『越後の龍』上杉謙信を育んだ、難攻不落の春日山城

新潟県が誇る天下の名城、春日山城。甲斐の虎・武田信玄と並び『越後の龍』と称される戦の天才、軍神・上杉謙信が生涯本拠地としたことで有名ですね。日本屈指の山城としてその評価も高く、上杉謙信の神懸かり的な軍略と相まって難攻不落の名城というイメージは最早揺るぎないものとなっています。

果たして、春日山城とはどのような城だったのか。本当に『難攻不落』だったのか。上杉氏の歴史を調べると、ちょっと意外な春日山城の姿が見えてきました。

今回はそんな春日山城と、そこに生きた上杉氏の歴史をみなさんと一緒に追いかけていきたいと思います。
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難攻不落って実際どうなの?春日山城の実態に迫る

難攻不落って実際どうなの?春日山城の実態に迫る

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山ひとつまるまるお城?巨大山城、春日山城

春日山城は、廃城処分となって400年が経った今『春日山城跡』として、新潟県でも指折りの有名観光地となっています。
日本を代表する山城として国の史跡に指定され、日本五大山岳城および日本100名城にも選ばれるほど、重要な歴史的意義のある城と言ってよいかもしれません。

新潟県上越市の中部にある標高189mの春日山(別名・蜂ヶ峰)をほぼまるごと城塞化した春日山城は、険阻な山に築かれた既存の山城という概念を超えた『山岳城』と呼ぶにふさわしいスケールを持つ城です。
北に直江津から日本海を望み、南に高田平野が広がる眺望のよい山頂には館が築かれ、そこに歴代の城主が起居しました。

また、その周囲を固めるように家臣たちの屋敷や春日山神社が配置され、春日山全域でひとつの集落というような規模の城だったことが発掘調査により明らかにされています

標高が200m足らず。
険阻と言うにはやや物足りないところがありますが、山にあふれる自然の起伏を巧みに利用して空堀や土塁を設計することにより、天然の大要塞として難攻不落の評価に恥じない構えを持つ城の姿が浮かび上がってきました。

山ひとつなんてとんでもない!超巨大な防衛拠点の中心地

しかし『山の地形を大胆に利用した築城』や『山ひとつを城塞化した規模の大きさ』のみでは難攻不落と称される十分な理由とはなりません。
規模の大きさの話をするならば、先ほどの山ひとつという説明では到底足りないのです。

春日山周辺およそ5㎞の範囲内に、なんと13もの砦や城が建築されています。
その砦同士も1~2㎞ほどの近距離に作られ、相互に支援しあえるような位置です。
その中には春日山城から直接続く連絡路があり、戦闘をするのであれば春日山からの支援を前提に運用されていたであろう砦もありました。

つまり、規格外のスケールを持つ春日山城はあくまで本城であり、その周囲5㎞に展開し連動する各砦群を合わせて、はじめて本当の意味での『難攻不落の春日山城』が見えてくるのです。

どこかの砦に攻めかかると、周囲の砦から援軍がやってきて逆に攻撃されるかもしれない。
包囲している方が攻められているような心境に陥ってしまっては、腰を据えた攻撃などできるわけもありません。
かといって、当時の越後には5㎞四方におよぶ広大な防衛拠点をまるっと包囲できるような大軍勢を用意できる武将もいませんでした。
そして、何より忘れてはいけないことがひとつ。
この城を守り、時に攻め寄せてくるのが、上杉軍だということです。

戦国最強と謳われた武田軍と激戦を繰り広げた、精兵ぞろいの上杉軍。
緻密に構築された防衛網の中でそんな敵と戦わなければならないのなら、そもそも攻め込まない方が賢明と言えるでしょう。
触らぬ神にたたりなし、まさに『攻めること自体が難しい』不落の城。
それがこの、春日山城なのです。

春日山城のはじまりは、万が一の避難場所だった

春日山城のはじまりは、万が一の避難場所だった

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最初は上杉家の詰め城だった春日山城

春日山城は今から600年以上前、南北朝時代に越後国守護である上杉氏が、越後の府中(今でいう県庁所在地)にある館の詰め城として築いたと言われています。
詰め城というのは戦国時代前半までよく見られる城の概念で、万が一の避難場所かつ防衛拠点として築かれた城のことを指して『詰め城・詰めの城』と呼ばれます。

当時の大名は普段、交通の便がよくて人の往来も簡単な山のふもとに館を築き、そこに居住して政務を執っていました。
しかし、何者かが軍勢を引き連れて攻め込んできたら、守りにくい平地の館を捨てて、近くの山など険阻な場所を選んで築かれた詰め城に避難する。
そして、籠城して救援を待つというスタイルが一般的でした。

そんな上杉家の緊急避難場所である春日山城を預かり、先述した要塞への第一歩と言える大改修を始めたのが、長尾為景(ながおためかげ)という武将です。
さらに彼の息子、そしてその養子が改修・発展を重ねた末に、現在知られるような名城の構えが作られました。

為景の息子の名は長尾景虎(ながおかげとら)、後の上杉謙信です。
そして、その養子が上杉景勝(うえすぎかげかつ)。
近年の大河ドラマによく出演していたので、ご存知の方も多いかと思います。

春日山城の管理人?上杉謙信の父、長尾為景

謙信の父、長尾為景。
兄である長尾晴景(ながおはるかげ)。
そして謙信から景勝まで。
途中で謙信が上杉家を継いだためにややこしい感じになってしまいますが、実質的にはこの長尾家4代の居城となった春日山城。
元いた越後守護の上杉家にとっては、有事の際の避難シェルターです。
そんな大事な春日山城を預かることとなった長尾為景とは、どのような人物だったのでしょうか。

みなさんがもし緊急避難シェルターを作り、その管理を誰かに頼むのであれば、どのような人物に依頼しますか?いろいろな答えがあるとは思いますが、やはり信頼感や職務に忠実であることなどが求められてくるのでは、と考えます。

さて、話は戻って長尾為景という人物なのですが、後世彼を評した言葉が「主君を2代続けて殺害した、天下に例を見ない奸雄」というもの。
大事な城を預けたいとはなかなか思えない人物評です。
さらに、この上杉家と長尾家は基本的に馬が合わない間柄。
上杉家が強力に長尾家を抑え込めている間はよいものの、家督相続などで少しでも揉め事が起これば、それに乗じて越後の実権を握ろうと画策してくる厄介な筆頭家老なのです。

なぜ、そんな油断ならない人物に春日山城を任せることになってしまったのか。
まだ要塞化する前の春日山城の歴史とともに、為景の半生を追ってみましょう。

越後守護上杉氏と越後守護代長尾氏の関係

越後守護上杉氏と越後守護代長尾氏の関係

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kei.O

Writer:

お笑い番組を流しながらギターをつま弾き、小説を読む、うだつの上がらない会社員です。人生楽しく生きるために、やってみたいと思ったことは隙を見てやっちゃうスタイルです。読後感のさわやかな?そんな文章を皆さまにお届けできるよう、日夜あれこれ模索します。

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