豊臣秀吉が日本統一の大詰めで攻略した「八王子城」の歴史

戦国時代というと、どうしても西の方面に注目が集まりがちですが、関東にも当時の様子をしのぶことができる場所がたくさんあります。八王子城もそのひとつ。多摩丘陵を望む小高い山の上に築かれた、関東屈指の巨大山城です。「日本100名城」に選ばれている城ではありますが、その存在は意外に知られていません。豊臣方の軍勢に攻め込まれ落城した八王子城とはどのような城だったのか。そこには悲劇の物語が隠されていました。

八王子城を訪ねて

八王子城を訪ねて

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戦国時代の激戦地

戦国時代の激戦地というと、関ヶ原、大坂城(大阪城)を思い描く人が多いでしょう。
中心人物と言えば織田信長であり、豊臣秀吉であり、城攻めの名手として名を馳せた真田一族であり、有名な戦国武将ゆかりの地は西日本に集まっていると思われがちです。
しかし関東にも、戦国時代の激戦地となった場所がたくさんあります。
その最たるものが八王子城。
関東で最も激しい戦いが繰り広げられた場所と言ってよいでしょう。

ただ、残念ながら、戦国時代の激戦地として八王子城の名が上がることは少ないようです。

八王子城。
1570~80年代に築城されたと思われる城で、築城主は北条氏照。
戦国時代に興味がある人でも、この名前を聞いてもピンとこないかもしれません。

時代は豊臣の天下統一に大きく動いていました。
多くの大名が豊臣秀吉の軍門に下り、あるいは共存する道を選んだ時代。
その中で、最後まで秀吉に屈せず抵抗し続けた一族が北条です。
八王子城は北条の出城として築かれ、豊臣軍の猛攻の前に崩れ去りました。
この八王子城の落城が北条氏の最期を決定づけたと言えるでしょう。

時をかけず、この後まもなく豊臣の時代が始まります。
天下統一を成し遂げ、大坂城を中心に強大な国を作り上げた豊臣。
抗えぬ大きな力を前に時代は大きく動きました。
負け滅びた側のその後を記す記録はごくわずか。
八王子城の惨劇は時代の渦に飲み込まれ、人々の記憶から消し去られてしまったのかもしれません。

八王子城は、落城したとき、まだ築城中であったと言われています。
戦国の世を駆け抜けた北条一族が思い描いた巨城の姿とはどのようなものだったのか。
400余年前に想いを馳せながら、考えてみたいと思います。

立地・周辺の様子

立地・周辺の様子

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そんな八王子城の跡地には、現在、八王子市によってガイダン施設などが作られ、全景や成り立ちを詳しく知ることができるようになっています。
また、本丸のあった場所などを訪ねて自由に見学することも可能。
歴史ファンならずとも、登山愛好家たちにも人気のコースとなっています。

JR中央本線または京王電鉄高尾駅から北西に約3.5キロ。
中央高速道路を挟んで西南の方向に、あのミシュランガイドに掲載され一躍有名になった高尾山があります。
まわりは自然豊かな山々が続く丘陵地帯です。

行き方はといいますと、まず高尾駅から八王子城跡入口までバスを利用。
バス停からも少し、歩きます。
宅地を抜け、川と並行する緩やかな坂道を上っていくと、城跡の入り口が出現。
大きな空掘に橋がかかり、木の門や石垣が配置されています。
橋や門は近代に入ってから、築城当時をイメージして作られたものだそうですが、「きっとこんな感じだったんだろうな」と思わせるほどあたりの風景とマッチ。
橋の前に立つと、戦国武将たちの勇ましい姿が目に浮かぶようです。

あたり一帯には、建物らしきものは何も残っていませんが、山の東側の麓の平らな場所に、城主の住居や役所のようなものがあったとのこと。
麓一帯に、城下町を形成するつもりだったのかもしれません。

