えます。

石山本願寺があった場所は、実はよくわかっていないのだそうです。
しかし、後にその場所に、豊臣秀吉が”大坂城”を建てた、という説があります。
現在、大阪城内には、石山本願寺の推定地として石碑が建てられています。
考えてみればごく当たり前の話で、あの信長が落とすのに10年かかった場所。
細長くせり出した高台の先端にある、城を築くのに理想的な地形であることは、攻めあぐねた側ならわかること。
盤石であることは実戦で立証済みです。
石山本願寺があった場所を拠点にしようと考える大名がいてもおかしくないでしょう。

1580年、石山本願寺が落ちた後すぐ、金沢御堂も陥落します。
陥落前の数年間は、浅倉氏、上杉氏と周辺の大名との対立が激化し、とうとう織田信長自らが平定に乗り出し、100年もの間続いた加賀一向一揆の勢いにも陰りが見えていました。

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