また、城のいたるところから、土の下から崩れた石垣や、石段、石畳が見つかっています。
石をふんだんに使った山城は関東では珍しいのだとか。
麓の石垣は復元されたものだということですが、石畳や石段は可能な限り落城当時のまま残されているそうです。

では、城というからには、本丸、天守閣はどこに?山城なので、本丸はズバリ、山頂。
山の頂にあるのです。

(当時は”本丸”という呼び方はしていなかったらしく、各種資料には「山頂郭(くるわ・曲輪)」と記されています)

城の全容

八王子城は標高446メートルの城山(深沢山)の山の頂、晴れた日には遠く東京都心や横浜方面まで見渡すことができます。
その場所に、八王子城の本丸はありました。
現在は平らな土地が残っているだけで、何もありません。

麓から本丸跡まで、登山素人には少々きつく感じられる山道を歩いておよそ40分。
山頂本丸へ続く道すがら残る石積みは、築城当時のもの。
落城後手つかずのまま土に埋もれていました。
戦後の調査発掘でこうした遺構が発見され、少しずつ、八王子城の形が明らかになってきたということです。

山頂にも、建物は何も残っていませんが、山一つ使った巨大な山城であることがよくわかります。
あまり広くはないので、山頂にはそれほど大きな建物はなかったのかもしれません。

記録が少ないため、八王子城の姿形は未だ明らかではありませんが、城山(深沢山)を中心に周囲の山や川を取り込み、およそ400ヘクタールに及ぶ敷地を有していたのではないか、あるいはもっと広範囲だったのではないか、とも言われています。
400ヘクタールというと東京ディズニーランドが8個くらい入る計算になるでしょうか。

自然の要塞とはまさにこのこと。
西と南は山に囲まれ、北は谷。
東側に自然の川が流れ、平らな場所には空掘と門を構えて守りを固める。
踏み入る隙はありません。

豊臣軍勢はどうやってこの山頂の本丸を攻め落としたのでしょう。

現在は木々が大きく成長して鬱蒼と茂っており、身を隠すこともたやすいですが、400年前はおそらく、木それほど生えておらず山道は丸見えだったのではないでしょうか。
足場の悪い、険しい道が延々と続きます。
どれだけ歩けば山頂につくかも、途中にどのような守りがあるかもわからないまま、一度に攻め込むことはできなかったはず。
城が未完成状態であったとしても、自然の地形に守られ敵を寄せつけるようなことはなかったのでは。
籠城すれば、攻め込む側は数日で疲弊し、退かざるを得なくなったはずです。

にわかなりきり戦国武将の頭の中にも、そんな構図が浮かびます。

八王子城に限らず、どの城を見ても同じことを思います。
大きな石積み、深い堀、地形を活かした構造。
迫力ある姿は見る人を圧倒します。
しかし、城はいつか落とされ、悲しい最期を遂げる。
なぜあの城が落ちたのか?

城の最期は必ずしも、力攻めというわけではありません。
調略であったり、内紛であったり、飢饉や疫病であったり。
城はしっかりと仕事をしていた。
他の理由で落城となってしまった。
八王子城もそうだったのかもしれません。

八王子城の成り立ち

八王子城の成り立ち

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中世の山城

八王子城が山を利用した山城であることは、既に述べた通りです。

では、山城とは?

文字通り山を利用して築かれた城のことで、江戸時代の学者による城の分類のひとつ。
戦国時代の山城の大半は、山頂に防衛施設を建て、住居は麓に構えていたようです。

山城の歴史は古く、弥生時代には既に、高い土地に防衛施設を築く考えは始まっていました。
古代(飛鳥・奈良時代)には、大陸からの勢力に備えるべく、西日本を中心として各地に山城が築かれたと考えられています。
その後も、このような山城スタイルの城が日本全国各地に築かれていきました。

戦国時代の後期、平山城または平城と呼ばれるスタイルの城が台頭します。
私たちが”城”と聞いてイメージするあの形です。
山城の目的が防衛に特化したものであるのに比べ、平山城や平城は、防衛以外にも政治や経済の中核を担う機能も持つよう造られています。
山の上では不便なため、平地に城を構えるケースが増えてきました。

流通の便の良い、町の統治がしやすい場所に城を築き、防衛のために掘を何重にも掘ったのが平城。
名古屋城や広島城、小倉城など、現在の大都市の中で風景に溶け込んでいる城のほとんどが、平城に分類されます。

平城より防衛機能を強化したタイプが平山城で、山城ほど高いところでないにしても、少し小高い場所で、町を統治しやすい場所に築城されました。
姫路城や松山城、会津城など。
北条氏の城として名の知れた小田原城も、小高い場所に建っています。

八王子城は、規模は大きいですが、典型的な山城タイプの城です。

山頂に本丸、そのまわりに防衛のための郭(くるわ)がいくつか設けられ、また、山頂に向かう道の途中にも、郭らしき跡が残されています。
八王子城の守りについていた武将たちはこれらの郭から矢を放ち石を落として、必至の防衛を行ったのでしょう。
戦後の発掘調査で、山の中腹部分を中心にたくさんの矢尻や鉄砲玉が発見されています。

山頂部分の平地はそれほど広くないため、防衛のための最低限の設備だけが築かれていたようです。
生活の拠点は東側の麓の平らな部分に。
平山城や平城が盛んに造られ始めた時代に築かれた、戦国末期最期の山城とも言われています。

北条家統治以前の様子

北条家統治以前の様子

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東京都八王子という場所は、どういった場所だったのでしょうか。

現在の八王子市地域には、原始時代から人が住んでいたと思われます。

市内を流れる浅川という大きな川の周辺の小高い部分を中心に先史の遺跡が点在しているため、多くの集落があったものと考えられてきました。

現在の東京、埼玉、および神奈川県の一部の地域のことを「武蔵」と呼ぶことがありますが、奈良時代より古い飛鳥時代には地方行政区分のひとつとしてこのあたりを「武蔵国」と呼んでいました。
平安時代には朝廷に馬を納めるための牧場があったとも言われています。
また、舟を造るための木を切り出す作業が盛んにおこなわれていたとも考えられており、既に多くの集落があった八王子一帯も、活気に溢れていたのかもしれません。

平安時代の後期には関東一帯でも荘園制が進み、八王子には横山荘(舟木田荘)と呼ばれる荘園を中心とした武士団「横山党」が誕生しました。

鎌倉時代に入ると、鎌倉という関東圏に幕府が置かれたことで、八王子の武士団の構図にも変化が生じます。
北条氏と対立した横山党は戦に敗れ、衰退していきました。
代わりに鎌倉幕府の家臣や北条一族による支配が広がっていきます。

鎌倉幕府崩壊後、室町時代に入ると、関東を統括していた山内上杉氏配下の大石氏が八王子周辺を支配するようになりました。
大石氏は勢力を伸ばし続け、武蔵国西部にいくつもの城を築きます。
そのひとつが「滝山城」。
八王子城と同様に八王子市内に残されている、地形を利用した天然の要害と言われた守りの堅い山城です。
1569年、武田信玄率いる軍勢に山頂付近まで攻め込まれながら、寸でのところで落城を逃れた城。
難攻不落と思われていた城が攻め落とされそうになったことを受けて、八王子城の築城が始まったとも言われています。

『八王子』という地名について

どの地域にも言えることだと思いますが、長く人が住んでいる町は特に、その地名の由来や起源について説明することは案外難しいものです。

『八王子』についても同様で、古い地名ではあるようですが、諸説考えられるようで、はっきりしたことはわかっていません。
ただ、牛頭天王(ごずてんのう)と8人の王子をまつる信仰が起源ではないかという説が有力ではあるようです。

牛頭天王は仏教の守護神であり、インドから中国を経由して日本に伝わってきました。
疫病など邪気を払う神様として日本に定着したようです。
この神様には8人の子がいたと伝えられていて、この8人の王子をまつる信仰が日本全国に広がっていきました。
8人の王子にまつわる神社が、あちこちに建てられたそうです。

この八王子神社の由来は、八王子市内の寺の古い記録に残されていました。
平安時代、京都からやってきた修行僧がこの地の岩屋で修業をしているところに牛頭天王と8人の王子が現れた、というものだそうです。
人々を救うために仏や菩薩が仮の姿をして現れることを「権現」と言うそうで、修行僧はこの後、この地に牛頭天王と八王子をまつる八王子信仰が始まったと言われています。

八王子城は、牛頭天王と8人の王子にまつわる信仰を意識してその名がつけられたのではないか、と考えられてきました。
この地に城を築くにあたり、八王子権現を城の守護神にしようと考えたのではないでしょうか。
その名前がそのまま、八王子という地名として定着していったのでしょう。

八王子城築城に至るまで

八王子城築城に至るまで

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北条氏照という人物

八王子城は戦国時代、豊臣の天下統一に多くの大名たちが飲み込まれていった時代に築城が開始されました。
築城したのは北条氏照。
小田原城を本拠地として関東を席巻した北条氏、三代氏康の次男(または三男)として生まれた戦国武将です。
兄は四代氏政。
1540年にこの世に生を受け、1590年に小田原城にて氏政と共に自害をしたと伝えられていますが、実は氏照については、詳しい資料があまり残っていません。
これは戦国時代には珍しいことではなく、当主として家を継ぐ長男以外の記録は、曖昧な場合が多いようです。

氏照は大変武芸に優れ、勇猛果敢で大変な豪傑であったと言われていますが、学問もよく納め、外交手腕にも長けていたと伝えられています。
北条一族の中では、兄であり小田原上の城主であった氏政をよく助け、北条の勢力拡大に力を尽くしたとのこと。
その人生は波乱に満ちていました。

氏照が6歳のとき、もともと山内上杉氏の家臣であった大石定久の養子に入ります。
上杉氏は三代氏康の時代に、完全に関東から追い出される形となり、大石氏は北条の下につくことになりました。
力が強いとはいえ北条はよそ者。
古くから住む武士たちを味方につけるには、大石氏のような人物の力は不可欠。
そのため氏康は自分の息子である氏照を養子に出したと考えられています。
氏照は後に大石定久の娘婿となり、定久隠居の後、滝山城の城主となるのです。







北条家とは

ところで、北条、というと、あの北条政子を思い描く人も多いと思います。
北条政子の実家は伊豆の豪族。
鎌倉時代、関東一帯で強い力を持った一族です。

小田原城を拠点に100年続いた北条氏は、鎌倉時代の北条氏と遠い縁があると言われてはいますが、直接のつながりはありません。
区別するために、戦国武将の北条を「後北条」と呼ぶこともあります。

後北条はもともと、室町幕府の御家人の伊勢氏の一族だったと考えられています。
今川氏の内輪もめに乗じて関東圏に進出し、駿府大森氏の居城のひとつであった小田原城を奪って勢力を強めていきました。
この武将、別名を幾種類も持っていたようで謎の多い人物ではあるのですが、「伊勢新九郎盛時」が本名ではないかと言われています。
この人物こそ、後の北条早雲。
小田原に入ったのは1495年と言われています。

なぜ北条を名乗るようになったのかは、詳しくはわかっていません。
伊勢氏は家柄は悪くなく、統治に支障はなかったものと思われます。
ただ、盛時は実力者と言えど所詮はよそ者。
長く武蔵国に暮らす武士たちがそうやすやすと受け入れるとは思えません。
そんな中、関東圏での地位を確固たるものにするため、北条と名乗ったではないかと考えられています。
実際には、早雲自身は「北条」は名乗っておらず、息子の氏綱の代から北条性を使うようになったそうですが、「北条早雲」のほうがしっくりくる、という方も多いでしょう。

早雲の後、北条は氏綱、氏康、氏政、氏直と、五代100年に渡って小田原城を中心に相模国を統治してきました。

時代背景

時代背景

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氏康から氏政にかけての時代、北条は領地を拡大するも、北や西側では上杉や武田、徳川など各地の大名と睨み合いを続けていました。
氏政の代に入って、武田や上杉との関係の悪化から、氏政は織田へ従う姿勢を見せています。
織田信長は破竹の勢いの戦国大名。
氏政は自分の息子である氏直に織田家より四目をとらせるなど、織田との関係づくりに動いていました。

しかし、織田側はそれほど北条には肩入れをしていなかった様子。
織田に不信感を募らせながらも同盟関係を保とうしていたある日、本能寺の変が起きてしまいます。
1582年6月21日のことです。

当時、力の弱まった武田勝頼の領地であった甲斐や信濃が事実上、領主の決まっていない宙ぶらりんな状態になっていました。
これらの土地をめぐって、北条、徳川、上杉の睨み合いが始まります。
この中に、かの有名な真田幸村を輩出した真田一族の領地もありました。

織田が崩壊した後、信長の意思を継いで動き出したのが豊臣秀吉でした。
瞬く間に西日本統一を成し遂げていきます。
諸大名は、自領地を脅かさないことと引き換えに、豊臣に対して従う考えを示し、無益な争いを避けようとしました。
北条も、内心は面白くないと思っていたかもしれませんが、右に習って豊臣に従う姿勢を見せました。
秀吉は諸大名に対し領地争いなどの戦を禁じる命を出しています。

しかし、表向きには和平を保っているように見えても、宙ぶらりん状態になっている甲斐や信濃の領地問題は続いていました。
特に真田とのせめぎ合いは一触即発の状態。
ついに北条と真田の間に戦が始まってしまいます。
戦が禁じらていた中でのこの争いは、やがて秀吉を奮起させることとなり、1590年、豊臣連合軍による小田原攻めへと発展していくのでした。

八王子城の役割

北条氏政と氏直は、小田原攻めが始まる前から豊臣に脅威を感じており、城の守りを固めていたと考えられています。

この時代の戦の基本は、城の場所と構造にあると言ってもよいのではないでしょうか。
よい場所によい城を築く。
強い大名に不可欠であったに違いありません。
北条氏も、小田原城に入った後、関東を支配していく上で各地に数多くの城を築き、兵力を整え、大砲などの武器を揃えるべく奔走していたとされています。

小田原城は自然の地形を活かし、山と海に守られた難攻不落の平山城。
武田や上杉も攻めきれませんでした。
しかし、大きな城にも弱い箇所はあります。
守りの補強として、数多くの城を築いたのでしょう。
それらの城は支城(しじょう)、出城などと呼ばれ、街道沿いや国境の見通しのよい山や丘に建てられました。
北条は100を越える出城を築いたとも言われています。
八王子城にも小田原城の支城としての大きな役割がありました。

位置から考えて、小田原城の北側を守る、つまり、武田や上杉に対抗するための城であったことは間違いないと思います。
しかし、氏照はこのときすでに、豊臣との戦いを意識していたのではないかと考えられていました。

滝山から八王子城へ

八王子上の築城開始時期ははっきりとはわかっていませんが、築城の必要性はずいぶん前から考えていたようです。

ここより少し北東にいったところに、氏照が住んでいた滝山城という城があります。
滝山城は養子に入った大石氏の居城。
その滝山城が1569年、武田の軍勢に攻め込まれたのです。
このときも、武田は小田原攻めに向かう途中でした。
かろうじて食い止めはしましたが、このとき氏照は、滝山城の守りに限界を感じたのではないかと考えられています。
もし、このとき、滝山城より強い城を作る必要性を感じていたとしたら。
1570年代には既に、八王子城の築城を始めていた可能性が高いです。

最初に少し触れましたが、八王子城跡にはたくさんの石垣が残されています。
これらの石垣は、安土城を模したのではないかとも言われてきました。
以前、氏照の家臣が織田信長のもとを訪れており、その際目にした石垣の様子を氏照に語っていたのでしょう。
強く大きな城を造りたかったという、氏照の意気込みが伺えます。

1587年頃、氏照は滝山城を出て八王子城へ移ってきています。
あまりに大きな山城であったため、このときはまだ、八王子城は未完成だったという説もあるほどです。

この2年後の1589年に、北条と真田の間で、領地をめぐる争いが勃発。
翌年、豊臣の大軍による小田原征伐が始まります。

小田原城を守るため築き上げたばかりの八王子城に、最期の時が迫っていました。

八王子城攻め

八王子城攻め

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小田原征伐

明けて1590年。
小田原城は豊臣の軍勢に完全に包囲される形となりました。

しかし、小田原城はそう簡単には攻め込むことができません。
総構えと呼ばれる強固な守り。
城壁で町を囲んだ城塞都市でした。
そのことは秀吉も承知の上。
おそらく北条は城に籠り、長期戦になるであろうと考えていました。
豊臣軍は圧倒的な兵力をもって、北側と西側から、さらには海に水軍を配置して、小田原城を取り囲みます。
秀吉は大坂から茶々を呼びよせ茶会を開くなど余裕を見せ、精神的に北条を追い込んでいきました。

難攻不落の小田原城。
無理に攻め込まず、血を流さず開城・降伏させることが狙いだったとも言われていますが、勇猛な北条の戦意を奪い、骨抜きにするつもりだったのかもしれません。

豊臣軍は北と西に分かれて、小田原城の支城の攻略を開始。
まず、小田原城の西側、伊豆国の山中城(現在の静岡県三島市のあたり)に、豊臣秀次、徳川家康を始めとする豊臣の主力が迫ります。
決着は数時間の後についたと言われ、周辺の出城や砦も数日のうちに次々と落とされていきました。
続いて同じく伊豆国の韮山城も攻め落とし、秀次は小田原城攻めに合流します。

一方北側は、前田・上杉両軍が着々と駒を進めていました。
上野国(こうずけのくに・現在の群馬県のあたり)の松井田城を攻略。
周辺の出城を次々に落とした後、武蔵国に入ります。
国境には鉢形城(現在の埼玉県大里郡)、忍城(おしじょう・埼玉県行田市)を攻略。
この軍勢の中には、真田の旗も見られました。
忍城は結果的には攻め落とすことはできませんでしたが、鉢形城は1ヶ月の籠城の後、6月14日に城を明け渡しています。

そしてこの後前田・上杉軍は八王子城攻略に向かうのです。

霧に乗じて……

豊臣秀吉の戦法は、相手が降伏するのを待つことが多かったようですが、時には完膚なきまでに叩きのめすこともありました。
他の出城攻めでも、開城や降伏を受け入れるケースも多々あったのですが、八王子城攻略は情け容赦なく行われます。
見せしめの意味もあったのかもしれません。
あるいは、八王子城側の姿勢が強固であったため、攻めざるを得なかったのか。
真相は闇の中です。

1590年6月23日。
夜明け前、前田・上杉軍の攻撃が始まります。

松井田城の大道寺政繁は、城が落ちた時点で豊臣に下っており、このとき、前田・上杉の道案内を務めていました。
一方、八王子城を守るのは狩野一庵ら家臣に周辺の農民たちを加えた3000名ほど。
城主である北条氏照は不在でした。
城に残ったのは戦の素人ばかり。
いくら険しい山城でも、守りきれるはずもありません。

大道寺の誘導で正面突破を図った前田・上杉は一気に攻め上がり、郭を次々に落としていきます。
城を守る者たちは山の奥へと退くよりほかにありませんでした。
山頂付近まで追い込まれた北条勢は1000人以上の死傷者を出したといいます。

22日夜から23日にかけて、あたり一帯は深い霧に包まれていたのだそうです。
視界が悪く、郭からでは迫りくる敵を見通すことができなかったのでしょう。
悪条件は前田・上杉側も同じ。
敵味方共に多くの犠牲を出すこととなりました。

八王子城の悲劇

八王子城の悲劇

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前田・上杉軍は最後まで容赦なく攻め続けました。

立てこもった者の多くは、地元の農民やその妻子たち。
敵に囲まれたとしても自害などできるわけがありません。
氏照の正室を始め、家臣や領民の妻子たちはみな追い詰められ、城内を流れる滝に次々を身を投げました。
その人数の多さに、滝の水は三日三晩、血で赤く染まったとの言い伝えも残されています。

こうして、八王子城攻めは1590年6月23日のうちに、たった一日足らずで終わりました。
城内に残って捕えられた者たちは首をはねられ、その首は小田原城近くに晒されたと言われています。
相模湾にこぎ出した舟の上に晒したという話もあり、これが小田原城に籠る北条の戦意を完全に喪失させたと言ってよいでしょう。

八王子城落城の日、城主北条氏照は小田原城に籠っていました。
落城の知らせを受け、床を叩いて泣いたと伝えられています。

同年7月5日。
北条氏直が自らの切腹と引き換えに家臣たちを助けるよう秀吉に申し出ます。
小田原城の開城。
これをもって秀吉は天下統一を成し遂げ、戦国の世は終わりを告げることとなるのです。

小田原評定

”いつまでたっても結論の出ない、埒のあかない話し合いや相談”のことを「小田原評定」と表現することがあります。
これは後の世、18世紀以降に定着した比喩表現。
小田原評定自体は典型的な定例会議であり、月2回行われていたそうです。

小田原征伐の際、小田原評定の場でも、どう戦うべきか意見が湧かれたと言われています。
籠城か野戦か、決戦か降伏か、豊臣はどう攻めてくるつもりなのか。
うだうだと相談しているうちに出城を次々攻め落とされ、豊臣に内通するものも出てきてしまった。
その様子が後に”埒のあかない会議”を表す比喩として使われるようになりました。

八王子城を始めとする数々の出城が攻め落とされたとき、各城の城主や主力家臣たちはみな、小田原城に呼び寄せられていたのです。
なぜ守るべき出城を出て、小田原城に集まっていたのか。
確かなことはわかっていません。
氏照も同様でした。

八王子城を捨て、小田原城に籠城するつもりなら、なぜ家族を八王子城に残していったのか。
八王子城の守りを固めるつもりだったのなら、なぜいつまでも小田原城に残っていたのか。

記録が乏しいこともあり、確かめようがありませんが、勇猛果敢な猛者ぞろいの北条一族にしてはあまりにもお粗末。
いや、北条だからこそ、このような結果になってしまったのかもしれません。
戦国大名として、秀吉に屈することはできなかった、ということなのでしょうか。

何にしても、あれだけ巨大な八王子城を築いておきながら、城主として城を機能させることなく落城させてしまった氏照の心の内を思うと、何ともやり切れません。

次のページでは『八王子城~その後』を掲載!
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Writer:

歴史と歴史小説と遺跡を愛してやまない東京都在住の主婦。子供のころからの大の時代劇ファン。国内外問わず歴史小説を読むようになり、NHK人形劇「三国志」を見て中国史にはまって大学では東洋史学を専攻。愛猫とじゃれながら歴史小説を読み漁る毎日を送っている。趣味は古地図を眺めることとカメラ片手の街散策。

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